↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
86/101

第八十六話

廊下に、慌ただしい足音が響いていた。


白い大理石の床には金色の装飾が施され、その両側には茶色の木製パネルが連なっている。ハイ・サンクタムの長い廊下を駆け抜ける足音は、何度も壁へと反響していた。


「きゃっ……!」


茶色の髪をした少女が、分厚い記録板を胸に抱えながら走っていた。


縁なしのハーフリム眼鏡の奥にある蜜色の瞳は落ち着きなく揺れ、床を蹴るたびに眼鏡がずり落ちてくる。


そのたびに、彼女は指一本で慌てて押し上げた。


「はぁ……はぁ……」


呼吸はすでに乱れ始めていたが、リオラは足を緩めなかった。


廊下に並ぶ高い窓の向こうでは、いつもなら青いはずの空が深い赤へと染まっている。


その異様な光はハイ・サンクタムの内部にまで差し込み、白い大理石の床を見慣れない赤色に染めていた。


「これ、普通のカオス・ウェーブじゃない……」


リオラは走りながら、記録板に挟まれた資料を数枚めくった。


「エネルギーパターンが大きすぎる……それなのに、どうして警戒システムがまだ――」


その瞬間、靴の先がカーペットに引っかかった。


「わっ――!」


身体が前へと投げ出される。


だが、転ぶ寸前でどうにか体勢を立て直した。眼鏡が再びずり落ちる。


リオラはそれを直し、小さく息を吐いた。


「落ち着いて……見えていることを報告すればいいだけ」


再び視線を、手書きの記録で埋め尽くされた報告書へと落とす。


「大気の色の変化、エネルギーの歪み、レゾナンスの増大……」


指先が、一行の上で止まった。


「……それと、ハイ・サンクタムの防衛システムの反応」


表情が変わる。


彼女をもっとも不安にさせていたのは、そこだった。


ここ数年、ハイ・サンクタムはカオス・ウェーブによるさまざまな変化に直面してきた。


しかし今回のシステムの反応は、これまで彼らが確認してきたどのパターンよりも明らかに異常だった。


「システムがここまで反応するなんて……」


リオラはさらに足を速める。


「……下で何かが、本来触れてはいけない境界に達しているってこと」


廊下の突き当たりには、背の高い二枚扉が並んでいた。


リオラは迷わず右へ曲がる。


手を伸ばし、扉の取っ手を掴んだ。


勢いがつきすぎていた。


両開きの扉が、一気に開く。


リオラはその場で固まった。


自分がまだノックすらしていなかったことに、ようやく気づいたのだ。


「あ……」


扉の枠に身体を預けながら、乱れた呼吸を整えようとする。


広い室内の奥には、一人の女性が立っていた。


その背中は、扉のほうを向いていない。


金色の輝きを帯びた長い白髪が背中を越えて流れ、大きな窓から吹き込む風に合わせてゆっくりと揺れていた。


彼女は、こちらを振り返ることさえしなかった。


リオラは息を呑む。


「……申し訳ありません、ハイ・チャンセラー」


アウレリア・ヴェイルモントは、何も答えなかった。


窓の向こうには、ハイ・サンクタムの景色が広がっている。


雲の合間にクリーム色の塔がそびえ立ち、その上には、地平線の彼方まで赤い空が広がっていた。


「わかっている」


アウレリアの声は、落ち着いていた。


リオラは瞬きをする。


「え?」


「空のことを報告しに来たんでしょう」


リオラは慌てて頷いた。


「は、はい。ハイ・チャンセラー」


ようやく室内へと足を踏み入れる。


「ノックもせずに来てしまい、申し訳ありません。観測部門から報告を受け、そのあと防衛システムから反応があって――」


「リオラ」


「はい?」


「息を吸いなさい」


少女はぴたりと口を閉ざした。


そこでようやく、自分がまだ息を切らしていることに気づく。


大きく息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出した。


「……すみません」


「話すたびに謝る必要はないわ」


アウレリアの口調は変わらず淡々としていたが、冷たさは感じられなかった。


リオラは小さく頷く。


「はい」


視線を、手元の資料へと落とした。


