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墓場ぐらしのサダコさん  作者: 則本潮


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「命日は、成仏日和。」(後半②)

⭐︎最後の重り


ママが、笑った。


四年間、この墓の前で、ずっと泣いていたママが。


振袖の前で、あたしの名前を呼んで、笑った。


――すうっと。


胸の奥に、一本だけ刺さっていた小さなとげが、抜けていくのがわかった。


ママの後悔が、ほどけていく。


ほどけて、流れて、あたしの中の、最後の重りを、そっと、持っていく。


――ふわっ。


「……あ」


足元が、光っていた。


いつもの光じゃなかった。


楽しすぎて浮いたときの、ぴかぴかした光でもない。褒められて浮いたときの、ふわふわした光でもない。


もっと白くて、もっと静かで、もっと、あったかい光。


雷太さんが、テープの続きを聴いたときと、同じ光。


「――貞子さん!!」


麗華の悲鳴が、墓場中に響いた。


体が、浮き上がる。


振袖の袖が、ふわりと広がる。

内側のラメの花びらが、光の中で、ちかちか、瞬いた。


――怖くなかった。


不思議なくらい、全然、怖くなかった。


あったかいお湯に、ゆっくり、体を沈めていくみたいな感じ。


「――おりん部隊、配置につけぇぇぇ!!」


雷太さんの声が、響いた。


墓場中の霊が、本堂に向かって、いっせいに駆け出していく。

源蔵じいちゃん。鬼塚さん。トメばあちゃん。清一さん。ハヤトさん。


「――ふみ先生!! 気をつけ、お願い!!」


ハヤトさんが、走りながら、振り返って叫んだ。


――でも。


ふみ先生は、竹林の前で、背筋を伸ばしたまま、動かなかった。


眼鏡の奥で、じっと、あたしを見上げていた。


「……先生……?」


「……これは、あの子が決めることです」


ふみ先生の声は、静かだった。


「……わたしは、四十年間、子どもたちの門出を見送ってきました。……どの道を選ぶかは、いつだって、子どもたちが決めることでした」


ふみ先生の目から、一筋、涙がこぼれた。


「……だから、号令は、かけません」


――ふみ先生。


「――行かないでくださいまし!!」


麗華が、あたしの足首に、しがみついた。


「――さだぁぁぁ!!」


源蔵じいちゃんが、本堂に行きかけて、引き返してきて、もう片方の足首にしがみついた。


「――おい、貞子!!」


鬼塚さんが、墓石を踏み台にして跳んで、振袖の裾をつかんだ。


「……貞子さん……っ」


ハヤトさんも、ごまも、トメばあちゃんも。

みんな、あたしに、しがみついていた。


でも、あたしの体は、みんなごと、ゆっくりと、昇っていく。


墓石の高さ。金木犀の枝の高さ。本堂の屋根の高さ。


「――今だ、鳴らせ――」


本堂の前で、雷太さんが、手を振り上げた。


「――雷太さん!」


あたしは、叫んだ。


「――鳴らさないで!!」


雷太さんの手が、空中で、止まった。


おりんに取りついていたみんなが、いっせいに、あたしを見上げた。


「……貞子……?」


「……大丈夫」


あたしは、みんなを見下ろして、笑った。


「……大丈夫。……自分で、決めるから」


――しん。


墓場中が、静まり返った。


「……みんな、手、離して」


「……い、嫌ですわ……!」


麗華が、泣きじゃくりながら、首を振った。


「……麗華」


「……だって……だって、離したら……貞子さんが……」


「……大丈夫だって。……あたしのこと、信じて」


あたしは、麗華の手に、そっと、自分の手を重ねた。


「……ライバルで、親友でしょ」


「…………っ」


麗華の手が、震えながら、ゆっくりと、ほどけていった。


源蔵じいちゃんの手も。鬼塚さんの手も。みんなの手が、一つずつ、離れていく。


本堂の前で、雷太さんが、振り上げた手を、ゆっくりと、下ろした。


「……わかった。……お前が、決めろ」


――あたしは、一人で、空に昇っていった。


⭐︎ここが好きだから


高い。


金木犀の香りが、足の下に、遠くなっていく。


見下ろすと、墓場が、全部、見えた。


