第十話
その言葉は静かに落ちた。
ほとんど重みなど感じさせないほど軽かったのに、不思議と静かな夜の中へ沈んでいくことはなかった。
青川蓮司はすぐには答えなかった。
わずかに目を見開き、それからゆっくりと伏せる。
まるで心のどこかに触れられたかのようだった。
強くでもなく、無理やりでもない。
ただ、いつもより少しだけ長く黙り込んでしまうには十分だった。
再び沈黙が二人の間に降りる。
車のライトが左から右へ、そしてまた右から左へと流れていく。
現れては消える光の筋は、一度も留まることなく夜の街を横切り、その傍らでは遠くのエンジン音と、落ち着きを取り戻し始めた呼吸の隙間を縫うように夜風が静かに吹いていた。
その一方で、小さな泣き声はまだ続いていた。
「咲希……もう大丈夫よ……大丈夫……全部終わったから……」
女性は娘の頭を何度も優しく撫でる。
穏やかな声だったが、その奥にはまだ消えきらない不安が残っていた。
泣き声も少しずつ弱まっているものの、乱れた呼吸の合間にしゃくり上げる音がまだ混じっている。
蓮司はそちらへちらりと視線を向けた。
ほんの一瞬だけ。
だが、その視線はすぐには離れなかった。
気づかぬうちに、泣いているその姿を少し長く見つめていた。
そしてようやく目を伏せる。
まるで胸のどこかに何かが残ってしまったかのように。
息を吐く。
短く。
だが妙に重かった。
しばらくの間、目の前の景色は何も映っていなかった。
頭の中が空っぽだったのかもしれない。
あるいは逆に、何から考えればいいのか分からなくなるほど、いろいろなものが詰まりすぎていたのかもしれない。
やがて指先が動いた。
ゆっくりと。
何かすることを探すように。
隣に置いていた買い物袋へ手を伸ばし、中を探る。
せっかく生まれた静けさを壊したくないかのように、その動作はどこまでも穏やかだった。
そして一つ取り出す。
赤い包み。
少し大きめの菓子袋だった。
持ち上げられたビニールが、かさりと小さな音を立てる。
蓮司は特に何も言わず、それを少女へ差し出した。
自然で、落ち着いた、迷いのない動作だった。
「君……咲希ちゃん、だよね?」
静かに声をかける。
少女を見つめる表情は、わずかに柔らかくなっていた。
泣き声はすぐには止まらなかった。
それでも少しだけ途切れる。
そのささやかな気遣いが、ほんの一瞬だけ悲しみから意識を引き上げたようだった。
蓮司は手にした赤い袋を少し持ち上げた。
動きは変わらず穏やかで、押しつけがましさはない。
「これ、いる?」
そう続ける声はさらに優しい。
無理に勧めるわけではない。
けれど自然と背中を押してくれるような響きだった。
「遠慮しなくていいよ。もらって」
泣き声は少しずつ収まっていく。
夜の中で行き場を失った音のように。
咲希は顔を上げた。
目元はまだ濡れていて、頬も赤い。
呼吸も完全には整っていない。
それでも今は、はっきりと蓮司の手元を見つめていた。
赤い袋を。
「……ほんとに……?」
かすかに震える小さな声。
蓮司は薄く微笑んだ。
「うん」
だが、その小さな手が伸びるより先に――
「いいのよ」
母親の声が静かに入る。
娘の肩に優しく手を添えながら。
「家にもそういうのはたくさんあるから。また今度にしましょうね……」
断るというより、先延ばしにするような柔らかな口調だった。
蓮司は小さく首を振る。
「大丈夫です」
変わらぬ穏やかな声で答えた。
「本人が欲しいなら、止めなくてもいいでしょう?」
少しだけ袋を持ち上げる。
「これは、渡したくて渡してるだけですから」
女性はしばらく黙り込み、それから蓮司の隣に置かれた買い物袋へ目を向けた。
「……でも、それ……あなたの買ったものなんでしょう?」
蓮司は小さく笑った。
派手ではない。
けれど素直な笑みだった。
「大丈夫です」
静かに答える。
「たくさん買ったので」
そう言って再び手を差し出す。
「だから……もらってください」
数秒の沈黙。
そして小さな手が動いた。
まだ遠慮がちで、おそるおそる。
それでも最後には袋へ触れ、そっと引き寄せる。
本当に自分へ渡されたものなのかを確かめるように。
「……ありがとう……」
小さな声だった。
けれど先ほどよりずっと生気が戻っていた。
蓮司の隣にいた男性が、長く息を吐く。
