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第九話

青川蓮司は相変わらずベンチに腰を下ろしたまま、手の中の缶を弄びながら、白く滲む息をゆっくりと夜気へ溶かした。


右手――本来なら帰路として進むはずの通り沿いに、小さな建物がひっそりと佇んでいる。


周囲の街灯とは少し違う、柔らかな暖色の光に包まれた場所。


レストランだった。


決して大きくはない。


だが十分に賑わっていて、正面のガラスには街の灯りが映り込み、その向こうでは人々の姿が行き交っている。


冬の始まりを告げる冷えた夜の中で、そこだけが小さな温もりを宿しているようだった。


そのガラス扉が開く。


静かに横へ滑り――


最初に飛び出してきたのは、一人の少女だった。


足取りは軽い。


いや、歩いているというより、今にも跳ね出しそうな小走りに近い。


まるで同じ場所にじっとしていること自体が苦手であるかのように。


ふわりとした毛付きの厚手のジャケットが小柄な身体を包み込み、黒い襟元の柔らかな質感が暖かさを感じさせる。


首には赤いマフラーが巻かれ、動くたびに小さく揺れた。


肩まで伸びた黒髪。


左側には赤いリボンが留められていて、その髪もまた弾むような足取りに合わせて揺れている。


少女はくすりと笑った。


理由があったわけではない。


あるいは――説明するほどでもない小さな理由が、たくさんあったのかもしれない。


そのままレストランから離れていく。


右ではない。


左へ。


ちょうど蓮司が座っている方向へ向かって。


数秒後――


再び扉が開いた。


今度は両親らしき男女が姿を現し、その後ろから、慣れた笑顔を浮かべた女性店員が見送りに出てくる。


先に出てきたのは男性だった。


ジャケットの前は開かれており、内側には簡素ながら整った服装が見える。


黒髪は中央で分けられ、気取らないのに清潔感のある印象を与えていた。


隣に立つ女性は、より落ち着いた雰囲気を纏っている。


ジャケットは首元までしっかり閉じられ、両手はポケットの中。


短く整えられた髪の右側だけが長く伸び、その前髪が片目を半ば隠していた。


その柔らかな影が、かえってどこか冷ややかな美しさを際立たせている。


「ほんとに落ち着きないな、あの子は……」


男性が小さく息を吐きながら、先を行く娘の背中を目で追った。


女性は微かに笑う。


「昔からそうだったでしょ」


穏やかで、それでいて静かな声だった。


「何か面白そうなものを見つけたら、他のことなんて全部忘れちゃうんだから」


横にいた店員も思わず笑みをこぼした。


「可愛いですね。本当に元気いっぱいで」


男性は肩をすくめる。


「たまに振り回されるけどな」


冗談めかして言いながらも、口元には薄い笑みが残っていた。


「まあ、静かすぎるよりはずっといい」


「そのくらいの年頃ですしね」


店員も通りの向こうへ目を向ける。


「それにしても、一人で先に行っちゃうなんて随分大胆です」


女性は短く息を吐いた。


「そういう子だから」


そして小さく続ける。


「ずっと世界があの子に優しければいいんだけど」


何気ない言葉だった。


けれど――


ただの願いにしては、どこか少しだけ重みを帯びて聞こえた。


店員は静かに頷き、それから再び男性へ視線を戻す。


「そういえば……お久しぶりですよね」


「ああ、そうだな」


男性は苦笑しながら後頭部を掻いた。


「最近ちょっと忙しくてさ」


「いつもは結構来てくださるのに」


店員は気楽な調子で笑う。


「常連をやめちゃったのかと思いましたよ」


「それはひどいな」


男性はすぐに返した。


今度は冗談の色がより濃い。


「もし乗り換えるなら、ちゃんと挨拶くらいするって」


「それもそうですね」


店員は楽しそうに微笑んだ。


隣の女性は相変わらず静かだった。


時折通りの先へ視線を向けるものの、自ら追いかけようとはしない。


「それよりさ」


ふと男性が少し身を乗り出した。


「次は君の番じゃないか?」


「え?」


店員が瞬きをする。


「仕事ばっかりしてないで、結婚とか考えないの?」


一瞬だけ言葉を失い、それから照れたように笑った。


「なんで急にそうなるんですか……」


「だってさ」


男性は気楽に続ける。


「年齢は待ってくれないぞ?」


「いい人がいれば、ですけど……」


そう答えながらも、頬がわずかに熱を帯びる。


「まだいないんです」


「いないのか、作る気がないのか」


男性が片眉を上げた。


店員は小さく息をつきながら笑う。


「たぶん、両方ですね」


会話はそのまま続いていく。


他愛もない話。


