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第八話

街の灯りが、一つ、また一つと点り始める。


それは突然夜を照らすような眩しい光ではなく、もっとゆっくりとしたものだった。まるで夜そのものが、街の隅々に息づく鼓動を静かに灯しているかのように。


広い道路には絶え間なく車が行き交い、ヘッドライトとテールランプは長い光の帯となって流れ続ける。その両脇ではデジタル広告が鮮やかな色彩を放っていた。


青。


赤。


紫。


目まぐるしい速度で切り替わる画面には、アニメキャラクターの顔やゲームの宣伝、そして嫌でも目に入ってしまうほど派手な広告が次々と映し出されている。


夜風は冷たい。


それでも、この街が本当の意味で静かになることはない。


大きなスクランブル交差点では、人の波が絶えず動き続けていた。


信号が変わるたびに、あらゆる方向から人々が行き交う。


知らない者同士の足取りが幾重にも交差しながら、それでも不思議なほど秩序を保っている。その光景は混沌としているはずなのに、どこか自然なものに見えた。


渋谷。


沈黙ですら存在を許されないような場所。


その賑わいの中、通りの一角から小さな笑い声が聞こえていた。


人の流れから少し離れた場所。


遠くにそびえる赤い塔の近くで、その灯りは澄んだ夜空の下に温かな光を落としている。


そこには四人の女子生徒が立っていた。


シンプルな黒のブレザーを身にまとい、きちんとしているが堅苦しさはない。


首元の赤いネクタイは夜風に揺れ、冷え始めた空気の中にどこか軽やかな印象を添えていた。


そのうちの一人だけが、少し離れた位置に立っている。


茶色の髪を後ろでまとめ、頬の横では数本の細い髪が風に揺れていた。


両手でスマートフォンをしっかりと構え、わずかに目を細めながら構図を調整している。


その正面では、三人の友人たちがすでに撮影の準備を終えていた。


一人目は、肩を越えて真っ直ぐに流れる長い黒髪の少女。


街灯の下で艶やかに輝く髪と、柔らかな光を映す紫色の瞳。


少し前に立ちながら、落ち着いた微笑みを浮かべている。その表情には、どうにか完璧に写ろうという小さな努力も見え隠れしていた。


その隣では、もう一人の黒髪の少女が少しだけ身を寄せている。


右側の髪には赤いリボン。


赤い瞳との対比が鮮やかで、その表情は明るい。


いや、明るすぎると言ってもいい。


まるでこの瞬間を誰よりも楽しんでいるかのようだった。


そして最後の一人。


黄みがかった橙色の髪をした少女は、少々大げさなポーズで立っていた。


肩を持ち上げ、小さなサインのようなものを手で作っているものの、何を表しているのかはいまいち分からない。


それでも黄色の瞳は期待に満ちて輝いていて、一秒たりともじっとしていられそうになかった。


「準備できた……」


カメラの向こうから声が聞こえる。


穏やかで平坦な声だったが、はっきりと届いた。


その瞬間、三人はさらに少しだけ姿勢を正した。


笑顔はほとんど完璧な位置で止まり、瞳もわずかに大きく開かれる。


ほんの一瞬たりとも逃したくないと言わんばかりに。


「いち……」


夜風が吹き抜ける。


髪の先とブレザーの裾がふわりと揺れた。


「に……」


遠くの灯りが背景で静かに瞬く。


「さん――」


カシャッ。


短いシャッター音。


だが、それだけで、止まることのない街の中の小さな一瞬が切り取られた。


スマートフォンを持っていた少女は少しだけ腕を下ろし、そのまま視線を画面へ向ける。


すると三人は待ちきれない様子で動き出した。


「ねえ、早く見せて!」


黄色い髪の少女が真っ先に駆け寄る。


足取りは軽く、今にも跳ねそうなほどだ。


「私も見たい!」


赤いリボンの少女もすぐ後に続いた。


肩が友人に軽くぶつかったが、本人はまったく気にしていない。


長い黒髪の少女は小さく微笑むだけだったが、それでも自然と近寄っていく。


歩みは落ち着いているものの、視線だけはすでに横から画面を覗き込もうとしていた。


四人は小さな画面を囲むように集まる。


肩が触れ合い、身を寄せ合う。


冷たい空気の中では白い吐息がかすかに浮かび、同じタイミングで画面へ顔を近づけた。


「どう? いい感じ?」


「ちゃんと撮れてる?」


弾んだ声が重なる。


スマートフォンを持つ少女はしばらく何も言わなかった。


視線だけをゆっくりと動かしながら写真を確認する。


表情はほとんど変わらない。


ほんの一度まばたきをして、それから唇の端がわずかに動いた。


「……まあまあ。」


「えっ? 『まあまあ』だけ?」 


すぐさま小さな抗議の声が上がった。


「本当に? 見せて見せて!」


四人は少しだけもみ合うようになった。


もちろん本気で取り合っているわけではない。