「数分前、ハイ・サンクタムの全大気センサーが、アストラヴェル方面から発生した大規模なレゾナンスの急上昇を検知しました」


アウレリアは黙ったままだった。


「同時に、第三層防衛システムが自動的に反応しています。一部のノードでは、一時的にこの現象を外部からの脅威として判定しました」


リオラは報告書を一枚めくる。


「ですが、初期調査の結果、ハイ・サンクタムに対する直接的な攻撃を示す兆候は確認されていません」


そこでようやく、アウレリアが口を開いた。


「システムの反応は?」


「これまでのカオス・ウェーブの平均値を上回っています」


リオラは一度、言葉を止めた。


「それに……パターンが違います」


「どの程度?」


「まだ断定はできません」


リオラは何枚かの報告書を持ち上げ、その中からもっとも関連性の高い部分を探した。


「そのため、ハイ・チャンセラーに直接確認をいただきたくて参りました。もしかすると、何かご存じなのではないかと――」


「リオラ」


リオラの動きが、ぴたりと止まった。


アウレリアは、まだ窓の外を向いている。


「……」


「すみません」


「そういう意味ではないわ」


アウレリアは片手を上げた。


「そんな勢いで報告書をめくり続けられたら、あなたが何を言っているのか聞き取れないもの」


リオラは手元の資料へ視線を落とす。


そこでようやく、何枚かの紙が裏返しになっていることに気づいた。


「あ……」


慌ててそれを直す。


アウレリアは、かすかに息を吐いた。


「あの赤い空は、自然現象ではない」


リオラが顔を上げる。


「……では、すでにご存じだったんですか?」


「少なくとも、これまでのカオス・ウェーブで一度も発生したことのない現象だと言える程度には知っているわ」


アウレリアは、ようやく振り返った。


黄金の瞳が、リオラへと向けられる。


「それに、さっき下に三人の姿が見えた」


「さ、三人?」


「アストラヴェルから離れた地域にいた」


声色は変わらず穏やかだった。


「彼らはハイ・サンクタムを見上げていたわ」


リオラは、ゆっくりと記録板を下ろす。


「敵、でしょうか?」


「おそらく」


アウレリアは再び窓の外へ視線を向けた。


「でも、それよりずっと気になるものがある」


「それは……下にある、あの巨大な構造物ですか?」


アウレリアは一瞬、黙り込んだ。


「あれを構造物と呼ばないで」


リオラは眉をひそめる。


「どうしてですか?」


「私たちは、今見ているものが何なのかすら、まだわかっていないから」


その視線は、ハイ・サンクタムとアストラヴェルを隔てる雲の層を貫いていた。


「確かなのは、その大きさと……そこから放たれているレゾナンスの圧力だけよ」


リオラは黙り込んだ。


「ハイ・サンクタムの記録を調べても、あんなパターンを持つものは見たことがありません」


「当然よ。存在しないもの」


アウレリアは窓から離れると、歩調を変えることなくリオラの横を通り過ぎた。


「今は、まだ理解できていない脅威だと考えておきなさい」


執務机の向こう側で足を止める。


「そして、あれが何なのかわかるまでは、勝手に名前をつけようとしないこと」


アウレリアは椅子に腰を下ろした。


リオラはその反対側に立ち、まだ記録板を抱えている。


しばらくの間、アウレリアは何も口にしなかった。


視線は、机の上に広げられた一枚の書類へと落ちている。


チーム4、ハイペリアル。


カイデン。ローワン。リサンドラ。エレナ。


「ハイペリアルは、すでにアストラヴェルにいる」


アウレリアは書類の端に指先で触れた。


「そして、おそらく今頃は地下界のダンジョンにいるはずよ」


「はい」


「事態が今のようになる前に、あの異常を調査させるために送り出した」


指先が、報告書の上で止まる。


「彼らから連絡は?」


「まだ、新しい報告はありません」


リオラは手元の記録へ視線を落とした。


「最後の連絡は、まだ大気の変化が起こる前のものです」


アウレリアは小さく舌打ちした。


(ということは、アストラヴェルで何が現れようとしているのか、彼らもまだ知らない)