どこにでもあるような雑談。


急ぐ理由もなく、重たい空気もない。


ただ穏やかに流れていく時間。


けれど、その間にも――


少女は少しずつ遠ざかっていた。


三人の話し声は、少しずつ遠ざかっていった。


背後へと置き去りにされるように。


蓮司は手にしていた缶をもう一度持ち上げ、短く喉を鳴らして中身を流し込む。


吐き出した息とともに肩の力が抜け、視線は無意識のうちに右へ流れた。


ほとんど反射のような動きだった。


そして――そこで見つける。


一人の少女を。


歩道の上を小走りで駆け回り、ときにはくるりと回転し、ときには軽く跳ねる。


まるで周囲の世界すべてが、自分だけのために用意された大きな遊び場であるかのように。


蓮司は数秒ほどその姿を眺めた。


特に何かを思うわけでもなく。


再び缶へ口をつける。


一度視線を落とし、そして何気なく顔を上げたとき――


少女はまだそこにいた。


一人で。


「……親は?」


呟きは夜の静けさに溶けるほど小さかった。


わずかに眉を寄せ、目を細めながら、離れていく小さな背中を追う。


「あんな小さい子を……」


短く息を吐く。


「……こんな時間に一人で歩かせてんのかよ」


反対側へ視線を向ける。


先ほど自分が歩いてきた通りだ。


誰か後ろから追いかけてくる者はいないかと探してみるが――


そこにあるのは静かな夜道だけだった。


誰もいない。


蓮司は再び少女へ目を戻す。


そして、そのときだった。


何かがおかしい。


そう感じ始めたのは。


場所のせいではない。


時間のせいでもない。


違和感の正体は――その動きだった。


走り方。


小さな身体を前へ乗り出す仕草。


そして何より。


何もない空間へ向かって手を伸ばしているような、その様子。


蓮司は眉をひそめる。


唇が無意識に動いた。


「……何してんだ?」


そこには何もない。


物も、人も。


街灯に照らされた冷たい夜気が広がっているだけだ。


けれど少女には、違う世界が見えているようだった。


三匹の白い蝶。


淡い光を纏ったその羽は、静かに上下しながら夜空を舞っている。


冷たく澄んだ空気の中で。


まるで音もなく踊るように。


現実とは思えないほど幻想的で、美しい光景を描き出していた。


綺麗だった。


穏やかで。


どこか人を誘うような美しさがあった。


少女は楽しそうに笑う。


その声はかすかで、ほとんど聞こえない。


両手を伸ばしながら光の蝶を追いかけ、気づかないまま少しずつ先へ進んでいく。


蝶たちはゆっくりと離れていく。


さらに右へ。


さらに車道の近くへ。


蓮司は再び缶を傾けた。


だが今度は、その手が途中で止まる。


まるで身体のどこかが動きを拒んだかのように。


「……なんだ?」


眉間の皺が深くなる。


胸の奥が妙にざわついた。


痛みではない。


理由もわからない。


それでも説明しがたい不快感が、内側からじわりと押し寄せてくる。


「……嫌な予感がするな」


考えるより先に言葉が漏れていた。


視線はずっと前を向いたまま。


あの小さな背中から離れない。


そして、その瞬間――


遠くに光が現れた。


一台の車。


右方向から走ってくるヘッドライトが見える。


まだ距離はある。


だが確実に近づいていた。


同時に。


少女が車道へ足を踏み出す。


無意識のまま。


自分にしか見えない何かを追いかけながら。


蓮司の目がわずかに見開かれた。


息が止まる。


ほんの一瞬だけ。


次の瞬間には、身体が勝手に動いていた。


考えるより先に。


命令を待つより先に。


手から缶が離れる。


ガラン、と硬い金属音を立てて地面へ落ち、短く転がって止まった。


踏み込む。


強く。


そして一気に身体を前へ押し出す。


走る。


速く。


先ほどまでの気だるい姿からは想像もできないほどに。


「おい――!」


直後。


けたたましいクラクションが夜を切り裂いた。


鋭く。


荒々しく。


周囲の空気そのものを震わせるように。


ヘッドライトの光が道路を薙ぎ払い、その眩い白が少女の身体を真っ直ぐ照らし出す。


少女は止まった。


その場で凍りつく。


ゆっくりと振り返る。


赤い瞳が大きく見開かれた。


唇もわずかに開いている。


声は出ない。


何が起きているのか理解できていない。


思考が現実に追いついていなかった。


ほんの一瞬。


世界が途切れたようだった。


闇。


静寂。


音もない。


光もない。


――


そして光が戻ったときには。


すでに二本の腕が、その小さな身体へ伸びていた。


強い衝撃。


