第九十七話
アストラヴェルの空は、各地区で繰り広げられている戦闘の薄い煙と、幾筋もの光の残滓にいまだ覆われていた。
その中心地区の上空を、エリス・ヴァレンシアが駆け抜けていく。
身を前へ傾けたまま、エリスは南部地区へ向かって急降下していた。中心地区へ近づくと、彼女は鋭く右へ旋回し、そのまま大広間へ向かって滑空する。白いスカートが風に煽られて翻り、その後ろでは薄桃色の布地がなびき、肩にはショートマントが掛かっていた。
四つのイージス・シャードが、彼女の背後と左右に編隊を組んで浮遊している。クリスタルの欠片はエリスの動きに合わせて絶えず位置を調整し、決して彼女に触れることなく、常に一定の距離を保っていた。
エリスの背後には、白いレゾナンスの輪が浮かび、ゆっくりと回転している。その左右には、羽毛の翼を思わせる二つの形状が浮かび、穏やかに羽ばたいていた。
エリスはさらに高度を落としていく。
その高さから見ると、アストラヴェルの中心地区は遥かに広大に見えた。
白い石造りの広場を走る通路が、庭園や高層建築の間を縫うようにして、左右対称の幾何学的な模様を形作っている。青い水路が中心地区を横切り、その先で中央広場を取り囲むように造られた長い池へと流れ込んでいた。
その中央に、黒い石像が佇んでいる。
ローブを纏ったその姿は、微動だにしない。
周囲の水面とほとんど一体化するように立っており、遠目には、街の中心でひとり佇み、遥か彼方へ視線を向ける人間のようにも見えた。
エリスはその脇を通り過ぎる。
飛行によって生じた風が水面を揺らし、波紋を広げる。そのまま彼女はアストラヴェル最大の噴水を通り過ぎた。
白い広場が、今や正面に大きく広がっている。
開放された橋が中心地区から南側の大広間へ伸びている。エリスはそのまま橋へ向かって滑空し、高度を落とすと、連絡通路の先端へ着地した。
だが、エリスの意識はすぐに大広間の中央へ向けられた。
石床の上に、ひとつの黄金の円環が輝いている。
その表面では、細い金色の線が絶えず発生しているレゾナンスのパターンに沿って動き続けていた。
エリスは速度を落とした。
身体が橋の脇を抜け、そのまま大広間前の広場へ向かってゆっくりと降下していく。四つのイージス・シャードも、それに合わせて位置を調整した。
やがてエリスは、橋へ続く通路の先端へと降り立った。
コツ。
白い靴の先が石床に触れる。
コツ、コツ。
もう片方の足が続いた。
エリスはそのまま数歩、広場へ向かって歩いていく。
広々とした開放空間に、彼女の足音が軽く響いた。
そして、石床の広場のちょうど中央で、あの黄金の円環が再び動き始めた。
その光が強まる。
先ほどまで静かに動いていたレゾナンスの線が次第に回転を速め、やがて微かな振動が広場全体へと広がっていった。
エリスは階段の上で足を止めた。大広間へ続く通路の先端、その場所に立ったまま、姿勢を崩さない。
四つのイージス・シャードは、規則正しい編隊を保ったまま彼女の周囲に浮かんでいる。
背後のレゾナンスの輪もまた、ゆっくりと回転を続けていた。
その瞬間、大広間の中央にある黄金の円環が、突如としてさらに強い光を放った。
光が、石床の表面から上空へ向かって伸び始める。
次の瞬間――
ゴォォォンッ!
開け放たれた大広間の天井を貫くように、黄金の光柱が立ち昇った。
その内部に、ひとつの人影が現れる。
続いて二つ目、三つ目、そして十人、二十人と、次々に新たな影が浮かび上がった。
数秒もしないうちにその数は増え続け、エリスの前の広場は、何百人ものルーメン・ハイムの生徒たちで埋め尽くされていった。
その一部はすぐに同じチームの仲間を探し始め、別の者たちは街のほうへ振り返り、遠くに残る煙と戦闘の光景を目にしながら、今起きている状況を理解しようとしていた。
そんな彼らの到着の最中――
ドォン!
