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第九十九話

セレニーはすぐに、崩れた二つの建物の間にある狭い路地を小走りで駆け抜けていった。


その先では、エコー・ナイトが金色の剣を掲げたまま、堂々と立っている。その大きな身体が、セレニーと、その背後に身を寄せて避難している家族との間を遮るように立ちはだかっていた。


周囲にもう脅威がないことを確認すると、エコー・ナイトはゆっくりと剣を下ろした。


セレニーはさらに足を速める。


巨体の向こうでは、母親がまだ娘を強く抱きしめていた。


セレニーは二人の前で足を止める。


「怪我はありませんか?」


母親はなおも娘を強く抱きしめたままだった。顔は青ざめ、呼吸もまだ完全には落ち着いていない。


「私たちは……」


その視線が、地面に残る黒い光の欠片へと一瞬向けられる。そこでは淡い光が、かすかに揺らめいていた。


「……大丈夫です」


抱かれている少女も、小さく頷く。


「うん。ありがとう」


セレニーはほっとしたように微笑んだ。


「よかった」


少女はゆっくりと母親の腕から離れた。


けれど、離れて立つのではなく、その視線はセレニーの背後に立つ大きな姿へと向けられていた。


「お姉ちゃん……」


「ん?」


「あれを操ってるの、お姉ちゃん?」


セレニーも少女の視線を追うように振り返る。


「ああ、あれ?」


その笑みが少しだけ広がる。


「うん。あれは私のエコー・ナイトよ」


少女の目が大きく見開かれる。


「大きい……」


先ほどまで顔を覆っていた恐怖が、次第に驚きと憧れへと変わっていく。


少女はその姿を頭の先から足元まで見ようとするように、少しだけ背筋を伸ばした。


「それに、すごく強い……」


セレニーは小さく笑った。


「そう?」


二人の会話が続く前に、崩れた瓦礫の向こうから、突然しわがれた声が聞こえてきた。


「よかった……」


三人が一斉に振り向く。


「……みんな、無事だったか……」


崩れた建物の隅では、先ほど家族を守っていた男が、壁にもたれたまま座り込んでいた。


顔の大半は血で覆われ、呼吸も荒い。片手で胸元を押さえ、肩は力なく落ちている。まるで、もう残された力のすべてを使い果たしてしまったかのようだった。


それでも、彼はかすかに笑った。


「旦那さん!」


セレニーは立ち上がると、すぐに彼のもとへ駆け寄った。


男はなんとか顔を上げようとする。


「俺は……大丈夫――」


その言葉は、激しい咳に遮られた。


彼の身体が痛みに耐えるように大きく前へ折れ曲がる。


「お父さん!」


ようやく父親の存在に気づいた少女が、すぐに立ち上がって駆け寄った。


母親も、足を引きずるようにしながら後を追う。道に散らばった瓦礫を一つずつ避けながら、夫のもとへ向かった。


セレニーはすでに男の前にしゃがみ込んでいた。


「まだ動かないでください」


その手が、男の肩へそっと添えられる。


「もう少しだけ耐えてください。すぐに傷を治します」


男は力なく頷くことしかできなかった。


娘と妻も、今ではそのすぐそばに立っている。


「お父さん……」


「俺はここにいる」


家族を前にして、彼は声だけでも平静を保とうとする。


セレニーはしばらく彼の状態を確認すると、短く息を吸った。


左手が胸の前へと持ち上がる。


そして、静かに目を閉じた。


指の間に金色の光が集まり始める。


陰鬱な瓦礫の中で、その光は穏やかに周囲を照らしていた。


手が前へと差し出される。


その掌が開かれた瞬間、小さな金色の光の粒が次々と地面へ降り注いだ。


一つ。


二つ。


そして、十数個。


地面へ触れた瞬間、すべての光が周囲へと広がり、彼らを取り囲むように薄い円を描いた。


金色の線が淡く輝く。


やがて、その線から一枚の光の膜が立ち上がり、ゆるやかに上へと湾曲していく。


透明なドームとなった光が、家族全員を包み込んだ。


母親と少女は、その光景に言葉を失う。


「これは……」


温かな光が、二人の身体を優しく包み込んでいく。


母親は俯き、自分の腕にある小さな傷へと目を向けた。そこでは、傷口からゆっくりと金色の光が滲み出している。


先ほどまでひりついていた切り傷が、少しずつ消えていく。


少女も自分の手を持ち上げ、皮膚をじっと見つめた。


