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第八十九話

アストラヴェルの上空に広がる赤い空を、風が吹き抜けていった。


それほど強い風ではない。それでも、セラフィーヌの黒いスカートの裾を揺らすには十分だった。


チェリストの長い紫がかった髪も、吹き抜ける風に合わせて静かになびいている。


一方、オルガニストのブランコを彩る小さな花々も、風に揺られていた。いくつかの花びらが離れ、空へと舞い上がっていく。


誰も口を開かなかった。


ただ、目の前に広がる世界を見つめている。


少なくとも、そのうちの二人は。


セラフィーヌは両目を覆う包帯を巻いたまま、静かに立っていた。その表情に変化はなく、まるでまだ誰の耳にも届いていない何かへと耳を澄ませているかのようだった。


遥か彼方では、メルモラの母の巨大な構造物が、今なおそこに立ち続けている。


静かに。


まだ動くこともなく。


それでも、その存在だけでアストラヴェルの上空は、どこか見慣れないものへと変わっていた。


一方、ラインマーとアインもまた、今なお互いに向き合っていた。


二人の会話は、とうに終わっている。


もう、言葉を交わす必要はなかった。


風が二人の間を通り抜け、ラインマーのローブを揺らし、アインの白い髪を後方へとなびかせる。


どちらも視線を逸らさない。


ただ待っていた。


もはや、どちらが先に口を開くかではない。


このすべての後に、何が訪れるのか。


二人が待っているのは、それだけだった。


アストラヴェルは、あまりにも静かだった。


先ほどまで通りを埋め尽くしていた人々は、次第に身を隠し、そこから離れ、あるいはどうすればいいのかも分からず立ち尽くしている。空を見上げる者もいれば、遥か彼方にそびえる巨大な存在を見つめる者もいた。


