第七話
部屋の明かりは、蓮司の視界から完全に消えていた。
代わりに現れたのは、ほんの一瞬の闇。
そしてその先で、別の世界がゆっくりと形を成していく。
外の音は遠ざかっていった。
どこまでも遠くへ。
けれど、完全に消え去ったわけではない。
かすかな境界の向こうで、ほとんど意識にも引っかからないほど微かな――
コチッ……
小さな音が鳴った。
細く。
まるで遥か彼方から届くように。
コチッ……
もう一度。
だが、蓮司は気づかない。
その意識はすでに完全に仮想世界へと沈み込み、今の彼にとってはるかに強く、はるかに鮮明な流れに身を委ねていた。
それでも、彼が置き去りにした現実の世界では、その音だけが変わらず続いている。
何一つ変わらず。
何一つ気にも留めず。
コチッ……コチッ……コチッ……コチッ……
壁に掛けられた時計は静かにそこにあり続けた。
白い文字盤と黒い針。
その秒針は休むことなく動き続け、一秒ごとに正確な歩みを刻んでいく。まるで、この部屋の主とともに沈み込むことだけは拒むかのように。
一秒が過ぎる。
また一秒。
秒針が進む。
一つ。
二つ。
三つ。
そして、ゆっくりと――
その動きが、少しずつ速くなっていくように感じられた。
本当に駆け出したわけではない。
ただ周囲の時間そのものが圧縮され、止まる隙も与えられないまま前へ前へと引き延ばされていく。
朝の光が窓から柔らかく差し込み、机を照らし、キーボードの表面をなぞり、VRを装着した蓮司の横顔に触れていた。
その光が、少しずつ移ろっていく。
影が動く。
床の上に長い線を描きながら伸びていき、
やがて縮み、
そして再び反対側へと伸びていく。
分針もまた進み始める。
先ほどよりも速く。
積み重なる秒は分となり、
分はやがて時間へと変わり、
部屋の景色は休むことなく移り変わっていった。
朝の温もりは薄れていく。
光は白くなり、
より鋭くなり、
そしてゆっくりと黄色みを帯びていく。
窓の外の空もまた色を変えた。
鮮やかな青から柔らかな橙へ。
燃え尽きる寸前のような色彩で地平線を染めたあと、太陽は静かに沈み、残された光もまた刻一刻と弱まっていく。
時計の針は回り続ける。
急ぐことなく。
だが、決して立ち止まることもなく。
夕暮れが過ぎ、
夜が訪れる。
天井の照明だけが唯一の光源となり、穏やかな黄色の光で部屋を照らしていた。
けれど、そこに他の物音がないせいか、その明かりはどこか冷たく感じられた。
そして、そのすべての中心で――
蓮司は動かない。
体は椅子に座ったまま。
背もたれに身を預け、
頭をわずかに垂れたまま、VRデバイスが外界のすべてを遮断している。
まるで、これほど長い時間が流れ去ったことなど、一度も彼に触れていなかったかのように。
秒針がまた一歩進む。
分針も続く。
そして時針はついに――
午後九時を指した。
静寂。
そして何時間ぶりかに、その体がようやく動く。
わずかに。
最初に反応したのは指先だった。
遠すぎる場所から帰ってきたばかりの人間のように、小さく震える。
続いて肩が動き、一瞬だけ強張ったあと、ゆっくりと力が抜けていった。
「……はぁ」
VRデバイスの奥から、かすかな吐息が漏れる。
手が持ち上がった。
すぐには動かない。
意志と動作の間に小さな空白が挟まったような間を置いてから、ようやく指先がデバイスの側面へ触れる。
位置を確かめるようになぞり――
そして。
ゆっくりと持ち上げた。
部屋の光が一気に流れ込んでくる。
一瞬だけ、眩しすぎるほどに。
蓮司は目を細めた。
眉がわずかに寄る。
目の周囲の筋肉が反射的に強張り、気づかぬうちに少しだけ顔を伏せる。
何の前触れもなく押し寄せてきた現実の世界に、身体がようやく適応しようとしていた。
VRデバイスは完全に外された。
数秒のあいだ宙に持ったまま眺め、それからゆっくりと机の上へ置く。
まだ点灯したままのモニターの隣。
ゲーム画面は依然として動き続けており、その淡く揺れる光が蓮司の顔をかすかに照らしていた。
その表情には――疲労が滲んでいる。
限界まで消耗しているわけではない。
以前のように完全に空っぽになっているわけでもない。
だが目元には薄い影が落ちていた。
深い隈というほどではない。
ただ、長時間集中し続けた痕跡のような、時間の経過を忘れるほど没頭していた証のような色合いだった。
まぶたが何度か瞬く。
ゆっくりと。
「……やばすぎだろ」
掠れた声が漏れる。
きちんと言葉の形になる前に零れ落ちたような、小さな呟きだった。
手を上げる。
乱暴に顔をこすり、額から目元へ、そして頬へと滑らせる。
