第九十八話
エリスは広場になっていた大ホールの前から身を翻した。
その身体が地面から数メートルほど浮き上がる。低い位置を滑るように漂いながら、そのまま大ホールの中心から真っ直ぐ離れていった。
四人のエンジェルがすぐに後を追う。
男二人、女二人。彼女の後方を緩やかな隊形で飛び、一定の距離を保ちながらも、決してエリスを見失うことはなかった。
やがて一行は、アストラヴェル最大の噴水、その中央にそびえ立つ巨大な黒い彫像の横を通り過ぎる。
青い水流がその台座を取り囲み、石造りの床の上に静かな円を描いていた。
戦争の煙がいまだ空を覆っている中では、その対比がより鮮明に感じられる。
エリスは高度を下げ、彫像の正面に広がる開けた場所へと降りていく。
やがて両足が石床に触れた。
四人のエンジェルも、その数歩後ろへ着地する。
エリスは彼らを振り返った。
「聞いてほしい」
「私がイージス・フィールドを発動するとき、あなたたちの力の一部を、私のイージス・シャードへ流してほしい」
黒髪の男性エンジェルの一人が、エリスを見つめる。
「どれくらいだ?」
「全部じゃなくていい」
エリスはゆっくりと首を横に振った。
「必要なのはほんの一部だけ。追加の被膜として使うだけだから」
短い淡い茶髪の女性エンジェルが眉をひそめる。
「どうして少しだけなんですか?」
その隣にいた、より長い髪の女性も口を開いた。
「必要なら、もっと提供できます」
男性エンジェルも頷く。
「これほど大規模なイージス・フィールドで三つの地区を覆うなら、より多くの力があったほうがいいはずだ」
エリスは再び首を横に振った。
「いいえ。三つを一つのイージス・フィールドで同時に覆うつもりはない」
彼女は互いに離れた三つの地区へ視線を向ける。
「アストラヴェルはすでにレゾナンス・イージス・パイロンによって守られている。今必要なのは、その内側に追加の防護層を作ることだけ」
エリスはイージス・ランスをわずかに持ち上げた。
「だから、三つのイージス・フィールドに分ける」
「一つの地区につき、一つ?」
「そう」
彼女は頷いた。
「地区同士の距離が離れすぎている。すべてを覆う一つのフィールドを作れば、規模が大きくなりすぎるし、レゾナンスの制御も難しくなる」
「分ければ、それぞれのフィールドを安定させたまま、力の配分も調整しやすい」
四人のエンジェルが、ようやくその意図を理解し始める。
「そして、その負担の大部分は私が引き受ける」
「あなたたちには、もっと重要なことのために力を残しておいてほしい」
そのうちの一人が尋ねた。
「戦うために?」
エリスは小さく頷く。
「地区の中にいるモンスターだけが問題じゃない」
彼女は、煙に覆われた市街地の外へ視線を向ける。
「イージスが発動した後は、外からさらに多くのものが来る」
四人のエンジェルが黙り込んだ。
エリスは短く息を吸う。
「防壁を形成するのを手伝いながら、同時に戦える状態も維持してほしい。だから、その二つ目までできなくなるほど力を使い切ってほしくない」
彼女は一人ずつ、四人の顔を見つめた。
「イージスを維持するために全力を使い果たしたら、その中で誰が戦うの?」
四人のエンジェルが互いに顔を見合わせる。
その表情が変わった。
ようやく、エリスがそう言った理由を理解したのだ。
だが同時に、彼らの顔には別の不安が浮かんでいた。
やがて、一人のエンジェルが口を開いた。
「……確かに、その通りだ」
彼女はエリスを見つめた。
「でも、どうしてその大部分をあなた一人で背負わなければならない?」
「このバリアは、区域を守り抜くためのもの。戦争を終わらせるものじゃない」
「だから、あなたたちは力を温存して。これが終わったら、まだその区域で戦っている人たちを助けてほしい」
一人の男性エンジェルは、なおも迷いを見せていた。
「じゃあ、君自身は?」
「私も戦う」
エリスはイージス・ランスを強く握り直した。
「私はここに残って、アストラヴェルの中心部を守る」
短髪の女性エンジェルが眉をひそめる。
「本当に一人で大丈夫なんですか?」
「それも、戦いながら?」
エリスは薄く微笑んだ。
「もちろん、大丈夫よ」
その声は相変わらず落ち着いていた。
「これはまだ、私の力のすべてには程遠い」
「最初からそれを考慮していた。だからこそ、このイージスを形成するために、あなたたちの力が必要なの」
四人のエンジェルはしばし黙り込んだ。
やがて、そのうちの一人が頷く。
「分かった。それなら……」
もう一人のエンジェルも頷いた。
「あなたがそう望むなら、そうしよう」
エリスは薄く微笑んだ。
「ありがとう」
彼女は前方へ視線を向ける。
「それじゃあ、始めるわ」
エリスは大きく息を吸い込み、目を閉じた。
手にしたイージス・ランスを、自分の身体の正面へ真っ直ぐ向ける。
肘をわずかに曲げているため、武器は完全な一直線にはなっていない。
そして、そのまま下へと降ろした。
――カンッ!