本当に長い吐息だった。
まるで今まで見落としていた何かに、ようやく気づいたかのように。
「……君、自覚あるか?」
前を見つめたまま静かに言う。
「どれだけ優しい人間なのか」
蓮司は答えない。
ただ少しだけ眉を上げた。
「考えるより先に人を助ける。そして助けた後も気にかけ続ける」
男性は穏やかな声で続ける。
「なのに同時に、自分のことは負け犬だと思っている」
そして顔を向けた。
真っ直ぐに蓮司を見る。
「変な話だ」
蓮司は乾いた笑いを漏らした。
「他の人は、そんなふうには見てないよ」
「他の人、か」
男性は繰り返し、小さく首を振る。
「他人がいつも正しいとは限らない」
再び静寂が訪れる。
だが今度の沈黙は空虚ではなかった。
「思い出したよ……」
男性は夜空を見上げる。
遠い昔の自分を探すように。
「十年前だ……俺も、昔は君みたいだった」
静かな声が続く。
目を細め、その視線はもう目の前の夜ではなく、はるか遠くを見ているようだった。
「どこへ向かえばいいのか分からなかった。何になりたいのかも分からなかった」
ふっと苦笑する。
「生きてはいたけどな……ただ流されるまま歩いてるだけで、本当の意味で自分の進む先なんて何も見えていなかった」
蓮司は少しだけ視線を向ける。
完全に振り向くことはしない。
それでも、まだ話を聞いていることは伝わっていた。
「そんな時に、一人の人と出会った」
男性はかすかに笑う。
奇妙だが忘れられない記憶を思い出すように。
「見た目がな……かなり変わってた。立っているだけで周りが距離を取るような人だった」
一度言葉を切る。
「静かすぎるくらい静かで――」
少し間を置く。
「冷たすぎるくらい冷たかった」
薄い沈黙が言葉の間を流れた。
「今思えば……」
小さく笑いながら息を吐く。
「まあ、どう見ても殺し屋みたいだったな」
蓮司の眉が先ほどより少し高く上がる。
だが今回は口を挟まなかった。
「けど、実際に話してみたら――」
男性の声が少し低くなる。
落ち着きの中に、どこか懐かしさが滲んでいた。
「あの頃抱いていた先入観は……少しずつ崩れていった」
そして静かに続ける。
「その人は、俺に一つのチャンスをくれたんだ」
蓮司はようやく、はっきりと彼の方へ顔を向けた。
「不思議なものだろう?」
男は再び微笑む。
今度の笑みは、先ほどよりもずっと柔らかかった。
「一番危なそうに見える人間ほど……案外、君のことを一番理解してくれたりするんだ」
しばしの沈黙。
「そして今では――」
男はゆっくり息を吐いた。
肩がわずかに下がる。
「あいつは俺の友人になっている」
蓮司は数秒ほど彼を見つめた。
わずかに目を細める。
まるで言葉になっていない何かを読み取ろうとするように。
「……その人は?」
男は小さく笑った。
誇らしげというよりは、自分だけの大切な思い出を抱えている者の笑みだった。
「エリートエージェントさ」
気軽な口調で答える。
そして短く間を置いてから続けた。
「……レイ・メイソンって名前、聞いたことはないか? もうニュースでもかなり有名になっているはずだ」
蓮司はその名前をゆっくりと繰り返した。
眉がわずかに寄る。
「……レイ・メイソン?」
聞き覚えがある。
知らない名前ではない。
会ったことがあるわけでもない。
身近な誰かから聞いたわけでもない。
だが――
遠い過去から流れてきた音の欠片のように。
ぼんやりと。
遥か彼方から。
視線が少し横へ流れる。
呼吸がほんの一瞬だけ止まった。
「……レイ……メイソン……」
気づかないうちに唇が動く。
記憶の奥底に刻まれていた文字をなぞるように。
「Strategic Intelligence & Retrieval Executive……」
沈黙。
そして次の瞬間――
蓮司の目がわずかに見開かれた。
「……S.I.R.E……」
散らばっていた断片が一つにつながる。
テレビ画面。
ニュースキャスターの声。
当時は理解するにはあまりにも短すぎた映像。
それでも確かに記憶へ痕跡を残していた。
「……待って」
声色が変わる。
低く、少し信じられないという響きを帯びていた。
「まさか……その人って……」
再び男の方を見る。
今の蓮司の表情には、はっきりと感情が浮かんでいた。