「私の傷……」


続いて、以前擦りむいていた膝へと目を向ける。


さっきまで気になっていた痛みは、もう感じない。それどころか、一時は力の抜けていた身体まで、少し軽くなったように感じられた。


「これ……」


セレニーが目を開く。


「安心して」


母親と少女へ視線を向ける。


「この範囲には、軽い治癒効果があります」


「治癒?」


セレニーは頷いた。


「外からの攻撃を防ぐだけじゃなくて、その中にあるレゾナンスが、軽い傷の回復や体力の回復も少し助けてくれるの」


指先が、周囲に広がる光のドームの表面へそっと触れる。


母親は大きく息を吸った。


そこで初めて、ほんの少し前と比べて、自分の身体がどれほど軽くなっているのかを実感する。


「本当……」


自分の腕に手を触れる。


「身体がずっと楽になってる」


「よかった」


セレニーの意識が、再び目の前で壁にもたれている男へと戻る。


「次はあなたです」


両手のひらを男の胸元へ近づける。


今度現れた光は、金色ではなかった。


二つの手の間に緑色の魔法陣が浮かび上がる。


見慣れない紋様がその円の周囲を巡り、やがて男の胸元の正面で静止した。


セレニーの眉がわずかに寄る。


「内側の傷がかなり酷いです」


緑色の光が流れ出す。


細い光の筋が男の胸を通り抜け、そのまま身体の内部へと入り込んでいく。


「かなり出血しています。それに、内臓にもいくつか傷があります」


セレニーは両手を動かさず、慎重に力を保つ。


「一つずつ治していきます。動かないでください」


男は弱々しく頷いた。


その傍らで、少女がセレニーの服の裾をぎゅっと掴む。


「お姉ちゃん……」


セレニーが視線を下げる。


「お父さん、本当に治るの?」


囁くような声だった。


その目には、ずっと堪えていた涙が浮かんでいる。


セレニーはしばらく少女を見つめ、それから表情を柔らかくした。


「大丈夫。きっと助かるよ」


少女は唇を噛み、こくんと小さく頷いた。


セレニーの両手の間に浮かぶ緑色の光が、さらに強く輝く。


その流れは男の身体の奥深くへと浸透し続け、やがてゆっくりと弱まっていった。


胸元に浮かんでいた魔法陣が一度だけ回転する。


光が淡くなる。


そして、完全に消えた。


男はしばらく動かなかった。


だが、その呼吸は先ほどよりもずっと穏やかになっている。これまで苦しげに歪んでいた顔からも、緊張が消えていた。


顔にはまだ血が付着し、衣服にも赤い染みが広がっている。


それでも、先ほどまで身体を動かすことさえ難しくしていた痛みは、もう消えていた。


指先がわずかに動く。


男が目を開く。


「お父さん!」


少女がすぐさま父親へ抱きついた。


男は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに手を上げ、そのまま娘を抱き返す。


「お前……」


声はまだ弱々しい。


「……大丈夫だったか?」


少女は何度も頷いた。


ずっと堪えていた涙が、とうとう頬を伝って零れ落ちる。


「うん!」


母親も二人のそばにしゃがみ込む。


「よかった……」


それから顔を上げ、セレニーへ向き直る。


「ありがとうございます」


両手を胸の前で組み、深く頭を下げた。


「私たちを助けてくださって、本当にありがとうございます。それに……主人まで」


セレニーは小さく微笑んだ。


「みんな無事で、本当によかったです」


そう言って立ち上がり、周囲に広がる回復エリアを見渡す。


「今は、ここから出ないでください」


母親は頷いた。


だが、セレニーが立ち去ろうとしたところで、女性は何かを思い出したように口を開いた。


「あの……」


セレニーの足が止まる。


「どうしました?」


「一つ、聞いてもいいですか……」


女性はセレニーを頭の先から足元まで見つめる。


「あなたはいったい、何者なんですか?」


セレニーが瞬きをする。


「ん?」


女性の視線が、セレニーの身につけている服へと移る。


「ルーメン・ハイムの生徒なら、普通は学院の制服を着ているものではないんですか?」


「ああ」


セレニーも自分の服へと視線を落とした。


「そうですね。ここへ来ている生徒のほとんどは、制服を着ています」


そして、薄く微笑む。


「私もルーメン・ハイムの生徒ですよ」


