「貞子と伽椰子。」②
三月三日、午前九時
「……貞子ちゃんや。ちょっと、西の端まで来てくれんかのう」
来た。
朝ごはんの後、清一さんが、桜庭家の縁側にひょっこり現れた。
いつものように、にこにこと。
「…………清一さん。あたし、行かない」
「おや、どうしてじゃ」
「足止めでしょ。知ってるんだから。西の端に行ったら、雷太さんがカウント出して、あたしは空に打ち上げられるんでしょ」
清一さんは、白いひげをなでながら、しばらく考えていた。
それから、ふっと顔をほころばせた。
「……貞子ちゃん。わしはな、貞子ちゃんに名前を返してもらった。
……そのわしが、貞子ちゃんを山門の向こうへ送り出すような真似を、すると思うかのう」
――あ。
「…………思わない……」
「じゃろう」
清一さんは、しわしわの手を差し出した。
「……来ておくれ。足止めじゃが、悪い足止めではないでのう」
――足止めは足止めなんだ。
でも、あたしは、その手を取った。
落ち葉より軽かった清一さんの手は、冬よりも少しだけ、しっかりしていた。
西の端へ向かう途中、墓地は、妙に静かだった。
鬼塚家之墓には、誰もいない。西園寺家之墓の応接間にも。
北の端の轟家之墓からも、見えないギターの音がしない。
墓地中の霊が、どこかに消えてしまったみたいだった。
――待ち伏せだ。
やっぱり待ち伏せだ。
清一さんの手を握る力が、思わず強くなる。
西の端の、無縁仏の手前。
合祀墓の隣に立つ白木の名札『片桐清一 之霊』の横を通り過ぎて、清一さんは、墓地の塊沿いの、ちょっとした空き地で足を止めた。
「…………さて」
清一さんが、山門の方を振り返る。
「……そろそろ、雷太のカウントが――」
――そのときだった。
「…………ア゛………………ア゛ア゛ア゛ア゛…………」
山門の方から、世にも恐ろしい音がした。
☆本物が出た
喉の奥から絞り出すような、濁った、震える音。
長く、長く、終わらない音。鼓膜ではなく、背骨で直接聞こえるような音。
山門の下に、一人の少女が立っていた。
黒いコート。黒い靴。腰まである黒髪。
そして――前髪が長すぎて、顔が全然見えない。
少女は、山門の敷居の手前で、両手に何かを抱えたまま、凍りついたように立ち尽くしている。
その喉から、あの音が漏れ続けていた。
「…………ア゛ア゛ア゛ア゛……」
――次の瞬間。
「で、出たぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
墓地中のあちこちから、道ならぬ悲鳴が上がった。
墓石の影から、生け垣の中から、待ち伏せしていた幽霊たちが、いっせいに飛び出してくる。
「本物じゃ!! 本物が出たぞ!!」
「押し入れから来るやつじゃないか!!」
「寺に押し入れはないぞ! ……いや、庫裡にはあるぞ!!」
「逃げろぉぉぉぉ!!!」
五十人の幽霊が、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
鬼塚さんは源蔵じいちゃんの後ろに隠れ、源蔵じいちゃんは鬼塚さんの後ろに隠れようとして、二人でその場をグルグル回っている。
西園寺家のご先祖様たちは墓の扉を閉めて鍵をかけた。
麗華は日傘を差したまま、優雅に気絶した。
「…………ごきげん……よう…………」
気絶しても挨拶はする。
ただ一人、雷太さんだけが、墓石の上に立って、長い前髪の奥の目を輝かせていた。
「…………すげえ…………この喉……仮声帯が鳴ってる…………教わってもないのに、天然のデスボイスだ…………!」
「雷太さん、感心してないで逃げないと!!」
「……いや、待て。あの子は生きてるぞ」
――生きてる?
あたしは、清一さんの手を握ったまま、山門の少女をじっと見た。
黒いコート。黒い靴。黒髪。前髪。
その前髪の隙間から、ほんの少しだけ、顔が見えた。
白くて、細くて、泣きぼくろ。くちびるの横に、小さなホクロ。
そして――前髪を留めている、小さなヘアピン。
赤いラインストーンの、星の形。
――中学の修学旅行で、二個セットで買ったやつ。
あたしがピンクで、あの子が赤。
「おそろいとかダサい」って言いながら、二人で少しずつお金を出して買ったやつ。
あたしのピンクの方は、蒼太が踏んで壊した。
秋のお彼岸に、蒼太が色違いのを小遣いで買ってきてくれた。
赤い方は――
「………………………………………………………カヤ?」
声が、かすれた。
清一さんの手が、あたしの手の中から、そっと抜けた。
「……行っておいで。これは、わしらの計画にはないことじゃ。……じゃが、わしらの計画より、ずっと大事なことじゃ」
――走った。
西の端から、山門まで。墓地の砂利道を、全力で。
逃げ惑う幽霊たちの間をすり抜けて、グルグル回っている源蔵じいちゃんと鬼塚さんの間を突っ切って、気絶している麗華を飛び越えて。
「――カヤっ!!!」
叫んだ。
墓地中に響くくらいの声で。
――山門の下の少女が、びくっと肩を震わせた。
喉の音が、止まった。
少女は、きょろきょろと周りを見回して、それから、小さく身震いした。
「………………今日……寒い………………なんか……いっぱいいる気がする……」
――当たり。いっぱいいる。五十人くらい。みんなあなたを怖がって逃げてるけど。
「…………この子、わしらがわかるんか……?」
源蔵じいちゃんが、鬼塚さんの後ろから顔だけ出して、おそるおそる言った。
「…………ちょっとだけ、見えないものがわかる子なの。小さい頃から。……だから、すぐ喉が鳴るようになっちゃったんだよね。怖いときとか、緊張したときとか……」
