「継ぐ者、継がれるもの。」(後半)
⭐︎円海の秘密
見舞いに来ていた円海さんの妹――美津さんが、病室で、ぽつぽつと話し始めたのは、その数日後のことだった。
「……お兄ちゃん、実はね」
美津さんは、ベッドの脇の椅子に腰かけて、円海さんの寝顔を見ながら、独り言のように話していた。
慈念さんが、たまたまその場に居合わせていた。
「……お兄ちゃんも、若い頃、資格が足りないまま、この寺を継いだのよ」
「……え?」
「先代のご住職――お兄ちゃんの師匠がね、まだ若すぎるって、本山にずいぶん反対されたの。
……でも、師匠が、頭を下げて、特例で、通してもらったんですって」
慈念さんは、目を見開いた。
「……当時のお兄ちゃんも、型なんて、ろくにできてなかったのよ。……ベースなんか弾いてたくらいだから」
美津さんは、少しだけ笑った。
「師匠が言ったんですって。『型を極めることと、心を込めることは、順番が逆でもよかろう』って」
――円海さんが、目を覚ましたのは、その言葉が終わった直後だった。
「……美津……余計なことを……」
「あら、起きてたの、お兄ちゃん」
円海さんは、力なく笑って、天井を見上げた。
「……慈念。……聞いたか」
「……はい」
「……わしもな、お前と同じじゃった。型より先に、心が先走っておった。……師匠は、それを、待ってくれた」
円海さんの声は、かすれていたけれど、はっきりしていた。
「……お前を、待てんですまんな」
「……そんな……!」
慈念さんは、首を振った。
「……円海さんが謝ることじゃありません。……俺が、まだ、力不足なだけです」
⭐︎型は、器じゃ
数日後、円海さんは、寺に戻ってきた。
まだ本調子ではないけれど、自宅療養が許されるくらいには回復していた。
そして、ちょうどその頃、寺には、急な弔いの依頼が舞い込んだ。
長年一人暮らしをしていた檀家の老人が、静かに亡くなった。
身寄りは少なく、参列するのは、遠方から駆けつけた娘さん一家、五人だけ。
ささやかな法要になるはずだった。
「――慈念、お前が読め」
円海さんが、療養中の体で、そう言った。
「……で、でも、大恩寺さんが……」
「……大恩寺どのにも、見ていただけばよい。……お前の、今の実力を」
大恩寺さんは、本堂の隅で、腕を組んで立っていた。この様子を、審査の一環として見届けるつもりらしい。
慈念さんは、経本を開いた。
深く、息を吸う。
「――かっ、観自在っ……菩薩ぅ……」
――やっぱり、裏返った。基本の練習は、まだ完璧じゃない。
でも、その先の一節、一節に、慈念さんなりの、抑揚が、ちゃんと乗っていた。
死んだ老人の、静かで穏やかだったという人柄。
娘さんが、涙をこらえながら語ってくれた、故人の思い出。
それを、慈念さんは、読経の間の取り方、声の強弱に、ちゃんと反映させていた。
型からは、少しはみ出している。でも、そこには、確かに、心があった。
娘さんの一人が、静かに、涙をこぼした。
「……なんだか……とても、優しい、お経ですね……」
大恩寺さんの眉が、ぴくりと動いた。
⭐︎大恩寺の過去
法要の後、大恩寺さんは、しばらく、本堂に一人で座っていた。
そこに、円海さんが、車椅子でゆっくりと近づいた。
「……大恩寺どの。……いかがであったか」
大恩寺さんは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……型を外れておった」
「……そうじゃな」
「……だが」
大恩寺さんは、珍しく、言葉に詰まった。
「……娘御が、泣いておられた。……型どおりに読んでおったら、あそこまでは、泣かれなんだであろう」
円海さんは、何も言わず、ただ、頷いた。
「……わしにも、若い頃があってな」
大恩寺さんが、ふと、独り言のように漏らした。
