第八十五話
「キィィィィィィン――!」
アインの背後で、血のように赤い縦長の亀裂がゆっくりと開いた。
その表面は、今まさに裂けたばかりの傷口のように脈打ち、赤い光をアストラヴェルの街路へと放っている。
アインは振り返らなかった。
両腕を胸の前で組んだまま、右目だけを動かし、広がり続ける亀裂を追う。
その中から、一人の人物が歩み出た。
ラン。
アインの数歩後ろで立ち止まると、すぐに身を低くし、右膝を地面につけた。
頭をわずかに垂れる。
「旦那様」
落ち着いた、よく整えられた声だった。
「ご命令いただいた全軍は、それぞれの配置についております。侵入地点の選定も完了し、各部隊にはそれぞれの進行経路が伝達されています」
ラインマー様は、わずかに目を細めた。
その報告は、先ほどから彼の脳裏に浮かんでいた推測を裏付けるものに過ぎなかった。
ランは続ける。
「攻撃準備は完了しております。全ユニット、作戦に従っていつでも行動可能です」
アインは黙っていた。
しばらくの間、その視線はラインマー様へ向けられたままだった。
やがて、口元がわずかに動く。
満足そうな笑みではない。
むしろ、本当なら望んでいたものを失ってしまった人間が浮かべるような表情だった。
「……ああ、そういうことか」
ラインマー様は目を細める。
アインは短く息を吐いた。
「残念だな」
ランは跪いたまま尋ねる。
「何か問題でも、旦那様?」
「いや」
アインはラインマー様から視線を逸らさない。
「むしろ逆だ」
その口元に、ゆっくりと笑みが戻る。
「あいつは、もう予測していたんだな」
ラインマー様がようやく口を開いた。
「お前が多方面から攻めるつもりなら、当然だ。全兵士を一箇所に集めておくわけにはいかない」
アインが小さく鼻を鳴らす。
「そうするだろうとは思っていた」
少しだけ首を傾ける。
「だからこそ、残念なんだよ」
ラインマー様が眉をひそめた。
「もう少し驚いてくれると思っていたんだがな」
「驚く?」
アインが眉を上げる。
「何のために?」
「お前なら分かるだろう。レイ。俺たちはそれなりに長い付き合いなんだ」
アインは続けた。
「俺が一方向からしか来ないなんて、最初から考えないはずだ」
「それがお前の計画だったとは知らなかった」
「だが、予想はできたんだろ?」
ラインマー様は黙り込む。
アインはしばらく彼を見つめてから、再び口を開いた。
「俺の部下から報告を受けるよりも前にな」
ラインマー様の目が鋭くなる。
その通りだった。
彼はすでに、兵士たちへ各地区の隅々にまで部隊を配置するよう命じていた。
アインの計画を確実に知っていたわけではない。
ただ、その可能性を無視するには、あまりにも筋が通っていたのだ。
アインは笑った。
「見た目はすっかり老けたっていうのに」
その笑みはどこか懐かしむように細くなる。
「昔と変わらず鋭いままでいてくれて、俺は嬉しいよ」
「それに、あの女魔術師もここにいるとなると……」
アインの笑みがわずかに薄くなる。
「今夜は、ずいぶん面倒なことになりそうだ」
ラインマー様が眉を上げた。
「ほう?」
その声は、むしろ軽かった。
「お前は、あの女のことまで計算に入れていたのか?」
アインは一瞬だけ黙った。
そして、小さく喉を鳴らすように笑う。
「当然だ」
ラインマー様は薄く笑った。
「てっきり、お前は大した準備もせずに来たものだと思っていたよ」
「そんな単純な話じゃない」
アインは片手を上げ、その指先を顎に添えた。
「俺は、あいつを恐れてなんかいない」
その笑みは、変わらず穏やかなままだった。
「ただ、今夜あいつがアストラヴェルにいるとなると、俺が望む勝利に辿り着くのは、かなり難しくなる」
ラインマー様が小さく笑った。
「少なくとも、それを認める程度には正直なんだな」
「認めないほうが難しいさ」
アインは再びラインマー様を見る。
