第十二話
青川蓮司は、相変わらずジャケットのポケットに片手を入れたまま立っていた。
その隣では、イザベル・アイノ・ラウリネンがまだ完全には元に戻っていない頬の熱を落ち着かせようとするように、指先で髪の先をそっと弄っている。どうにかして意識を逸らそうとしているようにも見えた。
その次の瞬間。
背後から静かな足音が聞こえた。
続いて、磨き上げられた空港の床を靴底がなぞるかすかな音。
保安検査場では、一人の男性が何事もなく金属探知ゲートを通り抜けたところだった。
その足取りは軽く、無駄がない。
あまりにも自然で、まるでこういう場所の空気そのものが、ずっと前から日常の一部だったかのように。
黒いレザージャケットが身体に程よく馴染み、動くたびに薄い光を反射する。
その下には少しゆったりとした白いTシャツが力の抜けた雰囲気で収まり、どこか作り込まれていない自然さを感じさせた。
濃い色のジーンズが歩調に合わせて揺れ、腰元の細いチェーンがかすかに揺れる。
ほんの些細な装飾。
だが、その小さな存在感が彼の個性を静かに際立たせていた。
黒いショルダーバッグが肩から下がり、そのストラップは無意識のように片手で握られている。
大きなバッグではない。
それでも、まるで彼自身の一部であるかのような存在感があった。
黒髪は少しだけ乱れたように額へかかっている。
寝癖というわけではない。
ただ、自然にそうなっているだけ。
そして、それが不思議なくらいよく似合っていた。
白いヘッドホンが頭を包み込み、側面の細いライトが空港の照明の下で柔らかく輝いている。
彼は近づいてくる。
一歩。
また一歩。
そして、蓮司とイザベルの少し後ろで足を止めた。
それから――
「オホン……オホン」
わざとらしい咳払い。
大きな声ではない。
だが、二人の間に流れていた小さな空間を断ち切るには十分だった。
蓮司はわずかに眉をひそめる。
「……ん?」
反射的に振り返った。
イザベルもほぼ同時に顔を向ける。
その肩が無意識にわずかに上がったのは、その声に聞き覚えがありすぎたからだろう。
そして。
二人の視線が背後の人物を捉えた瞬間――
蓮司の目がわずかに見開かれた。
表情が一瞬で変わる。
「……おお、悠希? もしかしてお前か?」
語尾が少しだけ上がる。
疑ったわけではない。
驚きを隠し切れなかっただけだ。
葉山悠希は小さく微笑んだ。
大げさではない。
だが、それで十分だった。
「ああ」
気楽な調子で答えながら、少しだけ首を傾ける。
動きに合わせてヘッドホンの淡い光が静かに揺れた。
「どうやら今のお前は、ずいぶん変わったみたいだな」
蓮司は鼻から短く息を吐く。
口元がわずかに緩み、空いている手が自然と腰へ移った。
気楽な仕草。
けれど、完全には消えていない警戒心もどこかに残っている。
「まあな……話せば長い。いろいろあったんだよ」
そう言うと、ためらいなく歩み寄る。
二歩で距離を詰め、そのまま自然な動作で手を差し出した。
「元気にしてたか?」
視線はまっすぐ。
穏やかで、逸らすこともない。
「見た感じ……お前は何も変わってないな、悠希。相変わらずそのヘッドホンをつけてるし」
悠希は差し出された手を一瞬見つめた。
視線が少しだけ落ちる。
迷ったわけではない。
ただ、長年の癖のようなわずかな間。
そして、その手を取った。
握手は自然に重なる。
強すぎず、弱すぎず。
かつて確かに繋がっていた関係があり、そして今もまだ完全には消えていないことを示すには十分な力加減だった。
「元気だよ」
短い返事。
声色は変わらず落ち着いている。
静かで穏やかだ。
だが、決して冷たくはない。
やがて手を離し、腕は軽く身体の横へ戻る。
「それに……そうだな」
口元をわずかに緩めながら続ける。
「これなら見つけてもらいやすいだろ」
蓮司は小さく鼻を鳴らした。
「ふーん……変な理由だな。でも納得はできる」
悠希は肩をわずかにすくめる。
否定もしない。
弁解もしない。
短い沈黙。
「まあ、昔から音楽を聴くのが好きだったしな」
そう呟きながら、悠希はゆっくりと視線を横へ流した。
目を逸らしたわけではない。
ただ、自分が選ぼうとしている言葉に少しだけ余白を与えるように。
「……手放せるようなものじゃないんだ」
そう言いながら、悠希は軽く指を上げ、耳元のヘッドホンに触れた。
そして小さな動作でそれを首元へ下ろす。
「……音楽があると」