「……型を外れることが、恐ろしかった。……昔、一度、心のままに経を読んで、師匠にひどく叱られたことがある。……それ以来、わしは、型からはみ出ることを、自分に禁じてきた」
――円海さんは、静かに、その言葉を聞いていた。
大恩寺さんは、少しの間、目を閉じて、それから、また、いつもの厳しい顔に戻った。
「……とはいえ、正式な資格に足りぬことは、事実じゃ。規則は、規則」
「……もちろんじゃ」
「……ただ」
大恩寺さんは、ゆっくりと、円海さんの方を見た。
「……本山には、わしから、口添えいたそう。……もう三年、猶予を取り付ける。……その間に、型と心と、両方、身につけよ」
――三年。
生け垣の陰で聞いていた、あたしと麗華は、思わず顔を見合わせた。
「……三年、って……」
「……即決の合格ではありませんが……」
「……でも、時間ができたってことだよね!」
「ええ。……大きな一歩、ですわ」
慈念さんは、その場に、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます……!」
「礼を言われることではない。……そなたが、この三年で、本物になれるかどうか、それだけのことじゃ」
大恩寺さんは、そう言って、背を向けた。
⭐︎去り際の一言
大恩寺さんが、山門を出ていく前、ふと、足を止めた。
見送りに出ていた円海さんと慈念さんに、背を向けたまま、独り言のように、こう漏らした。
「……そういえば」
「……何か」
「……この寺の土地のこと、本山でも、ずっと以前から、話が出ておってな……」
――円海さんの顔が、わずかに、強張った。
「……大恩寺どの。それは……」
「……いや。……今は、まだ、言うべきときではない。……いずれ、な」
大恩寺さんは、それだけ言い残して、山門をくぐっていった。
その背中を見送りながら、慈念さんは、円海さんの顔を見た。
「……円海さん。今のは……」
「……わしにも、まだ、よくわからん」
円海さんは、そう言ったが、その目には、何か、思い当たる翳りがあった。
生け垣の陰で、あたしと麗華は、顔を見合わせた。
「……なんか、嫌な予感するんだけど」
「……ええ。……この墓場に関わることのような気がいたしますわ」
その夜、あたしは、なんとなく、桜庭家之墓を見上げた。
――もし、この土地が、どうにかなってしまったら。
ひいじいちゃんが建てた、この立派な我が家は。
トメばあちゃんの、あの表札は。
鬼塚さんの隣人付き合いは。麗華の豪邸は。清一さんの、あの空き地は。
――考えたくない想像が、頭の隅を、ちらりとよぎった。
でも、今は、まだ。
⭐︎墓場は今日も
翌朝。
「――かっ、観……自ざいっ……!!」
いつもの、裏返った声が、境内に響いた。
「「「「……チッ」」」」
墓地中の舌打ちが、夏の朝に響き渡る。
その舌打ちの中に、いつもより、ほんの少しだけ、優しさが混ざっている気がした。
慈念さんのお経は、相変わらず、基本の練習中は下手なままだった。
でも、もう誰も、それを、心の底からは笑わなかった。
「……小僧、今日も下手じゃのう」
源蔵じいちゃんが、いつもの調子でつぶやいた。
「……でも、あと三年で、本物になるんでしょ」
あたしが言うと、源蔵じいちゃんは、少しだけ笑った。
「……そうじゃな。……儂らも、見届けにゃならんのう」
円海さんは、縁側で、少し痩せた体を、日向に休めていた。
それでも、あの神声は、まだ健在だった。
墓石の上では、おはぎが、今日も、心の底からどうでもよさそうな顔で、大あくびをしていた。
――でも、その目は、ほんの少しだけ、山門の方を、見ている気がした。
墓場は今日も、成仏しない。
そして、この場所には、これから先も、続いていく時間があると――誰もが、まだ、そう信じていた。
(第十話 完)
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