「ハイペリアル以外は?」


「現在、ルーメン・ハイムの指揮系統が届く範囲にいるのは、ハザードとファルコンだけです」


アウレリアが顔を上げる。


「残りの三チームは?」


リオラは答える前に、一瞬だけ口を閉ざした。


「数年前、あなたが送り出して以来、チーム1、2、3からは、いまだに何の連絡もありません」


「まだ戻らないの?」


「はい」


リオラは報告書を一枚めくった。


「彼らはカオス・ウェーブを止める方法を探すため、それぞれ異なる地域へ派遣されました。最初のうちは、通信も正常に行われていました」


「それが途絶えた」


「そのしばらく後に」


「緊急信号は?」


「ありません」


「救援要請は?」


「ありません」


リオラは報告書を下ろした。


「そして、誰一人として戻ってきていません」


再び、部屋を沈黙が満たした。


アウレリアは机の上に広げられたアストラヴェルの地図を見つめていた。


ハイペリアルは、すでに現地にいる。


ハザードとファルコンは、まだ指揮系統の届く範囲にいる。


しかし、ルーメン・ハイムの主力となるはずだった残り三チームは、何の確かな手がかりも残さないまま姿を消していた。


「つまり、六チームのうち……」


アウレリアの視線が地図の上で止まる。


「……今使えるのは、三チームだけ」


リオラは小さく頷いた。


「現時点では」


アウレリアはすぐには答えなかった。


もう一度、ハイペリアルのチームプロフィールへ視線を落とす。


表情に大きな変化はない。ただ、その視線だけが先ほどよりも長くそこに留まっていた。


正体すら特定できていない何かに対し、一チームだけで立ち向かわせる。


それでは足りない。


「そう」


指先が書類の上で止まった。


「やはり、人員が足りないわね」


アウレリアは顔を上げる。


「リオラ。残りの二チームのプロフィールは持ってきている?」


リオラはすぐにその意図を理解した。


「ハザードとファルコンですか?」


「両方」


「はい。すでに用意しています」


リオラは記録板に目を落とし、その後ろに挟んでいた二枚の書類を取り出した。書類をまとめていたクリップを外してから、それを差し出す。


「こちらです」


まず、一枚目を渡した。


「チーム5、ハザード」


レイン・ヴァルキュール

黒髪。

戦闘ランク:S

専門:アサシン/サイレント・エリミネーター

主武装:デュアルブレード

総合能力:A


ミラ・ヴォルカ

淡いブロンドの髪。赤みがかった瞳。

戦闘ランク:S

専門:モバイル・キャノン

主武装:ヘビーキャノン

総合能力:A


レオン・アグレスト

白髪。オレンジ色の瞳。ライオンの獣人。

戦闘ランク:S

専門:ソード・アクロバット

主武装:剣

総合能力:A


サイラス・コヴン

くすんだスチールブルーの髪。

戦闘ランク:S

専門:フィールド・タクティシャン/コンバットファイター

主武装:タクティカル・ウェポン

総合能力:A


アウレリアは、何も言わずに四人のプロフィールへ目を通した。


続いて、リオラは二枚目の書類を差し出す。


「チーム6、ファルコンです」


ニア・ソレンヌ

淡いブロンドの髪。黄金色の瞳。

戦闘ランク:S

専門:エアリアル・アーティラリー

主システム:エーテル・プロパルション・パック

総合能力:A


キラ・ヴァスペラ

深い紫の髪に、深紅の毛先。バーミリオンの瞳。

