「命日は、成仏日和。」(前半)
⭐︎金木犀の季節
十月。
寺の金木犀が、今年も、いっせいに咲いた。
墓地中に、甘い香りが漂っている。
西園寺家之墓の前では、麗華が、日傘を差したまま、ぼんやりと金木犀の木を見上げていた。
「……今年も、咲きましたわね」
「うん。麗華の季節だね」
「わたくしの季節、というのは、少々照れますけれど」
麗華は、日傘の陰で、ふふっと笑った。
――そして、この季節は、あたしにとっても、少しだけ特別な季節だ。
十月の、あの雨の朝。
あたしが、この墓場に来た日。
「――そういえば、桜庭さん」
朝礼のあと、ふみ先生が、眼鏡を押し上げながら言った。
「来週の日曜日が、あなたの祥月命日でしたね。慈念さんが、当番表の横に書き込んでいらっしゃいましたよ」
「あ、うん。そうなの。……もう四年かあ」
「そうですか。……では、気をつけてくださいね」
「……え? 何を?」
ふみ先生は、何でもないことのように、さらりと言った。
「命日は、成仏しやすい日なんですよ。わたしの祖母が、よく申しておりました。あの世の門が、一年で一番、近くまで来る日だと」
――しん。
墓場中が、静まり返った。
「……え」
「……今、なんと……?」
「……成仏、しやすい……?」
源蔵じいちゃんが、手にしていたお椀を、ぽとりと落とした。
「――た、大変じゃあぁぁぁ!!」
「――緊急事態ですわぁぁぁ!!」
墓場中が、一瞬で、大騒ぎになった。
「ちょ、ちょっと待って、みんな落ち着いて! あたし、去年も一昨年も、命日、普通に過ごしたから!」
「去年までとは、状況が違いますわ!」
麗華が、日傘をびしっと、あたしに向けた。
「慈念さんのお経は、今や、ほとんど胃もたれいたしません! 安全装置が、壊れかけておりますのよ!」
「……あ」
――そうだった。
慈念さんは、この一年と少し、毎朝欠かさず練習を続けて、びっくりするくらい上手になった。
上手になったのは、いいことだ。
すごくいいことだ。
でも、あたしたちにとっては、それが問題だった。
「しかも、今年の貞子さんは、二十歳の誕生日を迎えて、蒼太さんに名前を呼ばれて、月島さんと同盟を改訂して……」
麗華は、指を折りながら数えた。
「未練が、ほとんど、残っておりませんわ!!」
「――ええええええっ!!」
墓場中の悲鳴が、金木犀の香りの中に響き渡った。
――その夜。
あたしは、一人で、桜庭家之墓の縁側に座っていた。
金木犀の香りが、夜風に乗って流れてくる。
――未練が、ほとんど残っていない。
麗華の言葉が、頭の中で、ぐるぐる回っていた。
「……そうなのかなあ」
パパのことも、ママのことも、蒼太のことも、カヤのことも。
この四年で、一つずつ、ほどけてきた。
ほどけて、よかった。
本当に、よかったと思ってる。
――でも。
ふと、あの朝のことを、思い出した。
連絡帳の『戸籍名で』の文字。
ママとの口喧嘩。
傘も持たずに、玄関を飛び出したこと。
――あたし、あの朝、「いってきます」って、言わなかったな。
ママも、「いってらっしゃい」って、言わなかった。
最後に聞いたママの声は、『勝手にしなさい』だった。
「…………」
小さな、小さな、とげみたいなものが、胸の奥に、まだ一本だけ、刺さっている気がした。
でも、それが何なのか、あたしには、まだ、よくわからなかった。
⭐︎貞子さんを成仏させない大作戦
「――それでは、臨時墓場総会を始めますわ!」
翌日。西園寺家之墓の前の広場に、墓場中の霊が集まっていた。
麗華が日傘で示した先には、金木犀の花で作られた、橙色の文字が並んでいた。
『貞子さんを成仏させない大作戦』
「「「おおおおおおっ!!」」」
「……作戦名、そのまますぎない?」
「わかりやすさが、一番ですわ」
麗華は、こほん、と咳払いをした。
「よろしいですか、皆様。成仏とは、未練がなくなって、心が満たされたときに起こるもの。……ならば、答えは一つですわ」
「……一つ?」