ランスの穂先が石床に触れる。
四人のエンジェルも、それぞれの位置についた。
同じ動作でランスを下へ向ける。
そして、目を閉じた。
その瞬間、彼女たちの足元に桃色のレゾナンス・サークルが形成された。
魔法陣とは違う。
呪文の文字も、古代の紋章も存在しない。
ただ、直線と細い曲線が規則正しく組み合わされ、大きな円の中で互いに連結している、幾何学的なパターンだけが描かれている。
光はさらに広がっていく。
四人のエンジェルの足元にも、それぞれ一つずつ小さなレゾナンス・サークルが形成された。
大きさはそれぞれ異なる。
それでも、その構造はすべて同じだった。
エリスのレゾナンス・サークルはさらに広がり、やがて四人全員をその外周の内側へと収める。
「純潔の支配者たる力をもって……」
エリスの声が静かに響く。
続いて、四人のエンジェルが一人ずつ声を重ねた。
「穢れなきもの」
「迷いなきもの」
「歪みなきもの」
エリスが顔を上げる。
「そして、守るべきものに限界を設けない」
五つのレゾナンスが同時に脈動した。
――ヴゥゥゥン――
レゾナンス・サークルの表面を走る桃色の線が、一斉に輝きを増す。
四人のエンジェルから流れ込んだエネルギーが中心へ集まり、エリスのレゾナンスと一つに融合していく。
イージス・ランスが、ゆっくりと石床から浮かび上がった。
エリスの指が柄から離れる。
イージス・ランスは彼女の目の前で宙に浮かび、ゆっくりと回転し始めた。
四本のランスはそれぞれのサークルの中に残ったまま、淡い光に包まれている。
エリスの周囲では、四つのイージス・シャードが小刻みに震え始めた。
エリスは動かない。
そして――
――シュッ!
三つのイージス・シャードが空へ向かって飛び出した。
一つは東へ。
一つは西へ。
一つは南へ。
四つ目のイージス・シャードだけが、エリスの傍らに留まった。
三つのシャードはそれぞれの目的地へ遠ざかり、やがて各地区の遥か上空で停止する。
地面にも、建物にも触れない。
ただ空中に静止しながら、次第に強くなる桃色の光を放っていた。
その真下では、避難していた住民たちが少しずつ外へ出始める。
ある子供は、窓の隙間からそっと顔を覗かせた。
別の住民たちは、狭い路地から空を見上げる。
崩れた通りでは、アストラヴェルの兵士たちも一瞬、足を止めた。
さらに、何体かのモンスターやディソナンスの兵士までもが空を振り仰ぐ。
そして――
三つのイージス・シャードが、同時にレゾナンスした。
――ヴゥゥゥゥゥン――
それぞれのシャードから、光があらゆる方向へと広がっていく。
それぞれの地区の上空に、幾何学的なパターンが形成されていく。
桃色の線が互いに繋がり、ゆっくりと各区域の上空に巨大なドーム状の構造を築いていく。
東部地区では、一つ目のドームが形を取り始めた。
西部地区では、二つ目のドームが続く。
そして、南部地区。
それぞれのドームには、五層のレゾナンスが内側から幾重にも重なっていた。
第一層は、それぞれのイージス・シャードの核から生まれる。
その次の層が外側へ広がり、より大きく、複雑なパターンを形作っていく。
一層。
二層。
三層。
四層。
五層。
――ヴゥゥゥン――
三つのイージス・フィールドが、ついに完成した。
三つの地区はそれぞれ、幾重にも重なる防護のドームに覆われている。
桃色の光が、各地を覆う煙や砂塵、瓦礫の中で淡く明滅していた。
つい先ほどモンスターの攻撃を受け止めた兵士が、空を見上げる。
「バリア……」
隣の兵士が、再び武器を構え直した。
「また……?」
その一方、路地裏では避難していた住民たちが、少しずつ姿を現し始めていた。
一人の母親が、娘をより強く抱きしめる。
少女は頭上に広がるドームを見つめ続けていた。
「もう、安全なの?」
母親はすぐには答えなかった。
それでも、戦いが始まってから初めて、その顔に浮かんでいた恐怖が少しずつ和らいでいく。
その一方、西部地区の別の場所では、一人のエルフが崩れた道の中央に立っていた。
