「名前のない人。」(後半)
⭐︎蒼太
午後三時半。
砂利道に、自転車を押す音がした。
「……よう、姉ちゃん」
蒼太は、学校のジャージの上にダウンを羽織って、鼻を赤くしていた。
コンビニの袋からいちごミルクを出して、ストローを刺して、墓前に置く。ママの真似だ。
「……期末、数学赤点だった。……姉ちゃんも数学だめだったよな。遺伝だな。これはもう遺伝。俺のせいじゃない」
――いや、勉強しなよ。
あたしは、墓石の上に腰かけて、それを聞いていた。体はまだ少し透けている。
朝からトメばあちゃんに「今日は一歩も動かないこと」と言い渡されていた。
蒼太は、十分くらいぶつぶつ話して、それからいつものように立ち上がった。
「……じゃあな。また来る」
自転車を押して、砂利道を西へ。
西の端の、無縁仏の前へ。
あたしは、気づけば立ち上がっていた。トメばあちゃんの約束を破って、蒼太の後ろを追いかけた。
源蔵じいちゃんも、鬼塚さんも、麗華も、雷太さんも、息を殺してついてくる。幽霊なのに。
蒼太の足が、無縁仏の前で――
――止まった。
「…………ん?」
蒼太は、地面を見下ろしていた。
霜の後の、湿った土の上に。小石に押さえられた、十三枚の落ち葉。
『カタギリ』
「…………カタギリ?」
蒼太は、しゃがみ込んで、落ち葉の文字をじっと見つめた。それから、きょろきょろと周りを見回す。誰もいない。冬の夕方の墓地に、生きてる人は蒼太しかいない。
「…………誰かのいたずら…………にしては……」
蒼太は、落ち葉の『ギ』を指さした。
「……濁点の打ち方、姉ちゃんと同じだ……」
――えっ。
「姉ちゃん、濁点だけいつも斜めに書くんだ。テストで、それでよくバツにされてた……」
蒼太の声が、少しだけ震えた。
「…………姉ちゃん?」
あたしは、蒼太のすぐ後ろで、口を押さえて立っていた。
――濁点。そんなところ、見てたんだ。
生意気なくせに。姉ちゃんのテストなんて、興味ないって顔してたくせに。
蒼太は、しばらく落ち葉の前でしゃがんでいた。
それから、スマホを出して、落ち葉の写真を撮った。
立ち上がって、自転車を置いて、本堂の方へ走っていく。
「――慈念さん! ちょっといいですか!」
――届いた。
あたしは、その場に座り込んだ。麗華が黙って肩を抱いてくれて、鬼塚さんが「……やるじゃねえか」とだけ言って、そっぽを向いた。
⭐︎過去帳
それからの三日間、寺の庫裡は、ほこりだらけだった。
「……片桐、片桐……明治、大正……この辺の過去帳は、師匠の字が読めんのじゃ……」
円海さんが、老眼鏡をかけて、毛筆書きの分厚い帳面をめくっている。
声はもうすっかり戻っていた。
慈念さんは平成の台帳を、蒼太は慈念さんのスマホで、昔の地図と『片桐醤油』を調べている。
「……慈念さん、この無縁仏って、昔からあるんですか」
「……合祀墓は、平成のはじめに建てたって聞いたよ。墓じまいとか、誰も見る人がいなくなったお墓の、お骨をお預かりするところ……」
あたしたちは、庫裡の梁に並んで座って、それを見下ろしていた。
ナナシさんは来なかった。
「わしは、ここで待っとる」と言って、無縁仏の影から出てこなかった。
三日目の夕方。
「――あった」
慈念さんが、平成六年の台帳を指さした。
『片桐家 改葬(墓所返還) 遺骨五体 当寺合祀墓へ』
その下に、引き取られた骨の名前が五つ。
明治、大正、昭和。そして最後の一行。
『片桐清一 昭和四十三年三月十二日歿 行年六十七歳』
「…………片桐……清一……」
蒼太が、小さく読み上げた。
そのとき、過去帳のその頁から、一通の封筒が滑り落ちた。黄ばんだ、赤と青の縁取りのある、海外の航空便。
円海さんが、息を呑んだ。
「…………これは……師匠が、挟んでおいたんじゃな……」
封筒の裏には、ひどく力強い字で、こう書いてあった。
『片桐清一様 ―― 平成十年秋 当寺にて預かる。引き取り手なし。』
