「名前のない人。」(中盤)
⭐︎記憶のかけら
「――というわけで、第二回墓場総会です。今度は真面目にやります!」
翌日。あたしは、西園寺家之墓の前で、議長席に立っていた。
麗華は「貞子さんの本気とあらば」と席を譲ってくれた。
魚卵は出ない。
出ないと言ったら、集まったのはいつもの顔ぶれだけだった。
源蔵じいちゃん、鬼塚さん、麗華、雷太さん。
それと、ナナシさん本人。
「……わしのために、すまんのう」
「いいの! あたしがやりたいんだから」
あたしは、落ち葉のホワイトボードの前で腕まくりをした。袖はないけど。
「ナナシさん。名前は思い出せなくても、何か覚えてること、ない? どんな小さいことでもいいから」
ナナシさんは、しばらく目を閉じていた。
「……匂いじゃのう」
「匂い?」
「朝、目を覚ますとな、いつも、樽の匂いがしとった。……甘いような、しょっぱいような……黒い、深い匂いじゃ」
あたしは、落ち葉で『樽』と書いた。漢字が難しくて、麗華に手伝ってもらった。
「……それから、水の音じゃ。川が近くにあった。……それから――」
ナナシさんの声が、少しだけ揺れた。
「……船の……汽笛じゃ。たくさんの人が、手を振っとった。紙テープが、ようけ、風に飛んでのう……」
しん、と場が静まる。
「……誰かを、見送ったの?」
「……わからん。わからんが……小さい子の声がする。『とうちゃん』とな。……いや、小さくはなかったかもしれん……」
ナナシさんは、そこで言葉を切って、小さく鼻歌を歌い始めた。
ゆったりした、明るいのに、どこか寂しい節。
「…………待て」
雷太さんが、突然顔を上げた。
「……ヨナ抜きだ。ドレミソラ。四番目と七番目を抖いた音階。戦後すぐの流行歌によくある形だ。しかもこの節回し、行進曲のリズムを落としてある。……港の見送りで、楽隊が吹くような曲だ」
「雷太さん、それで何年頃かわかるの!?」
「……昭和三十年前後、だな。音に嘘はない」
……かっこいい。この人、音楽のことになると全部かっこいい。
「……樽の匂いで、川沿いだろ」
鬼塚さんが、腕を組んで唸った。
「黒い、深い、甘いようなしょっぱいような匂い。……そりゃ、醤油だ。……俺が走ってた頃、川沿いの国道に、でっけえ木の蔵があった。夜中でも匂いでわかんだよ。……たしか、剥げかけた看板があってな。『片……醤油』……だったかな」
「――片桐じゃ!!」
突然、しわがれた声が響いた。
誰かと思ったら、西園寺家之墓から、紋付きの老紳士が身を乗り出していた。
麗華の高祖父さまだ。明治生まれ。
「西園寺家の台所の醤油は、明治の頃からずっと、川沿いの片桐醤油じゃった! あすこの醤油で炊いた鰈の煮物は、それはそれは……」
「高祖父様、煮物の話は後でお願いしますわ」
――片桐。
あたしは、落ち葉でその二文字を書いて、ナナシさんの顔を見た。
ナナシさんは、その文字をじっと見つめていた。長い間。
「…………わからんのう」
やがて、ナナシさんは、申し訳なさそうに首を振った。
「聞いたことがあるような、ないような……。すまんのう、皆。こんなにしてもらっとるのに」
「……匂いと川と、樽と船。それと、片桐……」
あたしは、ホワイトボードを走る落ち葉の文字を、指でなぞった。
手がかりは、そろってきている。
でも、確かめようがない。
川沿いの醤油蔵は、山門の外にある。
墓場の霊は、山門より外には出られない。誰かに、外で調べてもらわなきゃいけない。
生きてる人に。
「…………蒼太だ」
あたしは、顔を上げた。
秋のお彼岸から、蒼太は毎月の月命日に、一人でお墓参りに来るようになった。
学校帰りに自転車でやってきて、いちごミルクを供えて、十分くらい墓の前でぶつぶつ学校の話をして帰っていく。
誰にも言わずに。たぶん、ママにも。
そして、帰り道にはいつも、西の端の無縁仏の前を通る。
次の月命日は、十日後だった。
⭐︎落ち葉一枚分の重さ
「――ふんっ……ぬっ……!!」
深夜の無縁仏の前。
あたしは、一枚の落ち葉に向かって、全身の力を込めていた。
霊が生きたものに触れるのは、落ち葉一枚が限界。
雷太さんはそう言っていた。
麗華は面白いくらい上手に落ち葉を動かすし、秋にはあたしも鬼塚さんの墓の前に紅葉を敷いた。
だからできると思っていた。
でも、「文字を書く」のは、全然違った。
『カタギリ』。ひらがなより形が単純だから、カタカナにした。それでも、カで二枚、タで三枚、ギで四枚と濁点に二枚、リで二枚。合計十三枚。一枚ひとつ、正確な角度で、正確な場所に。
――ずるっ。
一枚目が、ようやく、一センチ動いた。
「……はぁ、はぁ…………あと、十二枚と、九十九センチ……」