――桜庭家之墓。縁側の、いつもの場所。


――西園寺家之墓。墓地で一番大きい、麗華のお城。


――鬼塚家之墓。轟家之墓。北の端から、見えないギターの音がする場所。


――西の端の、無縁仏の区画。清一さんが、何十年も、一人で座っていた場所。


――竹林の、樹木葬の区画。ふみ先生とごまの、桜の苗木。


――一ノ瀬家之墓。

源蔵じいちゃんの木の表札が、少しだけ斜めに、かかっている。


――本堂。

おりんが三つ。

慈念さんが、毎朝、名前を呼んでくれる場所。


――それから、山門。


その向こうに、町が見えた。


ママとパパが、これから歩いて帰っていく道。

蒼太が、夜行バスで帰っていく、東京の方角。

カヤが通っている、大学のある方角。


――上を見上げると、光が、あたしを呼んでいた。


あったかくて、やさしくて、きっと、とても、いいところなんだと思う。


行ってもいい。


もう、行ってもいいんだって、わかる。


未練は、もう、何もない。


――でも。


あたしは、もう一度、下を見た。


墓場のみんなが、あたしを見上げていた。

泣きながら。震えながら。

それでも、手を離して、あたしが決めるのを、待っていてくれていた。


……ねえ。


あたし、まだ、見てないもの、いっぱいあるんだよ。


蒼太の卒業式。スーツ着た蒼太、絶対、似合わないけど、絶対、見たい。


カヤが、これから、どんな大人になるのか。


美月さんの赤ちゃん。

麗華が、絶対、大騒ぎする。

その顔も、見たい。


慈念さんの、あと二年。

困るくらい上手くなって、それでも、毎朝、名前を呼んでくれる声。


来年の墓フェスの、雷太さんの新曲。

結衣ちゃんが、また、解決しない音で終わらせるところ。


毎朝の朝礼。毎朝の首。毎朝の、お玉じゃくし。


――それから。


山門の向こうへ帰っていく、ママの背中。


これから先、ママは、何度も、何度も、ここに来てくれる。


そのたびに、帰っていく。


――あたし、その背中に、言いたいんだ。


あの朝、言えなかった言葉の、代わりに。


これからは、毎回、ちゃんと。


「――いってらっしゃい」って。


「…………」


あたしは、光に向かって、小さく、頭を下げた。


「……ごめんね。……まだ、行かない」


光は、何も言わなかった。


ただ、少しだけ、やわらかく揺れた気がした。


「――だって、あたし」


あたしは、墓場を見下ろして、笑った。


涙でぐちゃぐちゃの顔で、でも、思いっきり、笑った。


「――ここが、好きだから!!」


――すとん。


光が、ふっと、ほどけた。


あたしの体は、ゆっくりと、ゆっくりと、降りていった。


本堂の屋根を過ぎて。金木犀の枝を過ぎて。

墓石の高さを過ぎて。


振袖の袖を、ひらりと揺らしながら。


――桜庭家之墓の前に、静かに、着地した。


「――――貞子さぁぁぁん!!」


麗華が、飛びついてきた。


「……ば、馬鹿ですわ……っ、あなたという方は、本当に……っ、心配、させて……っ」


「……ごめんって」


「……ご、ごめんで済んだら、朝礼は要りませんわぁぁぁ……!」


「それ、たぶん、使い方違う」


「知っておりますわぁぁぁ……!」


源蔵じいちゃんが、声を上げて泣いていた。

鬼塚さんの首が、泣きすぎて、飛んでいた。

トメばあちゃんが、にこにこしながら、泣いていた。ふみ先生が、眼鏡を拭きながら、「……よろしい」とつぶやいた。

清一さんが、ほっほっと笑った。

ハヤトさんが、「……心のシャッター、切りすぎて、指、つりそうっす」と言いながら、泣いていた。

ごまが、あたしの足元で、ちぎれそうなくらい尻尾を振っていた。


本堂の前から、雷太さんが、ゆっくりと歩いてきた。


「……おい」


「……うん」


「……来年の新曲、ちゃんと聴けよ」


「……うん。聴く」


雷太さんは、長い前髪の奥で、少しだけ笑って、見えないギターを、ぽろん、と一つ、鳴らした。


――墓石の上で、おはぎが、あたしを見下ろしていた。


いつも通りの、心の底からどうでもよさそうな顔で。


でも。


――ぱたん。


尻尾が、一度だけ、揺れた。


⭐︎いってらっしゃい


夕方。


秋の日が、金木犀の向こうに、傾き始めていた。


ママは、墓石に掛けていた振袖を、丁寧に畳んで、風呂敷に包み直した。