戦闘ランク:S

専門:スピードファイター

主武装:ツインショートブレード

総合能力:A


エリス・ヴァレンシア

ピンクの髪。

戦闘ランク:S

専門:ディフェンシブ・サポート

主システム:イージス・シャード

総合能力:A


キャシアン・エアウィン

赤髪。

戦闘ランク:S

専門:ウィングド・ファイター

主武装:ランス

総合能力:A


アウレリアの視線が、一人ずつそのプロフィールを移っていく。


書類の上だけを見る限り、すぐにわかるような弱点はなかった。


どちらのチームも、ルーメン・ハイムの通常の作戦範囲を超えた状況に対応するだけの能力を備えているはずだった。


だが、それがかえってアウレリアの迷いを強くする。


「ハザード……」


指先が、レインのプロフィールの上で止まった。


「そして、ファルコン」


次に、ニアのプロフィールへと移る。


「戦力だけを見れば、どちらも十分なはず」


リオラは頷いた。


「ハイペリアルと合流させれば、アストラヴェルの防衛能力も大幅に上がると思います」


「理論上はね」


アウレリアは二枚の書類を机の上に置いた。


「問題は、彼らが十分な強さを持っているかどうかじゃない」


リオラは次の言葉を待った。


アウレリアは再び窓の外へ目を向ける。


「下にあるものが、力だけで解決できるとは思えないの」


声は、これまでと変わらず落ち着いていた。


しかし今度は、隠しきれないわずかな迷いがそこに混じっていた。


「私は何かを感じている……ただ力で壊せるようなものではない、何かを」


その手が、ゆっくりと書類から離れる。


「それに、さっき見た三人も……」


アウレリアはそこで一度、言葉を止めた。


「あの者たちは、ただ警戒しておけばいいような普通の相手ではない」


再び、部屋を沈黙が満たした。


アウレリアは視線を落とす。


「私には、誰か――」


「待って……」


言葉が途切れた。


アウレリアは黙り込む。


この会話が始まってから初めて、その表情がわずかに変わった。


この状況で、ハイ・サンクタムを離れることはできない。


防衛網のすべてが、今も中央司令部に依存している。


「もし、あの人たちが……」


その声は、ほとんど独り言に近かった。


だが、彼女が続きを口にするより先に、リオラが突然顔を上げた。


「ハイ・チャンセラー」


アウレリアが振り返る。


「今、思い出したことがあります」


「何?」


「もう一件、報告が」


リオラは、ほかの資料の間に挟まれていた一枚の書類を引き抜いた。


「数分前、アストラヴェルから戻ってきた生徒たちから聞いたばかりなんですが」


その声が、慎重なものへと変わる。


「彼らによると……」


一度、言葉を止めた。


「ラインハルト様とエレノア様が、アストラヴェルにいらっしゃることが確認されています」


アウレリアの動きが止まった。


机の上に置かれていた手も、そのまま固まる。


数秒の沈黙。


そして、彼女は勢いよく立ち上がった。


「本当!?」


リオラがわずかに身を震わせる。


「は、はい」


「なぜ私に報告がなかったの?」


「わ、私も今知ったばかりです」


リオラは慌てて説明した。


「アストラヴェルの中心地区にいたルーメン・ハイムの生徒たちが、お二人を直接目撃したそうです。その生徒たちがハイ・サンクタムへ戻ってから、ようやく情報が広まりました」


