第九十話
***「グォォォォォォッ!」***
最初の咆哮が、闇を切り裂いた。
続いて、二つ目。
三つ目。
四つ目。
数秒もしないうちに、その声はあらゆる方向から響き始めた。
荒々しい咆哮に混じって、生き物のものとは到底思えない絶叫が重なる。カオス・タイドの中から動き始めた足音が、大地を震わせていた。
カオスの軍勢が進み始める。
数千もの異形が、一斉に黒い水溜まりから這い出していく。
先頭を走る個体たちはあまりにも速く、その身体はほとんど黒い影へと変わっていた。
ヴォイドリングは四つの脚を低く構え、鎖から解き放たれたばかりの捕食者のように地面を駆け抜けていく。身体を覆う黒い層は、脚が地面を叩くたびに震え、その頭部に埋め込まれた紫色のコアが、不規則なリズムで明滅していた。
彼らは一列には並ばない。
あらゆる方向へ散らばっていく。
左へ。
右へ。
中には互いの身体を構わず突き抜けていくものさえいたが、それでも再び前方へ向かって疾走していった。
その群れの中で、ひときわ背の高い影が動き始める。
タイド・ストーカーが、その腕の一つを振り上げた。
***ザシュッ!***
刃のように長く伸びた爪が、空気を薙ぎ払う。
続いて、何体もの個体がそれに追随した。
***ザシュッ! ザシュッ!***
数十もの黒い刃が一斉に翻り、ヴォイドリングの群れを掻き分けていく。頭部には巨大な黒い目が一つだけ埋め込まれ、その周囲を取り巻く紫色の光が、虚無の中で燃える熾火のように脈動していた。
ヴォイドリングを飛び越えていくものもいれば、異様なほど長い身体を引きずるように走るものもいる。その腕が振り抜かれるたび、それは目の前にあるものすべてを引き裂かんばかりの斬撃に見えた。
しかし、すべてのカオスが同じ速度で動いているわけではない。
はるか後方には、数体のアビス・レイスがいた。
その身体は地面すれすれを浮遊し、下半身は絶えず渦巻く霧の尾へと変化している。背後から伸びる細い触手が、身体の動きに合わせてゆらゆらと揺れていた。
彼らは走らない。
足音も一切しない。
ただ、次第に密度を増していく軍勢の流れに沿うように、ゆっくりと前進していく。
顔に浮かぶ、目のような形をした紫色のコアが、無数の怪物の群れの中で光を放っていた。
そのとき、不意に重い振動が大地を伝わってきた。
***ズゥン。***
巨大な脚が、地面を踏みつける。
タイド・ベヒーモスが動き始めた。
その巨大で重量のある身体が一歩進むたび、まるで大地へ巨大な槌を叩きつけたかのような衝撃が響く。黒い骨と肉の層が擦れ合い、身体が前へ移動するたびに軋む。その隙間からは紫色の光が漏れ出していた。
もう一歩。
***ズゥン。***
再び大地が震える。
何体かのヴォイドリングは、その巨体が群れの間を通り抜けるたびに、進路を変えざるを得なかった。
それでも、軍勢の流れは途切れない。
動き続ける怪物たちの隙間から、何かが跳び出した。
カオス・スポーンが片手を地面へ叩きつける。
細い身体が、両足を完全に地面へつけるよりも早く跳ね上がった。
そして、もう一度跳ぶ。
その長い四肢は、人間の身体ではあり得ない角度へと折れ曲がりながら動いていた。中には動く途中で身体の一部が外れてしまうものさえあり、それは一瞬だけ宙に浮かんだあと、再び本体へと戻っていく。
次の跳躍で、その身体は遥か前方へと飛んだ。
別のカオス・スポーンが後に続く。
一体。
二体。
数十体。
互いを飛び越え、落下し、そして予測のつかない動きで再び跳び上がる。頭部のコアから放たれる紫色の光が、絶えず形を変え続けるカオスの群れの中で明滅していた。
軍勢全体が、なおも進み続ける。
命令はない。
号令もない。
彼らの歩みを統率する声も存在しない。
それでも、すべてが同じ方向へと動いていた。
前へ。
その先で待つ世界へ向かって。
そのとき、後方から低く重い音が響き渡った。
***「グルルルルルルルルォォォォォォォ――」***
それは咆哮ではなかった。
生き物の声ですらない。
もっと巨大な何かが、動き始めていた。
軍勢の後方に広がるカオス・タイドが、震え始める。
メルモラの母を形作る巨大な構造体が、動き始めた。
だが、それはすぐに目で捉えられるような動きではなかった。
まず、身体の中央を縦に走る赤いコアが、これまで以上に強く脈動する。