またある者たちは、ただ寄り添い、大切な人の手を強く握っていた。


これから何が起こるのか、誰にも分からない。


それでも、その感覚だけはすでに街全体へと広がっていた。


何かが、近づいている。


広々とした草原の一角で、マリアーネは一人、座り込んでいた。


両手でネックレスを握りしめ、それを胸元へと強く押し当てている。俯いた頭から長い髪が垂れ、一部の顔を隠していた。


泣いてはいない。


その背後で、家の扉が開いた。


二つの人影が駆け出してくる。


「マリアーネ様?」


アステリアの声は小さく、呼びかけというよりも心配の色を帯びていた。


その後ろから、エアリンも続く。


マリアーネの姿を目にした瞬間、二人の足取りはゆっくりになった。


だが、近づく前に、エアリンの視線は空へと向けられる。


その目は、遥か彼方にそびえ立つ巨大な構造物で止まった。


「……そんなはずが」


アステリアもその視線を追うように振り返る。


「あれ、何なの? あんなに大きなものが……」


エアリンはすぐには答えなかった。


今もなお、その巨大な存在を見つめている。


「あれほどの大きさのものが、本当に存在するなんて……」


再び風が吹き、周囲の草を揺らしていく。


やがて、アステリアは視線を逸らした。


「いえ。今は、それよりも……」


先に一歩を踏み出す。


そして、そのまま少しだけ駆けた。


少し遅れて、エアリンも後を追う。


「マリアーネ様……」


返事はない。


それどころか、マリアーネの指はネックレスをさらに強く握りしめていた。


「無理……」


アステリアはその隣に、ゆっくりと膝をついた。


「大丈夫ですか?」


マリアーネは目を閉じた。


数秒が過ぎる。


それから、ゆっくりと頭を動かした。


小さな頷き。


アステリアは、それ以上何も言わなかった。


エアリンも同じだった。


二人はただ彼女を見つめていた。


その短い答えだけで、すべてが大丈夫なわけではないと伝わっていたからだ。


そこから遥か離れた場所。


ハイ・サンクタム。


アストラヴェルの軍勢。


メルモラの母。


すべてが、それぞれの場所に揃っていた。


セラフィーヌの唇が動く。


「すべての駒は、それぞれの位置についた」


再び、静寂がその場を包み込む。


セラフィーヌの視線は、変わらず前方へと向けられていた。


「そして今……舞台を始めることができる」


チェリストは目を閉じた。


「音楽は魂の言葉。私たちに何かを感じるよう教えるものではない。ただ、これから何を感じることになるのかを思い出させるだけ」


その指先が、ずっと手にしていたヴァイオリンの胴へとゆっくり触れる。


その仕草は穏やかで、まるで長年の友人に語りかけるかのようだった。


彼女はその楽器を左肩へと乗せた。


顎と頬を、深い色合いの木へとそっと預ける。


わずかに首を傾けた。


そして、最初の音を奏でる準備をする。


弓の先端が、あと少しで弦に触れようとしていた。


チェリストは静かなままだった。


厳かに。


まるで周囲の世界すべてがゆっくりと消えていき、自分自身と、生まれる時を長く待ち続けていた音楽だけが残されていくかのように。


弓が持ち上げられる。


チェリストはゆっくりと目を開いた。


「人は……失ったときに泣く」


微笑みはなかった。


ただ、その声は柔らかく、囁きにも似ていた。


「大切なものを、自分のそばから奪われたときに泣く」


弓は、弦のすぐ上で止まる。


「けれど、悲しみは失った瞬間に生まれるものではない」


風が吹き、彼女の紫色の髪をゆっくりとなびかせた。


「悲しみは、失われようとしているものが、どれほど大切だったのかを知ったときに生まれる」


赤い空を、静寂が包み込んだ。


「だから……」


彼女は再び目を閉じる。


「思い出しましょう」


弓が弦に触れた。


――ンンンンンンンンン……。


長く伸びる一つの音が、静かに響き渡る。


柔らかく。


澄み渡り。


美しく。


何も変わらない。


ただ、ヴァイオリンの音だけが赤い空を貫くように流れていく。


薄暗い家の中で、一人の母親が子供を強く抱きしめていた。


小さな泣き声が、狭い部屋を満たしている。


テーブルの上には請求書が積み重なり、食料の蓄えは少なくなる一方だった。明日がどうなるのか、何一つ分からない。


もう、どうすればいいのか分からなかった。


――ンンンンンンンンン……。


その音が聞こえた。


子供の泣き声が、一瞬だけ止まる。