⭐︎五十メートル
その手紙は、無縁仏の合祀墓の前で読まれた。
円海さんと、慈念さんと、蒼太。
生きてる人が三人。その周りを、墓地中の霊が黙って囲んでいた。
その真ん中で、ナナシさんが、合祀墓に背中を預けて座っていた。
蒼太が、手紙を開く。声が、少しだけ裏返った。
「――『父さんへ。
勇です。四十年もかかってしまいました。
約束どおり迎えに来たら、片桐のお墓がなくなっていました。
住職さんもお留守で、父さんがどこに行ったのかわかりません。
お墓があった場所で、手を合わせました。
ブラジルでは、コーヒー農園をやっています。
孫が三人います。
父さんの醤油の味が忘れられず、自分で作ってみましたが、うまくいきません。
あっちの豆は、甘すぎる。
……父さん、ごめん。遅くなってごめん。
またいつか、必ず来ます。
勇』」
……………………………。
しん、と冬の風が止まった。
「…………慈念さん。この勇って人……」
蒼太が、さっきまで慈念さんのスマホで調べていた画面を見せた。
ブラジルの日系人向けの新聞の、古い記事。
小さなお悔やみ欄。
『片桐勇さん(七十二歳) 二〇一一年五月 サンパウロ州にて永眠。一九五八年移住。』
――来ていた。
息子は、約束を守っていた。四十年かかっても。
そして、もう二度と、来ない。
あたしは、ナナシさんの前にしゃがみ込んだ。
このために、十日間頑張ったんだ。落ち葉十三枚分の、たった一言のために。
「――清一さん」
呼んだ。
ナナシさんの肩が、びくりと震えた。
「片桐清一さん。……清一さん」
もう一度。もう一度。
ナナシさんの、白く濁った目に、少しずつ、少しずつ、色が戻ってくる。
「…………せい、いち……」
ナナシさんの唇が、その名前をなぞった。
「……清一……。ああ……そうじゃ。清一じゃ。……樽の匂いのする家で、毎朝、女房が『清一さん、朝ごはん』って呼んとった……」
声が、震えていた。
「……勇は、十九じゃった。醤油蔵を継ぐのは嫌じゃ、もっと広いところで生きてみたい、と言うてな。大喧嘩して……それでも、港には見送りに行った。紙テープを握ってのう。……あの子は、甲板から大声で叫んだ。『とうちゃん、必ず迎えに来るけんのう!』とな……」
ナナシさん――
清一さんは、語りながら、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先に、山門があった。
そして、その手前の、何もない小さな空き地。
今は水道の蛇口がひとつ立っているだけの、砂利の区画。無縁仏の影から、ほんの五十メートル。
「…………あそこに、のう、片桐の墓があったんじゃ」
清一さんは、衰えた指で、その空き地を指さした。
「…………平成十年の秋…………」
そして、清一さんの顔から、すっと血の気が引いた。
「………………覚えとる。…………覚えとるぞ……」
「……清一さん?」
「……秋の夕方じゃった。白髪の、日に焼けた男が、山門から入ってきた。
……あの空き地の前で、長いこと立ち尽くしとった。それから、手を合わせて、帰っていった……」
清一さんの指が、震えた。
「……わしは、ここで、それを見とった。山門を……勇を待って、毎日、毎日、山門を見とったから…………見とったんじゃ……」
――やめて。
その先を、聞きたくなかった。
「……わからんかったんじゃ。……わしの知っとる勇は、十九の小僧じゃったけ。……あの時の勇は、五十九じゃ。白髪の、じじいじゃ。……わしは、ひとことも、声を…………」
清一さんの声が、途切れた。
五十メートル。
たった五十メートル先で、息子が自分を呼んでいたのに。
四十年待って、ようやく来てくれたのに。清一さんはその後ろ姿を、ただ黙って見送った。
だって、その時にはもう、自分の名前も、息子の顔も、薄くなり始めていたから。
――墓がなくなって、四年目の秋。
「………………………………」
