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第八十四話

アインは笑った。


最初は、鼻から漏れるほんの小さな吐息だった。


それが、次第にはっきりとした笑いへ変わっていく。


「ふっ……」


アインの肩がわずかに震える。


「……はははは」


その笑い声は大きくはなかった。だが、突然静まり返ったアストラヴェルの街路には、はっきりと響いた。


その五十メートルほど先。


ラインマーはカエラとともに、石造りの階段の上に立っていた。


二人は向かい合っている。


だが、アインの目に初めて映ったラインマーの顔には、怒りがなかった。


確信もない。


そこにあったのは、もっと興味深いものだった。


恐怖。


アインはにやりと笑った。


「なるほど。そういうことか」


わずかに顔を上げる。


「その顔に浮かんでいる恐怖は……」


ラインマーは答えなかった。


二度目の鐘の音が、今も彼らの胸の奥で残響しているようだった。


ただの音ではない。


何かが変わった。


アストラヴェルの空気が、重く感じられる。


理由もなく呼吸が浅くなる。


先ほどまで街路を満たしていた風の音さえも、いつの間にか消えていた。


代わりに、目には見えない圧力が、ゆっくりと街全体を押し潰すように広がっていく。


カエラが拳を握り締める。


両耳の毛が逆立った。


「いったい……何が起きてるの?」


ラインマーは黙ったままだった。


その目は、遠くへ向けられている。


一方、アインはまた小さく笑った。


「面白い」


その場から一歩、前へ踏み出す。


一歩。


そして、もう一歩。


黒い靴が石畳に触れるたび、軽い足音が響いた。


「恐怖」


アインは歩き続ける。


「なんて単純な感情なんだろうな」


ラインマーへ視線を向ける。


「だが、本当に巨大な何かが現れた時……これまで他の者たちより高い場所に立っていた人間でさえ、結局は自分もただの生き物に過ぎないのだと思い出す」


その笑みが、さらに細くなる。


「それって、素敵だと思わないか?」


ラインマーは奥歯を噛み締めた。


「アイン」


「ん?」


「黙れ」


アインはくすりと笑う。


「どうして?」


ゆっくりと両手を広げる。


「聞きたくないからか?」


その足は、止まることなくラインマーへ近づいていく。


「違う」


笑みが変わった。


それは、目の前の相手を嘲る人間の笑みではない。


まるで、ずっと待ち続けていた舞台で、ついに最初の音楽が鳴り始めたことを知った者のような笑みだった。


「お前は知っているからだ」


アインの声が低くなる。


「その音が、何を意味するのかを」


アストラヴェルから遥か遠く。


大地が唸った。


地震とは違う。


もっと低く。


もっと深い。


まるで、世界の地層の下で、途方もなく巨大な何かが動き始めたかのような音だった。


「グルルルルルルルルル……」


地面が震える。


建物の壁から埃がぱらぱらと落ちる。


木々から鳥たちが一斉に飛び立った。


そして――山々の向こうに、赤い光が現れた。


最初は、細い一筋の光だった。


それが、次第に強くなっていく。


赤い。


濃密な赤。


まるで地中で新たな太陽が生まれたかのように、丘の向こうから燃え上がっていた。


アインが足を止める。


両手は、まだ身体の横に開かれたままだった。


その瞳が輝く。


「ああ……これだ」


遠くから、再び低い音が響いた。


そして――


「ギィィィィィィィィン――ッ!」


巨大な金属を無理やり捻じ曲げたような音が、空気を貫いて響き渡る。


機械の音ではない。


岩が軋む音でもない。


まるで、世界そのものの構造が捻じ曲げられているような音だった。


カエラが両耳を塞ぐ。


「何よ、これ!?」


ラインマーは動かなかった。


その目が大きく見開かれる。


「……そんなはずがない」


山々の向こうで、何かがせり上がり始めていた。


身体ではない。


生き物でもない。


構造物。


黒紫色の、巨大な構造体だった。


巨大で、途方もなく長い。


その側面は、炉から取り出されたばかりの金属のように赤い光を反射していた。一方で、別の部分は闇の中から成長した結晶のようにも見える。


周囲の大地が裂ける。


岩塊が宙へと持ち上がった。


そして、その構造体の中央から赤い核が現れた。


内部の光が震える。


一度。


「ヴンッ――」


核から赤い波動が外へと広がり、空気を押し潰しながら、山々全体を震わせた。


一瞬、すべてが静寂に戻る。


だが、次の瞬間。


その核が再び震えた。


「ヴゥンッ――」


二度目の波動が、さらに遠くまで広がっていく。


アストラヴェルの建物の窓が、一斉に震えた。