母親もまた、動きを止めた。


ほんの一瞬。


まるで世界が、今しがた長い息を吸い込んだかのように。


――ンンンンンンンンン……。


二つ目の音が続く。


より深く。


より遠くへ。


それでも、どこまでも柔らかく。


別の場所では、一人の少女が両親の墓の前に立っていた。


その手には、一輪の白い花。


背後には赤い空が広がっていたが、少女の視線は墓石に刻まれた名前から離れなかった。


ゆっくりと、その花を置く。


風が髪を撫でていった。


そして、再びヴァイオリンの音が響く。


――ンンンンンンンンン……。


少女は顔を上げた。


なぜだか、胸の奥が少しだけ締めつけられる。


次の音が流れ出す。


草原は風に合わせて揺れ、葉が静かにざわめいた。


まだ、何かがおかしいようには見えない。


けれど、一つの音と次の音の間にある静けさが、少しずつ長くなっていく。


まるで世界そのものが、耳を澄ませ始めたかのように。


ある神殿の中では、一人の女性が法を司る者の像の前で跪いていた。


今も両手を重ね合わせたまま。


声にはならない祈りが、静かに紡がれていく。


どうか、守ってほしい。


どうか、無事でいてほしい。


愛する人たちが、今日という一日を乗り越えられるように。


――ンンンンンンンンン……。


再び、その音が響いた。


女性は、さらに深く頭を垂れる。


祈りそのものは変わらない。


それでも、なぜだか一つ一つの言葉が、以前よりもずっと重く感じられた。


一方、チェリストの弓は動き続けていた。


柔らかく。


優雅に。


急ぐこともなく。


かつて、あまりにも美しかった何かを偲ぶために、一曲を奏でているかのように。


次の音が生まれる。


アストラヴェルを越え。


山々を越え。


谷を、そして人々の暮らす場所を越えて。


戦場から遠く離れた場所へ。


何かを待ち続ける者たちからも、さらに遠くへ。


そして、初めて――


世界が、応え始めた。


谷を分けるように流れていた川が、ゆっくりとその勢いを失っていく。


水はまだ流れている。


だが、その流れは少しずつ弱くなっていた。


まるで、遥か地下にある何かが、その命を吸い取っているかのように。


――ンンンンンンンンン……。


広大な草原では、野に咲く花々の色が少しずつ褪せていく。


太陽へと向けられていた花びらは、次第に下を向き始めた。


まだ枯れてはいない。


まだ死んでもいない。


それでも、その命の何かが、すでに離れ始めていた。


次の音が続く。


地面の表面に、細い亀裂が走った。


最初は、ただ一本の小さな線。


それが、やがて枝分かれしていく。


草原を吹き抜ける風もまた、変わり始めた。


葉が枝から離れていく。


一枚。


二枚。


そして数十枚。


数百枚。


そのすべてが、もはやただの風とは思えない空気の流れに乗って、どこかへと運ばれていった。


アストラヴェルの人々は、その音がどこから聞こえているのか知らなかった。


それでも、確かに聞こえていた。


同じ旋律を。


柔らかく。


穏やかで。


美しい音を。


だからこそ、その魂の内側で、少しずつ不安が芽生え始めていた。


これから何か良いことが待っているときに、誰があんな音楽を奏でるというのだろう。


ラインマーは、胸の奥が強く張り詰めるのを感じていた。


その感覚は、もっと説明しがたい何かから来ていた。


まるで世界そのものが、まだ本当に失われてはいない何かを悼んでいるかのようだった。


その正面で、アインが薄く微笑む。


やがて、その視線は空へと向けられた。遥か彼方から響く音楽を追うように。


そして再び、ラインマーを見つめる。


「ついに……」


その呟きは、風に掻き消されそうなほど小さかった。


「……始まったか」


赤い空の下、チェリストの弓はなおも弦の上を走っていた。


レクイエムは、より深い旋律へと入っていく。


そして、それと同時に……


何かが、遥か地下で動いた。


アストラヴェルから遠く離れた場所。


メルモラの母がそびえ立つ一帯を囲む、高い山々の間で。


その構造物の真下。


地面を、黒い亀裂が走った。


その隙間から、粘り気のある液体がじわりと滲み出してくる。


水ではない。


血でもない。


赤い空の光すら映し出せないほど、その色は深い闇に染まっていた。


カオス・タイド。


最初は、ほんのわずかだった。


地下から流れ出す、細い流れにすぎない。


だが、それは止まらなかった。


少しずつ、その量を増していく。