誰も、何も言えなかった。
源蔵じいちゃんは殴る相手を失った拳を握りしめていて、鬼塚さんは空を見上げていて、麗華は日傘で顔を隠していて、雷太さんは、見えないギターを弾く手を止めていた。
あたしは、清一さんの手を握った。
清一さんの手は、落ち葉よりも軽かった。
⭐︎名前のある人
数日後。
無縁仏の合祀墓の隣に、小さな白木の名札が立った。
『片桐清一 之霊』
円海さんが自ら筆を取った字だった。
その前で、円海さんと慈念さんが、二人でお経をあげた。
円海さんの節の上に、慈念さんの節が、少しだけ遠慮がちに重なっていた。
胃もたれはしなかった。
ゾクゾクもしなかった。
ただ、静かなお経だった。
蒼太が、小さな花束を供えた。
それから、コンビニの袋から、小さな醤油の瓶を出して、花の横に置いた。
「……この辺の醤油、もうこれしか売ってなかったけど」
無縁仏に花が供えられたのは、何十年ぶりなのだろう。
清一さんは、その醤油の瓶を、長いこと見つめていた。
「…………薄いのう。味が。……気持ちは、濃いがのう」
そう言って、笑った。
――帰り際、蒼太は桜庭家の墓の前にもう一度寄って、墓石に手を当てた。
「…………姉ちゃんだろ。あれ」
小さな声だった。
「……濁点、曲がってたもん。…………やるじゃん、姉ちゃん」
――うん。
頑張ったよ。落ち葉十三枚。十日間。
あたしは、蒼太の頭を、すり抜ける手でくしゃくしゃに撫でた。
――その夜。
「……清一さん。これで、もう名前、消えないよね」
あたしは、白木の名札の前で、清一さんと並んで座っていた。
「……おかげさまでのう。貞子ちゃんのおかげじゃ」
清一さんは、白いひげをなでながら、名札を見上げた。その輪郭は、十日前より、ずっとはっきりしていた。
「……清一さんは、これから、どうするの?」
あたしは、ずっと聞きたかったことを聞いた。
勇さんは、もういない。待ち人は、もう来ない。
名前も思い出した。だったら――
清一さんは、しばらく黙っていた。
それから、ほっほっ、と、いつものように笑った。
「……勇はのう、『またいつか、必ず来ます』と書いとる」
「…………でも、勇さんは……」
「わかっとる」
清一さんは、あたしの言葉を、やさしく遮った。
「わかっとるよ。……じゃがな、あの子は、約束を守る子じゃった。
四十年かかっても、守った子じゃ。
……だったらのう、わしが待つのをやめてしまったら、あの子の約束は、どこへ行くんじゃ」
――言葉が、出なかった。
「……それにのう。待つのをやめたら、わしには、何も残らんのじゃよ」
清一さんは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、いつものように――いや、いつもより少しだけしっかりした足どりで――五十メートル先の空き地まで歩いていって、水道の蛇口の横に立った。
山門の方を向いて。
あたしは、追いかけなかった。追いかけられなかった。
落ち葉なら、十三枚でも動かせた。
でも、あの人の待ち人を、山門の向こうから連れてくることは、あたしには、できない。
十日頑張っても。百年頑張っても。
――それから毎晩。
夕暮れになると、清一さんは、あの空き地に立つ。
そしてあたしは、毎晩、その背中に声をかける。
「――清一さん」
「……おう」
それだけ。
それだけしか、できない。
でも、それだけは、やめない。
呼ばれる名前があるうちは、あの人は、あの人のままで待っていられるから。
冬の月が、山門と、空き地と、小さな背中を、白く照らしていた。
墓場は今日も、成仏しない。
――できない人も、いる。
(第五話 完)
最後までお読みいただきありがとうございました。
少しやりきれない感じのストーリーを意識しました。
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