「……東欧の感染症災害を担当した、アメリカ政府のエリートエージェント……?」
息が詰まる。
「レイ・メイソン……」
今度はその名をはっきりと口にした。
「うん……聞いたことがある……ニュースで……」
短い沈黙。
それから小さく息を吐く。
「……まさか」
視線が少し変わる。
ただの興味ではない。
そこには別の感情が混じっていた。
少しの憧れ。
そして少しだけ――羨望。
「すごいな」
蓮司は静かに言った。
口元がわずかに緩む。
「そんな人と友達だなんて」
そして少し視線を落とす。
声も小さくなった。
「……俺も、一度くらいそういうのを経験してみたかったな」
男はくすりと笑った。
軽い笑いだった。
だが長くは続かない。
「あはは。案外、君だって友達になれたかもしれないぞ」
気楽な調子でそう言う。
しかし――
その声は徐々に沈んでいった。
静かに。
そして深く。
「ただ……」
沈黙。
表情がわずかに変わる。
笑みは消えていない。
だが、その目は先ほどとは違っていた。
「もう三か月になる」
男は静かに続けた。
「……あいつから連絡が来なくなって」
蓮司は黙ったままだった。
「それでも――」
男は少しだけ顔を上げる。
疲れの奥に、かすかな確信が見えた。
「俺はまだ信じている」
静かな声。
「……あいつは生きているって」
夜風がゆっくりと吹き抜ける。
そのわずかな間が、不思議なほど長く感じられた。
「どこかでな」
男はほとんど独り言のように続ける。
「あいつが選んだ道を……あいつなりのやり方で歩き続けている」
そしてふと笑った。
今度の笑みは少しだけ明るい。
「でもな――一番面白いのはそこじゃない」
蓮司はもう一度彼を見る。
「何がですか?」
男は肩をすくめ、小さく笑った。
「実はあいつ――今の俺の妻の弟なんだ」
蓮司は一瞬で男の顔を見つめた。
「……は?」
驚きがそのまま表情に現れる。
ただの驚愕ではない。
本気で予想していなかったという顔だった。
「そんなこと、あるのか……」
男は静かに笑いながら首を振る。
「世の中ってのは、案外そんなものさ」
再び沈黙が降りる。
だが今度の沈黙は重くなかった。
むしろどこか温かい。
その話が、目には見えない何かを運んできたようだった。
男はゆっくりと手を上げる。
そして蓮司の肩を軽く叩いた。
強くではない。
だが、自分の思考の奥へ沈みかけていた蓮司を現実へ引き戻すには十分だった。
「蓮司」
男の声は先ほどまでより低くなっていた。
真剣な響きを帯びている。
「今から言うことを、覚えておいてくれ」
蓮司はすぐには返事をしなかった。
男の視線がわずかに下がる。
「……一度そこで転んだからって、ずっと同じ道に立ち続ける必要はないんだ」
その言葉は静かに落ちた。
だが今度は軽くなかった。
確かな重みを持って、蓮司の胸へ届く。
「怖がってもいい」
男は穏やかな声のまま続ける。
けれど先ほどよりも、ずっと近く感じられた。
「それは当たり前のことだ」
そこで一度言葉を切った。
考えるための余白を残すように。
「でも、その恐怖に自分が何者なのかを決めさせるな」
夜風がゆっくりと吹き抜ける。
変わり始めた空気を撫でるように。
そこに残っていた静寂も、もう以前ほど重くは感じられなかった。
「他人が望む何かになる必要なんてない」
男は静かに言う。
「自分自身でいればいい。そして、一つずつ向き合っていけばいいんだ」
蓮司は長く俯いた。
深く息を吐く。
今までよりもゆっくりと。
胸の奥で何かが静かに動いていた。
ひび割れはまだ残っている。
それでも、その隙間はもう空っぽではなかった。
自分でもまだ正体の分からない何かが、少しずつそこを満たし始めているようだった。
数秒の沈黙。
やがて蓮司の口元がわずかに上がる。
ほんの少し。
だが確かに。
それは笑みだった。
「青川蓮司……忘れないよ」
小さな声が聞こえた。
だが今度はすぐではなかった。
少しためらうような間があった。
本当に言うべきか迷っていたかのように。
その場にいた全員が振り向く。
少女はもう泣いていなかった。
目はまだ赤く、呼吸にもわずかに名残が残っている。
それでも先ほどよりずっと落ち着いた表情で蓮司を見つめていた。
そこにあったのは、もう戸惑いではなかった。
「……蓮司」