「――貞子さんを、怒らせるのですわ!!」
――ざわっ。
「怒っているときは、人は成仏いたしません。……第一話の頃から、そうでしたでしょう?」
「……麗華、今、またメタな発言した」
「き、聞き流してくださいまし! とにかく、皆様で、貞子さんに、嫌なことを言うのですわ!」
「「「……嫌なこと……」」」
墓場中の霊が、腕を組んで、考え込んだ。
「――よし、俺から行く」
鬼塚さんが、ずいっと、あたしの前に出てきた。
眉間にしわを寄せて、あたしを睨みつける。
「……おい、貞子」
「……な、なに」
「お前の、その前髪」
「……前髪?」
「毎朝、鏡もねえのに……一生懸命、整えてるよな」
「……うん」
「……えらいよな」
「――褒めてるじゃん!!」
「……す、すまん。悪口って、どう言うんだっけか……」
――ふわっ。
「あ」
あたしの足元が、ちょっとだけ、光った。
「――あ、浮いた! 貞子さん、今、少し浮きましたわ!」
「……だって、褒められたら嬉しいじゃん……」
「次じゃ、次! わしが行く!」
源蔵じいちゃんが、腕まくりをして、前に出てきた。
「――さだ! お前という奴は、わしの曾孫のくせに……!」
「……くせに?」
「……かわいすぎるわい!!」
「ひいじいちゃんまで!!」
――ふわわっ。
「浮いてる! さっきより浮いてますわ!」
「では、わたしが」
ふみ先生が、眼鏡を押し上げた。
「桜庭さん。あなたは……朝礼の整列が、いつも一番、きれいです」
「先生、それ、褒めてるよね!?」
「事実を申し上げたまでです」
「貞子さん、正直……先輩として、めっちゃ頼りになるっす」
「ハヤトさんまで!」
「ワンッ! ワンワンッ!」
「ごまちゃんは、たぶん、褒めてるよね!?」
――ふわわわっ。
あたしの体は、もう、墓石の高さまで浮いていた。
「……これ、完全に、褒め殺しっすね」
ハヤトさんが、呆然とつぶやいた。
「――皆様、悪口が下手すぎますわ!!」
「「「すまん……」」」
「……じゃあ、定番のやつでいくか」
鬼塚さんが、ぼりぼりと頭をかいた。
「――やーい、井戸から出てきそうな名前ー」
――昔のあたしなら、これで、一発でキレていた。
でも。
「うん、よく言われる!」
あたしは、にっこり笑って答えた。
「……いい名前でしょ?」
――ふわわわわっ。
「……逆効果、ですわ……」
麗華が、日傘を握りしめたまま、がっくりと膝をついた。
名前を好きになったあたしには、もう、井戸ネタは効かないのだった。
⭐︎桜庭きらら
「――とにかく、一旦降りてくださいまし、貞子さん!」
麗華が、あたしの足首を、日傘の柄で引っかけて、ぐいぐい引っ張った。
「……降りたいのは山々なんだけど、みんなが褒めるから……」
「もう褒めませんわ!」
「……それはそれで、ちょっと寂しい……」
「わがままですわね!!」
墓石の高さで、ふわふわ浮いたまま、あたしは、ぽつりと言った。
「……でもさ、あたし、昔は本当に、この名前が嫌いだったんだよ」
「……存じておりますわ」
「カヤと、改名同盟まで作ってさ。十六になったら、家庭裁判所に行って、名前変えるって約束して」
「……ええ」
「――新しい名前も、ちゃんと、決めてたんだ」
「……え?」
墓場中の霊が、いっせいに、あたしを見上げた。
「……新しい、名前?」
「うん。……今だから言うけど」
あたしは、ちょっとだけ照れくさくなって、前髪をいじった。
「――『桜庭きらら』」
――――。
――――――――。
墓場中が、静まり返った。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、しーんとしていた。金木犀の枝が、風に揺れる音だけが聞こえる。
「…………き、きらら…………」
麗華の声が、かすれていた。
「…………きらきら、の、きらら…………」
源蔵じいちゃんが、口を半開きにしていた。
「……え、何? みんな、なんでそんな顔してんの?」
「……いや……その……」
