番外編-慈念- 第二話「お前の節で読め」(前半)
⭐︎迷走
九月。
中間審査まで、あと一か月。
俺は、ある作戦を実行することにした。
――上手く読む前に、ちゃんと断っておく作戦だ。
朝のお勤めの前。
俺は、墓地の端から一基ずつ、墓石の前に立って、頭を下げて回った。
「――おはようございます。これから、お経を、上手に読みます。……すみません」
桜庭家之墓。西園寺家之墓。鬼塚家之墓。北の端の轟家之墓。西の端の合祀墓。竹林の樹木葬の区画。一ノ瀬家之墓。
それから、名前も知らない、たくさんのお墓。
すべて回るのに、一時間かかった。
そして、そのあいだじゅう。
常香炉の煙が、ものすごく騒がしかった。
右へ揺れ、左へ揺れ、ぐるぐると渦を巻き、ときどき、俺の後ろをついてくるように、一筋だけ、すーっと流れてくる。
西園寺家之墓の前では、まだ咲いてもいない金木犀の香りが、ふっと、した気がした。
鬼塚家之墓の前では、立てたばかりの線香が、ぱたりと倒れた。
北の端では、風もないのに、卒塔婆が、かたかたと、リズムを刻むように鳴った。
――そして、おはぎが、一時間ずっと、俺の後ろをついてきて、墓の前で俺が頭を下げるたびに、あくびをした。
『第百六十一号 二〇二六年九月 謝って回った。煙が、過去最大級に騒いだ。――逆効果の可能性。』
⭐︎⭐︎⭐︎
次の作戦は、本堂を締め切って、小声で練習することだった。
外に聞こえなければ、誰も困らない。
俺は、雨戸まで全部閉めて、経本を開いて、蚊の鳴くような声で読み始めた。
「……かん、じー、ざーい……」
――がらっ。
「……何をこそこそしとる」
円海さんだった。老眼鏡を額にかけて、うさん臭そうに俺を見下ろしている。
「……れ、練習です。小声の」
「小声で経を読む小僧がどこにおる」
「……ここに。」
「開けて読め。空気が濁る」
――作戦は、五分で終わった。
⭐︎⭐︎⭐︎
最後の作戦は、考えただけで、やめた。
――わざと、下手に読むこと。
下手なとき、煙は昇らない。
それなら、審査の日だけ上手く読んで、あとは今までどおり下手に読めばいい。
そう考えたところで、俺は、自分の頬を、ぱん、と叩いた。
――それは、違う。
わざと下手に読むお経なんて、仏さまにも、聴いてくださる方にも、失礼だ。
六年間、俺の下手なお経を、ずっと聴いてくれていた誰かに。
もし、本当に、誰かがいるのなら。
⭐︎当番表の、本当の理由
文机の前の壁には、一枚の紙が貼ってある。
『お名前の当番 月 桜庭家 火 西園寺家 水 鬼塚家 木 轟家 金 片桐清一さん 土 花村家 日 一ノ瀬家』
これを作ったのは、今年の三月だ。
――当番表のことは、人には、「なんとなく」と説明している。
でも、本当は、なんとなくじゃない。
⭐︎⭐︎⭐︎
始まりは、蒼太くんだった。
桜庭家の長男で、今年の春、東京の大学に合格した。その報告に来た日、彼は、俺に頭を下げた。
「……姉ちゃんの名前、呼んでやってくれませんか。俺、東京行ったら、もう毎日は呼べないんで」
「……承知しました。毎朝、必ず」
その翌朝。
お経の最後に、俺は、初めて、その名前を呼んだ。
「……桜庭、貞子さん」
――その瞬間。
常香炉の煙が、桜庭家之墓のほうへ、すっと傾いて、それから、ぽんっと、弾むように跳ねた。
嬉しそうに。
――煙が嬉しそう、というのも変な話だけど、本当に、そう見えたんだ。
ところが。
そのあとが、大変だった。
煙が、いきなり、あちこちへ引っ張られ始めた。
西園寺家のほうへ。鬼塚家のほうへ。北の端のほうへ。また桜庭家のほうへ。ぐいっ、ぐいっと、まるで、俺の袖を、四方八方から引っ張るみたいに。
――拗ねている。
そうとしか、思えなかった。
『第百十二号 二〇二六年三月 桜庭貞子さんのお名前を呼んだ。煙が、桜庭家のほうで跳ねた。そのあと、ほかのお墓のほうへ、一斉に引っ張られた。――えこひいき、と言われている気がする。』
俺は、その日の午後、過去帳を抱えて、本堂にこもった。
そして、この当番表を作った。
――結果は、効果てきめんだった。
火曜日に「西園寺家」と呼ぶと、煙は西園寺家之墓のほうへ、優雅にたなびいた。
水曜日は、鬼塚家のほうへ、ぶんっと勢いよく。木曜日は、北の端へ、少し照れたように、ゆっくりと。
金曜日。「片桐、清一さん」と呼ぶと、煙は、西の端の合祀墓のほうへ、ゆらゆらと流れていって、そこで、長いこと、とどまっていた。
――それを見たとき、俺は、少しだけ泣きそうになった。
それから、土曜日。
花村家を当番表に書き足した、最初の朝。
「……花村、ふみさん」
煙が、竹林のほうへ、ぴしっと、まっすぐに伸びた。
そして、なぜか、墓地じゅうの煙が、一瞬だけ、背の順に並んだような気がした。
――たぶん、気のせいだ。
⭐︎⭐︎⭐︎
六月のある火曜日には、一度だけ、当番表にない呼び方をした。
「……西園寺、麗華さん」
西園寺家之墓の墓誌に、彼岸のものよりずっと古い、二十歳で亡くなった女の人の名前がある。
火曜日に西園寺家を呼ぶと、煙はいつも、墓地の東の角の、金木犀の老木のほうへも、一筋だけ流れていく。
それが、なぜか、ずっと気になっていたんだ。
その朝、名前を呼ぶと、煙は金木犀のほうへ、ゆっくりと、お辞儀をするように傾いた。
――俺の観測ノートは、そう記録している。
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