第八十八話
カイデンは、まだその場に立ち尽くしていた。
その目の前では、あの指揮官の姿が、再び閉じた赤い裂け目とともに消え去っている。
誰もすぐには動かなかった。
静寂が続いたのは、ほんの数秒だった。
やがて、柱の配置の中心から空へと伸びていた光が、次第に弱まり始める。
それまで絶えず上昇していた紫と白のエネルギーの流れは、徐々に細くなり、やがて完全に途絶えた。
空に浮かぶ次元の輪は、まだ開いたままだ。
しかし、そこを通して何かが送られてくることは、もうなかった。
カイデンはわずかに眉をひそめ、その変化を見つめる。
「……流れが止まった」
ローワンはゆっくりと盾を下ろした。
「じゃあ、終わったのか?」
カイデンは答えない。
ローワンは、あの指揮官が消えた場所へ視線を向けた。
「本人も、もう任務は終わったって言ってた。だとしたら、俺たちは今、いったい何を見せられたんだ?」
エレナは、なおも警戒の姿勢を崩していなかった。
その視線は、一度たりとも頭上の次元の輪から離れない。
「もしかして……あれが、彼の待っていたもの?」
ローワンが彼女の視線の先を追う。
「何が?」
エレナは少しの間、黙り込んだ。
「……分からない。でも、まだ終わってない気がする」
リサンドラが短く息を吐く。
「もし目的が、あのエネルギーを送ることだけだったなら、どうして今まで私たちを足止めしていたのかしら?」
「俺たちが邪魔だったからじゃないのか?」
「それだけじゃないわ」
リサンドラは片手を持ち上げる。手首の周囲では、薄い魔法陣がまだゆっくりと回転していた。
「本当に私たちの存在が邪魔だったなら、もっと急いでいたはずよ」
ようやくカイデンは空から視線を外した。
その目が、中心部一帯を埋め尽くす卵の群れへと向けられる。
「……そうだな」
何かが引っかかる。
あの指揮官が先ほど取った行動が、気になるわけではない。
むしろ、すべてがあまりにも整いすぎている。
まるで、彼らがここへ到着してから起きた一つ一つの出来事に、最初から決められた順番があったかのように。
カイデンが何かを口にするよりも先に。
ピキッ。
視線が瞬時に前方へと向いた。
遠くにある卵の一つに、亀裂が走った。
突如として静まり返ったダンジョンの中では、その小さな音がやけにはっきりと響く。
四人は即座に、中心部へと意識を戻した。
亀裂は、殻の表面を這うように広がっていく。
そして――
バキッ!
殻が砕け散った。
中から、何かが這い出してくる。
それは四足の生き物を思わせる姿をしていたが、その胴は長く、異様なほどに痩せ細っていた。頭部は身体の比率に対して不自然なほど大きく、開かれた顎の奥には、不規則に生え並んだ何列もの歯が覗いている。
その生き物が、低い唸り声を漏らした。
そして、立ち上がる。
カイデンは目を細めた。
「卵が……」
言い終えるよりも早く、別の卵が割れた。
続いて、さらにもう一つ。
バキッ、バキッ、バキッ!
