「命日は、成仏日和。」(後半①)
⭐︎いってらっしゃい、が言えなかった朝
「……呉服屋さんからね、電話が来たの」
ママは、振袖に掛けた手を、そのままにして、話し始めた。
「あの年の暮れに。……『ご予約いただいていた振袖の件で』って。……キャンセルの手続き、しなきゃいけないのは、わかってたの。……でも、どうしても、『取り消してください』って、言えなかった」
パパが、ママの隣に、黙ってしゃがんだ。
「……それで、受け取りに行ったの。……着る人がいない振袖を。……お店の人、何も聞かずに、丁寧に畳んでくれた」
――あたしは、何も言えなかった。
言っても、届かない。
でも、言いたい言葉も、見つからなかった。
「……成人式の日にね、会場の前まで、行ったの。……春に、話したでしょう」
「……うん」
聞こえないのに、あたしは、頷いた。
「……みんな、きれいな振袖着て、笑ってて。……あの中に、貞子もいたはずなのに、って。……それで、帰り道に、手芸屋さんに寄ったの。……ラメの糸、買って」
ママは、絆創膏だらけの右手を、そっと握った。
「……ママ、家庭科、2だったのよ」
「……っ」
蒼太が、横で、小さく吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
「……笑っていいのよ、蒼太。……本当に、下手なんだから。……一枚目の花びら、三回、ほどいて、縫い直したの」
「……俺は、針に糸を通す係だった」
パパが、ぼそっと言った。
「母さん、老眼が始まっててな。……毎晩、俺が、糸を通して、渡してた。……二十枚分な」
「……パパ」
――毎晩。
二人で。
居間のテーブルで、ママが、慣れない手つきで、一針ずつ。
その隣で、パパが、針に糸を通して。
そんな夜が、半年以上も、続いていたんだ。
「…………」
伽椰子が、前髪の奥で、ぎゅっと、唇を噛んでいた。
「……ねえ、貞子」
ママが、墓石を、まっすぐに見た。
「……ずっと、言えなかったことがあるの。……パパにも、蒼太にも、言えなかった。……三回忌のときも、言おうとして、言えなかった」
――ママの声が、初めて、震えた。
「……あの朝の、最後の言葉」
――あ。
「……『勝手にしなさい』って、言ったでしょう。……それが、ママが貞子に言った、最後の言葉だった」
ママの指が、振袖の袖を、ぎゅっと、握りしめた。
「……貞子が、玄関で、靴を履いてるのが見えたの。……傘も持たないで。……追いかけようと思えば、追いかけられた。……でも、ママ、意地を張って、台所から出なかった」
「……ママ……」
「……本当はね」
ママは、一度、言葉を切った。
大きく、息を吸った。
「……本当は、玄関で、言いたかったの」
――――。
「……『勝手にしなさい』じゃなくて。……『いってらっしゃい』って」
――いってらっしゃい。
たった、それだけの言葉。
毎朝、当たり前みたいに、聞いていた言葉。
あの朝だけ、聞けなかった言葉。
「…………っ」
あたしの喉の奥から、変な音が漏れた。
――あたしも、言わなかった。
あの朝、『いってきます』って、言わなかった。
ママの顔も見ないで、ドアを思いっきり閉めて、飛び出した。
言えばよかった。たった一言。『いってきます』って。
そしたら、ママは、きっと、『いってらっしゃい』って、返してくれた。
意地を張ってても、きっと、返してくれた。
「……ごめんね、貞子」
ママの目から、初めて、涙がこぼれた。
「……いってらっしゃいって、言えなくて、ごめんね。……四年間、ずっと、それだけ、言いたかったの」
「――違うよ……!」
あたしは、墓石の前に、崩れ落ちた。
「……ママのせいじゃないよ……! あたしが、いってきますって、言わなかったんだよ……! あたしが、先に、言えばよかったんだよ……!」
――聞こえない。
届かない。
四年前と同じ。一年目のお彼岸と、同じ。
こっちには、ママの気持ちが、全部、伝わってくるのに。
あたしの声は、一つも、向こうに渡らない。
「……ママ……ママぁ……っ」
振袖の前で、あたしは、子どもみたいに、声を上げて泣いた。
――誰も、何も言わなかった。
源蔵じいちゃんは、背中を向けて、肩を震わせていた。
鬼塚さんは、空を見上げたまま、動かなかった。
トメばあちゃんは、目元を押さえて、静かに泣いていた。
ふみ先生は、眼鏡を外して、うつむいていた。
雷太さんは、見えないギターを抱いたまま、一音も鳴らさなかった。
ハヤトさんは、フードを深くかぶって、顔を隠していた。
ごまは、あたしの膝に、そっと顎を乗せていた。
清一さんが、西の端から、静かに手を合わせていた。
麗華は、あたしの背中に、ずっと、手を当ててくれていた。
「……それでね」
ママが、涙を拭って、また、袖の内側を、そっと撫でた。
「……成人式の朝に、これを着せてあげたかったの。……着付けが終わって、鏡の前で、貞子が『地味じゃない?』って言ったら、袖を返して、これを見せて」
ママは、ラメの『貞子』の二文字を、指先でなぞった。
「……『ごめんね。……でも、ママ、この名前を呼ぶのが、大好きだったの』って。……そう、言いたかったの」
――大好きだった。
この名前を、呼ぶのが。
「……それから、最後に、こう言ってやろうと思ってたの」
ママは、泣きながら、少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「――『これなら、文句言わないでしょ』って」