バシュッ!
背後の南部地区で、大規模な爆発が起こった。
その衝撃が、空気と広場を大きく揺るがした。
大広間の周囲にある建物までもが揺れた。
何人かの生徒はすぐに俯き、別の者たちはエリスへと意識を集中させる。
エリスは短く息を吸った。
この群衆が完全に静まるのを待っている時間はない。
右手を胸の前へ持ち上げる。
「みんな……」
「……少しだけ、私の話を聞いて」
声は大きくなかった。それでも、次第にざわめきに満たされていく広場の隅々まで、はっきりと届いた。
「私はエリス・ヴァレンシア。ここへ到着した後、サイラスからみんなの指揮を任されている」
何人かの生徒が背筋を伸ばした。
ただ指示を待つために、ここへ来たわけではないのだと、ようやく理解したようだった。
前列では、長い耳を持つ少女が髪を結んでいる紐を整え、少しきつく締め直してから、再びエリスへ視線を向けた。
その表情が、より真剣なものへと変わる。
「要点だけ伝える。現在、アストラヴェルはいくつかの戦闘地点に分かれている」
「東。西。南。そして北」
エリスは身体を少し傾け、それから肩越しに背後を振り返り、後方に位置する北側へ視線を向けた。
「北部地区については、状況が違う」
そう言うと、エリスは再び身体を戻し、生徒たち一人ひとりへ視線を向ける。
「アストラヴェル軍は、すでに戦力の大半をそちらへ投入している」
声は落ち着いていた。
「今は前線で、カオス・タイドの攻撃を食い止めている」
しばらくの間、誰も口を挟まなかった。
「ここへ来る前に、私はあちらの状況を分析している」
「そして、その状況は他の三地区よりもはるかに危険」
エリスは手を下ろした。
「だから、私から指示があるまで北部地区には入らないこと。たとえ防衛線に隙を見つけても、勝手に向かわないで」
何人かの生徒が頷く。
「本当に君たちの力が必要になったら、私から伝える」
「それから東、西、南部地区については、私がイージス・フィールドを展開する」
エリスの持つ四つのイージス・シャードが輝いた。
「外からの攻撃の大半は、そこで食い止められる。一つは私のそばに残し、残り三つはそれぞれの地区を守る」
何人かの生徒が、空中に浮かぶクリスタルの盾の欠片へ視線を向け始める。
「ただし、フィールドの内部にすでに入っている怪物は、自由に動ける」
エリスは一度言葉を切った。
「それでも、イージスのレゾナンスが少しずつ奴らの力を抑えていく」
再び群衆へ視線を戻す。
「君たちの任務は、怪物を倒すことだけじゃない」
その声に、はっきりとした強さが宿った。
「閉じ込められている市民がいたら、まず彼らを確保すること。安全な場所まで連れていってから、戦場へ戻って」
エリスは長い間を置かず、そのまま続けた。
「別の部隊が押され始めていたら、援護すること。そして避難経路が危険にさらされているなら、その道を再び確保すること」
その視線が、広場全体をゆっくりと見渡した。
「君たちは同じ軍だけど、必ずしも一つの集団として動く必要はない。戦闘力と防御力に応じて、私がそれぞれを振り分ける」
前列にいた男子生徒の一人が声を上げた。
「じゃあ、すぐに分散するんですか?」
「闇雲には動かないで」
エリスは間を置かずに答えた。
「振り分けるのは私」
南の方角から、再び爆発音が響いた。
それでも、エリスは振り返らなかった。
「第一班。タイタンズとスピリットキン」
その言葉と同時に、群衆の中から何人かの大柄な姿がすぐに目立った。
その中の一人、女性のタイタンは身長二メートルを優に超えている。
人間の生徒たちよりも明らかに大きく、がっしりとした体格を持つ人型の身体には、筋肉が密に発達していた。それでも全体の輪郭は人間の姿を保っている。