鬼塚さんが、目を逸らした。
「……ちょっと……想定外だった……」
「……桜庭さん」
ふみ先生が、静かに眼鏡を外して、拭いた。
「……その名前を、朝礼で毎朝呼ぶ自分を想像して、少し、動揺しております」
――ひゅううう、と。
墓場中に、冷たい風が吹いた気がした。
ドン引き、という言葉が、これほど似合う空気は、なかった。
――すとん。
あたしは、地面に落ちた。
「……降りた」
「……ドン引きで、降りましたわ……」
「……え、ちょっと待って、そんなに? かわいくない? きらら」
「「「…………」」」
「なんで黙るの!?」
――それから。
「…………ぶっ」
最初に吹き出したのは、ハヤトさんだった。
「……さ、桜庭、きらら……っ、キラキラネームの、上位互換じゃないすか……っ」
「……っ、ふふっ……申し訳ございません、貞子さん……っ、でも……きらら……っ」
「……がははははは!! さだ、お前、きららて!!」
「きららって顔じゃねえだろ!!」
「どういう意味!?」
墓場中が、一気に、大爆笑に包まれた。
鬼塚さんの首が、笑いすぎて、飛んだ。
源蔵じいちゃんの首も、飛んだ。
トメばあちゃんまで、口元を押さえて、肩を震わせていた。
「……もう! みんなして笑わないでよ!」
――そう言いながら、あたしも、笑っていた。
お腹がよじれるくらい、笑っていた。
――ふわっ。
「――あ」
「――また浮きましたわ!!」
「――全員、気をつけ!!!」
ふみ先生の号令で、墓場中が、ぴしっと気をつけの姿勢になって、すとんと地面に落ちた。
――笑っても浮く。褒められても浮く。
怒らせようとしても、浮く。
「……今年の命日、本当に、大丈夫なのでしょうか……」
麗華が、地面に座り込んで、深いため息をついた。
⭐︎最終防衛ライン
その週の、木曜日の朝。
「――かっ、観……自ざいっ……」
本堂から、慈念さんのお経が聞こえてきた。
最初の一節だけ、ほんの少し、裏返る。でも、そこから先は、まっすぐだった。
――胃もたれは、来なかった。
「……チッ」
誰かが、小さく舌打ちした。でも、その舌打ちも、いつもより、力がなかった。
「……ほぼ、ゼロだな」
北の端から、雷太さんが歩いてきた。
「今の慈念のお経じゃ、もう誰も落とせねえ。……当日は、大恩寺っておっさんも来るんだろ? だったら、慈念は、全力で上手く読む」
「……胃もたれ、完全になくなるってこと?」
「ああ。……ふみ先生の号令は効く。けど、あれは、みんなが一緒に浮いてるときの話だ。貞子一人が本気で昇ったら、どうなるかわからねえ」
雷太さんは、腕を組んで、本堂のほうを見た。
「――だから、最後の手は、おりんだ」
「……おりん」
「俺のときと、同じだ。ミとシとレで、解決させずに、宙ぶらりんで止める。……配置は、もう決めてある」
雷太さんは、地面に、指で、三つの丸を描いた。
「ミのおりんは、源蔵さんと鬼塚が中心だ。シは、麗華とハヤト。レは、トメさんと清一さんと、ふみ先生。残りの連中は、三つに分かれて取りつけ。……俺が、合図を出す」
「……雷太さん」
「なんだよ」
「……ありがと」
「……礼を言うのは、まだ早え」
雷太さんは、長い前髪の奥で、少しだけ目を細めた。
「……お前には、まだ、聴かせてねえ曲があるからな。……来年の墓フェスの新曲。……勝手に行かれたら、困る」
――北の端の主は、それだけ言って、背を向けた。
あたしは、その背中を、しばらく見送っていた。
――みんな、あたしのために、本気で、準備してくれている。
嬉しかった。
嬉しくて、また、ちょっとだけ、足元が光りそうになって、慌てて、首を振った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
異世界小説を書いた方が良いと言われました。いやいや、まだその世界には行けませんよ。
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