「観察者は、何も忘れない。」(中盤)
⭐︎山門をくぐる、白髪の少年
翌週の、よく晴れた昼下がり。
砂利道に、ゆっくりとした足音が二つ。
一人は、車椅子を押す、五十代くらいの女の人。もう一人は、その車椅子に座った、真っ白な髪の、痩せたおじいさんだった。
「――お父さん、この寺で合ってる?」
「……ああ。ここじゃ。……変わっとらんのう。門の瓦も、あの松の木も」
車椅子のおじいさんは、山門を見上げて、目を細めた。
「……この寺には、特定の墓に用があるわけじゃないんですって?」
慈念さんが、二人を出迎えながら首をかしげている。
「はい。……住職さんに、会いに来ました。……いえ、住職さんというか」
おじいさんは、車椅子から、ゆっくりと本堂の方を見た。
「……この寺そのものに、会いに来たんです」
――円海さんが、玄関先まで小走りに出てきた。
「――もしや、赤峰さんの……」
「円海さんは、覚えてらっしゃいますか。……赤峰保です。八十七になりました」
円海さんの目が、大きく見開かれた。
「……保くん……! あの、たもっちゃんか……!」
「その呼び方、六十年ぶりに聞きましたな」
保さんは、しわだらけの顔を、くしゃっとほころばせた。
墓地中の霊が、そろそろとその様子を覗きに集まってきた。あたしも、桜庭家之墓の陰から、こっそり顔を出す。
「……あの人、誰?」
「……知らんのう。……いや、待て」
源蔵じいちゃんが、目を凝らした。
「……見たことある気がするのう。……ずっと昔に」
保さんの娘――真由美さんが、車椅子を押して、本堂の縁側まで進んだ。
「父が、どうしても、この寺に一度戻りたいって言って。……もう、遠方に住んでますし、この歳ですから、たぶん、これが最後の機会だと思って」
「……なんの用があるんでしょう、住職さんに」
慈念さんが、小声で円海さんに尋ねている。
円海さんは、目を細めて、保さんを見た。
「……たもっちゃんはな、この寺で、育った子なんじゃ」
――え。
墓地中の霊が、いっせいに顔を見合わせた。
⭐︎夜の隅っこ
縁側に腰かけた保さんは、お茶を一口飲んで、ゆっくりと話し始めた。
「……昭和二十二年です。戦争が終わって、二年目の冬でした」
保さんの声は、かすれていたけれど、はっきりと通った。
「……七つのとき、両親を、続けて亡くしましてね。……身寄りがなくて、当時のご住職――円海さんの、師匠にあたる方が、拾ってくださったんです」
円海さんが、静かに頷いた。
「……師匠から、よう聞いておった。戦後、身寄りのない子を、何人か育てたと」
「……その中の一人が、私です」
保さんは、庭の隅、東の角の金木犀の方を見た。
「……寺の暮らしは、厳しかった。掃除も、水汲みも、子供の仕事でした。それは、いい。それはよかったんです。……つらかったのは、夜でした」
――保さんの目が、少しだけ、遠くなった。
「……七つの子供が、夜、一人で寝るんです。両親の顔を、まだはっきり覚えている歳で。……布団の中で、声を殺して泣いていました。誰にも聞かれないように」
墓地の霊たちは、いつの間にか、みんな息を殺して聞いていた。
「……そんなとき、決まって、誰かが隣に来るんです」
「……誰かって……」
貞子は、思わず声に出しそうになって、口を押さえた。
「……猫でした」
――えっ。
「……名前も知らない、寺にいた猫です。撫でてくれと言うわけでもない。鳴くわけでもない。……ただ、布団のすぐ横に、丸くなって、座っているだけなんです」
保さんは、しわしわの手で、自分の膝を、そっと撫でた。
「……何もしてくれないんですよ、本当に。慰めてくれるわけでも、優しく鳴いてくれるわけでもない。……でもね」
保さんの声が、少しだけ震えた。
「……それだけで、生きていけたんです。……ああ、一人じゃないんだなって。……誰にも言えないことを、誰にも聞かれずに、でも、誰かがそばにいてくれる。……そういう夜が、何年も続きました」
――しん、と、墓地全体が静まり返っていた。
「……その猫、どんな猫だったんじゃ」
源蔵じいちゃんが、思わず、というように尋ねた。もちろん、保さんには聞こえない。
保さんは、答えるかのように、続けた。
「……左の前足だけ、白い靴下を履いたみたいな模様でしてね。……右の耳が、少し欠けていました。……あくびをする前に、必ず一度、こう、首をかしげる癖があって」
――あたしたちは、全員、同時に息を呑んだ。
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