手のひらを見ると、うっすらと向こう側が透けていた。
「……貞子さん、少しお休みになっては……」
見守っていた麗華が、心配そうに声をかけてくる。
「……だいじょうぶ。あたし、こういうの、得意だから。ネイルのストーン、ピンセットで一個ずつ乗せてたんだから……」
強がりだった。ネイルのストーンは、落ち葉の百倍軽い。
――一日目。
夜明けまでかかって、『カ』ができた。満足して眠った。幽霊も、待ちくたびれると眠る。
朝、見に行ったら、風で全部飛んでいた。
――二日目。
『カ』と『タ』ができた。風対策に、小石を載せた。小石は落ち葉の三倍重かった。その分、体が透けた。
朝、慈念さんが竹ぼうきで七秒で片付けた。
「慈念さんっっっ!!」
慈念さんは何も悪くない。むしろ最近は、お経の基本練習と同じくらい、掃除にも気合いが入っている。それが余計に腹立つ。
――三日目。
「…………しょうがねえな」
鬼塚さんが、ポケットに手を突っ込んでやってきた。
「手、貸してやんよ。……俺は文字なら得意だぞ。特攻服に刺繍する文字、一番多く考えたのは俺だ」
そして鬼塚さんは、一晩かけて落ち葉で巨大な文字を作り上げた。
『夜露死苦』
「…………鬼塚さん、これ、誰への伝言?」
「……気持ちは伝わるだろ」
「伝わるけど、伝えたいのそれじゃない!!」
源蔵じいちゃんも手伝おうとしてくれた。
元大工の腕力で、小枝を使って地面に直接彫ろうとした。
気合いが入りすぎて、彫ったのは無縁仏の区画いっぱいの巨大な『カ』の一画目だけだった。
上から見ないとわからない。ナスカの地上絵みたいに。
「………………やっぱり、あたしがやる」
あたしは、また一枚目の落ち葉に向かった。
「……だって、これは、あたしが始めたことだから」
――四日目。雨。全部流れた。
――五日目。七割できたところで、おはぎが上で丸くなって寝た。
暖かいらしい。心の底からどうでもよさそうな顔で。朝になっておはぎが伸びをしたら、落ち葉は全部おはぎの毛にくっついて、どこかに行った。
「………………………………………………………」
――六日目。
あたしは、一枚も動かせなかった。
手を伸ばしても、落ち葉が手のひらをすり抜ける。
何度やっても。手のひらの向こうに、地面の小石がはっきり見える。
腕も、足も、夜の空気に溶けかけた水彩みたいになっていた。
「…………さだちゃん」
トメばあちゃんが、いつの間にか後ろに立っていた。いつもの笑顔じゃなかった。
「……もう、おやめなさい。薄くなりすぎた霊はね、もう戻れなくなることがあるのよ。
成仏じゃなくて。……ただ、消えてしまうの」
――消える。
言葉の意味が、ゆっくりと胸に落ちてくる。
「…………でも、ひいばあちゃん」
あたしは、透けた自分の手のひらを見つめた。
「ナナシさんは、もう何十年も、少しずつ消えてるんでしょ」
トメばあちゃんは、何も言わなかった。
「あたしは、一晩休めば戻る。
でも、ナナシさんの名前は、休んでも戻らない。
……だから、今日はもう寝る。でも、明日もやる」
トメばあちゃんは、長いことあたしの顔を見ていた。それから、小さくため息をついて
――しわしわの手で、あたしの透けた頭を撫でた。
「……誰に似たのかしらねえ、この子は」
――七日目。八日目。九日目。
あたしは、夜だけ、少しずつ、落ち葉を動かした。
一晩に三枚まで。それ以上は、トメばあちゃんとの約束でやらない。
昼間は、慈念さんの竹ぼうきから守るために、源蔵じいちゃんと鬼塚さんが、落ち葉の上に仁王立ちしてくれた。
見えないので、守れないけど。
でも慈念さんは、なぜかその一角だけ、「なんか寒気が……」と言って掃かずに通り過ぎてくれた。
麗華は、風向きを読んでくれた。「今夜は北風ですわ」
雷太さんは、落ち葉を動かす力の入れ方を、ギターのピッキングにたとえて教えてくれた。
「力むな。手首の力を抜け」
ちょっとだけ、楽になった。
ナナシさんは、毎晩、無縁仏の影から、黙ってあたしを見ていた。
――十日目の夜明け。
無縁仏の合祀墓の前の、霜の降りた地面に。
十三枚の落ち葉が、小石に押さえられて、並んでいた。
『カタギリ』
「………………で、きた……」
あたしは、その場にへたり込んだ。手も足も、朝の光に向こうが透けていた。
でも、できた。
「……………………貞子ちゃん」
顔を上げると、ナナシさんが、あたしの前にしゃがみ込んでいた。
しわしわの顔が、くしゃくしゃになっていた。
「…………貞子ちゃんは、貞子ちゃんじゃのう……」
この人に、はじめて名前を呼ばれた気がした。
その日の午後が、月命日だった。
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