続く声は相変わらず平坦だったが、どこか先ほどより深みを帯びていた。
「生きていることが、少しだけはっきり見える」
そこで一度言葉を切る。
十分な間だった。
その言葉が静かに胸へ落ちていくくらいには。
「歌詞にはそれぞれ意味がある」
「落ち着かせてくれることもあるし」
「時には……前へ進ませてくれることもある」
視線が再び前へ戻る。
穏やかで、静かで。
理解してほしいと求めているわけでもない。
「……それだけで十分なんだ」
蓮司はすぐには返事をしなかった。
一度ヘッドホンへ視線を落とし、黙ったまま見つめる。
やがて鼻から短く息を吐いた。
「……そうか」
低い声だった。
否定ではない。
むしろ、今になって気づいた何かを受け入れるような響き。
肩を軽くすくめ、それから力を抜く。
「俺はさ……あんまり音楽を聴かないんだよな」
口元がわずかに緩む。
「たぶん……必要だと思ったことがなかったからだ」
少しだけ沈黙する。
それから再び顔を上げた。
今度は真っ直ぐに。
「……でも、お前の言う通り、それで物事がもっとはっきり見えるようになるなら」
微かな笑み。
けれど先ほどよりもずっと生き生きとしていた。
「ちょっと試してみたくなった」
首を少し傾ける。
理由もなく見せることのない、小さな仕草。
「今度おすすめしてくれよ」
声は変わらず気楽だった。
だが、その奥には確かな真剣さがある。
「……何から始めればいいのかも分からない奴向けのやつをさ」
悠希はすぐには答えなかった。
いつもより少し長く蓮司を見つめる。
わずかに目を細めながら。
まるで口にされなかった何かを見極めるように。
そして。
口元がかすかに緩んだ。
「……分かった」
たった一言。
軽い返事だった。
それでも十分だった。
その隣で、イザベルは静かに立ったまま二人を見ていた。
視線が蓮司から悠希へ移る。
わずかに眉を寄せながら、どこかで覚えのある感覚を繋ぎ合わせようとしているようだった。
白い髪がさらりと揺れる。
首を少し傾げた。
「……葉山悠希」
その名前は静かに零れた。
だが今度は迷いがない。
真っ直ぐな視線で彼を見つめ、自分の記憶を確かめるように。
「相変わらずね」
しばらく観察した後、わずかに目を細める。
「冷静で、落ち着いていて……まるで何にも押し潰されていないみたい」
悠希はイザベルへ視線を向けた。
ほんの一瞬だけ。
だが、その空気がさらに広がる前に――
突然、蓮司の腕が横から悠希の肩へ回された。
「……!」
あまりにも自然で、あまりにも素早い動きだった。
悠希の身体が一瞬だけ強張る。
眉がわずかに寄る。
こうした身体的な接触に慣れていないのは明らかだった。
まして、それが蓮司からとなればなおさらだ。
当の蓮司は気にした様子もなく、小さく笑う。
「まあまあ。こいつ、一見すると冷たいし、無表情だし、滅多に笑わないけどさ」
そう言ってイザベルへ視線を向け、それから再び悠希を見る。
「でも、自分にとって心地いいものを見つけて、それを大事にしている時のこいつは――」
声が少しだけ落ちた。
「……その答えも、その笑顔も、きっと全部本物だと思う」
ぽん、と軽く肩を叩く。
「だろ?」
悠希はすぐには答えなかった。
表情にはまだ少しだけ戸惑いが残っている。
まるで今の状況をまだ完全には飲み込めていないように。
あるいは――
変わってしまった蓮司そのものを。
けれど、ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
口元がわずかに持ち上がった。
気づかなければ見逃してしまうほどの、小さな笑み。
だが蓮司はそれを見逃さなかった。
「ほらな?」
軽く笑いながら言う。
吐く息もどこか軽やかだった。
「お前が俺を見て驚くのは分かってたんだよ」
そう言って、少しだけ首を傾けた。
「でもまあ……今の俺はこんな感じだ」
浮かべた笑みは大きくない。
けれど、嘘のないものだった。
「お前の友達だよ」
イザベルは二人を数秒見つめたあと、無意識に口元へ手を添えた。
目を少し細めながら、柔らかな笑みを浮かべる。
「……ふふっ」
悠希は静かに息を吐いた。
「そうだな……お前たちは友達なんだから」
ようやく口を開く。
声は相変わらず落ち着いている。
だが、先ほどまでの冷たさはもうほとんどなかった。
「だったら、俺がこんなふうでも別に構わないだろ」
イザベルはすぐに小さく頷く。
微笑みはまだ消えていない。