ぐい、と引き寄せられた瞬間、小さな身体が後方へ弾かれるように傾いた。


バランスを失い、そのまま理解が追いつくよりも速く、地面へと引きずり込まれる。


青川蓮司もまた、その勢いに巻き込まれた。


背中から倒れ込む。


片手はなお少女の服を強く掴んだまま離さず、もう片方の腕はとっさにその小さな身体を後ろから抱え込むように回した。


衝撃を逃がすために。


守るために。


次の瞬間。


風が吹き抜けた。


通り過ぎた車の風圧が、肌を切るように彼らのすぐそばを駆け抜けていく。


あとほんの少しでも遅れていれば――触れていた距離。


だがもう、そこには何もない。


車は遠ざかっていく。


残されたのは、低く響くエンジン音と、夜に戻りつつある静寂だけだった。


遠くから、遅れてクラクションが届く。


その音が、先ほどまで何気なく続いていたレストラン前の会話を切り裂いた。


「サキ!!」


女性の声が鋭く跳ねた。


一瞬で顔色が変わる。


思考より先に身体が動いていた。


駆け出す。


ほとんど走るような勢いで、声のした方向へ。


「え――!?」


隣の男性も弾かれたように反応し、その後を追う。


そのすぐ後ろ、店員の女性も一瞬だけ固まったあと、状況を理解するより先に身体が動いていた。


開いたままの店の扉だけが、夜風に揺れている。


そして、穏やかだった夜は――崩れた。


――


衝撃の余韻がまだ身体に残っていた。


冷えた空気が胸の奥へと入り込み、青川蓮司の背中が地面に強く叩きつけられる。


息が一瞬止まる。


「ぐっ……背中……」


声はかすれていた。


顔をしかめ、眉がわずかに寄る。


「なんか……こういう“名シーン”みたいな痛みだな……」


右手が反射的に腰のあたりへ伸び、痛みの具合を確かめるように軽く押さえる。


呼吸はまだ整っていない。


それでも左腕は離さなかった。


少女の身体を支え続けている。


温かい。


軽い。


そこに、ちゃんと“いる”。


やがて、その腕の力が少しずつ抜ける。


少女はゆっくりと上体を起こし、彼の上に座り込むような形で固まったまま、状況を理解できないまま周囲を見つめていた。


目が大きく開かれている。


あまりにも。


瞳が小さく震え、空を彷徨うように揺れたあと――


ゆっくりと、彼へと視線が落ちる。


青川蓮司と目が合った。


その奥に、かすかな光。


まだ涙にはなっていない。


けれど、溢れる寸前のそれ。


蓮司は数秒、その顔を見つめた。


痛みはまだ残っている。


それでも、表情は少しだけ柔らかくなる。


「……大丈夫か?」


静かな声だった。


返事はない。


少女はただ、じっと彼を見ている。


時間が止まったように。


蓮司もそれ以上は言わなかった。


沈黙が落ちる。


呼吸だけが、少しずつ現実を取り戻していく。


そして――


少女の表情が、ふるりと揺れた。


唇が動く。


小さな声。


「……ひ……」


次の瞬間。


堰が切れた。


泣き声が、突然あふれ出した。


大きく。


止められないまま。


涙が一気に頬を伝い、肩が不規則に震え始める。


息が途切れ、嗚咽が混ざる。


さっきまで止まっていた何かが、一気に崩れ落ちたようだった。


青川蓮司は固まった。


目を瞬かせる。


「え――?」


手はまだ腰のあたりに伸びかけたまま、空中でぴたりと止まった。


体が一瞬こわばる。


考えるより先に、焦りだけが跳ね上がっていた。


(おい……これ、まずいって……)


(え、待って。なんで俺が悪いみたいな空気になってんの!?)


「え、ちょ、待って、俺――いや、その――君――」


言葉がうまく繋がらない。


視線だけが忙しく動く。


自分でも何を探しているのか分からないまま、ただ場をどうにかしようとする。


「俺は何もしてなくて……いや違う、さっきのは、その――」


そのときだった。


足音。


速い。


近づいてくる。


「サキ!!」


遠くから裂けるような声が響いた。


蓮司は反射的に顔を上げる。


一人の女性がこちらへ駆けてくる。


呼吸は乱れ、目は大きく見開かれ、明らかな恐怖と焦りがそのまま表情に出ていた。


そのまま勢いを殺さず、ほとんど崩れ込むようにして彼らのそばへ。


「サキ……!」


彼女は迷うことなく小さな身体を抱き上げた。


蓮司の上にいた少女は、そのまま引き寄せられるように抱きしめられる。


泣いている。


震えている。


「大丈夫……大丈夫だから……」


何度も頭を撫でる手が止まらない。


まるで、それ以外のすべてを確認するように。


蓮司はそのまま地面に仰向けのまま見上げていた。


(……まぁ、そりゃそうなるよな)