いくつもの殻が、ほとんど同時に砕け開く。
そこから現れた生き物たちは、どれ一つとして同じ姿をしていなかった。
四足の捕食者のような姿をしていながら、前脚だけが異様に長いもの。黒い骨のような構造物に全身を覆われたもの。そして、六本の脚と、目のない頭部を持つものもいる。
その中でもひときわ大きな卵からは、一対の黒い翼を持つ何かが、ゆっくりと這い出してきた。
その生き物は身を起こす。
そして、翼を大きく広げた。
轟っ、と。
砂埃と黒い残滓が、周囲へ激しく舞い上がる。
「まさか……」ローワンは、すぐさま再び盾を構えた。
翼を持つ生き物は、そのまま空へと飛び上がる。
だが、こちらへ襲いかかってくることはなかった。
それどころか、地上から数十メートルほど上空で動きを止める。
その正面に、一本の細い線が浮かび上がった。
そして、空間が裂ける。
ギィィィィ……。
――ポータル。
その生き物は、そのまま中へ飛び込んだ。
カイデンの動きが止まる。
「……何だ?」
その生き物の姿が消えると同時に、ポータルは閉じた。
「どこへ行った?」ローワンが尋ねる。
誰かが答えるよりも先に、次の生き物が同じ行動を取った。
四足のモンスターの一体が脚を持ち上げる。
だが、前へ踏み出すことはなかった。
その正面の空間が、まるで引き伸ばされた布のように歪む。
そして、裂け目が開いた。
生き物はその中へ入る。
次の瞬間には、姿を消していた。
別のモンスターも、同じような裂け目を開く。
一体、また一体と。
中には遠くまで移動する必要すらないものもいた。ただ自らの前方に空間の裂け目を生み出し、その向こうへと消えていく。
エレナは、次々と現れるポータルを見つめていた。
「私たちを襲ってこない」
「ああ」
カイデンは、自分たちの周囲に次々と開かれる裂け目を一つずつ見据える。
「俺たちが標的じゃないからだ」
リサンドラが彼の方を振り向いた。
「じゃあ、どこへ向かっているの?」
カイデンはすぐには答えなかった。
ポータルが現れる位置や、その動きを注意深く観察する。
二つとして、同じ場所へ繋がっているポータルはない。
だが、どの裂け目も、このダンジョンから外へ出た生き物たちを、それぞれ異なる場所へと送り出していた。
すべてが、この場所の外へ向かっている。
彼らのいる場所から、遠く離れたどこかへ。
「最初から、行き先は決められているはずだ」
カイデンは眉をひそめた。
「誰が決めているのかは、まだ分からない。……それに、正確にどこへ送られているのかもな」
リサンドラが、その視線の先を追う。
「まさか、地上?」
カイデンはゆっくりとうなずいた。
「もし、すべてが終わったあとで、こいつらが外へ解き放たれるんだとしたら……」
視線が、まだ開いたままのポータルの一つで止まる。
卵が割れ始めてから初めて、その表情が明確な緊張を帯びた。
「……ここで起きていることは、最初から俺たちのためじゃなかったってことになる」
「目的は一つだけだ」
ローワンがカイデンを見る。
「アストラヴェル」
「間違いない」
誰も否定しなかった。
先ほどの指揮官の言葉が、再び彼らの脳裏によみがえる。
――破滅の舞台は、すでに幕を開けた。
カイデンは拳を握りしめた。
「最初から、俺たちを始末するつもりなんてなかったんだ」
リサンドラが眉を寄せる。
「ただ、私たちがここに留まり続けるようにすればよかった」
「そして、時が来るまで、あの卵を孵化させておく」
カイデンは小さくうなずく。
だが、その視線は今も、一体ずつダンジョンを離れていくモンスターたちを追っていた。
「……でも、一つだけおかしい」
ローワンが振り向く。
「何だ?」
「もし目的が、本当にあのモンスターたちをアストラヴェルへ送り込むことだけなら……」
カイデンは一度、言葉を切った。
「どうして、今まで俺たちをここに足止めしていた?」
「俺たちに、その過程を邪魔させないためじゃないのか?」
「そうかもしれない」
カイデンはゆっくりと首を横に振る。
「だが、それだけとは限らない」
先ほど去っていった指揮官の姿を、改めて思い出す。
あの男の話し方。
特に、任務は終わったと口にしたときの声。
戦いに勝利した者のようではなかった。
むしろ、何かが計画通りに進んでいることさえ確認できれば、それでよかった者のようだった。
リサンドラも、徐々に彼の考えに気づき始める。
「彼は、すべての卵が孵化する前に行ってしまった……」
「ああ」
「だったら、もしかして――」
グルルルルルルルル――ッ!
