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第十一話

朝は、ためらいのない光とともに訪れた。


日曜日、午前九時を少し回った頃。


Narita International Airportの上に広がる空には厚い雲ひとつなく、昇り始めた陽光に洗われた淡い青だけがどこまでも続いていた。


遠く――


一機の旅客機が高度を下げているのが見える。


巨大な機体は朝の空気をゆっくりと切り裂きながら進み、着陸経路に沿うように機首をわずかに下げていた。重厚なエンジン音も次第にはっきりと聞こえ始める。


近づいてくる。


確かに。


ゆっくりと。


やがてランディングギアが展開された。


一つずつ。


重みを帯びた機構音を響かせながら動き、所定の位置で確実に固定される。


地面に触れる準備は整った。


機体はなおも降下を続ける。


さらに低く。


さらに近く。


眼下には滑走路がはっきりと広がり、白いラインが無視することのできない導きのようにまっすぐ伸びていた。


そして――


ついにタイヤが滑走路のアスファルトへと接触する。


ゴッ――


荒々しい摩擦音とともに薄い白煙が舞い上がるが、それもすぐに風に散った。機体はわずかに震え、その巨大な重量が完全に大地へと移ったことを告げる。


エンジンはさらに低く唸りながら、旅客機は滑走路を走り続けた。


速度は徐々に落とされていき、先ほどまで空中に残っていた振動も少しずつ消えていく。


残るのは、滑走路に沿って長く続く安定したエンジン音だけだった。


巨大な機体は前方へ伸びる黄色い誘導線に従って進み、やがてゆるやかに進路を変えてターミナルへ向かう。


まるで先ほどまでの緊張を少しずつ解き放していくかのように。


朝はいつも通り流れていた。


そして、この空港は――決して本当の意味で静かになることがない。


広大なターミナルの中では、アナウンスの声が館内へ静かに広がっていた。


大音量ではない。


だが、隅々まで届くには十分だった。


「ご案内いたします。ロサンゼルス発の国際線は、ただいま第1ターミナルに到着いたしました。お迎えのお客様は到着ロビーまでお越しください」


平坦で、事務的で、感情を感じさせない声。


それでも、その響きは絶え間ない喧騒の中で確かな存在感を持っていた。


床から天井まで続く巨大なガラス越しには、広々とした滑走路が見渡せる。


離着陸を繰り返す航空機の姿は、まるで終わることのない呼吸のようだった。


ターミナル内では、人々が途切れることなく行き交う。


足音が磨き上げられた床を軽く打ち、続いてキャリーケースの車輪が忙しなく転がる音が響く。


短い会話。


誰かを呼ぶ声。


時折こぼれる笑い声。


そうした音が人波の中に自然と溶け込んでいた。


一角では、小さな子供が椅子に腰掛け、ぶらぶらと足を揺らしながら手元のおもちゃに夢中になっている。


それでも時折、大きな窓の向こうへ視線を向けていた。


外を行き交う飛行機を、一機たりとも見逃したくないかのように。


少し離れた場所では、一人の男性が無表情のまま雑誌をめくっていた。


動作はゆったりとしていて、急ぐ様子はない。


まるで周囲とは違う速度で時間が流れているかのようだった。


また、デジタル案内板の前には数人が立ち止まり、絶えず切り替わる文字列を目で追っている。


人の流れに飲まれることなく、自分の目的地を確認するために。


その頃、出発ゲート側では――


長い列が整然と伸びていた。


青川蓮司は、その列の中にいた。


背筋を真っ直ぐ伸ばし、片手で足元に置いたスーツケースのハンドルを握っている。


もう片方の手は、ときおり白いレザージャケットの位置を軽く整えていた。


中に着たシンプルな黒のTシャツとの対比は控えめながらも鮮やかで、その整った体格を自然と際立たせている。


サングラスが表情の一部を隠し、空港の照明を静かに反射していた。


少し乱れた髪も不思議と計算されたように見え、自然な形で額に落ちている。


目立とうとしているわけではない。


だが、それでも人目を引いた。


周囲の何人かが一瞬だけ視線を向ける。


そしてすぐに、それぞれの用事へと戻っていった。


蓮司自身は気にしていない。


ただ前を見ている。


ゆっくり進む列の流れに合わせて、一歩ずつ。


焦ることなく。


その先には保安検査用のスキャナーが設置されていた。


コンベアベルトが静かに動き、その上に置かれたバッグやスーツケースを大型の検査装置へと運び込んでいる。


反対側では係員がモニターを集中して見つめ、別の係員が手慣れた動作で乗客を誘導していた。


「お手荷物はすべてベルトの上へお載せください。ノートパソコン、携帯電話、金属類は分けてお入れください」