そこで少しだけ押し込むように力を入れたあと、手は再び机へ落ちた。
「二十六回……」
長く息を吐く。
「……二十六回も同じパターンで負けるとか……」
声がわずかに強くなる。
爆発するような怒りではない。
行き場を失った苛立ちが、言葉の端に引っ掛かったまま残っている。
「なんでだよ……タイミング全部読まれてるじゃん……」
眉を寄せながら呟く。
視線はモニターへ向いているが、意識はまだあちら側に取り残されたままだった。
「反応してるとかそういうレベルじゃないだろ……あいつ、先に知ってるみたいな動きしてたぞ……なんなんだよ、あのボスは!!」
わずかに顎へ力が入る。
「……あーもう、クソボスめ。次は絶対勝つからな」
指先で机を軽く叩く。
トン。
一度だけ。
強くはない。
だが、その音には向け場のない苛立ちが滲んでいた。
「さっきは〇・五秒くらい遅らせるべきだったか……いや、先にフェイント入れるべきだったか……」
今度は独り言のように小さく続ける。
「いや、違うな……それじゃない……立ち位置も読まれてたし……」
そこで言葉が途切れた。
一瞬だけ息が止まる。
そして静かに吐き出される。
「あー……もういいや。ひどすぎる」
その言葉はぽつりと落ちた。
平坦に。
大げさでもなく。
だが、その評価が向けられている先は明らかだった。
自分自身だ。
しばしの静寂。
そして、その沈黙の中で――
ぐぅぅ……
小さいながらもはっきりとした音が鳴った。
蓮司は固まる。
一度だけ瞬きをした。
それから視線がわずかに下へ落ちる。
まるで、今になってようやく気づいたかのように。
「……マジか」
無意識に手が腹へ移る。
軽く押してみる。
空っぽだった。
本当に、何も入っていない。
「……まだ飯食ってなかったんだっけ」
声の調子が変わる。
少し軽く。
少し現実的になる。
さっきまで頭の中を占めていたことが、一気に後ろへ押しやられてしまったようだった。
もっと単純で。
もっと切実な問題によって。
蓮司は息を吐く。
今度は先ほどより長く。
「そりゃそうか……」
小さく呟く。
口元がわずかに動いた。
笑みではない。
どちらかといえば、呆れにも似た諦めの表情だった。
「どうりで集中できなかったわけだ……」
机に手をつく。
そして軽く押した。
「ちゃんとしろよ……健康第一だろ」
体を前へ傾ける。
椅子が小さく軋んだ。
立ち上がった瞬間、膝が少しだけ固まっているのを感じる。
そのせいで動きがほんの一瞬だけ止まったが、すぐに伸び上がるようにして姿勢を正した。
肩を後ろへ引く。
少しだけ。
長時間動かなかったことで強張っていた筋肉をほぐすように。
手が首筋をさする。
ゆっくりと首を右へ回し、
それから左へ。
「あー……凝ったな……」
小さく漏れた声は、ほとんど独り言のようなものだった。
大した意味のない愚痴。
それでも、それまで静まり返っていた空気にわずかな生活感を与えるには十分だった。
視線がふとモニターへ向く。
ゲームはまだ起動したままだ。
すでに戦闘画面ではない。
静まり返ったプロフィール画面が表示されている。
そこには、変わらずその名前があった。
NONAME。
積み上げてきたステータス。
ランク。
数々の記録。
どれも整然と並んでいて、まるで今日一日のできごとなど最初から存在しなかったかのようだった。
だが、蓮司は近づかない。
電源を切ろうともしない。
ほんの一瞥だけ向けると、そのまま視線を外した。
「……あとでいいか。今は飯だな」
単純な結論だった。
気負いもない。
蓮司は踵を返す。
部屋のドアへ向かい、
ノブに手を掛け、
余計な音を立てることなく開ける。
そしてそのまま外へ出ていった。
モニターの光が残る部屋。
回り続けるCPUファン。
そして、まだ完全には切り離されていない仮想世界を残したまま。
まるで少し席を外すだけのように。
もっと優先すべき用事のために。
食事のために。
部屋を出た蓮司は、そのまま廊下を進む。
静かに閉まるドアの音が背後へ消え、代わりに誰もいない家特有の広い静寂が周囲を満たした。
リビングから漏れる照明の光が彼を迎える。
穏やかな暖色の灯り。
けれど、人の気配がないせいか、どこか冷たくも感じられる。
蓮司は特に考えることもなく、そのままキッチンへ向かった。
足取りは速くない。
だが迷いもない。
頭で考えるより先に、体のほうが必要なものを理解しているかのようだった。
冷蔵庫の前で立ち止まる。
手を伸ばし、
取っ手を握る。
ひやりとした感触が指先へ伝わった。
カチッ。