アウレリアの眼差しが鋭くなる。


「間違いないの?」


「はい」


「マリアーネは?」


リオラは、申し訳なさそうに頭を下げた。


「残念ですが……マリアーネ様がアストラヴェルにいるという情報はありません」


アウレリアは一度、視線を落とした。


「そう……」


しかし、先ほどまでその顔に浮かんでいた緊張は、ゆっくりと薄れていく。


再び、机の上に置かれたハザードとファルコン、二チームのプロフィールへと目を向けた。


ラインハルト。


エレノア。


こんな状況で、その二人の名を聞くのは随分と久しぶりだった。


「あの二人がアストラヴェルにいるなら……」


指先が、書類の一枚に触れる。


「……少なくとも、この二チームが何の指示もなく動くことはない」


アウレリアは再び椅子に腰を下ろした。


「そう。まだ可能性はあるわ」


リオラが、その様子を見つめる。


「ハイ・チャンセラー?」


アウレリアは二枚のプロフィールを手に取った。


黄金の瞳がハザードのプロフィールからファルコンへと移り、やがてその中間で止まる。


「リオラ」


「はい?」


「ルーメン・ハイムのA+ランク以上の生徒を全員動員して」


リオラは一瞬、言葉を失った。


「それから、チーム・ファルコンとチーム・ハザードを同時に派遣する」


リオラの身体が、すぐに緊張する。


「アストラヴェルへ、ですか?」


「もちろん。ほかにどこがあるの?」


アウレリアの声が、きっぱりとしたものへ変わった。


「中心地区の防衛を命じなさい。一つたりとも脅威を主要区域へ侵入させてはならない」


「承知しました」


リオラは敬礼する。


アウレリアは再び、窓の向こうに広がる赤い空へ視線を向けた。


今度は、その瞳に迷いはなかった。


「もし、本当にあの人たちが戻ってきたのなら……」


指先が、一度だけ机の表面を叩く。


「……私たちには、まだ持ちこたえる理由がある」


再び、部屋を静寂が満たした。


アウレリアが執務机の向こうに座ったままでいると、机の脇に置かれたコミュニケーターから短い電子音が鳴る。


ピッ。


リオラはすぐに、その装置を手に取った。


「ハイ・サンクタム・コマンドシステムです」


装置の内側から、機械的な声が響く。


「派遣命令を受信しました」


リオラはアウレリアへ視線を向けた。


アウレリアは小さく頷くだけだった。


「続けて」


数秒後、同じ声がルーメン・ハイム全体の通信網へと流れ始めた。


それは指令室だけに届けられたものではない。


学院の廊下、訓練場、寮、ホール、そしてハイ・サンクタム各地に設けられたさまざまな施設へと、そのメッセージは一斉に伝達されていく。


「ルーメン・ハイム第一学年から第三学年までの全生徒に通達します。


ハイ・チャンセラーの決定に基づき、チーム・ハザードおよびチーム・ファルコンに、アストラヴェルへの即時派遣命令が下されました。


A+ランク以上の全生徒は、支援部隊および内部防衛戦力として、この派遣に参加することが義務付けられます。


命令を受信した生徒は、直ちにそれぞれの準備地点へ向かってください。


繰り返します。チーム・ハザード、チーム・ファルコン、およびA+ランク以上の全生徒は、直ちにアストラヴェルへ降下してください」


その通達は、そこで終わった。


数秒間、ハイ・サンクタム全体から音が消えたようだった。


そして次の瞬間、各地で一斉に動きが生まれ始める。


ある訓練場では、数人の生徒がほとんど同時に動きを止めていた。


「派遣?」


「アストラヴェルへ?」


「ハイペリアルは、もう向こうにいるんじゃなかったのか?」


一人の男子生徒が、床に置いていた武器を慌てて手に取る。


「ハザードとファルコンまで同時に出すなら、相当まずい状況なんだろ」


別の廊下では、一人の女子生徒が窓の外を見つめていた。


赤く染まった空の光が、窓に映り込んでいる。


「本当に起きたんだ……」


隣にいた友人が、肩に掛けた鞄の紐を強く握った。


「ただの大気の変化だと思ってた」


「それなら、どうしてA+ランクの生徒まで呼ばれるの?」


誰も答えなかった。


寮の部屋では、さっきまで座っていた生徒たちが次々と立ち上がり、派遣準備地点へ向かい始める。


一方で、まだその場に立ち尽くし、この命令が何を意味するのか理解しようとしている者もいた。


これまで学院からの報告で耳にすることの多かった名前が、今はこれまでになく現実味を帯びている。


ハザード。