その光が構造体の表面全体へと走り、亀裂を通り抜け、全身を覆うカオスの層へと広がっていく。
メルモラの母を取り巻く黒い質量が震え、その周囲にそびえる山々までもが揺れ始めた。
すぐそばにいるカオスの軍勢は、それでもアストラヴェルへ向かって進み続けている。
だが、活動を始めたその構造体を前にすると、彼らの存在はあまりにも小さく感じられた。
メルモラの母が、前へと動く。
その巨大な垂直構造体全体が、もともと存在していた場所からゆっくりとずれ始める。それに伴い、赤いコアの周囲を取り囲む巨大なリングが、ゆっくりと回転していった。
メルモラの母のコアから放たれる赤い光が、さらに強くなる。
それは、何かの生物が歩いているような動きではなかった。
あまりにも巨大で、この世界へと存在そのものを移し替えている何か。
そうとしか呼べないものが、動いているようだった。
その轟音がまだ止まらない中、遠くからアインの声が聞こえてきた。
落ち着け。
「俺たちの番が来ただけだ……」
ラインマーが、数歩先に立っていた。
「そうみたいね」
アインの顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「もう待つ理由はない」
「始めましょう。戦いを」
再び短い静寂が、二人の間を満たした。
ふと、アインの意識が別の方向へ向く。
前ではない。
上だった。
わずかに顔を上げる。
はるか頭上、雲間に浮かぶハイ・サンクタムが、光を放ち始めていた。
一つ。
二つ。
その数は、次々と増えていく。
高空に八つの黄金色の光が現れ、小さな雲の層を突き抜けながら、制御された軌道でゆっくりと降下してくる。
八本の光の軌跡が、空を切り裂いた。
アインはしばらく、その光景を見つめていた。
「……ああ」
そのうちの一つが、他よりも速く動いた。
一つの影が、隊列から飛び出す。
***ヒュンッ!***
ニア・ソレンヌの背に装着されたエーテル・プロパルション・パックが点火した。
そのまま、彼女は鋭く下方へ急降下する。
数メートル下では、ミラ・ヴォルカがなおも自由落下を続けていた。
「ニ――」
ニアがさらに速度を上げる。
ミラの横を通り抜けた瞬間、空中で身体を翻し、そのまま少女の落下軌道の真正面へと回り込んだ。
「乗って」
ミラはすぐに、彼女の装備の後部を掴む。
「捕まえた」
「しっかり掴まって」
「了解」
エーテル・プロパルション・パックが再び強い推進力を噴き出す。
二人の身体は、降下軌道から一気に離れていった。
残る六人も、高空から続いて降下してくる。
サイラス・コヴンは、周囲を流れるレゾナンスの流れを利用しながら、空中で自身の身体を安定させていた。空中での身体の制御には、余計な動きが一切ない。
レオン・アグレストは、より自由に身体を落下させていた。白い髪と獅子の耳が、次第に強くなる風を受けて大きく揺れている。
レイン・ヴァルキュールは、身体を制御された姿勢に保ちながら降下していた。白いマントが背後ではためいているが、その動きが彼のバランスを乱すことはない。
キラ・ヴァスペラは何度か身体の位置を調整し、ようやく空中での重心を定めた。
キャシアン・エアウィンには、そのどちらも必要なかった。
背中から、一対の翼が大きく広がる。
もはや、彼は落下していない。
飛んでいる。
その少し上では、エリス・ヴァレンシアが彼らの間を静かに浮遊していた。
風に髪を揺らしながら、彼女は両手を掲げる。
その周囲に、桃色の光が集まり始めた。
一枚のイージス・シャードが形成される。
続いて、二枚目。
さらにいくつもの欠片が、彼女の周囲に現れていく。
大きな盾のような形をしたそれらが空中に並び、灰色の金属表面を、表面に流れる桃色の光が照らしていた。
一枚のイージス・シャードが、サイラスの真下で停止する。
もう一枚が、レオンの下へ。
続いて、レインとキラの下にも配置される。
「それを使って」
エリスが告げる。
レオンが先に着地した。
「分かった」
レインはただ頷く。
キラもすぐに位置を取った。
やがて、八人全員が空中へ集結する。
はるか下には、アストラヴェルの街並みが広がっていた。
だが、この高さから見る街は、はるかに小さく見える。