あたしは、山門の手前で足を止めて、すぐ目の前の親友を見上げた。
――前髪、また伸びた。
「…………月島伽椰子。あたしの、親友」
後ろで、幽霊たちのどよめきが、少しずつ収まっていく。
「……親友……?」
「……貞子さんの……?」
気絶から復活した麗華が、よろよろと起き上がる。
「…………そ、それにしては……貞子さんより、ずっと、その……貞子さんっぽいというか……」
「麗華、言いたいことはわかる。でも言わないで」
あたしの名前の「貞子」と、あの子の名前の「伽椰子」
どっちも、日本で一番有名な、黒髪の幽霊と同じ名前。
そして、きらきらして浮きまくってたあたしと違って、カヤは、……正直、見た目が、だいぶそっち寄りだった。
でも、あたしは知っている。
あの長い前髪の奥にあるのは、世界で一番、怖がりで、泣き虫で、やさしい目だってことを。
伽椰子は、抱えていたものを、そっと抱き直した。
小さなケーキの箱。そして、ピンク色のラナンキュラスの花束。
あたしの好きな、色。
「…………………………………………………………よし」
伽椰子は、小さくつぶやいて、山門の敷居を、またいだ。
――一年半ぶりに。
☆一年半遅れの待ち合わせ
伽椰子は、迷わずに砂利道を歩いた。
桜庭家之墓の場所。一度も来たことがないはずなのに。
「…………おばさんに、地図書いてもらった……」
伽椰子は、コートのポケットから、手書きのメモを取り出していた。
見覚えのある字。ママの字だ。
――ママに、会いに行ったんだ。
あたしは、伽椰子の隣を歩きながら、ずっとその横顔を見ていた。
後ろからは、源蔵じいちゃんと鬼塚さんと麗華と雷太さんと清一さんが、待ち伏せの計画を全部放り出して、抑え足でついてきている。その後ろには、興味津々の墓地中の幽霊たち。
「……貞子の親友じゃとよ……」
「……貞子と全然似とらんのう……」
「……やっぱり押し入れから来たんじゃないか……」
「…………ア゛ア゛……」
「「「ひぃいいい!!」」」
伽椰子が喉を鳴らすたびに、後ろの行列が波のようにびくっと後ずさる。
幽霊が、生きた人間を尾行しながら怖がっている。
世にも不思議な光景だった。
桜庭家之墓の前。
伽椰子は、足を止めて、墓石を見上げた。
長い間。
それから、ゆっくりと、しゃがみ込んだ。
手桶の水で墓石を洗う。ピンクのラナンキュラスを生ける。
手つきは不器用で、花の向きがとっちらかっていた。
――カヤ、相変わらず、手先は不器用だな。
家庭科の試験で、雑巾を縫っていたのに、いつの間にか自分のスカートと一緒に縫ってしまっていた子だ。
あたしは隣の席で、笑いすぎて先生に怒られた。
それから、伽椰子はケーキの箱を開けた。
出てきたのは、手のひらくらいの、小さないちごのショートケーキだった。
駅前の『パティスリー・アンジュ』のやつ。
あたしたちが、テストが終わるたびに、二人で一個を半分こして食べていたやつ。
その上に、数字の形のロウソクが、二本。
『1』と『7』。
伽椰子は、ポケットからライターを出して、震える手で火をつけようとした。
三月の風が吹いて、火は、すぐに消えた。
「…………あっ……」
もう一度。消える。もう一度。消える。
――だれか。
あたしは、思わず振り返った。
後ろでは、麗華が、もう日傘を閉じて、完璧な姿勢で風上に立っていた。
その隣に源蔵じいちゃん。鬼塚さん。雷太さん。清一さん。
その後ろに、墓地中の幽霊たちが、肩を寄せ合って並んでいた。
風よけだ。
五十人の幽霊の、壁。
幽霊は風を止められない。止められないはずなのに。
――かちっ。
ロウソクに、小さな火が、たった。
揺れなかった。
「…………………………………ついた……」
伽椰子は、不思議そうにその火を見つめていた。
それから、前髪の隙間から、周りを見回した。
五十人の幽霊が立っている、まさにその方向を。
「………………………………………ありがとうございます……」
小さな声で、でもはっきりと。
五十人の幽霊が、いっせいに、照れたように顔を見合わせた。
――やっぱり、カヤはカヤだ。
見えないものにも、ちゃんとお礼を言う子だ。
伽椰子は、火のついたケーキを墓前に置いて、手を合わせた。
そして――小さな声で、歌い始めた。
「…………ハッピーバースデー……トゥーユー……」
――喉が、鳴っていた。
「……ハッピーバースデー……トゥー……ア゛……ユー……」
濁って、震えて、歌になっていない歌。でも、幽霊たちは、もう誰も逃げなかった。
「……ハッピーバースデー……ディア………………………………」
そこで、歌が止まった。
伽椰子の喉が、小さく、何度も上下していた。
「………………サ……………………………」
出てこない。
たった二文字の、あだ名が。
「……………………………………………………………………………………………………………………サダ………………………………………………………………………………………………………」
伽椰子は、墓石の前で、額を地面につけるようにして、うずくまった。
「…………来るの、遅くなって、ごめん………………………………………………………………………………………」
――なんで、謝るの。
あたしは、伽椰子の隣にしゃがみ込んだ。
遅くなったのは、あたしの方じゃん。
あの朝、遅刻したのは、あたしの方じゃん。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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