扉が開く。
中の白い光が一気に顔を照らした。
上から落ちる鋭い光が、疲労でわずかに濃くなった目の下の影を浮かび上がらせる。
一段目――空。
「マジかよ」
二段目。
半分ほど残った水のボトルが一本。
それから隅に小さなソースの瓶があるだけ。
最下段はさらに悲惨だった。
いつ最後に触ったのか本人すら覚えていないような食材がいくつか残されているだけである。
「……何もないな」
蓮司の視線がゆっくりと庫内を巡る。
もしかしたら見落としがあるかもしれない。
まだ何か救えるものが残っているかもしれない。
そんな僅かな期待を抱くように。
だが見れば見るほど、答えは明確になっていく。
ない。
本当に何もない。
「はぁぁ……」
長い息が漏れた。
目を細め、
わずかに顔を伏せる。
驚いたわけでもない。
苛立ったわけでもない。
どちらかといえば、最初から予想していた結果を素直に受け入れた反応だった。
「運が悪いな……今月はまだ少し残ってると思ったんだけど」
平坦な声だった。
誰かに聞かせるためではない。
ただ自然に漏れた独り言。
「今日は補充しないとダメか……来月分までまとめて買っておこう」
そこに不満の色はない。
目の前の現実を見て、ごく当たり前の結論に辿り着いただけだった。
蓮司はゆっくりと冷蔵庫の扉を閉める。
カチッ。
白い光が消える。
キッチンは再び暖色の薄明かりに包まれた。
彼は振り返り、
急ぐことなくリビングへ向かう。
壁際に置かれた小さな棚の前で足を止めた。
静かに扉を開き、
少しかがみ込む。
手探りで奥を探り続け――
やがて目当てのものに触れた。
財布だった。
引き抜いてみる。
薄い。
軽い。
だが、まだ形は保っている。
蓮司は再び姿勢を正し、片手で財布を開く。
親指を差し込み、
折り目の奥から紙幣を数枚引き出した。
視線を落とし、
軽く枚数を数える。
しばらくして。
「……まだあるか」
声はわずかに変化していた。
ほんの少しだけ、空気が軽くなる。
嬉しいわけではない。
だが――それで十分だった。
息ができる程度には。
口元がかすかに動く。
「……まあ、悪くない」
親指で紙幣を軽くずらし、枚数を確かめると、丁寧に財布へ戻す。
「少なくとも……全部使い切るほどバカじゃなかったな」
冗談とも本気ともつかない独り言。
財布を静かに閉じる。
「ま、いっか……」
小さく息を吐く。
「どうせ、変なことに使う前に済ませたほうがいいしな」
目がわずかに細められる。
「なら、今行くか」
決断は一瞬だった。
迷いはない。
考え直す必要もない。
財布を握ったまま、蓮司はそのまま浴室へ向かう。
照明をつけると、白い光が鏡へ反射し、少しだけくすんだ自分の姿を映し出した。
洗面台の前に立つ。
蛇口をひねると、水が一定の音を立てて流れ始め、静寂をゆっくりと切り裂いていく。
手を差し入れる。
冷たい。
軽く身をかがめ、そのまま顔を洗った。
水が肌を伝う。
額から頬へ、そして顎へと流れ落ち、洗面台へと静かに落ちていく。
先ほどまで纏っていた重さが、少しずつ剥がれていくようだった。
顔を上げると、顎先から水滴が落ちる。
視界が少しだけ澄んでいた。
手で髪を後ろへ流し、乱れた前髪を整える。
邪魔にならないように。
一度だけ深く息を吸い――
ゆっくりと吐き出す。
「……よし」
短い言葉。
それだけで十分だった。
蛇口を閉めると、水音は途切れ、薄い静けさだけが残る。
しばらくして、蓮司は浴室を出た。
さっきよりもわずかに軽い足取り。
顔はすでに整っている。
髪にはまだ少しだけ湿り気が残っていた。
玄関近くのハンガーへ向かい、掛けてあった厚手のスウェットを手に取る。
布の感触は、着る前からどこか温かい。
袖を通す。
一度で引き寄せ、裾を軽く整える。
襟元も何気なく直した。
夜の冷気が、扉の隙間からじわりと滲んでいる。
冬の気配。
十二月。
始まりかけた冬。
手がドアノブへ伸びる。
回す。
カチッ。
扉が開くと、外気が一気に頬へ触れた。
冷たい。
鋭い。
蓮司は一歩外へ出て、静かに扉を閉める。
だがそのまま歩き出しはしなかった。
家の前で、ほんの少しだけ立ち止まる。
静止。
深く息を吸う。
冷たい空気が肺へ入り、澄んだ感覚だけを残していく。
吐き出すと、白い息が夜に溶けた。
消えていく。
視線はまっすぐ前へ。
穏やかで、静かで、どこか空っぽにも見える。
だが、重さはない。
ただの夜の静けさだった。
両手をポケットに入れ、肩をわずかにすくめる。
そして――
歩き出す。
家を離れ、街灯の灯る道へ。
スーパーへ向かって。