ただ待ちきれない気持ちと笑い声が混ざり合っただけの、賑やかなやり取りだった。


小さな画面は手から手へ渡り、そのたびに数秒前までポーズを決めていた彼女たちの顔が映し出される。


やがて笑い声が弾けた。


軽やかで。


温かくて。


ほんの少しの間だけ、夜の冷たさが遠ざかったように感じられる。


だが、その時だった。


誰かが彼女たちの前を横切る。


背の高い人影。


足早に通り過ぎたその姿は、不意に引かれたカーテンのように一瞬だけ視界を遮った。


そして、その人影が過ぎ去ると――


景色が変わる。


街の灯りは相変わらず輝いている。


けれど今度は、もっと地面に近い場所だった。


道端には小さな売店がある。


ガラス越しに温かな湯気が立ち上り、焼きたてのパンの甘い香りが冷たい空気の中へふわりと広がっていた。


思わず足を止めてしまいそうな香りだった。


その前には小さな子供が立っている。


両手を少し前へ伸ばしながら、期待に満ちた目で店の奥を見つめていた。


身体も無意識に前へ傾いている。


ほんの数歩の距離ですら待ち遠しいのだろう。


店の中では、シンプルなエプロン姿の男性が慣れた手つきで商品を包んでいた。


動きは素早い。


だが慌ただしさはない。


やがて包み終えると、それを持ち上げて小さく笑った。


「はい、お待たせ。できたよ」


小さな窓越しに差し出される。


子供は両手でそれを受け取った。


その瞬間、目がぱっと輝く。


自然と大きな笑顔が浮かんだ。


「ありがとう!」


声まで弾んでいる。


白い吐息がぴょんと跳ねるように夜へ溶けていった。


受け取ってすぐに立ち去ることはなかった。


少しだけその場に立ち尽くし、手の中のパンを見つめる。


まるで宝物でも手に入れたかのように。


そして満足そうに振り返ると、先ほどよりもずっと軽い足取りで歩き出した。


そんな光景の中を――


一人の青年が、人波の間を縫うように歩いていた。


絶えることのない人の流れ。


その中を進む足取りは速すぎず、かといって遅れることもない。


街のリズムに合わせながらも、完全には溶け込んでいないような歩き方だった。


青川蓮司。


両手をポケットに入れ、寒さを防ぐように少しだけ肩をすくめている。


夜気は次第に鋭さを増し、吐く息は白く薄く空へ流れていった。


視線はゆっくりと周囲を巡る。


溢れる光を捉えてはいるが、特に何か一つへ意識を向けているわけでもない。


人々が左右を通り過ぎる。


会話。


足音。


店先から漏れる音楽。


それらが混ざり合い、一つの大きな雑音となって街を満たしていた。


はっきり聞き取れるわけではない。


それでも確かに存在している。


蓮司は歩き続けた。


気づけば数分が過ぎている。


そして――


ふと足が緩んだ。


そのまま立ち止まる。


後ろから見れば、人の流れの中にぽつりと現れた小さな点のようだった。


流されることをやめた一点。


その正面にはスーパーマーケットがあった。


ガラス扉の向こうから明るい光が溢れ出し、夜の色との鮮やかな対比を作り出している。


上部の広告モニターは絶えず映像を切り替え、その光が少し湿った歩道へ反射していた。


蓮司は前を見つめる。


白い息が静かに漏れる。


「……やっと着いたか」


低い声。


街の喧騒に紛れれば簡単に消えてしまいそうなほど小さい。


「……よし、必要なものだけ買って、さっさと帰ろう」


その言葉は軽かった。


気負いもなく。


迷いもない。


そして次の瞬間には、もう前へ踏み出している。


蓮司の足取りはそのまま迷いなく続く。


幾重にも重なる街の光の中、ガラス扉には彼自身の姿がぼんやりと映っていた。


十分な距離まで近づいたところで――


扉が自動で動き出す。


すうっと横へ滑るように開き、ほとんど音はしない。


代わりに、小さなチャイムの音だけが短く鳴った。


気づく者も少ないほど控えめな歓迎の音。


店内の空気がすぐに頬へ触れる。


外の冷気とは違う。


安定していて、穏やかだった。


蓮司はそのまま中へ足を踏み入れる。


そして、その姿はゆっくりと白い光の中へ溶けるように消えていった。


店の中では、時間だけが静かに流れていた。


棚の上には壁掛け時計が整然と掛けられている。


その針は迷うことなく、一定の速さで動き続けていた。


一秒。


また一秒。


長針はすでに六を過ぎている。


短針は十へと近づいていた。


午後九時三十分。


何も変わらない。


何も止まらない。


ただ時間だけが、静かに、確実に進み続けている。


「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」


レジ係の声が背後から聞こえた。


少し距離があるため柔らかく響くが、それでも十分聞き取れる。


だが蓮司は振り返らない。


すでに出口へ向かって歩き出していた。