ファルコン。


アストラヴェルは、ルーメン・ハイムに残されたすべての戦力を必要としていた。


生徒たちの喧騒から離れた場所にある、ひときわ静かな訓練室。


そこにも、赤い空の光が差し込んでいた。


一人の人物が、長椅子の上でぐっすりと眠っている。


身体を横向きにしたその姿勢は、どう見ても寝心地が良さそうには見えなかった。少し開いた口がまた閉じるが、それでも規則正しい寝息は乱れない。


すぐ近くに設置されたコミュニケーターから、派遣命令のアナウンスが流れていた。


それでも反応はない。


数秒が過ぎる。


白い耳が、ぴくりとわずかに動いた。


そして、また静かになった。


やがて、部屋の外から足音が近づいてくる。


しばらくして、誰かが扉を開けた。


「おい」


返事はない。


「おい」


眠っていた人物が、ようやく少しだけ動く。


「ん……」


片手で顔をこすりながら、まだ目を閉じたまま呟いた。


「もう始まった?」


扉の前に立つ人物は黙ったままだった。


眠っていた人物は大きくあくびをしてから、ようやく身体を起こす。


白い髪はすっかり乱れており、まだ作動しているコミュニケーターへと視線を向けた。


「ああ……」


首の後ろをかく。


「本当に呼び出されたんだ」


別の場所では、金属のぶつかり合う音が何度も響いていた。


ガンッ。


誰かが、一台の作業台の前に座っている。


背後から見れば、その小さな身体は目の前に置かれた巨大な武器装置にほとんど隠れていた。淡いブロンドの髪は左右で二つに結ばれ、彼女が身を乗り出すたびに揺れている。


両手は、ひとつの機械部品を忙しなく回していた。


「ここじゃない……」


別の箇所へ取り付けようとする。


「こっちも……」


だが、部品は再び外れてしまった。


「エネルギー圧を、もう少し上げれば……」


そのとき、コミュニケーターからアナウンスが流れる。


彼女は顔を上げた。


「ん?」


手が止まった。


数秒後、その視線は目の前の巨大なキャノンへと落ちる。


「じゃあ、降りるんだ」


先ほどの部品をもう一度手に取った。


「いいね」


カチッ。


部品は、今度はぴたりと収まった。


そこから少し離れた場所では、準備室が次第に慌ただしくなっていた。


装備の固定具が締められ。


武器が点検され。


通信回線が確認されていく。


一人、また一人と、ルーメン・ハイムの生徒たちがハイ・サンクタムを離れる準備を進めていた。


しかし、その一番外れにある一角だけは違った。


人の騒がしさはない。


会話の声もない。


あるのは、風の音だけだった。


ずっと一人で座っていた人物が、ようやく顔を上げる。


そこは、ハイ・サンクタムの建物から大きく外へと張り出したコンクリートのプラットフォームだった。


数メートル後方には一本の木が静かに立っている。


葉は風を受け、ゆっくりと揺れていた。


その人物は立ち上がる。


身にまとった暗いコートが、その動きに合わせて静かに落ちた。


プラットフォームの端へ向かって歩いていく。


数歩。


そして、足を止めた。


眼下には、果てしなく広がる灰色の雲海。


そのさらに向こう、幾重にも重なる雲の隙間から、アストラヴェルの方角にある赤い光がかすかに見えていた。


彼は、ただそこに立ち尽くしていた。


先ほどのアナウンスは、耳元のコミュニケーターからまだ流れている。


チーム・ハザード。


その人物は両手をポケットに入れた。


「ようやく俺たちを呼んだか」


低く、落ち着いた声だった。


そこに喜びはない。


あるのは、ただ確信だけだった。


少し乱れたくすんだスチールブルーの髪を、風が通り抜けていく。


彼は顔を上げ、遥か雲の向こうに隠れたアストラヴェルへと視線を向けた。


「A+ランクの生徒まで全員降ろすなら……」


一度、言葉を切る。


「……下の状況は、本当にひどいんだろうな」


その視線は、遠くの赤い光に向けられたままだった。


「そして、また起きた」


やがて彼は、プラットフォームの端から背を向ける。


「降りる時間だ」


足取りは、プラットフォームの端から遠ざかっていった。


背後では、木の葉が再び風に揺れる。


その間も、遥か下にあるアストラヴェルの空は赤いままだった。


そして、ルーメン・ハイムに残された二つのチームも、ついに動き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。