それでも、アストラヴェルの外側に存在する何かが、彼ら全員の視線を同じ方向へと引き寄せていた。
メルモラの母。
その巨大な構造体は、山々の間をなおも移動し続けている。
身体の中心で輝く赤いコアは、世界の残骸の中に閉じ込められた太陽のように燃えていた。
***ゴォォォォォン……***
再び、レゾナンス・リングが響き渡る。
人間の耳ではほとんど捉えられないレゾナンスの波が、空を覆うように広がっていく。
アストラヴェルのはるか前方で、紫色の光点が次々と浮かび始めた。
一つ。
五つ。
数十。
その数は増え続け、遠くからではもはや数え切れないほどになっていく。
すべてが、こちらへ近づいていた。
ミラが顔を上げる。
「じゃあ、あれが大きな脅威……」
ニアはすぐには答えなかった。
その視線は、山々の間にそびえる巨大な構造体へと釘付けになっている。
レオンが目を細める。
「デカすぎるだろ……」
キラは答えなかった。
その視線は、次第に視界を埋め尽くしていく紫色の光点へと向けられていた。
「紫色の光、全部あの怪物たちなの?」
「ただの怪物だけじゃない」
レインが静かに答える。
キャシアンは一度だけ翼を羽ばたかせ、高度を維持する。
「カオスの波が、こんなことになるのは初めてだ」
サイラスは、なおも黙っていた。
その目が、眼下の戦場全体を静かに見渡していく。
増え続ける異形の数。
そして初めて、その表情が真剣なものへと変わった。
「……違う」
ようやく、サイラスが口を開いた。
「これは、ただの敵対行動じゃない」
エリスが手を上げる。
「それなら、まずは何を相手にしているのか確かめましょう」
彼女の目の前に、桃色の光が集まり始めた。
透明なパネルが形成され、その表面を無数のレゾナンス記号が高速で流れていく。
エリスは、遠方にそびえる巨大な構造体へと解析を向けた。
「ターゲットロック」
いくつもの情報が表示される。
解析は数秒にわたって続いた。
そして、すべてが停止した。
エリスが眉をひそめる。
「……え?」
パネルが明滅する。
**ERROR.**
エリスは、もう一度処理を開始した。
レゾナンス記号が再び動き出す。
**ERROR.**
「再識別」
パネルの光が突然強くなる。
内部の記号がさらに激しく回転し、配列を失っていく。その直後、表面に一本の亀裂が走った。
***ピシッ。***
エリスの身体が固まる。
続いて、別の亀裂が走った。
***ピシッ。ピシッ。***
次の瞬間には、パネル全体が無数の亀裂に覆われていた。
エリスが反射的に後退すると同時に、パネルは光の破片となって砕け散る。
「あり得ない……」
その破片は、ゆっくりと空中から消えていった。
「解析を拒絶された」
ミラがエリスを見る。
「拒絶?」
「単純に読み取れないんじゃない」
エリスは、先ほどまでパネルが存在していた場所を見つめたままだった。
「私のシステムは、あれを識別しようとした」
短く息を吸う。
「その結果、システムそのものが破壊された」
誰も、すぐには答えられなかった。
レオンが唾を飲み込む。
「じゃあ、俺たちはあれが何なのかすら分からないってことか?」
エリスは首を横に振った。
「分からない」
キラが拳を握りしめる。
「信じられない……」
「じゃあ……どうすればいいの?」
キャシアンは、再びメルモラの母へと視線を向けた。
「あれほど巨大なものが、このままこっちへ向かってくるなら……」
ミラが手にしたキャノンを握り直す。
「撃ってみる」
「やめろ」
サイラスの声が、即座にその言葉を遮った。
ミラが振り向く。
「どうして?」
「まだ何の情報も分かっていない」
サイラスは、遠方の巨大な構造体を指差した。
「安全な距離も、守りの能力も、その仕組みも、攻撃に対してどう反応するのかさえ分からない」
その視線は、メルモラの母から離れない。
「それを一つも知らないまま攻撃するなら、俺たちは死ぬための一番早い方法を選ぶことになる」
ミラが不満そうに顔をしかめる。
「じゃあ、何もせずに黙ってるの?」
サイラスは小さく息を吐いた。
「違う」
「ハイ・チャンセラーの命令通り、しばらくはアストラヴェルを守ることに集中する」
その視線が、アストラヴェルへと移る。
「俺たちは、エリスの識別システムですら理解できなかったものを、いきなり倒すためにここへ送られたわけじゃない」