耳は短く、わずかに尖っており、その付け根には、石のような硬い構造が備わっていた。
「北部の橋の境界端へ向かって」
そのタイタンは顎を上げた。
「了解」
その近くにいた女性のスピリットキンも一歩前へ出た。頭の両側には桃色の蝶の羽を模した飾りが二つ付いており、背中には一対の薄い翼がゆっくりと形作られ始めている。
「タイタンと一緒に?」
「そう」
エリスは小さく頷いた。
「今あるデータを見る限り、あなたたちの能力が一番相性がいい」
エリスの視線がタイタンたちへ向く。
「タイタンは最初の防波堤になって。北からの攻撃を受け止めるだけの耐久力も、突破してきたものを叩き潰すだけの力もある」
一人の男性タイタンが、すぐに拳を握り締めた。
「もちろん!」
その隣では、茶髪の女性タイタンが胸の前で片方の拳をもう一方の掌に打ちつける。
「突破してきた奴がいたら、私が必ず叩き潰す」
エリスは続けた。
「中央から援護できる程度の距離を保って。防衛線にできた隙間を埋めて、弱いところを守る。それから、押し込まれている場所があれば援護して」
タイタンとスピリットキンの生徒たちが頷く。
「分かりました」
「いいわ」
エリスは次の集団へ視線を移した。
「デーモンとヴァンパイア」
二つの種族から、何人かの生徒がエリスを見る。
「あなたたちには特定の地区を割り当てない」
青白い顔をした青年が、わずかに眉を上げた。
「ない?」
「ええ」
エリスは落ち着いたまま彼らを見つめる。
「今のデータを見る限り、あなたたちの能力は、状況に応じて動ける部隊のほうが向いている」
その視線が集団全体を見渡す。
「速度、戦闘力、それに標的を追う力。どれも一つの地点から別の地点へ移動しながら戦うのに向いている」
一人の女子生徒が、薄く笑った。
「じゃあ、自由に動いていいってこと?」
エリスは頷いた。
「三つの主要地区の中にいる限りはね」
「分断されたディソナンスの部隊を見つけたら、再び合流させないで」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「ずっと動き回る攪乱役だと思って」
何人かのデーモンが小さく笑った。
「なるほど……」
「分かった」
エリスはすぐに次の集団へ向き直る。
「獣人とドラゴンキン」
群衆の中で、いくつもの獣の耳がぴくりと動いた。
狼の尾を持つ獣人の一人が肩を回す。その近くでは、数人のドラゴンキンが姿勢を正した。額からは小さな角が伸び始めているが、成体の竜ほど長くも、頑丈でもない。
「あなたたちも機動部隊よ」
エリスの視線が、一人ひとりの顔へ移っていく。
「獣人は機動力が高い。それを使って防衛線の隙間へ入り込み、逃げた怪物を追って、押されている部隊を援護して」
一人の獣人が、にやりと笑う。
「つまり、俺たちが狩る側ってわけか?」
「だいたいそんなところね」
エリスは頷いた。
「ただし、深追いはしないで。自分たちの班が対応できる範囲を優先して」
続けて、ドラゴンキンへ視線を向ける。
「ドラゴンキンは、他の部隊では手に負えないほど大型の怪物を見つけた場合、主力として攻撃して」
一人のドラゴンキンが手を上げた。
「ディソナンスの部隊がまだ完全な陣形を保っていたら?」
「全方向から叩き潰して」
答えは即座に返ってきた。
「陣形を整える時間を与えないで」
「了解!」
エリスは続いて、エルフとヒューマンの集団へ向き直る。
「あなたたちは避難に集中して」
何人かの生徒が顔を見合わせる。
「戦闘区域から救出された市民を探して、安全な場所まで連れていって」
一人のエルフが手を上げた。