「砂の平原の法の支配者でさえ、あの女の名を認めたことがある」
ラインマー様がわずかに眉を上げる。
「マリアーネ・アッシュフォールドは、現在の人類において最強の魔術師の一人として認められている」
アインは大げさな調子もなく、それを口にした。
賞賛ではない。
あまりにも大きく、無視することのできない存在に対する、ただの事実の確認だった。
「そんな魔術師が介入してくるとなると……」
アインは短く息を吐いた。
「……俺の計画のいくつかは、ずっと面倒なことになる」
ラインマー様が口元を歪める。
「随分と俺の妻を評価しているように聞こえるな」
「俺が敬意を払っているのは、一人の伝説さ」
アインが薄く笑う。
「それとこれとは別だ」
ラインマー様がくすりと笑った。
「それでもな。たとえここにいなくても、あの女には気をつけたほうがいい」
アインの笑みが、ゆっくりと消えていく。
ラインマー様は彼を見つめた。
「あいつは、すべてがそこへ辿り着くよりずっと前に、何が起こるのかを察知できる」
ランの報告が始まってから初めて、アインの表情がわずかに真剣なものへと変わった。
「……分かってる」
ラインマー様は口角を上げる。
「なら、俺がそれほど心配していない理由も分かるだろう」
アインはしばし黙った。
その視線が、アストラヴェルの上空を覆う赤い空へと移る。
「マリアーネは、昔からそういう女だ」
声が少し低くなる。
「あいつは、ただ何かが起こるのを待っているわけじゃない」
組んだ腕の上で、指先がゆっくりと動く。
「時々思うんだ。あいつは、他の誰もがその出来事の始まりにすら気づいていないうちから……その先で何が起こるのか、もう知っているんじゃないかって」
ラインマー様は答えなかった。
「それに、もっと厄介なのはな」
アインが続ける。
「あいつは、いつ黙っているべきかも分かっている」
その顔に、再び薄い笑みが浮かんだ。
「だからこそ、危険なんだ」
アインはそのまま空を見上げていた。
「それを考えると……俺は、かなり運がいい」
ランは、まだその背後で待っている。
やがてアインが視線を戻した。
「報告はそれだけか?」
「はい。以上です」
「俺たちにできることは、あとはお前の命令を待つだけです」
「そうか。問題ない」
アインが一瞥する。
「まあ、来たタイミングは少し悪かったようだがな」
「申し訳ありません」
「気にするな」
アインは再びラインマー様へ視線を向けた。
その声音に怒りは微塵もなかった。ただ、二人の会話が途切れてしまったことへの、わずかな残念さが滲んでいる。
「アッシュベルがちゃんと仕事をしてくれているといいんだがな」
薄い笑みが浮かぶ。
「それじゃあ、お前の戦略がどこまで持ちこたえるのか、見せてもらおうか」
アインの立つ場所から遠く離れた、アストラヴェルのとある大通り。
そこには再び、中心地区から離れようとする市民たちが集まっていた。
だが、その足が止まる。
「キィィィィィィン――!」
血のように赤い亀裂が、通りの中央に開いた。
それまで押し合うようにして進んでいた人々が、一斉に距離を取る。
その場で立ち尽くす者もいれば、近くにいた者の腕を引いて遠ざけようとする者もいた。それでもなお、青ざめた顔で亀裂を見つめ続ける者もいる。
「……なんだ、あれ?」
「近づくな」
「あれもカオスの一部なのか?」
答える者はいなかった。
亀裂はなおも広がり続け、その内部から脈打つような赤い光を放っている。
そのとき、通りの先から足音が聞こえてきた。
「全員、下がれ!」
アストラヴェルの兵士たちがすぐさま駆けつけ、市民たちの前に陣取る。
盾が掲げられた。
数人の兵士が亀裂へ武器を向ける。
「バリケードを組め!」
ラインマー様が事前に各所へ配置していた部隊が、指定された地点へ次々と展開していく。
別の地区では、二つの商店の建物の間に同じような亀裂が開いた。
