番外編-慈念- 第一話「小僧の観測記録」(後半)
⭐︎昇る煙
変化が起きたのは、今年の春だった。
『第百十一号 二〇二六年三月 煙が、下を向かなかった。――初めてだ。六年で、初めて。』
このページには、何度も書き直した跡がある。
嬉しくて、何を書けばいいのかわからなかったんだと思う。
猶予が決まってから、俺は一日も休まずに、基本の練習を続けていた。
円海さんの節を追うのをやめて、型だけを、一つずつ、体に叩き込んだ。
その上に、俺の節を、そっと乗せるように。
最初の一節は、まだ裏返る。
たぶん、一生裏返る。
でも、そこから先は、まっすぐ読めるようになっていた。
『第百十八号 二〇二六年四月 煙が、昇った。』
『第百十九号 同 また昇った。しかも、まっすぐ上に。天に吸い込まれるみたいに。』
『第百二十号 同 ――と思ったら、途中で、ぐにゃりと曲がって、地面のほうへ戻ってきた。いっせいに。まるで、誰かに「気をつけ」と号令をかけられたみたいに。』
――ここで、俺は、初めて「気をつけ」という言葉を書いている。
自分でも、なぜそんな言葉が出てきたのか、わからない。
ただ、その少し前に、樹木葬の区画に、元小学校の校長先生が納骨されていた。
教え子だったという人たちが、大勢、墓参りに来ていた。
その人たちが口々に言っていたのを、覚えている。
「花村先生の朝礼は、厳しかったよなあ」
――たぶん、関係はないと思う。
⭐︎⭐︎⭐︎
それから半年。
ノートの記録は、どんどん増えていった。
『第百三十四号 二〇二六年五月 納骨のお経。煙が昇って、戻った。』
『第百四十一号 二〇二六年六月 雨の日も、昇って、戻った。』
『第百五十五号 二〇二六年八月 墓フェスの開演前。円海さんのベースと一緒に読んだ。自分でもびっくりするくらい、声が伸びた。――煙が、十回以上、昇っては戻った。最後のほうは、戻るのが、少しだけ遅かった。』
――最後のほうは、戻るのが遅かった。
その一行を、俺は、もう一度読み返した。
⭐︎観測の結論
部屋の外で、虫が鳴いている。
俺は、ノートを開いたまま、文机に経本を並べて、その上に、六年分の記録を並べてみた。
下手なとき、煙は下を向く。
上手いとき、煙は天へ昇る。
そして、昇った煙は、必ず、地面へ戻ってくる。
――僧侶の世界では、線香の煙は、仏さまやご先祖さまへの道しるべだと言われている。
お経は、亡くなった方を、彼岸へお送りするためのものだ。
だとしたら。
上手く読めた朝、煙が天へ昇るのは。
――誰かが、旅立ちかけているんじゃないか。
そして、それが、必ず戻ってくるのは。
――その誰かが、まだ、行きたくないからじゃないか。
「…………」
俺は、ノートを閉じて、天井を見上げた。
――いや。たぶん、気のせいだ。
煙は風で揺れる。
寒気は、俺が怖がりだから。
紅葉は、たまたま。
おりんは、……おりんは、わからないけど。
でも。
もし、もしも、本当に、そうだとしたら。
俺は、上手くならなければ、この寺を継げない。
円海さんが守ってきた、この墓地を。
でも、上手くなると、この墓地の誰かが、行きたくもないのに、引っ張られてしまう。
――それで、俺は、今夜、大恩寺さまに電話をしたんだ。
「……上手くなると、困る人たちがいるんです」って。
――そりゃ、切られる。
⭐︎⭐︎⭐︎
俺は、窓を開けた。
夕方に立てた線香が、常香炉で、まだ細く燻っていた。
送り火の夜の煙は、風もないのに、墓地のほうへ、ゆらゆらと、楽しそうに流れていた。
――昇ってもいない。下を向いてもいない。
ただ、そこに、いる。
墓地の奥、北の端のほうから、風にのって、何か、弦を弾くような音が、聞こえた気がした。
――たぶん、虫の声だ。
「……困りましたね」
俺は、誰にともなく、つぶやいた。
それから、ノートを開いて、新しいページに、一行だけ書いた。
『第百五十六号 二〇二六年八月 送り火の夜。結論。――この墓地は、どうやら、まだ、成仏したくないらしい。』
書いてから、俺は、少しだけ笑った。
僧侶が書く結論としては、たぶん、最悪だ。
でも、なぜか。
それが、少しだけ、嬉しかった。
墓場は今日も、成仏しない。
――それを、俺だけが、少しだけ知っている。
たぶん。
(番外編-慈念- 第一話 完)
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