突然、地の底から響くような低い轟音が、ダンジョン全体を揺るがした。
足元の地面が激しく震え始める。
リサンドラは、言葉を途中で止めた。
「何……?」
卵で埋め尽くされた一帯の中央で、黒い何かが地表からじわりと滲み出し始める。
水ではない。
かといって、ただの影でもなかった。
カオス・タイド。
濃密な黒い液体は、砕け散った卵の殻の間をゆっくりと広がっていく。
カイデンは即座に一歩後退した。
「何かがおかしい」
今度は、誰もその言葉に疑問を挟まなかった。
黒い液溜まりは、なおも広がり続ける。
地面から突き出た紫色の根を越え、やがて周囲を取り囲む巨大な柱へと這うように伸びていった。
その表面に刻まれた古代文字が、再び光を放つ。
だが、その輝きはもはや、ただ脈打っているだけではない。
ヴゥゥゥゥゥゥン――。
低いレゾナンスが、ダンジョン全体を満たした。
そして、柱が動き出す。
一つ、また一つと、それまでただの崩れた遺構の一部にしか見えなかった巨大な構造物が、ゆっくりとずれ、回転していく。
その配置が変わる。
柱は次第に、彼らを囲むように、より密な円を形作っていった。
エレナが顔を上げる。
「この一帯を閉じ込めようとしているの?」
「まだ分からない」
リサンドラは、自らの手元にある魔法陣へ視線を落とした。
そして、掌を持ち上げる。
その前方に、回転する光が生まれた。
一つの魔法陣が、完全な形で展開される。
しかし、その中心にある空間には何の変化も起きない。
ポータルは開かなかった。
リサンドラは黙り込む。
もう一度、試す。
結果は同じだった。
「……開かない」
カイデンがすぐに振り向いた。
「何?」
「ポータルを作れない」
リサンドラは指を動かし、さらに多くのレゾナンスを魔法陣へと流し込む。
手の周囲の光は、より激しく震え始めた。
それでも、目の前の空間は何一つ変わらない。
「魔法そのものは使える」
彼女は自分の手を見つめた。
「使えないのは……空間のほうよ」
カイデンは答えなかった。
冷たいものが、ゆっくりと背筋を這い上がっていく。
同時に、カオス・タイドが徐々にその高さを増し始めた。
水のように満ちているわけではない。
むしろ、何かが形を求めているかのようだった。
黒い流れは柱を伝い、その表面を包み込みながら、地面に散らばる卵の殻へと伸びていく。
それまで外部からエネルギーを送り込んでいた四つのポータルが、ちらつき始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
そして、すべてが消えた。
プツン。
静寂。
カイデンは、ポータルがあった場所を見つめた。
「出口が……」
「消された」
リサンドラが言葉を継ぐ。
その声には、もう迷いは残っていなかった。
柱が再び動き出す。
しかし今度は、円を形作るためではない。
巨大な構造物は、彼らの間に形成されつつある何かへと、ゆっくり近づいていく。
カオス・タイドは、なおもその高さを増していった。
卵の殻を覆い尽くし。
柱を包み込み。
生きた液体のように、構造物の隙間を流れていく。
そして、一帯の中心に集まった黒い塊が膨れ上がり始めた。
ゆっくりと。
だが、次第にその速度を増していく。
闇の中から、巨大な何かが立ち上がった。
カイデンは数歩後ずさる。
「……あれは何をしている?」
誰も答えなかった。
黒い塊の中から、何かが現れ始めていたからだ。
一つの頭。
続いて、二つ目。
そして、三つ目。
三つの頭部が、ダンジョンの天井へ届かんばかりに高くそびえ立つ。
明確な鱗も、肉も、骨すら持たない液状の身体の中で、赤い目だけが燃えるように輝いていた。
その身体そのものが、カオス・タイドによって形作られている。
先ほどまで彼らを囲んでいた巨大な柱は、今や鎧の層のように、その巨体へ埋め込まれていた。
その姿は、なおも固まり続ける。
大きくなり。
さらに高く、そびえ立っていく。