商人たちはすでに店を離れている。
そこを警備していた兵士たちは、すぐに警戒線を広げ、市民を遠ざけ始めた。
「誰も近づくな!」
軍事訓練施設の近くでは、別の亀裂が訓練場の上空に開く。
今回は、すでに部隊がその場に展開していた。
「距離を取れ!」
「命令があるまで撃つな!」
兵士たちは隊列を組んで立っている。
亀裂の向こうから何が現れるのか、彼らには分からない。
それでも、最悪の事態に備える準備はできていた。
同じ亀裂が北部地区、行政区域、輸送路、さらにはアストラヴェルの各地区を繋ぐいくつもの通りにまで次々と現れていく。
場所によって対応は異なっていた。
駆けつけたばかりの兵士もいれば、すでにバリケードを築いている者もいる。一方では、まだ市民を通りから退避させようとしている部隊もあった。
だが、どこも同じものと対峙していた。
赤い亀裂。
そして、その向こうで蠢く何か。
「……ヴンンン……」
低い音が、いずれかの亀裂から響いた。
続いて、別の亀裂からも。
そして、さらに別の場所から。
その音は、さまざまな方向から赤い亀裂が開き続けるのに合わせるように、ゆっくりとアストラヴェル全域へ広がっていった。
アストラヴェルの遥か上空。
視線は、赤く染まった空を越えるように進み、その先にそびえるメルモラの母の頂へと辿り着いた。
三人の姿が、そこにはあった。
中央には、一人の女が静かに立っている。
長い黒髪がその身体を覆うように垂れ、その身に纏った黒と紫の布地が、風ではない何かの流れに煽られてゆっくりと揺れている。
白い目隠しが、その両目を覆っていた。
細身のバトンが、指の間に収まっている。
セラフィーヌ。
その右隣では、一人の女が空中に立つ人型マネキンの背に腰掛け、静かに佇んでいた。
長い髪が、周囲を流れる空間の流れに合わせて揺れている。
そのすぐ近くでは、別のマネキンが両手でヴァイオリンを支えていた。
チェリストは、何も言わなかった。
反対側では、小さな少女がブランコに腰掛けている。
その鎖は、どの建物にも繋がっていない。
ただ、空中に吊り下がっていた。
紫色の花々がブランコの鎖に沿って咲き、その根がまるで現実そのものに直接突き刺さっているかのようだった。
オルガニストは、ゆっくりと身体を揺らしている。
その表情には、何の変化もない。
チェリストはヴァイオリンから視線を外し、メルモラの母の頂に立つ女へと目を向けた。
「セラフィーヌ」
返事はない。
細身のバトンはまだセラフィーヌの指の間にあり、手の回転に合わせてゆっくりと動いている。
チェリストがかすかに微笑んだ。
「もう始める準備は、すべて整っているんじゃない?」
オルガニストは揺れ続ける。
「まだ」
チェリストが彼女へ顔を向けた。
「何が足りないの?」
「まだ動いていない変数がいくつかある」
その答えは淡々としていた。
チェリストは再びセラフィーヌへ視線を戻す。
「そういうこと」
彼女たちの眼下では、アストラヴェル各地で赤い光が次々と灯り続けていた。
亀裂はさらに増えていく。
軍勢が動き始める。
そして、いくつかの裂け目の向こうから、何かがゆっくりとその存在を現し始めていた。
それでも、セラフィーヌは動かなかった。
「ラインマー」
その声が、ようやく響く。
「エレノア」
バトンの動きが止まった。
「マリアーネ」
チェリストが薄く笑う。
「厄介な名前が三つ」
「ハイペリアルのチームは、もうあの卵の巣まで辿り着いている」
オルガニストがもう一度、ゆっくりと身体を揺らす。
「無視できない変数は四つ」
セラフィーヌが小さく頷いた。
「まだ、すべてではない」
チェリストが首を傾ける。
「まだ動いていないものがあるの?」
「ん」
セラフィーヌが顔を上げる。
「それを、私は見たい」
チェリストは、それ以上尋ねなかった。
ただヴァイオリンへ視線を落とし、指先で弦に触れる。
