「名前を呼ばれて、行く人」【中盤】
☆地球の裏から
慈念さんは、ジョアンさんを、西の端の合祀墓へ案内した。
その後ろを、墓場中の霊が、ぞろぞろとついていった。
「……ボ、ボンジーア!」
鬼塚さんが、ジョアンさんの横で、なぜか胸を張った。
「鬼塚さん、それ、どこで覚えたの」
「昔、族の後輩に、ブラジル帰りの奴がいたんだよ」
「ごきげんよう、ジョアン様。西園寺麗華と申しますわ」
麗華が、日傘を閉じて、完璧なお辞儀をした。
「……オブリガード、っす」
ハヤトさんが、ポケットに手を入れたまま、ぼそっと言った。
「ハヤトさん、それ、ありがとうって意味だよ。まだ何もしてもらってない」
「……地球の裏から来たんじゃろ」
源蔵じいちゃんが、腕を組んで、ジョアンさんの足元をじろじろ見た。
「……逆さまに立っとるわけじゃないんじゃな」
「ひいじいちゃん、それは、ない」
ごまが、ジョアンさんのリュックに鼻を押しつけて、くんくんと嗅ぎ回っていた。
「……コーヒーの匂いがするって、ごまが申しております」
「ふみ先生、ごまの通訳できるの!?」
――合祀墓の前で、慈念さんが、白木の名札を指さした。
『片桐清一 之霊』
ジョアンさんは、その名札の前で、しばらく、立ち尽くしていた。
それから、リュックを下ろして、膝をついた。
「…………ひいおじいちゃん」
日本語の発音が、少しだけ、ぎこちなかった。
「……やっと、見つけた」
☆もう、五十メートル
ジョアンさんは、リュックの中から、二つのものを取り出した。
一つは、表紙がぼろぼろになった、古い大学ノート。
もう一つは、手書きのラベルが貼られた、小さなガラスの瓶。
『SHOYU KATAGIRI Brasil』
「……おじいちゃんの、勇の、ノートです」
ジョアンさんは、ノートを胸に抱えて、慈念さんを見上げた。
「おじいちゃん、二〇一一年に、死にました。……死ぬ前に、僕に、これをくれました。『いつか、日本に行って、父さんに会ってきてくれ』って」
慈念さんが、ゆっくりと、うなずいた。
「……僕、四番目の孫です。生まれたのは、一九九九年。おじいちゃんが、日本から帰ってきた、次の年です」
ジョアンさんは、少しだけ、照れたように笑った。
「おじいちゃん、僕に、『清一』って名前をつけました。……毎日、名前を呼ぶたびに、おじいちゃん、少しだけ、寂しそうに笑ってました」
――西の端の、清一さんの肩が、震えた。
ジョアンさんは、ノートを開いた。
ページの間に、何枚もの紙が挟まっていた。
醤油の作り方。大豆の分量。塩の量。何度も書いては消した跡。
「……おじいちゃん、ひいおじいちゃんの醤油の味、ずっと、作ろうとしてました。でも、できなかった。『あっちの豆は、甘すぎる』って」
――四年前、合祀墓の前で読まれた、勇さんの手紙と、同じ言葉だった。
「だから、僕が、続けました。……ブラジルで、小さな醤油の工場、やってます」
ジョアンさんは、ガラスの瓶を、名札の前に、そっと置いた。
「……ひいおじいちゃん。これ、まだ、ブラジルの豆の味です。……でも、おじいちゃんのノートの、一番最後のやり方で、作りました」
――清一さんが、名札の前に、しゃがみこんだ。
瓶の蓋に、そっと、顔を近づける。
「…………」
長い、長い、沈黙のあと。
清一さんは、目を閉じたまま、言った。
「……甘い豆じゃのう」
声が、震えていた。
「……じゃが。……樽の、匂いがする。……うちの蔵の、匂いじゃ」
清一さんの目から、涙が、ぽろぽろと、こぼれ落ちた。
「……勇の奴。……継ぐのは嫌じゃと、言うとったくせに」
ジョアンさんは、ノートの、最後のほうのページを開いた。