風が砂埃と煙を運び、その髪を揺らしていく。
桃色の光が、その瞳に映り込んでいた。
「イージス・フィールド……」
小さな笑みが浮かぶ。
「ようやく来たのね、エリス」
「そう……」
「いつまでもじっとしているわけにはいかない」
彼女は前へ踏み出した。
「私も、みんなを助けないと」
セレニーは、助けを必要としている住民を探して走り出した。
遠くでは、エリスがゆっくりとイージス・ランスを下ろしていた。
その目の前では、三つのイージス・シャードがすでにそれぞれの位置へ到達している。
わずかに高くなった場所から見渡せば、それら三つのシャードは東部地区、西部地区、南部地区の上空にはっきりと見えた。
五層の幾何学的なイージスが安定したリズムで脈動し続け、街のはるか上空まで広がる桃色のドームを形作っている。
四人のエンジェルはエリスの後ろに立っていた。
そのうちの一人が、長く息を吐く。
「成功した」
エリスは小さく頷いた。
「ええ」
彼女は今やイージスの下にある三つの地区を見渡す。
ドームの内側では、戦闘がまだ続いていた。
モンスターはなおも徘徊している。
ディソナンスの兵士たちも、まだ撤退していない。
それでも、外からの圧力は食い止められていた。
「これで、あとはここを維持するだけ」
エリスはイージス・ランスを横へ持ち上げた。
「私たちのレゾナンスが安定している限り、イージスは機能し続ける。だから、維持のために力を使い果たさないで」
一人のエンジェルがエリスを見る。
そしてランスを強く握り直した。
「それじゃあ、あなたたちはもう行って。できる限り多くの住民を救って」
「ここへ侵入しようとするものがいたら、止めて」
四人のエンジェルが、それぞれのランスを持ち上げる。
「分かりました」
エリスは頷いた。
「よし」
四人のエンジェルは、そのまま一斉に飛び立ち、エリスを一人残してその場を離れていった。
そしてエリスはそこに留まり、アストラヴェルの中心部へ近づくものすべてを迎え撃つ準備を整える。
その頃、西部地区では、セレニーが瓦礫の散乱する通りを走っていた。
その目は、あらゆる交差点、路地、そして崩れた建物の隙間を追っていく。
彼女が探しているのは敵ではない。
人間だった。
泣き声。
助けを求める声。
誰かがまだ取り残されていることを知らせる、どんな小さな音でもいい。
イージスが形成されてから、外からの圧力は確かに弱まっていた。
だが、すでに地区の内部へ入り込んでいるモンスターたちは、いまだに徘徊している。
セレニーが交差点を通り過ぎる。
誰もいない。
彼女はすぐに次の通りへと曲がった。
その直後――
「うわああああっ!」
右側から叫び声が聞こえた。
セレニーが足を止める。
「こっち!」
彼女は振り返り、その声の方へ走り出した。
二つの損壊した建物の間に、狭い路地が口を開けている。
セレニーは迷わず中へ入った。
そこには――
一つの家族が追い詰められていた。
先頭には、一人の男が立っている。身体中に傷を負い、シャツは皺だらけで破れ、こめかみからは血が流れていた。
その後ろでは、女性が座り込み、幼い娘を抱きしめている。
二人とも、恐怖で青ざめていた。
そして、その目の前には一体のグレイブマウが立っていた。
その巨体だけで、路地の大部分を塞いでしまうほどだ。
頭を低く垂れ、前脚の爪を持ち上げている。
父親は両腕を広げた。
「待ってくれ……!」
声が震えている。
「近づくな」
グレイブマウが低く唸る。
男は半歩後ずさる。
「俺たちは……出ていく」
視線を目の前の怪物から決して逸らさない。
「頼む」
男は一瞬だけ家族へ目を向けた。
「妻が怪我をしている」
息を切らしながら続ける。
「娘もだ」
グレイブマウが前脚の片方をずらした。
父親はすぐに両手をさらに高く上げる。
「待て!」
身体が震えている。
「やめろ!」
グレイブマウが咆哮する。
その巨体が、低く身を沈めた。
父親は反射的に振り返り、身体で家族を庇った。
グレイブマウの右前脚の爪が、一閃する。
――ザシュッ!