音は生まれない。
代わりに、オルガニストが口を開いた。
「ルーメン・ハイム魔法学院」
「ええ」
「彼らは、すでに姿を見せている戦力だけでアストラヴェルをこのまま見過ごすことはない」
セラフィーヌが薄く微笑む。
「だから、待っているの」
チェリストが眉を上げる。
「つまり、下の軍勢のためじゃない」
「違う」
「私たちの準備がまだ整っていないからでも?」
「いいえ」
セラフィーヌは高みからアストラヴェルを見下ろした。
「彼らが、誰をここへ送り込むに値すると判断するのか。それを知りたい」
オルガニストが揺れるのを止める。
「次の手を決める前に、彼らの力を測るために」
「そう」
セラフィーヌの答えは短かった。
まるで、その決断が最初から決まっていたかのように。
チェリストが微笑む。
「純粋な魂は、調和が形を成し始めるときほど美しく響くものね」
指先を、ゆっくりとヴァイオリンの弦へ滑らせる。
「つまり、私たちが待っているのは、演奏の始まりじゃない」
その視線がアストラヴェルへ移る。
「次の演者たちが、舞台へ上がってくるのを待っているのね」
セラフィーヌは否定しなかった。
「それで、その後は?」
チェリストが軽い調子で尋ねる。
セラフィーヌがバトンを持ち上げた。
「それから、音楽を決める」
誰一人として動かなかった。
それでも、セラフィーヌの視線はゆっくりとアストラヴェルから離れていく。
上へ。
亀裂の光に満たされた赤い空を越えて。
遥か上空では、黒と灰色の雲が厚く垂れ込め、空のほとんどを覆い尽くさんばかりに広がっていた。
セラフィーヌの視線が、そこで止まる。
「ずっと遠く」
オルガニストが顔を上げる。
「上?」
「ん」
チェリストも同じ方向へ視線を向けた。
「何も見えないけど」
セラフィーヌが、ごく薄く微笑む。
「誰かが、こちらを見ている」
まるで、その雲の層の向こうから何かが彼女を見つめているかのようだった。
視線が、厚い雲の層を突き抜けていく。
一つの層。
そして、その先にあるもう一つの層。
灰色と黒の雲が少しずつ開かれ、アストラヴェルの遥か上空に隠されていたものが姿を現していく。
広大な領域が、空の中に浮かんでいた。
ハイ・サンクタム。
その広大な大地は雲海の上に浮かび、無数の塔や大聖堂、壮麗な建造物が立ち並んでいる。そのほとんどが濃い霧の向こうに隠れていた。
視線はさらに進む。
一連の木々を越える。
続いて、一つの塔を越える。
そして最後に、一際大きな建物の前で止まった。
その窓の一つが、空から差し込む淡い光を反射している。
大きな窓の向こうに、一人の女が立っていた。
白い髪が背中を越えるほど長く垂れ、その一部が開いた窓から入り込む風に合わせて、ゆっくりと揺れている。
身に纏う白い制服には、襟や肩、胸元に沿って金色の装飾が施されていた。左側には色とりどりの勲章が整然と並び、赤と金の飾帯が肩から斜めに掛けられている。
長いマントが身体の両側から垂れ下がり、その裏地は濃い赤色で、金色の線が衣装の格式を際立たせていた。
その手に武器はない。
必要なかった。
外から差し込む淡い光が目の前のガラスに反射し、空と雲の向こうに、彼女の顔の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
彼女は動かなかった。
ただ、遥か下方へと視線を向けている。
鋭く。
真剣に。
まるで、ハイ・サンクタムの遥か下に広がる赤い空と厚い雲の向こうに、何かを探しているかのように。
そして、不思議なことに――それほど離れた場所にありながら、まるで二つの視線が今、交わったかのようだった。
セラフィーヌは、なおもメルモラの母の頂に立っている。
女もまた、ガラスの向こうに立ったままだった。
声はない。
それ以上の動きもない。
ただ、遥か彼方にいる二人の存在が、互いを認識していた。