山の麓から流れ出し、斜面を伝い、その下に広がる谷へと流れ込んでいった。


その流れが通り過ぎた草は黒く染まり。


触れられた大地は、色を失っていく。


黒い水面が進み続ける中、木々の根も一つ、また一つと飲み込まれていった。瞬く間に葉は乾き、地へと落ちる。幹には亀裂が走り、折れ、次々と倒れていった。


流れが遠くへ進むほど、呑み込まれていく土地も広がっていく。


カオス・タイドは、他の場所から現れたわけではない。


ただ、一つの源から。


ゆっくりと這うように広がっていく。


まるで海を離れた満ち潮が、大地を少しずつ呑み込んでいくかのように。


――ンンンンンンンンン……。


チェリストの弓が、再び弦を擦った。


柔らかく。


まるで心を落ち着かせるように。


そして、世界は再びそれに応えた。


黒い流れは、さらに勢いを増していく。


谷底を満たし、岩を越え、やがてその一帯と、さらに広い大地をつなぐ道筋へと流れ落ちていった。


谷の端に立つ木の柵が、土台を呑み込まれながらゆっくりと傾いていく。


カオス・タイドは、それでも進み続けた。


少しずつ、大地を呑み込みながら。


谷を越え。


森を越え。


これまで生命に満ちていた土地へ向かって、なおも広がり続ける。


急ぐことはない。


それでも、それを止められるものは何一つなかった。


そして、黒い水面がメルモラの母の麓からさらに遠ざかっていった、そのとき――


バキン、と。


世界の上空に広がっていた赤い空が、突如としてひび割れた。


一本の亀裂ではない。


紫色の亀裂が一点から広がり、まるで向こう側から何かに打ち砕かれたガラスのように、無数の方向へ枝分かれしていく。


バキン、と。


二つ目の亀裂が走る。


続いて、三つ目。


四つ目。


空の表面が、ゆっくりと開き始めた。


砕けた赤の向こうには、宇宙が広がっていた。


果てのない闇。


その深奥には星々の群れが見え、暗闇の奥でゆっくりと蠢く何かの合間で、淡く瞬いている。


遥か離れたアストラヴェルでは、何人もの住民が同時に空を見上げた。


まだ、何が訪れようとしているのかは見えていない。


それでも、空が割れる音はすでに街の通りにまで届いていた。


何人かが悲鳴を上げる。


青ざめた顔で後ずさる者もいた。


新たな亀裂が通りの真上に走った瞬間、一人の男が抱えていた荷物を取り落とす。


子供たちが泣き始めた。


衛兵たちは武器を構える。


それでも、誰一人としてそれ以上動くことはできなかった。


何を攻撃すればいいのかさえ、彼らには分からなかった。


遥か離れた場所で、馬の手綱を引いていた一人の農夫が、ふいに足を止めた。


馬がいななき、数歩後ずさる。


農夫はゆっくりと顔を上げた。


雲の間を、一筋の長い亀裂が走っている。


「あれは……」


言葉は、そこで途切れた。


――ンンンンンンンンン……。


再び、ヴァイオリンの音が響く。


馬はさらに落ち着きを失っていった。


しかし、恐怖が少しずつ広がり始める中でも、チェリストは変わらず静かだった。


頭は今もヴァイオリンの上でわずかに傾けられたまま。


指先は、先ほどと同じように柔らかな動きで弦の上を移っていく。


怒りはない。


喜びもない。


ただ、長い間弾き続けてきた曲を奏でる者のような、静かな落ち着きだけがあった。


今度は、一つ一つの音がもはや独立してはいない。


一つの音が、次の音を迎える。


さらに別の音が続く。


ゆっくりと、それらは互いに結びついていった。


長い旋律を形作るように。


哀愁を帯びた。


かつて生きていた何かのために奏でられる歌のような旋律。


かつて愛されていた何かのための。


そして今、ゆっくりと終わりへ向かっている何かのための。


先ほどまで色を失い始めていた草原では、野に咲く花々が再び風に揺れていた。


それでも、その花びらを持ち上げるものは一つもない。


残されていた色さえ、少しずつ褪せていく。


別の谷では、先ほどまで流れていた川が、今では岩の間に細い水の筋を残すだけになっていた。


流れは、さらに弱く。


さらに遅く。


そして、ついには――止まる。


最後の水が、岩の隙間から消えていった。


まるでその川自身が、流れるということを少しずつ忘れていくかのように。


――ンンンンンンンンン……。


旋律は続いていた。


そして、メルモラの母の遥か地下では、カオス・タイドがなおも広がり続けている。


黒い水面は、かつて緑に覆われていた谷間を、すでにいくつも呑み込んでいた。