小さく呼ぶ。
まるで名前を間違えていないか確かめるように。
少女は赤い袋を少しだけ強く握った。
「……自分を信じて」
声は小さい。
途中で少し途切れながらも、懸命に言葉を紡ぐ。
「きっと何かになれるから……たとえ……みんなが望むものじゃなくても……」
そこで一度止まる。
少しだけ。
言葉を探すように。
視線が下がり、そして再び上がった。
「……みんな、蓮司のことを優しい人だと思ってる」
先ほどよりもさらに小さな声だった。
「でも、もし悪い人になっちゃったら……もうみんなが知ってる蓮司じゃなくなっちゃう」
短い静寂。
「だから……」
小さく息を吸う。
「自分のままでいて」
少女は真っ直ぐに蓮司を見つめた。
「……みんなが知ってる蓮司のままで」
静寂。
本当に静かな時間だった。
蓮司は動かなかった。
目がわずかに見開かれる。
驚いたというよりも、胸の奥にあった何かが一瞬だけ立ち止まってしまったようだった。
どう受け止めればいいのか分からないまま。
息が止まる。
一秒。
二秒。
そしてゆっくりと吐き出した。
「……ありがとう。今、分かった気がする」
そう言って小さく笑う。
だが今度の笑みは違った。
ただの反応ではない。
温かくて。
少しだけ掠れていて。
どこか救われたような笑みだった。
「子供って……こんなことまで言えるんだな……」
そしてふと何かを思い出したように口を開く。
「……あ、そうだ」
声は先ほどより低い。
蓮司は再び買い物袋へ手を伸ばした。
だが今度の動きは少しだけぎこちなかった。
まだ胸の奥で整理しきれていない何かが残っているようだった。
「あなたにも渡したいものがあります」
そう言いながら中を探る。
やがて一本の冷えた缶飲料を取り出し、男へ差し出した。
「どうぞ」
声は少しだけ気楽になっていた。
それでも照れくささは完全には消えていない。
「……お礼だと思って受け取ってください」
男は少し目を丸くする。
「……え?」
そして思わず笑った。
「あははっ――本当に俺に?」
「もちろんです」
蓮司は答える。
その眼差しは柔らかかった。
だがそこには、先ほどまでなかったものが宿っていた。
小さな希望。
確かに生まれ始めた光。
「それに……」
静かに続ける。
「その言葉が、俺みたいな負け犬たちの希望になればいいなって思うんです」
男はしばらく黙っていた。
そして微笑む。
「……そうなってくれたらいいな」
二人は小さく頷き合った。
ただそれだけのことだった。
けれど――
それで十分だった。
それだけで十分だった。
しばらくして――
「それじゃあ……俺たちはそろそろ行くよ」
男が立ち上がりながら言った。
「あ、はい」
女性も咲希を抱いたまま立ち上がる。
「改めて、本当にありがとうございました……」
静かな感謝の言葉。
蓮司は小さく頷いた。
「はい……気をつけて帰ってください」
二人は歩き出す。
その足取りはゆっくりだったが、先ほどまでよりずっと軽く見えた。
道の途中で、男がもう一度だけ振り返る。
手に持った缶を軽く掲げながら、薄く笑った。
蓮司は何も言わずに応える。
咲希も母親の肩越しに振り返り、小さな手を振った。
蓮司も手を上げる。
静かに。
ゆっくりと。
そしてやがて、彼らの姿は通りの先へ消えていった。
夜は再び静けさを取り戻す。
だが今度は――
もう以前と同じ夜ではなかった。
◇ ◇ ◇
彼らの姿が道の向こうへ消えた後。
夜は本当に静かになった。
残されたのは淡い街灯の光と、音もなく通り過ぎる夜風だけ。
蓮司は深く息を吸った。
胸がゆっくりと持ち上がり、そして軽く落ちていく。
まるでずっと心の奥に溜まっていた重みまで、その吐息と一緒に流れていったかのようだった。
背中を後ろの木製ベンチへ預ける。
身体が少し沈み込み、視線は星もまばらな夜空へ向けられた。
今夜になって初めて――
少しだけ楽になれた気がした。
全部が消えたわけじゃない。
それでも十分だった。
少なくとも。
胸の苦しさを感じずに息ができるくらいには。
ようやく目を閉じかけた、その時だった。
ブブッ――
ブブッ――
ポケットの中でスマートフォンが震える。
大きな音ではない。
だが静寂を破るには十分だった。
蓮司はわずかに眉をひそめる。
「……こんな時間に誰だよ」