サイラスは一瞬、言葉を止めた。
そして視線を下へ向ける。
アストラヴェルの建物群を越え、その先へ。
何かが、彼の注意を引いた。
街の一角にある通り。
そこに、いくつかの人影が建物の間に立っている。
ラインマー。
カエラ。
アイン。
そして、ラン。
サイラスが目を細める。
「……待て」
「もしかして……?」
他の者たちも、彼の視線を追った。
「どうしたの?」とエリスが尋ねる。
サイラスは、すぐには答えなかった。
出発前に交わした会話が、脳裏に蘇る。
ハイ・チャンセラー、アウレリアの声。
*アストラヴェルに到着したら、まずラインマーを探しなさい。*
*彼はかつて、この街の防衛を指揮したことのある指揮官の一人よ。*
*状況が悪化したら、彼の言うことには何であれ従いなさい。*
サイラスが息を吐く。
「チャンセラーが言っていた」
彼は下を指差した。
「ラインマー隊長が、あそこにいる」
ミラがすぐに下を見る。
「どれ?」
「あれだ」
ニアが目を細める。
「……見えた」
レインは黙ったままだった。
キャシアンが少し高度を下げ、レオンもそれに合わせて近づいていく。
しかし、彼らが動き出すより先に、ラインマーが顔を上げた。
「新しく来た連中も、俺が相手をしなきゃならないのか?」
空を見上げながら、アインが軽い調子で答える。
「ハイ・サンクタムから二つのチームね」
ラインマーは、すぐには答えなかった。
アインは、再びラインマーへと視線を戻した。
「本当に、あいつらまで巻き込むつもり?」
その笑みが、わずかに深くなる。
「必要ない」
ラインマーの答えには、一切の迷いがなかった。
アインが彼を見る。
「どうして?」
「奴らじゃ、お前には決して勝てない」
アインの笑みは変わらない。
「……おお」
ラインマーは続ける。
「弱いからじゃない」
「ただ、まだ自分たちが何を相手にしているのか分かっていないだけだ」
アインが小さく頷く。
「その通り」
「そこが問題なんだ」
アインの口から、小さな笑いが漏れた。
その答えに、どこか満足したようにも見える。
「……意見が合ったね」
ラインマーが一歩前へ出る。
「俺たちの戦いは、ここじゃない」
アインが黙る。
ラインマーは続けた。
「アストラヴェルで戦えば、最初に犠牲になるのはこの街だ」
アインが、わずかに首を傾ける。
「じゃあ、あいつらを気にかけてるの?」
「俺が守るべきものを、気にかけているだけだ」
ラインマーの目が冷たくなる。
アインの笑みが、さらに広がった。
「お前の相手は、俺だ」
ラインマーが胸の前に両手を構える。
「他にはいない」
その瞬間、アインの顔には初めて、はっきりとした歓喜が浮かんだ。
「気に入った」
冷たい光が、空中に集まり始める。
一本の針のような小さな欠片が、ラインマーの右肩の上に形成された。
カエラが、それにすぐ気づく。
「旦那様……」
「聞け」
ラインマーがカエラへと視線を移す。
その声が、鋭く引き締まった。
「今から、アストラヴェルをお前に任せる」
カエラが彼を見る。
わずかに驚いた表情を浮かべた。
「私に?」
「ああ。他の誰かを探している時間は、もうない」
ラインマーの視線は、彼女から離れない。
「ここで俺が頼れるのは、お前だけだ」
カエラはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「分かりました……」
「何があっても、アストラヴェルを守れ」
「どこから来ようと、奴らをアッパー・ディストリクトに近づけるな」
その眼差しが鋭くなる。
「そこだけは、絶対に落とすな」
カエラは、その言葉の意味をすぐに理解した。
レプリカ・ツリーが、そこにある。
「何としてでも」
ラインマーは続ける。
「アッパー・ディストリクトを守るだけじゃ足りない。アストラヴェル全体を、あらゆる方向から守れ」
視線が、各地区の通りへと走る。
「主要道路、北部地区、東部地区、西部地区、南部地区……そして街の外縁にある防衛線まで。奴らが僅かな隙間からでも侵入できる場所を、一つも残すな」
カエラが頷く。
「では、ハイ・サンクタムから来る部隊は?」
「必ず降りてくる」
ラインマーが、再び彼女へ視線を戻す。
「もし奴らが俺を探して来たら、さっき俺が話した通りに状況を説明しろ」
カエラは静かに頷いた。
