番外編-慈念- 第一話「小僧の観測記録」(中盤)
⭐︎観測ノート
ノートをめくる。
中学生の俺の字が、だんだん、今の俺の字になっていく。
『第七号 二〇二〇年九月 また、煙が下を向いた。これで七回目。俺が読むときだけ。円海さんが読むときは、煙はただ、気持ちよさそうにゆらゆらしている。』
『第十九号 二〇二〇年十一月 夜の本堂で、寒気。誰もいないのに、後ろに誰か立っている気がした。円海さんに言ったら、「気のせいじゃ」。――そのあと、円海さんも、ちらっと後ろを見た。』
『第二十六号 二〇二一年三月 山門前の落ち葉、十一秒。記録更新。――これは説明がつく。練習の成果だ。』
――こういうのも、たまに混じっている。当時の俺は、たぶん、少しでも明るいことを書きたかったんだと思う。
お経は、何年経っても、上手くならなかった。
毎朝、誰より早く起きて、境内を掃いて、本堂の裏で発声の練習をした。
円海さんの節を、何百回も耳でなぞった。
病院で喉を診てもらったけど、異常はないと言われた。
それでも、声は裏返った。
そして、俺が読むたびに、煙は下を向いた。
⭐︎⭐︎⭐︎
『第五十二号 二〇二三年十月 朝の掃除中、竹ぼうきの先に、紅葉が一枚、ぴたりと貼りついて離れなかった。振っても、叩いても。――なんとなく、墓地に手を合わせた。そうしたら、取れた。』
この前の日、円海さんが風邪で咳き込んで、俺が代わりにお経を読んだ。
いつもどおり、ひどいお経だった。
なのに、あの紅葉は、何だか、「ありがとう」と言われているみたいな気がした。
――気のせいだと思う。
『第五十八号 二〇二三年十月 お経の最中、耳元が冷やっとした。いつもの三割増しで裏返った。』
『第五十九号 同 翌日。お経の最中、すぐ目の前から、誰かにじっと見られている気がした。しかも、ものすごく近い。鼻先に何か刺さっている気がした。――本堂から逃げた。円海さんに怒られた。』
『第六十号 同 翌々日。本堂の前の石段に、落ち葉で文字が並んでいた。『もっと ひくく』――引くく。引く? 引きこもれ? 午前中、部屋にこもった。』
――ここに、今の俺の字で、赤ペンの書き込みがある。
『(追記 二〇二六年) 今思えば、『低く』だったのでは。』
――三年かかって、ようやく気づいた。
『第六十一号 二〇二三年十月 夜中の二時。押し入れの奥で、ギターが鳴った。ミ、ファ、ソ♯、ラ。親父がよく流していた、あの音階。――たぶん夢だ。でも、ギターを、押し入れから出して、文机の横に立て掛けた。』
その夜のことは、よく覚えている。
夢だと思うのに。あの音を口ずさんだとき、俺の声は、一度も裏返らなかった。
『第六十二号 二〇二三年十月 合同法要。円海さんの声が出なくなって、俺が読んだ。大失敗しかけたとき、本堂のおりんが三つ、誰も触っていないのに、いっせいに鳴った。ミと、シと、レ。檀家さんたちも見ていた。――俺は、その響きに、ソ♯を乗せた。』
――この一行を書くとき、手が震えていたのを覚えている。
あの日、円海さんは、俺にこう言った。
「……借りもんの節で読むな。お前の節で読め」
その言葉の意味を、俺は、それから三年かけて考えることになる。
⭐︎⭐︎⭐︎
『第八十一号 二〇二四年 昼過ぎ、お勤めもないのに、本堂のおりんが、また勝手に鳴った。ミと、シと、レ。属七の、ソ♯抜き。――終わっていない音だと思った。誰かの、終わっていない何か。北の端に向かって、手を合わせた。』
なぜ北の端だったのかは、自分でもわからない。
ただ、その日、北の端の轟家之墓に、若い女の子がギターを抱えて来ていたのを、俺は知っていた。
あの時の俺は、ちょっとだけ、うらやましかったんだと思う。
誰かに、待っていてもらえる音が。
邪道と、猶予
『第九十号 二〇二五年八月 施餓鬼会。円海さんが倒れた。――これは、説明のつかないことじゃない。でも、書いておかないと、手が震えて、何もできなかった。』
このページだけ、字がほとんど読めない。
救急車を呼んで、代わりに法要を最後まで勤めて、それから病院で一晩じゅう座っていた。
その後、本山から、大恩寺さまがいらした。
姿勢がよくて、作務衣にも隙のない、厳しい方だった。
俺のお経を聞いて、ただ一言。
「――邪道じゃ」
――それは、そうだと思った。
俺の節は、どうしても、式次第の型からはみ出す。
円海さんの節を追うと裏返るし、自分の節で読むと、邪道になる。
『第九十三号 同 面接の練習をしていたら、本堂が、妙に寒い。すぐ目の前に、誰かいるみたい。しかも、一人じゃない。――全然、集中できなかった。』
『第九十四号 同 経典を暗記していたら、口から、変な節がこぼれた。自分の節とも、円海さんの節とも違う。でも、妙に、喉に馴染む。――偶然だと思う。』
『第九十五号 同 本堂で、経本を抱えたまま寝てしまった。起きたら、隣におはぎがいた。いつもより、少しだけ近くに。――これは、説明がつかない。あいつは、誰にも懐かない猫なのに。』
――あの夜、俺は、一人じゃなかった気がする。
おはぎだけじゃなくて。
その秋、身寄りの少ない檀家のおじいさんのお葬式で、俺はお経を読んだ。
型は、やっぱりはみ出した。でも、娘さんが、泣いてくれた。
大恩寺さまは、何も言わずに、本山に掛け合って、三年の猶予を取り付けてくださった。
――三年。
そのあいだに、式次第の型と、俺の節を、両方、身につける。
俺は、その日から、もう一時間早く起きるようになった。
『第百二号 二〇二五年大晦日 除夜の鐘。最後の一撞きの音が、いつもと違った。その場にいた全員が、鐘を見た。――俺は、この音を、誰かと一緒に撞いた気がした。たくさんの、誰かと。』
その夜、円海さんは、俺に言った。
「……型と心の両方が、ちゃんと、同居しとる」
五年半。
初めて、円海さんから、そう言ってもらえた夜だった。
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