番外編-慈念- 第二話「お前の節で読め」(中盤)
⭐︎円海さんの答え
中間審査の一週間前の夜。
俺は、とうとう観測ノートを抱えて、円海さんの部屋を訪ねた。
大恩寺さまに切られた話を、円海さんにもう一度するのは、正直、勇気がいった。
「寝ろ」で終わる可能性は、かなり高かった。
でも、円海さんは、座布団の上で、俺の話を最後まで黙って聞いてくれた。
第一号から、第百六十一号まで。
下を向く煙。昇る煙。戻ってくる煙。拗ねる煙。
話し終えると、円海さんは、老眼鏡を外して、しばらく天井を眺めていた。
それから、ふっと、鼻で笑った。
「……わしもな、若い頃は、煙ばかり見とった」
「……え」
「それから、師匠に、よう叱られた。『煙を見とる暇があったら、経本を見い』とな」
円海さんは、それ以上、その話はしなかった。
代わりに、俺のノートの、最後のページを指で叩いた。
『この墓地は、どうやら、まだ、成仏したくないらしい。』
「……慈念。経は、何のために読むもんじゃ」
「……亡くなった方を、お送りするためです」
「それもある」
円海さんは、ゆったりと頷いた。
「だがな。経は、送るためだけのもんではない。……そこにおる者に、『あんたのことは、ちゃんと覚えとるよ』と、伝えるためのもんでもある」
「……覚えとるよ、と」
「お前が毎朝、名前を呼んどるのは、そういうことじゃろう」
――――。
「行くか、残るかはな。聴いた者が、自分で決めることじゃ。……わしらが決めることではない」
円海さんは、俺をまっすぐに見た。
「だから、お前は、お前の節で読め。上手い下手で、人の行き先を決めようなどと、思い上がるな」
「…………」
「上手くなって、それでも残る者がおるなら、それは、その者が決めたことじゃ。……それを、毎朝、呼んでやれ。今までどおりにな」
それだけ言うと、円海さんは、老眼鏡を掛け直して、手元の本に目を戻した。
「……寝ろ」
――やっぱり、最後は「寝ろ」だった。
でも、その夜、俺は、六年ぶりに、ぐっすりと眠った。
⭐︎中間審査
十月。日曜日。
その日は、中間審査の日で、秋の合同法要の日で、それから。
――桜庭貞子さんの、祥月命日だった。
当番表の横に、俺は春のうちに、墓誌の日付を書き写しておいた。
毎朝名前を呼ぶと約束した人の、一番大事な日を、忘れるわけにはいかなかったから。
朝のお経。
最初の一節だけ、やっぱり少し裏返った。
そこから先は、まっすぐ。
そして、最後に。
「……本日は日曜日。……一ノ瀬、隼人さん」
常香炉の煙が、一ノ瀬家之墓のほうへ、きびきびと伸びた。
「……それから」
俺は、少しだけ、息を整えた。
「……本日は、桜庭貞子さんの、祥月命日です。……桜庭、貞子さん」
――煙が、桜庭家のほうへ、ふんわりと、あたたかそうに広がった。
なぜだろう。その朝は、拗ねた煙は、一筋もなかった。
⭐︎⭐︎⭐︎
午後一時。合同法要。
本堂の一番後ろの席に、大恩寺さまが座っていた。
送り火の夜の電話のことは、一言も触れられなかった。
触れられないのが、一番怖かった。
檀家さんたちが、席を埋めている。
円海さんが、横で経本を開いている。
俺は、経本を開いて、一度、深く息を吸った。
――そのときだった。
本堂の外。
開け放した障子の向こうの、縁側の陰のあたりから。
ものすごい、念を感じた。
寒気じゃない。気配でもない。
もっと、こう……何十人もの誰かが、両手を合わせて、じっと俺を見つめて、一心不乱に何かを祈っているような。
――応援、されている。
そうとしか、思えなかった。
「……ありがとうございます」
俺は、縁側のほうへ、こっそりと小さく頭を下げた。
その瞬間、念が、なぜか三割ほど強くなった気がした。
――よし。
「――観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時……」
噛まなかった。
裏返らなかった。
型の上に、俺の節が、ちゃんと乗っているのがわかった。
その下で、円海さんの低い声が、どっしりと根っこを支えてくれている。
――そして。
読みながら、俺は、目の端で、障子の外の常香炉を見ていた。
煙が、昇った。
まっすぐに。天へ。
――だめだ。
行かないでください。
いや、行きたい方は、行ってください。
でも、行きたくない方は――
ぐにゃり。
煙が、曲がって、地面へ戻ってきた。
――よし。戻った。
また、昇った。
ぐにゃり。
――戻った。
また、昇った。
――……ぐ、ぐにゃり。
三回目の煙は、戻り方が、少しだけ、よろけていた。
まるで、号令をかける側の声が、かすれてきたみたいに。
――がんばってください。
俺は、誰に向けてなのかもわからないまま、心の中で、そう祈りながら、最後の一字まで、読み通した。
⭐︎⭐︎⭐︎
法要が終わったあと。
本堂の隅で、大恩寺さまが、円海さんに向かって、ぼそりと言った。
「……型に、心が乗ってきたな」
「……恐れ入ります」
「……だが、まだ荒い。……あと二年じゃ。精進させよ」
大恩寺さまは、それだけ言うと、立ち上がって、本堂を出ていった。
俺のほうは、一度も見なかった。
――でも、それで、よかった。
俺は、経本を抱えたまま、本堂の真ん中で、障子の外の常香炉を見た。
煙は、もう昇ってもいなかった。下を向いてもいなかった。
ただ、縁側のほうへ、ぐったりと、疲れたように、なびいていた。
――誰も、行かなかった。
それがわかったら、なんだか、体の力が抜けて、俺は、少しだけ笑ってしまった。
『第百六十六号 二〇二六年十月 中間審査。一度も噛まなかった。煙は三回昇って、三回とも戻った。――誰も行かなかった。縁側のほうから、なぜか、ものすごく疲れたような風が吹いた。――応援、ありがとうございました。』
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