面倒そうにポケットへ手を入れ、片手でスマホを取り出す。
画面の光が顔を照らした瞬間――
動きが止まった。
「……叔母さん?」
表情がわずかに変わる。
驚きというより、意外だった。
「珍しいな……」
表示された名前を見つめながら呟く。
「仕事でいつも忙しい人なのに……」
少し考える。
親指が画面の上で止まった。
「……何かあったのかな」
それ以上迷わず通話を取る。
スマホを耳に当てた。
「もしもし……?」
『――もしもし? 蓮司くん?』
向こうから聞こえた声は少し慌ただしかった。
だが繋がったことへの安堵も混じっている。
「うん、俺だけど」
蓮司は答える。
先ほどまでより少しだけ意識がはっきりしていた。
「どうしたの?」
『蓮司くん……今、忙しい?』
蓮司は周囲を見回した。
人影の少ない道路。
自分が座るベンチ。
そして少しずつ深まっていく夜。
「……いや、別に」
気軽に答える。
「なんで?」
『よかった……』
向こうで小さく息を吐く音が聞こえた。
『忙しくなくて安心したわ……』
蓮司は少し黙った。
その声。
何かがおかしい。
いつもより重い。
眉がわずかに下がる。
「叔母さん」
呼びかける声が少し真面目になる。
「大丈夫?」
身体を少し起こした。
「声、あんまり元気そうじゃないけど」
短く息を吐く。
「仕事で何かあったの?」
『いいえ、私はただ――』
その時だった。
ふいに泣き声が聞こえた。
小さな声。
だが妙にはっきりしていた。
まだ感情を抑えることを知らない赤ん坊の泣き声。
蓮司は一瞬固まる。
眉が上がった。
「……え?」
泣き声がもう一度響く。
今度はさらに鮮明だった。
向こうで慌ただしく動く物音も混じっている。
「叔母さん……」
蓮司は前方をぼんやり見つめたまま言う。
今聞こえたものを理解しようとしながら。
「それ……赤ちゃんの声?」
少し間が空く。
そして表情が微妙に変わった。
「……まさか」
声は平坦だったが、驚きは隠しきれていない。
「子供、増えたの?」
電話の向こうから、疲れたような小さな笑い声が漏れる。
『……まあ、その……いろいろあったのよ』
どこか力の抜けた声だった。
何かを抱え込んでいるようにも聞こえる。
『今は説明できないんだけど……でも――』
その時、再び赤ん坊の泣き声が彼女の言葉を遮った。
今度はさっきよりも大きい。
蓮司は短く息を吐く。
肩がわずかに上下し、すぐに静まった。
「……旦那さんは?」
眉を少し寄せながら、まっすぐ尋ねる。
低い声だったが、はっきりしていた。
返事はない。
聞こえてくるのは泣き続ける赤ん坊の声と、慌ただしく動く足音。
それに衣擦れの音。
誰かが必死にその場を落ち着かせようとしているのが伝わってくる。
『蓮司……?』
ようやく叔母の声が戻ってきた。
戸惑い混じりで、少し途切れ途切れだ。
『今、何か言った? うまく聞き取れなかったんだけど……』
蓮司は黙った。
視線を横へ逸らす。
何かを見ているわけではない。
ただ、顎に少しずつ力が入っていく。
口には出さなかった何かを押し込めるように。
ゆっくりと息を吐いた。
「……いや、何でもない」
そう言った声は再び平坦だった。
これ以上踏み込ませないように。
それ以上の質問を断ち切るように。
短い沈黙。
蓮司はスマホを少し持ち直した。
「叔母さん」
静かな声で呼ぶ。
「何かあるなら……俺に話してもいいよ」
少し俯き、自分の靴先を見る。
「長く話せる状況じゃないのは分かるけど」
そう続けた。
「それでも言いたいことがあるなら……言ってくれていいから」
電話の向こうはしばらく静かだった。
『……蓮司』
ようやく返ってきた声は、どこか迷いを含んでいる。
『これはきっと……あなたが嫌がる話かもしれない』
一度言葉が途切れる。
『……でも、もう誰に頼ればいいのか分からないの』
蓮司はすぐには返事をしなかった。
目がわずかに細くなる。
だが何か言おうとした、その前に――
『だって』
彼女の声が再び重なった。
今度は少し早口だった。
機会を逃したくないかのように。
『もしかしたら……あなたも断るかもしれない。でも――』
そこで言葉が止まる。
短い静寂。
蓮司は長く息を吐いた。
頭の中で何かが少しずつ形になっていく。
説明されなくても繋がる断片。
赤ん坊。