女性はますます困惑した表情を浮かべた。


「本当ですか?」


「私の名前はセレニー。三年生です」


「ああ……」


母親の表情が、ようやく何かを理解したように変わる。


「なるほど。三年生くらいになると、ずいぶん自由なんですね?」


「はい。学院の活動じゃない限り、いつも制服を着ていなくても大丈夫なんです」


「そういうことでしたか」


セレニーは、瓦礫で埋め尽くされた道の先へと目を向けた。


遠くから、再び戦闘の音が響いてくる。


その表情が、すぐに真剣なものへと変わった。


「私はもう行きます」


母親が驚く。


「行くんですか?」


「まだ、助けを必要としている人がたくさんいますから」


セレニーは一歩後ろへ下がった。


「ここに長くいるわけにはいきません」


そう言って背を向ける。


だが、数歩進んだところで、女性の声が彼女を呼び止めた。


「待って……」


セレニーが振り返る。


女性は少し迷ったあと、目の前にあるものを指差した。


「彼は、どうするんですか?」


セレニーがその指先を追う。


エコー・ナイトは今も家族のそばに立っており、その剣を地面に突き立てていた。


セレニーは、彼女が何を心配しているのかを察して微笑む。


「心配しないでください。ここに残していきます」


「彼とはずっと繋がっているので、離れていても状態は分かります」


女性の視線が、彼らを取り囲む金色のドームへ移る。


「それじゃあ……この結界も?」


「消えません」


セレニーが片手をドームへ向ける。


「エコー・ナイトがここにいる限り、攻撃を受けたときはレゾナンスがその防護層を修復し続けます」


女性の表情が少しだけ和らぐ。


「それでも、もし魔物が来たら?」


「彼が倒れない限り、あなたたちは安全です」


それからセレニーは、家族一人ひとりへ目を向けた。


「だから、ここから出ないでください。外の状況が落ち着くまで、エコー・ナイトのそばにいてください」


その声は穏やかだったが、反論を許さない強さがあった。


ようやく意識を取り戻した父親も、ゆっくりと頷く。


「分かりました」


セレニーは微笑んだ。


「よかった」


今度こそ、彼女は振り返った。


足取りはすぐに速くなり、瓦礫の散らばる通りを小走りで進んでいく。


エコー・ナイトは、その場に残ったまま警戒を続けていた。


その二人の間には、巨大な身体からセレニーへ向かって、極細の金色のレゾナンスが一本伸びている。


まるで、遠く離れた二人を繋ぐ光の糸のようだった。


セレニーは振り返る必要がない。


その繋がりを感じ取ることができるからだ。


「ありがとう……」


背後から、母親の声が届く。


セレニーは足を緩めることなく、片手を上げてそれに応えた。


やがて、その姿は地区の瓦礫の向こうへと消えていった。


エコー・ナイトはなおもそこに立ち、金色の光に包まれた家族を守り続けている。


二人を繋ぐレゾナンスの糸も、消えることなく淡く輝き続けていた。


その頃、別の地区では、壊れた建物の間に走り抜ける足音が響いていた。


「急いで!」


「急いでるって!」


「後ろを見るな!」


「どうやって見ないでいられるのよ!?」


若い二人が、全力で通りを駆け抜けていた。


二人の呼吸はすっかり乱れていた。


男が足元の瓦礫に躓きかけると、隣を走っていた相手がすぐに腕を引っ張り、転倒するのを防ぐ。


「止まらないで!」


「止まってなんかない!」


その背後から、一体のグレイブマウが執拗に追いかけてくる。


巨体が進路を塞ぐものを次々と叩き潰していく。前方の二本の脚が瓦礫を引き裂いて薙ぎ払い、後ろの二本が巨体をそのまま前へと突き進ませていた。


「あっち!」


一人の女性が前方の建物を指差す。


二人はすぐに進路を変えた。


目の前に、入口の扉がまだ開いている店が現れる。


考える暇もなく、二人はそのまま店内へと飛び込んだ。


「うわあああっ!」


「早く、扉を閉めて!」


二人はぶつかりそうになりながら店の中へ転がり込み、ようやく足を止めた。


ところが、店内に入った瞬間、その空気は外とはまるで別物だった。


ガラス張りの棚が整然と並び、そこには一つ一つ丁寧に並べられた宝飾品が収められている。小さな照明がショーケースの隅々まで照らし、その中の宝石を暖かな光で輝かせていた。