男の身体が激しく打ち飛ばされ、横へと吹き飛んだ。
――ドンッ!
背中が建物の壁へ激突し、そのまま地面へ崩れ落ちる。
胸には四本の深い裂傷が走っていた。
「お父さん!」
娘が悲鳴を上げる。
母親はすぐに娘を強く抱きしめた。
グレイブマウがゆっくりと近づいてくる。
重い足取りが床の石片を押し退けるたび、ガラガラと音が響く。
母親は俯いた。
身体が激しく震えている。
「お願い……」
彼女は娘の服を強く掴む。
「大丈夫だから」
声はほとんど聞き取れないほど小さかった。
「お母さんがここにいるから」
涙が頬を伝って落ちる。
片手で娘の目を覆う。
「見ないで」
娘は母親の腕の中で泣き続けている。
「ごめんね……」
息を切らしながら、母親は呟く。
「お母さん、頑張ったんだけど……」
声が震え、途切れる。
「でも、お母さんじゃ……足りなかった」
グレイブマウが、二人の数メートル先で足を止めた。
母親はゆっくりと目を開く。
そして娘を見る。
「怖くないからね」
母親は無理に小さな笑みを浮かべた。
「お母さんがここにいるから」
「お母さん……」
グレイブマウが右前脚を持ち上げる。
その巨体が落とす影が、二人を覆い尽くした。
母親は娘を全力で抱きしめる。
「どうか……」
爪が振り下ろされる。
――キィンッ!
母と娘の悲鳴が同時に響き渡った。
だが、痛みはなかった。
衝撃も訪れない。
母親はゆっくりと両目を開いた。
グレイブマウの爪が、二人の目の前で止まっている。
何かが、それを受け止めていた。
巨大な盾。
その背後には、透明な黄金の光で形作られた一体の騎士が立っていた。
全身は鎧を纏った騎士の姿をしている。片手には大きな盾を掲げ、もう一方の手には長い槍を握っている。
肉体はない。
顔もない。
ただ黄金の光だけが、一人の騎士の輪郭を形作っていた。
母親は凍りついた。
娘もまた、泣くことさえ忘れていた。
少し離れた場所では、父親が苦しそうに顔を上げる。
「何……?」
グレイブマウが咆哮し、爪を引き戻す。
黄金の騎士が前へ出た。
一歩。
槍が突き出される。
――シャインッ!
穂先がグレイブマウの身体の側面を貫いた。
モンスターは咆哮し、そのまま真正面から突進する。
黄金の騎士は身体を捻った。
盾がモンスターの頭部を叩きつける。
――ドガッ!
グレイブマウがよろめく。
黄金の騎士は、さらに一歩踏み込んだ。
槍を大きく回転させ、そのままモンスターの胴体中央へ真っ直ぐ突き刺す。
――ザシュッ!
グレイブマウの動きが止まった。
傷口から黄金の光が広がり、その身体全体へと走っていく。
モンスターの表面に、黒い亀裂が次々と浮かび上がった。
次の瞬間、グレイブマウの身体が暗い光の欠片となって砕け散る。
路地に、再び静寂が戻った。
黄金の騎士は槍を引き抜き、その家族の前に立った。
母親はなおも娘を抱きしめている。
誰一人、言葉を発することができなかった。
数メートル離れた場所、路地の曲がり角の向こうでは、セレニーが立っていた。
右手を真っ直ぐ前へ伸ばしている。
その指はわずかに開かれ、右の手のひらの周囲には、淡い黄金の光が静かにレゾナンスしていた。




