「観察者は、何も忘れない。」(後半)
⭐︎シンクロ
「……あの猫、まだ、この寺にいるわけ、ないですよね」
保さんは、独り言のようにつぶやいて、少しだけ、寂しそうに笑った。
「……もう六十年以上前ですから。……猫の一生の、何回分だろうな」
――そのときだった。
とことこ、と、軽い足音がした。
賽銭箱の陰から現れたおはぎが、まっすぐに、縁側の下――ちょうど保さんの車椅子の足元、庭の隅の、古い平たい石の上に、すとんと座った。
誰に呼ばれるでもなく。
そこは、保さんが少年時代、いつも布団を敷いていた部屋の縁側の、真下だった。
「……………………」
おはぎは、心の底からどうでもよさそうな顔で、庭を眺めている。
保さんは、まだ、それに気づかない。遠い日の縁側を、懐かしそうに見上げていたから。
でも、あたしたちには、その場所の意味が、はっきりわかった。
「………………貞子さん」
麗華が、震える声で言った。
「……あの子、たった今……」
「……うん」
あたしは、頷くことしかできなかった。
保さんが、車椅子から、ふと膝の上に視線を落とした。
「……不思議なもんですね。……今日、この寺に来て、一番安心したのは、あの部屋の前を通ったときでした。……何も変わってないなあ、って」
保さんは、そう言って、また庭の隅を見た。
まさに、おはぎが座っている、その場所を。
「……おや。……あの頃の猫に、そっくりな子がいる。……同じ猫のはず、ないのにねえ。……歳を取ると、変なことを考えるようになりますな」
娘の真由美さんが、少し困ったように笑って、父の肩に手を置いた。
「……お父さん、そろそろ、ね」
「……ああ。……円海さん、長々とすみませんでした」
保さんは、車椅子の上で、深く頭を下げた。
「……お礼を、言いたかったんです。……あのとき、行くところのなかった子供に、居場所をくれて。……この寺の、あの猫のことも、含めて」
円海さんは、しばらく黙っていた。
それから、静かに頭を下げ返した。
「……たもっちゃん。師匠に代わって、礼を言う。……立派になったのう」
⭐︎落とし前
保さんと真由美さんが、山門の向こうに消えていくのを、墓地中の霊が、黙って見送った。
その静けさを、最初に破ったのは、清一さんだった。
「……わしも、覚えとる」
清一さんの声は、いつになく、静かだった。
「……勇を待って、山門を見とった夜。……何十年も、何十年も、一人で。……誰も来ん夜が続くとな、自分がここにおることすら、忘れそうになるんじゃ」
清一さんは、庭の隅の平たい石――おはぎが座っている場所を、じっと見つめた。
「……そんな夜にな、決まって、あの猫が、わしの隣に来おった。……何もせん。ただ、おるだけじゃ。……じゃが、それでよかったんじゃ。……それだけで、わしは、わしのままで、待っとれた」
――誰も、何も言えなかった。
源蔵じいちゃんは、鼻をすすっていた。鬼塚さんは、空を見上げていた。雷太さんは、見えないギターを弾く手を止めて、ただ、おはぎを見ていた。
「……おはぎ……あんた……」
あたしは、そっと、おはぎのそばに近づいた。
「……九十年も、百年も……誰にも特別扱いされないで、ずっと、みんなに、同じようにそばにいてくれてたの……?」
おはぎは、答えなかった。
――当たり前だ。猫だから。
でも、その目が、ほんの一瞬だけ、貞子をまっすぐに見た気がした。
「……エモい、ですわ……」
麗華が、日傘を握りしめて、目を潤ませていた。
「今度こそ、正しい使い方ですわね……」
「……ああ。正しいと思う」
――そして、感動が最高潮に達した、そのとき。
「――おはぎちゃん、こっちにおいで……!」
麗華が、両手を広げて、おはぎに抱きつこうとした。
おはぎは、ひらりと身をかわして、麗華の腕をすり抜けた。
「――ああっ!?」
麗華は、抱きしめるはずだった空気を抱いて、地面に転がった。
おはぎは、賽銭箱の上に飛び乗ると、心の底からどうでもよさそうな顔で、大あくびをした。
そして、丸くなって、目を閉じた。
「……………………」
「……………………」
墓地中に、微妙な沈黙が流れた。
「……せっかく、いい話じゃったのに……」
源蔵じいちゃんが、がっくりと肩を落とした。
「――ふ、ふふっ」
あたしは、思わず笑ってしまった。
「……いいじゃん。それが、おはぎだもん」
観察者は、感謝されても態度を変えない。
褒められても、態度を変えない。
誰にも、深入りしない。深入りしないことが、たぶん、この子なりの、公平な優しさなんだと思う。
多くの別れを、ずっと見送ってきたから。
だから、誰にも、特別にはなれない。誰にでも、少しだけ、優しい。
「……おはぎ。ありがとね」
あたしは、丸くなったおはぎの背中を、そっと撫でようとした。
手は、すり抜けた。
――でも、おはぎの尻尾が、一度だけ、ぱたん、と揺れた。
気のせいかもしれないけど。
⭐︎田村さんとこの、欄間
夕方。
山門まで見送りに出た円海さんと慈念さんのところに、もう一人、話し込んでいる人がいた。
近所に住む顔なじみの、植木屋の主人だ。世間話のついでに立ち寄ったらしい。
「――そういえば、円海さん。田村さんとこ、とうとう建て替えるそうですなあ」
「……ほう。あの古い母屋を」
「ええ。お孫さんが東京から帰ってきて、跡を継ぐとかで。……ただ、あの家の欄間、もったいないですなあ」
植木屋の主人が、しみじみと言った。
「……ずいぶん立派な、桜の透かし彫りでしたが。……あれは、桜庭のご主人の仕事でしたか」
「……源蔵さんの、ですかな」
円海さんが、少し考えるように言った。
「……昔から、腕のいい大工さんじゃったと聞いとりますよ。……あの欄間、真ん中の意匠だけ、少し筆致が違うと、田村さんの奥さんが言うておられましたな。途中で、誰かに引き継がれたんじゃないか、と」
――その言葉が、風に乗って、桜庭家之墓の縁側まで届いた。
「……欄間……」
あたしは、縁側で聞いていて、なんとなく振り返った。
源蔵じいちゃんが、いつもの縁側の定位置に座って、湯呑を持ったまま、固まっていた。
「……ひいじいちゃん?」
「……………………なんでもないわい」
源蔵じいちゃんは、湯呑を置いて、そのまま部屋の奥に引っ込んでいった。
その後ろ姿が、いつもより、ずいぶん小さく見えた。
墓石の上では、おはぎが、今日もどうでもよさそうな顔で、夕焼けを眺めていた。
――何かを、知っているのかもしれない。
でも、聞いても、たぶん答えてはくれない。
墓場は今日も、成仏しない。
そして、少しだけ、誰かの過去が、動き出そうとしていた。
(第七話 完)
最後までお読みいただきありがとうございました。
少しだけボリュームを抑えて書いてみました。
おはぎは何ものなんでしょうね。
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