その棚の一つでは、一人の男が静かに立っている。


ヘルトン。


目は閉じられていた。


片手には小さな白い布を持ち、その布で一つの宝石を磨きながら、口元では小さな鼻歌を口ずさんでいる。


焦る様子もない。


落ち着きを失っている様子もない。


まるで、外で繰り広げられている戦闘など、自分とはまったく関係のない出来事であるかのようだった。


ヘルトンはもう一度、その宝石を丁寧に磨く。


「もう少し……」


たった今、店内へ飛び込んできた二人は、ただ彼を見つめることしかできなかった。


やがて、ヘルトンが片目を開く。


「おや?」


視線が二人へと移る。


「いらっしゃいませ」


二人は言葉を失った。


ヘルトンは穏やかに微笑む。


「何かお手伝いできることはありますか?」


女性の一人は、まだ激しく息を切らしている。


「ち、違うんです……そういうことじゃ……」


そう言いながら身体を折り、必死に呼吸を整えようとする。


隣の男がすぐに前へ出た。


「旦那、どうか俺たちを助け――」


ガシャァン!


突然、店の正面が吹き飛んだ。


ショーケースのガラスが砕け散り、グレイブマウがそのまま店内へと突っ込んでくる。


「いたぞ!」


「きゃあああっ!」


二人はすぐに後ずさり、ヘルトンの背後へ隠れた。女性はヘルトンの服を強く掴み、身体を震わせながら身を屈める。


「お願いします、助けてください!」


「モンスターが入ってきた!」


「何とかしてください!」


ヘルトンは動かなかった。


片手にはまだ白い布があり、もう片方には磨きかけの宝石が残っている。


そして再び目を閉じた。


小さく頷く。


「どうやら、お客様のようですね」


グレイブマウが咆哮する。


ヘルトンは薄く笑った。


「わざわざ私の店まで来てくださるとは」


次の咆哮が店内を震わせた。


グレイブマウが身体を低く沈める。


前脚を折り曲げたかと思うと、そのまま跳躍して襲いかかった。


「守ってくれ!」


二人は同時に目を閉じた。


一瞬が過ぎる。


衝突音はしなかった。


悲鳴も聞こえない。


床に何かが叩きつけられる音すらなかった。


男が片目を開く。


「……え?」


隣の相手も恐る恐る目を開ける。


グレイブマウは、まだそこにいた。


ただし、その巨体は宙に浮いていた。


赤く輝く無数の糸がその身体へ絡みつき、密に張り巡らされた網となって、四本の手足、首、脚、さらには身体の一部まで完全に拘束している。


グレイブマウが激しくもがく。


糸が強く震えた。


前脚の一本がどうにか少し引き寄せられるたび、別の方向から伸びた糸がすぐに張り詰め、その動きを元の位置へと押し戻していく。


男は呆然と立ち尽くした。


「何だ……これ……」


恋人は捕らえられた怪物から目を離せない。


「どうして、こんなことに……」


二人はゆっくりとヘルトンへ視線を向ける。


男は、先ほどとまったく同じ場所に立っていた。


手にした布さえ、まだ下ろしていない。


ヘルトンは少しだけ首を傾げる。


「ふむ」


次の瞬間、赤い糸が一斉に強く張り詰めた。


その光が、さらに強くなる。


もがき続けていたグレイブマウの動きが、突然止まった。


四本の手足が大きく開かれ、より密に絡み合った糸の網によって完全に固定されている。


「……動けない」


「さっきまで、俺たちを殺しかけてたのに……」


女性はごくりと唾を飲み込み、もう一度ヘルトンを見る。


「しかも……あの人、まったく動いてない……」


ヘルトンは答えなかった。


その意識はすでに、手の中の宝石へと戻っている。


そのとき、店の裏口から足音が聞こえてきた。


「ヘルトンさん、先ほど何か音が――」


一人の少女が扉の向こうから姿を現す。


だが、その言葉は途中で途切れた。


彼女の目が、ゆっくりと見開かれていく。


店の正面は完全に破壊されている。


床には無数のガラス片が散らばっている。


そして一体のグレイブマウが、赤い糸の網に絡め取られたまま宙に吊り下げられていた。