「……ここ、読んでもいいですか。……おじいちゃんが、日本から帰ってきた日の」
慈念さんが、静かにうなずいた。
ジョアンさんは、ゆっくりと、たどたどしい日本語で、読み上げた。
「――『一九九八年、十月。父さんの墓は、なかった。墓の跡で、手を合わせた。少し先に、無縁仏の区画が見えた。まさか、と思った。父さんが、あんなところにいるはずがない、と思った』」
――あたしは、息を止めた。
「『あのとき、あと五十メートル、歩けばよかった。……それだけが、死ぬまで、悔しい』」
――五十メートル。
四年前、清一さんが、震えながら言った言葉。
『わしは、ここで、それを見とった。……ひとことも、声を……』
――同じだったんだ。
父は、五十メートル先の息子に、気づけなかった。
息子は、五十メートル先の父に、気づけなかった。
二人とも、同じ五十メートルを、死ぬまで、悔やんでいたんだ。
「……おじいちゃん、最後まで、それ、言ってました」
ジョアンさんは、ノートを閉じた。
慈念さんが、口を開いた。
「……ジョアンさん。勇さんが残していったお手紙は、四年前、ここで、読まれました」
ジョアンさんが、顔を上げた。
「この名札の前で。……ちゃんと、届きました」
ジョアンさんは、しばらく、何も言えなかった。
それから、両手で顔を覆って、肩を震わせた。
「…………オブリガード。……ありがとう、ございます」
――清一さんは、ジョアンさんの隣に、座っていた。
震える手を、ジョアンさんの背中に、そっと置いた。
手は、すり抜けた。
それでも、清一さんは、手を離さなかった。
⑥ 今度は、わしが歩く番じゃ
その夜。
清一さんは、合祀墓の前に、座っていた。
名札の前の、小さな醤油の瓶を、ずっと、見つめていた。
あたしは、少し離れて、隣に座った。
「……清一さん」
「……おう」
いつもの返事。
でも、その声は、いつもより、ずっと、静かだった。
「……貞子ちゃん」
「……うん」
「……わしはのう、ずっと、勇の約束を待っとった。『またいつか、必ず来ます』……あの子の手紙に、そう書いてあったけ」
清一さんは、白いひげを、ゆっくりとなでた。
「……来たのう。……孫を寄越して。……二十九年かかって、ちゃんと、約束を守りおった」
――あたしは、膝を抱えた。
わかっていた。
清一さんが、何を言おうとしているのか。
「……迎えが、来たんじゃよ」
清一さんは、穏やかに笑った。
「……あの子はのう、あと五十メートル歩けばよかったと、死ぬまで悔やんどった。……わしも、同じじゃ。……あの日、声をかけられんかった」
清一さんは、山門手前の空き地を、見た。
「……じゃから。……今度は、わしが、五十メートル、歩く番じゃ」
「…………いやだ」
声が、勝手に、こぼれた。
「……行かないでよ、清一さん」
――わかってる。わかってるのに。
「……毎晩、名前、呼ぶって、約束したじゃん。……あたし、毎晩、呼んでたじゃん。……まだ、呼び足りないよ」
清一さんは、あたしの頭に、しわしわの手を、ぽんと置いた。
霊の手は、霊の頭に、ちゃんと届いた。
「……貞子ちゃんが、呼んでくれたからじゃよ」
「……え」
「名前を返してもろうて。……毎晩、呼んでもろうて。……じゃから、わしは、わしのまま、ここまで来られた。……名前がなかったら、わしは、今日あの子の顔を見ても、誰が誰だか、わからんかったじゃろう」
清一さんは、ほっほっと、笑った。
「……ありがとうのう。……貞子ちゃん」
あたしは、何も言えなかった。
ただ、泣いた。
金木犀の香りが、夜の墓場いっぱいに、満ちていた。
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