「…………っ」
言わない。
言うわけ、ないじゃん。
こんなの、世界で一番、きらきらしてるじゃん。
⭐︎墓場の成人式
「――貞子さん」
トメばあちゃんが、あたしの隣に、そっとしゃがんだ。
「……お供えされたものはね、一度供えられたら、こっちの分も、ちゃんと残るのよ。……麗華ちゃんの日傘みたいに。お盆の、キュウリの馬みたいに」
トメばあちゃんは、墓石に掛けられた振袖に、そっと手を伸ばした。
その手の中に、淡い桜色の、透き通った振袖が、ふわりと、もう一枚、現れた。
「……着てみましょうか。……ママが、着せてあげたかった振袖」
「……トメばあちゃん……」
「着付けは、ひいばあちゃんに任せなさい。……昔は、近所の娘さんの着付けを、みんな、わたしがやったのよ」
トメばあちゃんは、にこにこと笑って、あたしの肩に、振袖を掛けた。
袖を通す。
――軽かった。
幽霊だから、重さなんてないはずなのに。
すごく、あったかかった。
トメばあちゃんの手が、魔法みたいに動いて、帯が、きゅっと、締まる。
「――では、御髪は、わたくしが」
麗華が、涙を拭って、あたしの後ろに回った。
「……西園寺家の娘として、成人の日の髪は、何度も結っていただきましたの。……今日は、わたくしが、結ってさしあげますわ」
麗華の指が、あたしの髪を、丁寧に、すいていく。
明るく染めた、あの頃のままの髪を、ふんわりと、結い上げていく。
「――それから、これじゃ」
源蔵じいちゃんが、背中を向けたまま、何かを差し出した。
木の、簪だった。
先に、小さな桜の花が、彫ってある。花びらの一枚一枚まで、細かく、丁寧に。
「……ひいじいちゃん、これ……」
「……夏からな、こっそり、彫っとった。……いつか、要るかもしれんと思うてな」
源蔵じいちゃんは、振り返らなかった。
耳まで、真っ赤だった。
麗華が、その簪を、あたしの結い上げた髪に、そっと挿した。
「――よっしゃ! 成人式っつったら、これだろ!」
どこからともなく、鬼塚さんが飛び出してきた。
いつもの特攻服。
でも、今日は、背中の『夜叉鬼』の刺繍の下に、金木犀の花びらで、でかでかと『祝成人』と貼りつけてある。
「……鬼塚さん、それ……」
「成人式っつったら、特攻服だろうが! 俺らの時代の礼儀だ!」
「そんな礼儀、ないって……!」
「ある!!」
――泣いていた墓場中が、ちょっとだけ、笑った。
鬼塚さんは、それが狙いだったみたいに、にやりと笑った。
目元が、少しだけ、赤かった。
「……まあ、本当のこと言うとよ」
鬼塚さんは、リーゼントをいじりながら、そっぽを向いた。
「……俺、十九で死んだからよ。……成人式ってやつ、一回も、出たことねえんだ」
「……鬼塚さん」
「……だから、どんなもんか、一回、見てみたかっただけだ。……ついでだ、ついで」
――鬼塚さんの声が、最後だけ、ちょっとだけ、かすれていた。
「――それでは」
竹林の前で、ふみ先生が、背筋を伸ばした。
いつの間にか、墓場中の霊が、背の順に、整列していた。
雷太さんが、見えないギターで、静かなイントロを奏で始める。
ハーモニックマイナーじゃない。
まっすぐで、やさしい、長調の音。
「――ただいまより、墓場の成人式を、執り行います」
ふみ先生の声が、秋の空に、よく通った。
「……新成人、入場」
トメばあちゃんに手を引かれて、あたしは、みんなの前に進み出た。
桜色の振袖。桜の簪。
袖が揺れるたびに、内側のラメの花びらが、ちかちかと光る。
「……まあ……」
「……きれいじゃのう……」
「……めっちゃ似合ってるっす……」
「ワンッ……」
――心のシャッターを切る、ハヤトさんの両手が、震えていた。
ふみ先生が、一枚の紙を開いた。
「――式辞」
ふみ先生は、紙を読み上げなかった。
まっすぐ、あたしの顔を見て、話し始めた。
「……わたしは、四十年間、子どもたちの名前を呼び続けてきました。……名前を呼ぶと、子どもたちは、返事をします。……その返事を聞くたびに、わたしは、ああ、この子は今日も、ここにいてくれる、と思いました」
ふみ先生は、少しだけ、眼鏡を押し上げた。
「……名前を呼ばれて、返事ができる。……それは、あなたが、ここにいるという、証です」
――それから、大きく、息を吸った。
「――新成人、桜庭貞子さん」
――呼ばれた。
あたしの名前。
ママが、つけてくれた名前。
「――はいっ!!」
あたしは、墓場中に響く声で、返事をした。
――返事が、できた。
「……よろしい」
ふみ先生が、眼鏡の奥で、微笑んだ。
「……名前を呼ばれて、返事ができる。……それだけで、幸せなことじゃのう」
西の端から、清一さんの、穏やかな声がした。
――名前を忘れられて、何十年も、返事をする相手のいなかった人の、言葉だった。
そのとき、風が吹いた。
墓前の線香の煙が、ふわりと曲がって、ママの頬を、そっと撫でた。
ママが、顔を上げた。
墓石に掛けられた振袖を、じっと見つめる。
その振袖の前に、あたしが立っている。
同じ振袖を着て。
もちろん、ママには、見えない。
でも、ママは、何かを確かめるみたいに、しばらく、じっと、そこを見ていた。
「…………」
それから、涙で濡れた顔のまま、ふっと、やわらかく笑った。
「……似合ってるわよ、きっと」
――見えてないはずなのに。
ママは、ちゃんと、あたしを見て、そう言った。
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