「もちろんよ」
今度の声はさらに穏やかだった。
「むしろ……私たちは少しだけでも、あなたがもっと……生き生きしているところを見たかっただけかもしれないわ」
悠希はちらりと彼女を見る。
しばらく沈黙。
そして――
「……生き生き、か」
否定はなかった。
ただ、小さな納得だけがそこにあった。
数秒の静寂が流れる。
けれど今度の沈黙は重くない。
むしろ温かかった。
まるで、かつて途切れたままになっていた何かが、ようやく少しずつ繋がり始めたかのように。
やがて悠希は視線を移し、再び気楽な調子で口を開く。
「そういえば」
視線が二人の間を行き来した。
「お前たち、ここで何してるんだ?」
声色は淡々としている。
だが、それだけでは終わらない。
視線が蓮司の傍らにあるスーツケースへ落ち、それから再び二人の顔へ戻った。
「旅行か? それともデート?」
沈黙。
一秒。
二秒。
イザベルの身体がぴくりと固まった。
「えっ――!? デ、デート!?」
肩が跳ね上がる。
頬が再び熱を帯びるのがはっきり分かった。
「ち、違うわ! そういうんじゃ――!」
蓮司は短く息を吐き、悠希の肩に回していた腕を離した。
それから片手を首の後ろへやる。
あまり見せることのない仕草だった。
「まったく……勝手に話を飛躍させるなよ」
声は落ち着いているが、はっきりしている。
「たまたまここで会っただけだ」
ちらりとイザベルを見る。
そして再び悠希へ視線を戻した。
「そんな予定はない」
イザベルも慌てて頷く。
頬の赤みはまだ完全には引いていない。
「ええ……本当に、さっき会ったばかりなの」
声は少し小さくなっていた。
平静を装っているものの、一瞬だけ視線が逸れ、それからまた真っ直ぐ戻る。
悠希は二人を見つめた。
数秒間。
黙ったまま。
観察するように。
そして口元がわずかに持ち上がる。
「……そうか。怪しいな」
否定もしない。
かといって信じたわけでもない。
ただ記録だけして、そのまま流したような反応だった。
そして間を置かずに続ける。
「それじゃないなら、何でここにいるんだ?」
視線が蓮司とイザベルの間を移る。
「どこへ行く予定なんだ?」
三人の間に小さな間が生まれる。
そして、ほぼ同時に――
「マイアミ」
二人の声が重なった。
「……!?」
思わず互いに顔を向ける。
「……は?」
蓮司の眉が上がる。
イザベルも目を瞬かせた。
まったく予想していなかったらしい。
「君も?」
「お前も?」
今度もほぼ同時だった。
先ほどより少しだけ感情の乗った声で。
悠希はその反応を眺め、軽く息を吐く。
「……予想外の偶然だな」
小さく呟いた。
蓮司は少し目を細め、それから笑う。
「まさかとは思うけど……悠希、お前もマイアミに行くのか?」
悠希は短く頷いた。
「ああ」
片手をポケットへ入れる。
気負いのない仕草だった。
「会いたい人がいるんだ」
少し間を置く。
「ミュージシャンでな」
声はいつも通り淡々としている。
だが、その奥には珍しく興味の色が滲んでいた。
「今月ライブがある」
それまで黙って聞いていたイザベルがすぐに反応した。
目が少し見開かれる。
何かに思い当たったようだった。
「もしかして……」
少し身を乗り出す。
「あなたが言っているのって、オーレリア・ヴァンス?」
声がわずかに弾む。
先ほどまでよりも明らかに生き生きとしていた。
「最近すごく話題になっている人でしょう? メディアでもよく名前を見かけるわ」
悠希は彼女を見る。
少しだけ沈黙。
「……ああ」
短い返事だった。
イザベルは何度も頷く。
どこか感心したように。
「やっぱり。私もツアースケジュールを見たことがあるけれど、今年の十二月にマイアミで公演するって聞いたわ」
腕を組み、少し考え込むような表情になる。
「まあ、私はそれが目的で行くわけじゃないんだけど」
蓮司が横目で見る。
「へえ?」
イザベルは軽く肩をすくめ、小さく微笑んだ。
「ただ……少し違う空気を吸いたかっただけ」
視線がわずかに逸れる。
二人を見ているようで、見ていない。
「それに、向こうは冬のイベントも多いでしょう? フェスティバルとか、アート展示とか、そういうもの」
声は軽やかだった。
けれど空虚ではない。
「せっかくだから行ってみようと思って」
そこで少し言葉を切る。
そして、今度は少しだけ小さな声で付け加えた。
「……気持ちを整理する意味も込めてね」