その案内は何度も繰り返されている。


やがて蓮司の順番が来た。


前へ進み、検査台の前で立ち止まる。


落ち着いた動作でスーツケースを下ろすと、軽く持ち上げてコンベアベルトの上へ載せた。


手の動きには無駄がない。


スマートフォン。


財布。


その他の小物類。


それらを取り出し、用意されたプラスチックトレーの中へ順に置いていった。


サングラスはかけたまま。


呼吸は安定している。


迷いはない。


焦りもない。


まるでこれも、すでに慣れ切った日常の一部でしかないかのように。


スーツケースがスキャナーの中へ運ばれていくのを確認すると、蓮司は金属探知ゲートへ向かって歩き出した。


軽い足取り。


一歩。


そしてもう一歩。


そのままゲートを通過する。


警告音は鳴らない。


係員はちらりと視線を向けただけで、小さく頷いた。


「どうぞ」


蓮司は反対側で荷物を受け取り、スマートフォンや財布を手際よく元の場所へ戻していく。


続いてスーツケースをコンベアから下ろした。


その動作は自然で、無駄がない。


簡潔で。


整っていた。


ふと、小さく息を吐く。


短く。


ほとんど聞こえないほど静かに。


「……思ったより早かったな。まあ、その方が助かるけど」


軽く呟く。


だがその直後、視線がふと遠くへ向いた。


巨大なガラス窓の向こう。


数機の飛行機がゆっくりと滑走路へ向かって移動している。


なぜだろうか。


その光景から目を離せなかった。


ほんの数秒。


だが、普段なら気にも留めないはずの時間だった。


何かが引っかかっている。


まだ形になっていない何かが、意識の片隅にぼんやりと浮かんでいるような感覚。


蓮司は静かに息を吐いた。


肩の力がわずかに抜ける。


結局、自分でもよく分からないことを考え続けるのはやめようと決めたらしい。


視線を外し、


歩き出そうとした。


一歩。


踏み出しかけた、その瞬間――


ドンッ。


不意に背後から衝撃が走った。


思ったよりも勢いがあり、身体が前へ押し出される。


バランスが崩れる。


上体が傾き、倒れそうになった身体を支えるために片足が反射的に大きく前へ出た。


「んっ……」


息が一瞬だけ詰まる。


眉が寄り、顎にわずかな力が入った。


肩も衝撃を受け止めたまま硬くなっている。


「……朝っぱらから誰だよ」


低く漏れた声には、抑えきれない苛立ちが少しだけ混じっていた。


「ご、ごめんなさい! 本当にごめんなさいっ!」


すぐ後ろから慌てた声が飛んでくる。


少し震えた、明らかに女性の声だった。


蓮司は短く息を吸う。


ぶつかった肩を軽くさすりながら、ゆっくりと振り返った。


不機嫌そうな表情はまだ完全には消えていない。


だが――


目の前の人物を見た瞬間。


その表情がぴたりと止まった。


何かに引き留められたように。


そこには一人の少女が立っていた。


身体を少し前へ傾け、両手を胸の前で控えめに寄せている。


指先はそっと組まれていた。


落ち着かないからではない。


何かがこぼれ落ちそうになるのを、無意識に押さえているようにも見えた。


白い髪。


雪を溶かして糸にしたような長い髪が柔らかく流れ落ちている。


前髪は丁寧に整えられ、額の左側だけが少し覗いていた。


その横では髪が耳にかけられ、白い肌と形の整った耳がかすかに見えている。


左側につけられた銀色のヘアピンが、空港の窓から差し込む朝の光を受けて静かに輝いていた。


薄手の白いコートを羽織り、その下には淡い青のワンピース。


派手さはない。


だが落ち着きと大人びた雰囲気を自然に感じさせる。


肩には茶色のバッグが掛けられており、その姿は驚くほど整然としていた。


少女はうつむいている。


視線を合わせる勇気がないわけではない。


むしろ、自分からそうしないことを選んでいるようだった。


「ごめんなさい……わざとじゃないんです」


声は静かだった。


控えめで。


最後の音だけが少しかすれるように弱まる。


それでも消えてしまうことはない。


蓮司は黙ったまま少女を見つめた。


目がわずかに細くなる。


怒っているからではない。


何かがおかしい。


いや――


どこかで見たことがある。


そんな感覚。


妙な既視感。


「……イザベル?」


名前が自然に口からこぼれ落ちた。


考えるより先に。


反射のように。


少女の肩がぴくりと震える。


「……え?」


うつむいていた顔がゆっくりと上がった。


目が大きく見開かれる。


衝突したことに驚いたのではない。


自分の名前を知っている相手が目の前にいることに驚いたのだ。