近づくと、自動ドアが再び開く。


先ほどと同じチャイムが短く鳴り、次の瞬間には夜の空気が彼を迎えた。


店内よりも冷たい。


ようやく温まっていた肌を、薄く刺すような冷気だった。


両手には白いレジ袋が一つずつ下がっている。


なかなかの大きさがあり、中身の重みで底が少し伸びていた。


薄いビニール越しには飲料のボトルがぼんやりと見える。


その隙間には、雑に重なったスナック菓子の袋も覗いていた。


蓮司は店の前で一度足を止める。


視線を落とし、自分の買い物袋を眺めた。


そして唇の端がわずかに上がる。


大きな笑みではない。


ほんの少し表情を和らげる程度の、小さな変化だった。


「……まあ、これで十分か」


静かな声。


まるで自分自身に確認するような口調だった。


短く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。


白い吐息が再び夜空へ溶けていく。


「これだけあれば……しばらくは大丈夫だな」


平坦な声音だったが、先ほどよりもどこか気が抜けていた。


そして足が動く。


「よし……帰るか」


それだけ。


単純な結論だった。


余計なことは考えない。


そのまま一歩を踏み出す。


一台の車が通り過ぎた。


速い。


ヘッドライトの光が道路脇を横切り、不意に引かれたカーテンのように一瞬だけ視界を遮る。


そして車が過ぎ去ると――


蓮司はすでに歩道を歩いていた。


道路に沿って進む足取り。


決して止まることのない街の流れと並ぶように歩いていく。


別の車が通り過ぎる。


その後にもう一台。


光は現れては消え、横から彼の姿を照らしては遠くへ流れていった。


エンジン音。


タイヤが路面を擦る音。


通り過ぎる車が残していく風。


それらが繰り返し重なり、夜の街に一定のリズムを作り出している。


そんな中でも蓮司は歩き続けた。


両手には買い物袋。


少しだけ肩をすくめた姿勢。


呼吸は落ち着いている。


正面から見れば、その表情は穏やかだった。


目は開いている。


だが何かを注視しているわけではない。


ただ自然に道の流れを追っているような、そんな視線だった。


数歩。


また数歩。


そして――


ふと視線が上がる。


わずかに。


眉が微かに動いた。


目が一瞬だけ細くなる。


遠くにある何かを捉えたのだ。


ベンチ。


歩道の脇に置かれたそれは、街灯の下で静かに照らされていた。


周囲には木々の影と低い柵があり、薄い陰がその周辺に落ちている。


誰も座っていない。


空席だった。


蓮司の歩調が変わる。


ほんの少しだけ速くなる。


急いでいるわけではない。


けれど今はっきりと目的地ができたように、一歩ごとの迷いが消えていた。


そのまま近づいていく。


そして――


ベンチの前で立ち止まった。


買い物袋をベンチの脇へそっと下ろす。


ビニールが表面に触れ、かさりと小さな音を立てた。


そして静かになる。


蓮司は腰を下ろした。


少しだけ前屈みになってから背もたれに身体を預ける。


肩がゆっくりと落ちていく。


まるで目には見えない何かを、ようやく下ろせたかのように。


片手を袋の中へ入れる。


少し探り――


一本の缶を取り出した。


冷たい。


蓮司はそれを数秒間握ったまま、掌に伝わる金属の冷たさを感じていた。


やがて親指がプルタブにかかる。


カチッ。


プシュッ。


小さな音が夜の中にはっきりと響いた。


続いて短い炭酸の音。


「シュゥゥ……」


開いた隙間から白い蒸気がわずかに漏れ出し、冷たい夜気の中へすぐに消えていく。


蓮司は缶を口元へ運んだ。


そして飲む。


長く一口。


冷えた液体が喉を通り抜ける。


鋭い冷たさがすぐに広がり、思わず呼吸が止まりそうになる。


それでも次の瞬間には、ゆっくりと息が漏れた。


周囲では車が絶えず行き交っている。


街灯は白みがかった黄色の光を静かに降らせ、アスファルトや歩道を淡く照らしていた。


遠くには住宅やビルの灯りが連なり、消えることのない光の層を作り出している。


蓮司は缶を少し下ろした。


息を吸う。


そして静かに吐き出す。


「はぁ……」


自然と零れた声だった。


軽く。


満たされたように。


背中をさらに深くベンチへ預ける。


肩の力は完全に抜けていた。


手の中の缶も、今は力なく握られているだけだ。


特別なことは何もない。


大きな出来事があったわけでもない。


あるのは夜。


冷たい空気。


そして、動き続ける街の片隅にある小さなひととき。


それだけだった。


それでも――


今の蓮司には、


それで十分だった。

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