「避難場所がもういっぱいだったら?」
「周囲を囲んで」
エリスは迷わず答えた。
「救出した市民を守って。次の移送ができるまで、彼らを安全な場所に留めておくの」
一人のヒューマンの生徒が静かに頷いた。
「つまり、俺たちが後方を守る?」
「そう考えてもらっていいわ」
エリスは一人ひとりを見つめた。
「助け出した人たちが、もう一度被害に遭わないようにする。それがあなたたちの役目よ」
「戦闘部隊が援護を必要としていたら?」
「経路が安全なら、援護して」
エリスは一度言葉を切った。
「でも、別の場所で戦闘が起きているからって、君たちが守っている市民を置き去りにしないで」
何人かの生徒が頷く。
「了解」
再び大きな爆発が広場を揺さぶった。
いくつかの壁から、薄い埃がぱらぱらと落ちてくる。
今度は、誰一人として声を上げなかった。
エリスはもう一度、群衆を見渡した。
「最後は……」
一度、言葉を切る。
「エンジェル」
最前列にいた四人の姿が、エリスの目に留まった。
二人は男性で、残る二人は女性。全員が背中に一枚ずつ、白い翼を広げている。
エリスは階段を一段下りた。
「あなたたちは、しばらく私とここに残って」
一人のエンジェルが瞬きをする。
「ここに?」
「ええ」
エリスは自分を指してから、三つの異なる方向を示した。
「私が三つのイージス・フィールドのメインアンカーになる」
それから、目の前の四人を見つめる。
「私がここにいる限り、たとえ第一層の一部が破壊されても、すぐに修復できる」
一人の女性エンジェルが、遠くに見える三つの桃色のドームへ目を向けた。
「じゃあ、私たちは第二層を用意する?」
「そう」
エリスは薄く微笑んだ。
「第一層が一箇所で破られても、私なら修復できる。でも、その間に破壊がそのまま核まで届かないように、別の防護も必要になる」
四人のエンジェルは互いに顔を見合わせた。
やがて、そのうちの一人が前へ出る。
「分かりました」
「いいわ」
エリスは再び広場全体へ向き直った。
「残りのみんなは、もう行っていい」
数百人の生徒たちが、それぞれの集団へ向かって動き始める。
先ほどまで広場を埋め尽くしていた集団は、やがて整然とした流れへ変わっていった。
タイタンたちは広場の外へ向かって走り出す。
獣人は一足先にそれぞれ別の地点へ駆け出し、エルフとヒューマンも複数の経路へ散っていく。
ドラゴンキンは低い建物の上へ跳び乗り、道を短絡する。
フェイの姿をしたスピリットキンは翼を広げ、橋の上を低空で飛び抜けていく。
その一方で、デーモンとヴァンパイアは、次々と閃くテレポートの光の中へ消えていった。
数秒もしないうちに、それまで数百人の生徒で埋まっていた広場は、すっかり空き始めた。
足音が次第に遠ざかっていく。
翼の羽ばたきが空気を震わせる。
その場に残っているのは、エリスの近くに立つ四人のエンジェルだけだった。
エリスは短く息を吐いた。
視線を東、西、そして南の三方向へ向ける。
彼女の周囲に浮かぶ四つのイージス・シャードが、ゆっくりと動き始めた。
そのうち一つはエリスのそばに留まる。
残る三つはそれぞれの位置へ移動し、各地区へ向かって飛び立つ準備を始めた。
その下では、さまざまな種族の生徒たちがすでにアストラヴェル各地の道へ散っている。
遠くでは、まだ煙が立ち上っている。
中心地区の建物の向こうから、再び爆発音が響いた。
エリスは手を持ち上げる。
桃色の光がその掌に集まり、上部に螺旋状のクリスタルコア、その両側に翼を模した装飾を備えた一本のイージス・ランスを形作った。
その視線は、これから守ることになる三つの地区へ向けられたままだった。
「始めましょう」