先ほどグレイブマウから逃げてきた二人も、裏口から聞こえてきた声にびくりと反応する。


すぐに場所を移し、展示棚の陰へ身を屈めた。


二人は棚の隙間から、目だけを覗かせていた。


一方、ヘルトンは店の中央で、相変わらず気楽そうに小さな布と一つの宝石を手にして立っていた。


少女はしばらくの間、何も言えずにその場へ立ち尽くしていた。


「……一体、ここで何があったんですか?」


ヘルトンが振り向く。


「ああ、ティア」


目が少しだけ見開かれる。


「ちょっとこっちへおいで」


ティアはすぐに両手を持ち上げた。


「えっ! 何するつもり!?」


ヘルトンが瞬きをする。


「私はまだ何も言っていませんよ」


「経験から分かるの」


ヘルトンは微笑んだ。


「それではありません」


ティアはなおも疑わしそうに彼を見つめる。


「じゃあ、何?」


ヘルトンは、ずっと手にしていた宝石を持ち上げた。


「これを頼みます」


ティアはようやく警戒しながら近づいてくる。


「ああ、これ?」


「ええ。中にしまっておいてください」


そう言って宝石を手渡す。


ティアはそれを受け取り、それから宙に吊られたままのグレイブマウへ目を向けた。


「あのモンスターは?」


ヘルトンもその視線を追う。


「ああ」


笑みが少しだけ広がる。


「飼いたいんですか?」


次の瞬間、ティアはくるりと背を向け、裏口へ向かっていた。


「遠慮します」


扉が閉まる。


ヘルトンは再びグレイブマウへ視線を戻した。


一方、先ほどの恋人同士はショーケースの陰から、ヘルトンとグレイブマウの様子をこっそり覗いていた。


「なんであんなに平然としていられるの……?」


「俺に聞くなよ……」


ヘルトンは拘束された怪物へと歩み寄る。


その顔にはまだ笑みが浮かんでいた。


だが今度は、その中に親しげな雰囲気はなかった。


「残念ですね」


グレイブマウが、押し殺すように唸る。


「人の店に来て……」


もう一歩。


「……めちゃくちゃにしてくれましたね」


グレイブマウの身体を覆う赤い糸が、一斉に張り詰める。


怪物が口を開き、唸り声を上げようとする。


ヘルトンが片手を上げた。


「失礼ですよ」


その指先が、怪物の頭へ触れる。


瞬間、全身に絡みついていた赤い糸の動きが止まった。


グレイブマウの身体が凍りつく。


頭部に細い赤い亀裂が走る。


それが、ゆっくりと全身へ広がっていった。


爆発は起こらない。


大きな音もない。


怪物の身体が、ゆっくりと赤い光の欠片へとほどけていく。


無数の欠片は小さな葉のような形へと変わり、宙でくるくると回りながら、ひらひらと舞い落ちていく。


そして、一つ、また一つと消えていった。


数秒後。


グレイブマウは何一つ残すことなく、完全に消滅した。


ヘルトンは手を下ろす。


そして、店内を見回した。


床にはガラスの破片が散らばっている。


棚の一つは傾いている。


店の正面はガラスごと吹き飛び、大きく開け放たれた状態になっていた。


ヘルトンは小さく息を吐く。


それから振り返る。


恋人同士は、びくりと身体を強張らせた。


しかし、ヘルトンはいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。


「さて」


袖口を整える。


「それでは、もっと大事な話をしましょうか」


二人は顔を見合わせる。


ヘルトンは店の正面を指差した。


「修理代のことです」


沈黙。


女性の一人が、自分を指差す。


「修理代……?」


ヘルトンはにこやかに頷いた。


「ええ」


そして、壊れた入口を指差す。


「ここへあのお客様を連れてきたのは、あなたたちではありませんでしたか?」


四人の動きが止まった。


「……」


そして――


「ええええええええええ!?」

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