やがて四人は、その全貌を見渡すためだけに、大きく顔を上げなければならなくなった。
三つの頭が、同時に口を開く。
咆哮は響かなかった。
代わりに放たれたのは、ダンジョン全体を震わせるほど重く、強烈なレゾナンスの波だった。
ローワンは、言葉を失う。
エレナは、かすれた声で呟いた。
「……ヒュドラ?」
カイデンは答えなかった。
その視線は、なおも目の前の怪物に釘付けになっていた。
しかし、やがてゆっくりと目が動く。
柱へ。
砕けた卵の殻へ。
先ほどポータルが消えた場所へ。
そして、再びヒュドラへと戻った。
「……待て」
リサンドラが振り向く。
カイデンは、わずかに視線を上げた。
「さっきのモンスターたちだ」
そう言って、ポータルがあった場所の一つを指す。
「あいつらは、そのままここを出ていった」
誰も口を挟まない。
「あの指揮官も、すべてが終わる前に去った」
カイデンは、しばらく黙り込んだ。
それまで別々に見えていた出来事の断片が、頭の中で少しずつ繋がっていく。
「最後までここにいる必要がなかったんだ」
リサンドラがゆっくりと眉をひそめる。
「それは……」
「……あいつの任務は、すべてを最後までやり遂げることじゃなかった」
カイデンの声が低くなる。
「俺たちを、ここに留めておけばよかっただけだ」
ローワンの動きが止まった。
エレナがカイデンを見つめる。
「カイデン……」
カイデンは、すぐには答えなかった。
視線を、今も足元の周囲を流れ続けるカオス・タイドへと落とす。
続いて、自分たちを囲むように空間を閉ざした柱へ目を向けた。
「あの卵にとって、俺たちは必要なかった」
再び顔を上げる。
「あのモンスターたちも、俺たちをここに留めておく理由じゃない」
リサンドラは黙り込んだ。
カイデンの表情が変わる。
もはや、ただ警戒しているだけではなかった。
そこには、もっと重い何かが浮かんでいた。
「……理由は、俺たち自身だ」
ローワンは盾を握る手に力を込める。
「どういう意味だ?」
カイデンはゆっくりと息を吸った。
そして、自分たちの周囲を見渡す。
ポータルはない。
出口もない。
柱が、この一帯を完全に閉ざしている。
そして、たった今生まれたヒュドラが、彼らの正面に立ちはだかっていた。
「最初から……」
カイデンは言葉を切る。
一瞬、その声はダンジョンを満たす重いレゾナンスにかき消されそうになった。
「……俺たちは、この場所を調べていたんじゃない」
リサンドラが彼を見つめる。
カイデンは、ずっと感じていた違和感の正体を、ようやく理解した。
「この場所が……俺たちを待っていたんだ」
沈黙が落ちる。
ローワンは息を呑みながら周囲を見回し、エレナは再びヒュドラへと視線を向けた。
カイデンは拳を握りしめる。
「あの指揮官は、俺たちをここへ連れてきたんじゃない。何かを止めさせるために」
その目が鋭くなる。
「俺たちが、ここから出られないようにするためだ」
誰も答えなかった。
カイデンは、目の前に立つヒュドラを見据える。
三つの頭は、今やこの一帯を閉じ込めた柱よりも高くそびえ立ち、その足元ではカオス・タイドが絶えず流れ続けていた。
これまで理解できなかったすべての断片が、ようやく一つの形を成していく。
カイデンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……くそ」
武器を握る指先に、さらに力がこもる。
「つまり、俺たちはずっと……」
ヒュドラを見上げる。
「この罠を見つけたんじゃない」
声が低くなる。
「俺たちのほうが、この罠に見つけられたんだ」
誰も動かなかった。
ダンジョンに足を踏み入れて以来、初めて。
彼らはもう、出口を探してはいなかった。
探すべきものなど、何も残っていないと分かっていたからだ。
そこにあるのは、自らを閉ざした一つの領域だけだった。
そして彼らは、その中心に立っていた。