視線がゆっくりと上へ移動する。


蓮司の胸元。


肩。


首筋。


そして――


顔。


そこで止まった。


沈黙。


数秒が過ぎる。


少女の頬が少しずつ赤く染まっていく。


その温かな色は耳先にまで静かに広がっていった。


それでも目を逸らさない。


瞬きすら忘れたように見つめ続ける。


まるで――


自分の目に映る光景が、本当に現実なのか確かめるように。


澄んだ空色の瞳がかすかに揺れた。


表面は静かだ。


けれど、その奥には隠し切れない小さな波紋がある。


信じたい気持ちがそこにあった。


だが同時に、それを現実として受け入れるには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。


蓮司はわずかに眉を寄せる。


「イザベル、どうしてここにいるんだ?」


先ほどよりもはっきりした声だった。


それでも、その中には深い疑問が残っている。


「……えっ?」


イザベルが小さく肩を震わせた。


まるで遠くから意識を引き戻されたように。


「え、えっと……?」


視線を少し横へ逸らす。


肩がわずかに上がった。


慌てているというより、一瞬だけ足場を失ったような反応だった。


「な、なんでもないの……」


返答は早い。


あまりにも早すぎる。


蓮司は片眉を上げた。


「……おい」


声に少しだけ呆れが混じる。


「なんだよ、その反応」


イザベルの身体がぴたりと固まった。


唇がわずかに開く。


だが言葉は続かない。


数秒の沈黙。


やがて、そっと視線が戻ってきた。


今度は先ほどより慎重に。


ただ見ているだけではない。


確かめるように。


頭の中に散らばった記憶の欠片を、一つずつ拾い集めて繋ぎ合わせるように。


より真剣に。


より注意深く。


知らないうちに息を止めながら、その顔を見つめる。


そして――


「……蓮司くん?」


声が変わった。


小さく震えながらも、その中には希望が混じっている。


まだ信じ切れない。


けれど信じたい。


そんな響きだった。


蓮司は薄く笑った。


まるで、その反応を最初から予想していたかのように。


「そうだよ」


そう言いながら片手を上げる。


そしてサングラスを額の上へ押し上げた。


顔を隠していたものがなくなる。


「俺だ。蓮司」


視線はまっすぐイザベルへ向けられている。


隠すつもりも、誤魔化すつもりもない。


「なんだよ、その顔」


片眉を軽く持ち上げる。


口元にもわずかな笑みが浮かんだ。


「まさか……自分の友達のこと忘れたとか言わないよな?」


イザベルの目がぱっと見開かれる。


瞳が小さく揺れた。


そして数秒もしないうちに、頬がみるみる赤く染まっていく。


その熱は抑えようとしても抑えきれないように広がっていった。


見つめる瞳の中には、驚きだけではない感情が浮かんでいる。


呆れ。


安堵。


そして、その奥にあるもっと柔らかな何か。


「そんなわけないでしょ……」


少しだけ顔を背ける。


眉を寄せながら、赤くなった頬を隠しきれないまま。


「だって……それが蓮司くんだなんて分かるわけないじゃない」


声は小さい。


だが不満はしっかり滲んでいた。


「見た目だって、私の記憶と全然違うんだから……」


そこで再び視線を戻す。


今度は逃げなかった。


まだ少し戸惑いは残っている。


それでも真っ直ぐに見つめる。


「……自分でも分かってるでしょう?」


蓮司はすぐには答えなかった。


代わりに視線を下へ落とす。


服装。


体格。


立ち方。


今の自分自身を改めて眺めるように。


まるで、ずっと気にも留めていなかったことに今さら気づいたようだった。


「……んー」


小さく息を吐く。


肩の力が少し抜けた。


そして苦笑が漏れる。


軽い笑みだったが、どこか複雑な響きも含んでいる。


「まあ……確かにそうかもな」


イザベルもほっとしたように息を吐いた。


肩から少しずつ力が抜けていく。


先ほどから身体を縛っていた緊張が、ようやく解け始めたらしい。


「よかった……」


その声は先ほどよりずっと柔らかかった。


居場所を見つけた囁きのように。


「一年も会ってなかったから……」


再び視線を上げる。


今度の瞳はもう揺れていない。


落ち着いていた。


「……嬉しい」


小さな笑みが浮かぶ。


温かく、飾り気のない笑顔。


その優しさは目元の柔らかさからも伝わってきた。


「今の蓮司くんを見られて」


蓮司はすぐには返事をしなかった。


ただしばらく彼女を見つめる。


静かに。


だが冷たくはない。


まるで、その言葉をゆっくり受け止めているようだった。