その流れが通り過ぎた森は、少しずつ命を失っていく。


木々は枯れ。


草は黒く染まり。


人々がかつて知っていた大地は、光さえ映し出せないほど深い闇の水面の下へと、ゆっくり沈んでいった。


だが、そのとき。


カオス・タイドの表面が動いた。


風によるものではない。


一つの波紋が広がる。


そして、再び静まった。


続いて、二つ目。


今度は、さらに大きく。


黒い液体の遥か下で、長い影が動いていた。


やがて、何かが内側から水面に触れる。


一本の手が現れた。


その指は異様なほど長く、関節はあるはずのない角度で伸びている。


その手が、水面を掴んだ。


骨と骨の間に、ゆっくりと肉が形作られていく。


まだ完全な形を成していない手の甲から、レゾナンス・クリスタルが生え始めた。


だが、その姿が完成するよりも先に。


その肉体は、再び変わり始める。


肉が蠢き。


骨がずれ。


先ほどまで水面を掴んでいた指はさらに伸び、やがて少しずつ、その形そのものを失っていった。


まるでカオスそのものが、その生き物をどのような姿にするべきか、まだ決めかねているかのように。


そして――


別の波紋が現れた。


一つ。


二つ。


やがて、さらに多く。


カオス・タイドの表面が、あちこちで動き始める。


同時ではない。


理解できるような規則性があるわけでもなかった。


ある場所では、何かが黒い液体の中から、ゆっくりと自らを押し出している。


別の場所では、長い影が水面のすぐ下を移動していた。


そして、さらに別の形が続き始める。


最初に黒い液体を突き破って現れたのは、一体の四足獣だった。


その身体は捕食者を思わせる。


しかし、背骨には結晶のような突起が生え、呼吸するたびにそれらもまた動いていた。


少し離れた場所では、異様に長い手足を持つ痩せた人影が、ゆっくりと水面から身を起こす。


その頭が、こちらへと向いた。


首は、生き物としてあり得るはずの限界をわずかに越えて、さらに回転する。


そして、最初の音が響いた。


咆哮ではない。


たった今形作られたばかりの一体の喉に開いた大きな空洞から、低い振動音が漏れ出した。


大地が震える。


空気が脈打つ。


そして遥か離れた場所では、まだ一定の肉体すら持たない何かの周囲を、紫色の結晶片が浮かび始めていた。


彼らは、どこかからやって来た生き物ではない。


今、この場所で『生まれている』。


カオス・タイドは肉を形作る。


骨を形作る。


生命に似た何かを生み出し、それから自らの形を決めることを許している。


黒い水面が遠くへ広がるほど、その内側から現れる波紋も増えていく。


水面の下を動く影も、さらに多くなっていった。


そしてゆっくりと――それまで破壊だけに覆われていたその地は、別のものへと変わり始めていた。


生まれるための場所へ。


遥かアストラヴェルでは、ラインマーが変わらず立っていた。


アインの視線は遠くへと向けられている。


その顔には、今も薄い笑みが浮かんでいた。


「準備はできたか?」


ラインマーは答えない。


答える必要などなかった。


遥か彼方では、メルモラの母がなおも沈黙を保っている。


カオス・タイドは広がり続け。


その闇の中から、一つ、また一つと新たな形が現れ始めていた。


それでも、アストラヴェルへ向かうものは一体もいない。


まだ。


彼らはただ、そこに立っていた。


まるで、その内側にある何かが、時を待っているかのように。


そのすべてを見下ろす場所で、チェリストは次の旋律を奏でる。


音楽は、さらに厚みを増していた。


それでも、その柔らかさは変わらない。


旋律は空に走る亀裂の間を流れ。


少しずつ命を失っていく大地の上を越え。


音もなく動き続けるカオス・タイドの黒い水面を通り過ぎていく。


そして、新たな音が生まれるたび――


闇の中に、さらに多くの波紋が現れる。


より多くの影が動き。


さらに多くの形が、ゆっくりと起き上がっていく。


だが、誰も襲いかからない。


前へ進むものもいない。


ただ、立っている。


聞いている。


まるで世界そのものが、最初の合図を待っているかのように。


ヴァイオリンは、なおも奏でられていた。


長く。


途切れることなく。


そして、再びアストラヴェルへ。


誰もが同じ音を聞いていた。


ゆっくりと空を満たしていく旋律。


そのレクイエムは空を裂く亀裂の間を流れ、少しずつ命を失っていく大地の上を越え、そして遥か街の外では、なおも広がり続けるカオス・タイドの上を流れていた。