疲れた声。
ためらい。
助けを求める電話。
……監督役。
……世話役。
……ベビーシッター。
蓮司は一度目を閉じた。
そして開く。
その頃には表情はもう元に戻っていた。
「……叔母さん」
静かに口を開く。
「こんな時間に電話してきた理由は分かったよ」
少し間を置く。
「ごめん、俺――」
『分かったなら』
突然、彼女の声が割って入った。
今までよりも早く。
震えているのに、どこか必死だった。
『分かったなら……最後まで聞いて』
小さく息を吸う音。
そして――
『お金は払うから』
蓮司の眉がわずかに上がる。
『少額じゃないわ』
今度は言葉がさらに早くなる。
遮られる前に言い切ろうとしているようだった。
『七万ドル払う』
沈黙。
蓮司はすぐには反応できなかった。
「……は?」
『七万ドル』
彼女は静かに繰り返す。
世界が一瞬止まったような気がした。
「な――」
舌がもつれる。
「な……七万……ドル……?」
目がわずかに見開かれる。
さっきまで力を抜いていた身体が一気に強張った。
スマホを持つ手も、気づかないうちにかすかに震えている。
「そ、それって……」
ごくりと唾を飲み込む。
呼吸が乱れた。
「それって……つまり……」
数字が頭の中でぐるぐると回る。
理解が追いつかない。
本当に理解できなかった。
「……なんで、そんな額なんだよ……?」
電話の向こうから聞こえてくる声は疲れていた。
『……一年分だと思って』
静かな返事。
『それと……私からの謝罪も込めて』
少し間が空く。
『……それに、多分……そうでもしないと、あなたは引き受けてくれないでしょう?』
蓮司は黙り込んだ。
本当に何も言えなかった。
『できれば……』
彼女は続ける。
『明日にでも来てほしいの』
「……明日?」
蓮司は反射的に聞き返した。
『ええ。準備は全部終わってるわ』
今度は少し早口だった。
『航空券も手配済み。あなたは空港に来て、そのまま乗るだけでいい』
蓮司は眉をひそめる。
「……叔母さん、今どこにいるの?」
『……マイアミ』
返答に迷いはなかった。
蓮司は再び沈黙する。
遠い。
あまりにも遠い。
『蓮司……』
彼女の声がまた柔らかくなる。
先ほどより静かで、ずっと正直な響きだった。
『急な話なのは分かってる』
少し言葉を探すような間。
『……きっと断りたいとも思ってるでしょうし』
そして続ける。
『でも、本当に……もう他に信じられる人がいないの』
再び赤ん坊の泣き声が聞こえた。
さっきよりは小さい。
それでも確かに聞こえる。
『……お願い』
その一言が静かに落ちる。
けれど重かった。
とても。
蓮司は目を閉じた。
長く息を吐く。
スマホを握る手から少しずつ力が抜けていく。
それでも離すことはなかった。
「……分かった」
ようやく口を開く。
低い声だった。
断りではない。
かといって承諾でもない。
それでも十分だった。
『……ありがとう』
電話の向こうから聞こえた囁きは、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
通話はその後まもなく終わる。
スマホの画面が再び暗くなった。
蓮司はゆっくりと腕を下ろす。
視線はぼんやりと前を向いていたが、頭の中では様々な考えが目まぐるしく動いていた。
叔母。
女優。
いつも忙しくて。
いつも遠くにいる人。
それでも――
自分を育ててくれた人でもある。
頼れる人が誰もいなかったあの頃。
ずっと面倒を見てくれた人だった。
蓮司は静かに息を吐く。
「……赤ん坊の世話、か」
小さく呟く。
まるでその言葉の意味を確かめるように。
肩をわずかにすくめた。
「……そんなに難しくないだろ」
目が少し細くなる。
「見てればいいだけなんだし」
だが、先ほど電話越しに聞こえた泣き声がまだ耳に残っていた。
蓮司はベンチからゆっくり立ち上がる。
身体は先ほどより軽かった。
その代わり――
今度は別の重みが心に乗り始めていた。
新しい何かの重みが。
向きを変える。
帰り道へ向かって。
さっきまでより少し速い足取りで。
夜はさらに深くなっていく。
そして長い間感じることのなかった予感が、胸のどこかに静かに芽生えていた。
――人生の進む先が、また変わろうとしている。
そんな予感だった。