表情は相変わらず穏やかだ。


けれど瞳の奥には、かすかな柔らかさが宿り始めている。


「そうか……俺も、まさかこんな場所で会うとは思わなかったよ」


イザベルは小さく笑った。


軽やかな笑い声。


けれど少しだけ震えている。


両手も無意識に胸の前で小さく動いていた。


「うん……私も」


そう言ったあと、ふと首を傾げる。


眉がわずかに寄った。


ずっと感じていた違和感にようやく触れたように。


「青川蓮司……本当に変わったね」


その声は少し低くなっていた。


ただの感想ではない。


もっと深いところから出てきた言葉だった。


「昔の蓮司くんは……」


一度言葉を切る。


そして静かに続けた。


「いつも何かを、一人で背負っているように見えたから」


蓮司はすぐには答えなかった。


ほんの一瞬だけ顎に力が入る。


気づかなければ見逃してしまうほど小さな反応。


だが次の瞬間には、その緊張も静かに消えていた。


「……それで、今は?」


短い問いだった。


だが今度の蓮司は視線を逸らさない。


まっすぐにイザベルを見つめていた。


イザベルはすぐには答えなかった。


数秒の間、その顔をじっと見つめる。


まるで今目の前にいる彼が、本当に現実なのかを確かめるように。


そして静かに口を開いた。


「……今の蓮司くんは」


その声は柔らかかった。


「やっと……息ができるようになった人に見える」


言葉とともに、小さく息がこぼれる。


まるでその一言には、ずっと胸の奥に抱えていた想いまで乗せられているかのようだった。


蓮司は薄く微笑む。


大きな笑みではない。


それでも、その言葉が確かに届いたことは分かった。


「……昨日の夜」


やがて彼は静かに言った。


声は落ち着いていて、揺らぎがない。


「ある人に会ったんだ」


イザベルの眉がわずかに上がる。


隠しきれない興味が瞳に浮かんだ。


「その人に……一つの気づきをもらった」


蓮司は一度だけ視線を窓の外へ向ける。


空港のガラス越しに広がる景色を眺め、


そして再び彼女へ視線を戻した。


考えを整理するような、ほんの短い間。


「……少し分かった気がする」


その声は相変わらず穏やかだった。


だが先ほどよりも確信があった。


「人生は、いつも同じ道を歩き続ける必要なんてないんだって」


静寂が落ちる。


気まずい沈黙ではない。


言葉の余韻が自然に広がるような時間だった。


イザベルはしばらく何も言わずに彼を見つめていた。


その瞳が少しずつ変わっていく。


長い間、形を持てずにいた想いがようやく輪郭を得たように。


「……そっか」


小さく微笑む。


先ほどまでの迷いはもうない。


穏やかで、柔らかな笑顔だった。


「だったら……」


ゆっくりと息を吸う。


胸が静かに上下する。


まるでずっと伝えたかった言葉をようやく口にできるように。


「……本当に嬉しい」


視線は真っ直ぐだった。


温かくて、


優しくて、


そして何よりも誠実だった。


「今の蓮司くんは……私がずっと見たかった蓮司くんだから。きっと、あなたのもとを離れていった人たちだって……」


蓮司は黙ったまま聞いていた。


視線をわずかに横へ向ける。


逃げるためではない。


胸の内に生まれた感情へ静かに居場所を与えるように。


「……イザベル・アイノ・ラウリネン」


不意にその名を呼ぶ。


迷いなく。


途切れることなく。


まるでずっと心のどこかに残り続けていた名前を確かめるように。


イザベルがぱちりと瞬きをした。


少しだけ意外そうに。


「え?」


一拍置いてから、


ふっと微笑む。


肩の力もわずかに抜けていた。


「……フルネームまで覚えていてくれたんだね」


小さな笑い声が漏れる。


軽くて柔らかい。


長く留めていた息をようやく吐き出したような笑みだった。


蓮司は再び彼女を見る。


表情は穏やかなまま。


「当たり前だろ」


口調は気楽だった。


けれど、その奥には確かな意思がある。


「お前だけは、今でも変わらずイザベルのままだったからな」


そこで一度言葉を切る。


目を少し細め、


ちょうどいい表現を探すように考えてから続けた。


「……正直すぎるくらいにな」


イザベルは途端に顔を背けた。


頬が再び赤く染まる。


それでも今度は笑みが消えない。


「ち、違うもん!」


慌てて否定する。


だが、その声にはどこか嬉しそうな響きが混じっていた。


そして口元に浮かんだ小さな笑顔も、もう隠しきれてはいなかった。

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