何人かの兵士が、思わず唾を呑み込む。


さらに強く武器を握りしめる者もいた。


ハイ・サンクタムでは、学院の生徒たちがすでにそれぞれの持ち場に集まっていた。


誰一人、口を開かない。


ただ待っている。


耳を澄ませながら。


なぜなら、あの音が変わるたびに、世界もまたそれとともに変わっていくからだ。


遥か上空で、チェリストがゆっくりと弓を持ち上げた。


旋律が途切れる。


ほんの一瞬、静寂が訪れた。


紫の髪が、風に吹かれてゆっくりと揺れる。


その頭は、今もわずかに伏せられたままだった。


彼女は再び、弓を持ち上げる。


最後の一音が生まれた。


――ンンンンンンンンン……。


長く。


深く。


その音は、九つの大陸の空を越えていった。


アストラヴェルの上を。


カオス・タイドに呑み込まれた谷を。


少しずつ命を失っていく森を。


そして、闇の中から生まれたばかりの無数の生き物たちの上を。


やがて、その最後の余韻さえ消え去ったとき――世界は再び静寂に包まれた。


完全な静寂。


まるで、風さえ動きを止めてしまったかのように。


その静けさの中で……


セラフィーヌは、ついに微笑んだ。


すでに、分かっていた。


カオス・タイドは目覚めた。


空は開かれた。


そして、闇の中から新たな生命の形が生まれた。


舞台は……整った。


セラフィーヌはゆっくりと右手を持ち上げる。


その指は、先ほどから傍らにあった指揮棒を握っていた。


指揮棒が持ち上げられる。


さらに高く。


そして、ついに空中で止まった。


セラフィーヌの佇まいが変わる。


もはや、ただ何かを待っているだけの者ではない。


今の彼女は、自らよりも遥かに大きなものを前にして立っていた。


一人の指揮者として。


己のオーケストラを前にして。


その下では、それまでただ立ち尽くしていた生き物たちが、ゆっくりと頭を持ち上げ始める。


一体。


二体。


数十体。


そして、さらに多く。


異なる眼。


異なる肉体。


それでも、そのすべてが一つの方向を向いていた。


アストラヴェル。


そのうちの一体が口を開く。


「グオオオオオオオオオオオオオオッ!」


その咆哮が、空気を震わせた。


続いて、別の咆哮。


さらに、別の声。


そして、また別の声。


わずかな時間で、戦場は一つの種から発せられたものではない無数の音に満たされていく。


叫び声。


怒りの声。


低い振動。


言葉という形を持たない、異質な響き。


カオス・タイドが激しく波打った。


生き物たちが、もがき始める。


前へは進まない。


まだ。


足が大地を踏みしめる。


爪が地面を掴む。


翼が広がる。


巨大な肉体が、その身を起こしていく。


一体、また一体と。


まるで、ついに準備せよという合図を受け取った軍勢のように。


遥か彼方で、アインは今も微笑んでいた。


メルモラの母は、なおも動かない。


そして、そのすべての上で――


セラフィーヌは指揮棒を掲げたまま立っていた。


音楽は、すでに止んでいる。


レクイエムは終わった。


残されているのは、何かが始まる直前、その最後の数秒を満たす静寂だけだった。


そして……


指揮棒が振り下ろされた。


その小さな木の棒が空気を切り裂いても、音は聞こえない。


それでも、世界のすべてがそれを感じていた。


カオスの波。


大地が震える。


亀裂の走る空が、紫の光を放った。


そして、その戦場に立つすべての生き物が――


動いた。


一体ではない。


二体でもない。


すべてが。


まるで一つの拍子が、同じ瞬間にその存在すべてへ届いたかのように。


ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオ――。


世界が轟いた。


光。


空。


あらゆるものが、ゆっくりと色を失っていく。


まるで世界そのものが、闇よりもさらに深い何かに呑み込まれていくかのように。


音が、少しずつ遠ざかっていった。


魔物たちの咆哮。


人々の呼吸。


一つ、また一つと――消えていく。


そして、何もなくなった。


闇。


ただ、闇だけがあった。


その暗闇の中で――セラフィーヌの声が響く。


とても静かに。


まるで囁きのように。


「……始まる」

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