小さく息を吐く。


背中の痛みがじわじわと残っていた。


そこへ、もう一人。


息を切らした男が遅れて到着する。


状況を一瞬で把握しようとするように視線を走らせる。


泣いている娘。


抱きしめる妻。


そして――地面に倒れている青年。


彼はすぐには言葉を出さない。


代わりに視線が動いた。


道路の先へ。


遠ざかっていく車。


その瞬間だった。


車内の影が一瞬だけ見える。


窓の外へ伸びた腕。


そして――中指。


はっきりと立てられたそれが、後方へ向けられていた。


男は小さく目を細める。


怒りではない。


どこか、理解してしまったような顔だった。


(ああ……そういうやつか)


短く息を吐くと、蓮司へと歩み寄る。


「おい」


声は落ち着いている。


「立てるか?」


蓮司は一瞬だけ瞬きをして、それから軽く頷いた。


「……たぶん」


苦笑混じりに答える。


差し出された手を取る。


引き上げられる瞬間、背中に鈍い痛みが走った。


「っ……」


顔が少し歪む。


それでもなんとか立ち上がる。


体をわずかに前に傾けながら、右手で腰を押さえる。


呼吸を整えながら、ようやく地面から距離を取った。


「ゆっくりでいい」


男は短く言う。


そしてそのまま数歩、近くのベンチへと誘導する。


蓮司は座るように促され、そのままゆっくり腰を下ろした。


体重が抜けると同時に、痛みが少しだけ和らぐ。


「ふぅ……」


息を吐く。


男も隣に腰を下ろした。


しばらく、沈黙。


遠くではまだ母親が子どもを抱きしめ続けている。


そして――男が口を開いた。


「さっきの……」


静かな声。


「うちの娘、助けたのは君か?」


蓮司は少しだけ横を向く。


小さく頷いた。


「うん……まあ」


短い返事。


それだけで十分だった。


男はわずかに俯く。


その沈黙は、感情を探しているようでもあり、言葉を選んでいるようでもあった。


「許してくれ」


男は静かに言った。


声の深さが、先ほどまでとは少し違っていた。


「本来なら、お前にこんな目に遭わせるべきじゃなかった」


蓮司は一瞬だけ言葉を失う。


そしてゆっくりと視線を上げた。


鋭さはない。


迷いもない。


ただ、淡々と。


「……別に」


小さく息を吐くように言葉を落とす。


「いいよ。人間ってさ……知らない相手でも、助け合うもんだろ」


一瞬、空気が止まった。


視線が交わる。


さっきまでよりもずっと静かな沈黙。


けれど、その奥で――何かが確かに揺れた。


男の眉がわずかに動く。


視線が蓮司の顔に留まる時間が長くなる。


じっと。


深く。


記憶の奥を探るように。


「……待て」


小さく呟いた。


目は逸らさない。


「その顔……」


数秒。


沈黙。


そして――


「まさか……」


声がわずかに落ちる。


確かめるように。


「青川蓮司……か?」


さらに続く言葉。


「eスポーツ選手……NONAMEって呼ばれてた」


その瞬間。


蓮司の身体が、わずかに強張った。


一気に。


記憶が跳ね上がる。


眩しい照明。


揺れる観客席。


ひとつの名前を叫ぶ無数の声。


NONAME。


目が見開かれる。


驚きは一瞬だった。


ほんの一瞬だけ。


すぐに、それらは何事もなかったかのように沈んでいく。


視線が外れる。


ゆっくりと。


逃げるように。


「……まだその名前で覚えてるやつがいるなら」


蓮司は小さく笑った。


だがその笑みは、目まで届かない。


「たぶんお前も知ってるだろ。昔の俺がどれだけ――ダメだったか」


少しだけ俯く。


「そうだろ?」


「違う」


返事は即答だった。


迷いがない。


鋭く、しかし冷たさはない声。


蓮司はわずかに目を瞬かせる。


男は真っ直ぐに見ていた。


逃がさない視線。


だが責めているわけではない。


ただ、確かに否定している。


「じゃあ、お前は人間を全部同じだと思ってるのか?」


静かに問う。


「同じ性格、同じ選択……同じ結果になるとでも?」


わずかに首を振る。


「そんなわけない」


視線は逸らさないまま続く。


「人間は……そんな単純じゃない」

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