「それと、もう一つ」
ラインマーの声が、さらに重くなる。
「決して、アストラヴェルから外へ出させるな。これが俺の最後の命令だ」
カエラがわずかに眉をひそめる。
「たとえ、外へ出たいと強く要求しても?」
「駄目だ」
ラインマーがアインへと視線を向ける。
「今は……誰一人としてアストラヴェルから出してはいけない。街の外は、あまりにも危険すぎる」
カエラはしばらく黙っていた。
やがて、わずかに身を屈める。
「旦那様の命令に従います。私にできる限り、務めてみせます」
ラインマーが小さく頷く。
そして、再びアインへと視線を向けた。
(こいつを、この街の外へ連れ出さなければならない)
(アインがアストラヴェルにいる限り、俺は奴の動きを制限できない)
(この戦いが街の中で起きれば、奴の攻撃一つ一つが、あいつらにとって災厄になりかねない)
ラインマーは、静かに息を吐いた。
(少なくとも、十分な距離まであいつを引き離すことができれば、カエラも防衛の指揮を執るための余裕を持てる)
(そして、もし時間を稼ぐことができれば……)
その思考は、すぐに一つの名前へと行き着いた。
(エレノア)
(地下界で、いったい何をしている?)
(どうして、まだ戻ってこない?)
ラインマーは眉をひそめる。
(アストラヴェルは、もうこんな状況になっている。まさか、まだ待たなければならないとは言わないだろうな)
鼻から息を吐き、込み上げてくる苛立ちを抑える。
(どちらにせよ、エレノアが戻っていない以上、今は頼りにできないものとして考えるしかない)
たとえ自分が倒れても、アストラヴェルの防衛がその場で終わるわけではない。
まだカエラがいる。
そして、ハイ・サンクタムから来る部隊もいる。
もしエレノアがすべてが手遅れになる前に地下界から戻ってくれば、街を守るための戦力はさらに増える。
(まだ可能性が残っている限り……)
(アストラヴェルは、まだ終わっていない)
カエラがアインへと視線を向ける。
アインは何も言わなかった。
ただ薄い笑みを浮かべたまま立っている。ラインマーの計画に対して、まるで異論を示す様子もない。
ラインマーが再びカエラを見る。
「よし」
今度の声は、先ほどよりも落ち着いていた。
「全員を頼む」
カエラは力強く頷く。
「分かりました」
ラインマーは、それ以上何も言わなかった。
その意識は、再びアインへと向けられる。
その数歩後ろでは、ランが静かに立っていた。
アインが振り返る。
「ラン」
ランがすぐに顔を上げる。
「はい」
「これからは、お前が全軍の指揮を執れ」
ランは言葉を失った。
カエラと同じように、わずかな驚きがその表情に浮かぶ。
「あなたは、どこへ?」
アインは答えなかった。
その視線は、依然としてラインマーへ向けられている。
「全軍を動かせ。アストラヴェルをあらゆる方向から圧迫しろ。ただし、奴らが隊列を乱さないようにしろ。生じた隙はすべて利用して、あの街の防衛が崩れるまで押し続けるんだ」
ランは、その命令を理解した。
「承知しました」
***シュッ!***
突然、ラインマーの側方から一本の氷の針が飛来した。
アインが素早く片手を上げる。
針の先端が、その左手の掌の中でぴたりと止まった。
アインの顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「やっぱりね」
もう一度、ランへと視線を向ける。
「ここからのアストラヴェルのことは、お前に任せる」
ランが答えるより早く、ラインマーの姿が消えた。
走ったわけではない。
アインの周囲の空間が、突然、一点へと引き寄せられる。
その身体が前方へと引っ張られた。
まるで、世界そのものがラインマーのもとへと彼を引きずっているかのように。
***ゴォンッ!***
アインが消える。
ラインマーも、そのまま彼とともに消え去った。
街路に残されたのは、わずかな風だけだった。
カエラが鋭い視線をランへ向ける。
ランは、わずかに視線を落とした。
「……今、分かりました」
はるか上空では、サイラスもまた、二人の姿が消えた場所を呆然と見つめていた。
「何だ!?」
眉間に皺が寄る。
「どこへ行った?」
誰も、その問いに答えなかった。
空中に取り残されたまま、街路に漂っていた空気が変わっていく。