「……お正月に、また持ってくるね。……今度は、見せるだけじゃなくて、ちゃんと、掛けてあげる」


墓前に供えられた振袖は、あたしの肩にも、ちゃんと残っていた。

桜色の袖が、夕日の中で、少しだけ、透けている。


「……帰るか」


パパが、ママの肩に、そっと手を置いた。


「……うん」


蒼太が、リュックを背負い直した。


「……じゃあな、姉ちゃん。……正月に、また来る」


伽椰子が、紺色の傘を畳んで、小さく手を振った。


「…………またね、貞子」


四人が、砂利道を、山門のほうへ、歩いていく。


ママの背中が、少しずつ、小さくなっていく。


――今だ。


あたしは、桜庭家之墓の前で、大きく、息を吸った。


幽霊だから、息なんて、してないけど。


四年分の気持ちを、全部、込めて。


「――いってらっしゃい、ママ!!」


墓場中に、響くくらいの声で。


――山門の手前で。


ママが、ふと、足を止めた。


「……母さん?」


蒼太が、振り返る。


ママは、ゆっくりと、こちらを振り向いた。


夕日を背にして、桜庭家之墓のほうを、まっすぐに見て。


――あたしを、まっすぐに見て。


そして、笑った。


四年間で、一番の、笑顔だった。


「――いってきます」


――――。


「……また来るね、貞子」


――金木犀の花が、風に揺れて、ママの髪に、はらりと落ちた。


「……今、なんで振り返ったんだ?」


パパが、不思議そうに聞いた。


「……なんとなく」


ママは、髪についた小さな花を、指でつまんで、笑った。


「……『いってらっしゃい』って、言われた気がしたの」


「…………」


伽椰子の喉が、小さく、ア゛、と鳴った。前髪の奥で、泣きながら、笑っていた。


四人の背中が、山門の向こうに消えていく。


あたしは、ずっと、ずっと、手を振っていた。


振袖の袖が、夕日の中で、ちかちか、光っていた。


――翌朝。月曜日。


「――朝礼を、始めます!」


竹林の前に、墓場中の霊が、背の順に整列した。

源蔵じいちゃんと鬼塚さんは、最初から、砂利道に立っている。


「――こらぁぁぁ鬼塚の小僧ぉぉぉ!! 昨日わしの簪の余りの木っ端、どこへやったぁ!!」


「知らねえよ! っつーか、朝礼中だろジジイ!」


「そこの二人、廊下に――」


――スポーン。


いつもの音がして、いつもの首が、秋の青空を飛んだ。


「……はいはい、朝ごはんにしましょうねえ」


トメばあちゃんのお玉じゃくしが、首のない鬼塚さんの体を、ぽかんと叩いた。


北の端から、雷太さんの見えないギターが聞こえる。今日は、長調の、明るいリフ。


西園寺家之墓の前で、麗華が、日傘をくるりと回して、あたしに手を振った。


「――ごきげんよう、貞子さん。今朝も、野蛮な墓場ですこと」


「――おはよ、麗華」


――ごおん。


本堂の鐘が鳴って、慈念さんの声が聞こえてくる。


「――かっ、観……自ざいっ……!」


最初の一節だけ、今日も、ちょっとだけ裏返った。


「「「「……チッ」」」」


いつもの舌打ちが、墓場中に響く。


胃もたれは、もう、ほとんど来ない。

でも、この舌打ちだけは、きっと、ずっと、なくならない。


そして、お経の最後に。


「……本日は月曜日。……桜庭、貞子さん」


――呼ばれた。


あたしは、桜庭家之墓の縁側から、立ち上がった。


「――はいっ!!」


もちろん、慈念さんには、聞こえない。


でも、いいんだ。


呼んでくれる人がいて、返事ができる。それだけで、十分だ。


――あたし、桜庭貞子。


二十歳。見た目は、十六歳のまま。


好きなものは、プリといちごミルクと、きらきらしたもの全般と。


ママが縫ってくれた、きらきらの名前と。


――この、賑やかな墓場の、全部。


墓石の上では、おはぎが、今日も、心の底からどうでもよさそうな顔で、大あくびをしていた。


ここは、某県某市、某寺の墓地。


死後の世界は、思ってたよりずっと、にぎやかで――あたたかい。


墓場は今日も、成仏しない。


――だって、あたしが、そう決めたから。


(第十八話 完)


――第三部・完――


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