ラインマーは息を呑む。


そして――


赤い核が、先ほどとは比べものにならないほど強く輝いた。


「ヴゥゥゥゥゥンッ――」


三度目の波動が、爆発するように外へと放たれる。


今度は、大地だけではなかった。


空までもが、共鳴しているかのように震えた。


赤い光が地平線へと広がっていく。


そして一息の間に――世界全体が変わった。


先ほどまでゆっくりと薄れていた夕暮れの橙色が、突如として赤に染め上げられる。


雲が割れる。


その向こうで、これまで人の目には決して見えなかったものが、徐々にその存在を露わにし始めた。


世界を取り囲む守り。


これまでアスピラントの世界と、その外側にある何かを隔てていた、現実の層が――


ひび割れた。


「ピシッ」


空に一本の亀裂が走る。


そして、それが枝分かれしていく。


「ピシッ、ピシッ、ピシッ――」


巨大なガラスが反対側から叩き割られたかのように、光の亀裂が空一面へと広がっていく。


カエラは青ざめた顔で空を見上げた。


「空が……」


ラインマーが手を握り締める。


「……あれを、あんなにも容易く壊したというのか?」


だが、もう遅かった。


遠くでは、あの構造体がなおも上昇を続けている。


その巨体を取り囲むように、巨大な輪が一つ現れた。


続いて、二つ目。


二つの輪はゆっくりと回転している。


だが、それは機械のような動きではなかった。


まるで、そこにあるべき法則そのものが、自らの位置を定めるかのように動いていた。


その巨大な構造体から放たれる赤い光が、さらに強くなる。


そして、三つ目の輪が形を成し始めた瞬間――世界が再び震えた。


「ヴルルルルルルルッ!」


ヴァレンフォード。


北方の山間にある小さな村で、一軒の家の扉が勢いよく開いた。


マリアーネが外へ飛び出してくる。


外套さえまともに羽織る暇がなかったのだろう。


息を切らしながら家を出て、まだ数歩しか進んでいないところへ、次の圧力の波が村を襲った。


突然向きを変えた風が、彼女の髪を激しくなびかせる。


マリアーネは顔を上げた。


右手の山々の向こう。


そこから、あの巨大な存在が山の稜線を遥かに越えてそびえ立っている。


赤い光が、空全体を照らしていた。


マリアーネは凍りついた。


数秒間、ただその場に立ち尽くす。


やがて、その手が首元へ伸びた。


指先が、そこに掛けられていたペンダントを探り当てる。


そして、それを強く握り締めた。


まるで、その小さなものだけが、自分をこの場に立たせているかのように。


「……嫌」


声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


瞳が震える。


次の波動が押し寄せる。


身体が強張った。


ただの恐怖ではない。


この圧力には、もっと遥かな過去から続く何かが含まれていた。


かつて、自分が感じたことのあるもの。


その記憶が、ペンダントを握る指をさらに強くする。


「お願い……」


マリアーネは苦しそうに息を吸った。


「もう、奪わないで……」


再び、アストラヴェル。


アインは街路の中央に立っていた。


その遥か前方には、カエラを傍らに置いたラインマーがいる。


だが、アインはもう二人を見ていなかった。


その意識のすべてが、山々の向こうにそびえ立つ存在へと向けられている。


黒紫色の構造体は、なおも上昇を続けていた。


輪が回転する。


赤い核が脈動する。


そして、そのたびに放たれる波動が、世界をますます異質なものへと変えていく。


アインはゆっくりと息を吸った。


そして、笑う。


「見ろ」


再び、両手を大きく広げる。


「お前たちがずっと知っていた世界が……」


アインは、ひび割れた空を見上げた。


「……その形を失いつつある」


声は穏やかだった。


だが、その奥には明らかに異なるものがあった。


歓喜。


「誰かが、この世界を壊そうとしているからじゃない」


アインが一歩、前へ進む。


「一つの王国が滅びるからでもない」


さらに一歩。


「ましてや、人間が戦争に敗れるからでもない」


アインは顔を上げた。


「違う」


その笑みが広がる。


「もっと単純なことだ」


遠くから、再び空気を揺さぶる低い音が響いてきた。


「ヴゥゥゥゥゥゥン――」


アインは一瞬だけ目を閉じる。


「カオスが訪れるのに、理由なんて必要ない」


再び目を開く。


「憎しみもいらない」


「意志もいらない」


「誰かに命じられる必要すらない」


巨大な構造体の第一の輪が、さらに速度を上げて回転する。


アインは小さく笑った。


「だって、アンカーが現れたなら……」


続いて、第二の輪が回り始める。


「……カオスには、入り込む場所さえあればいい」


第三の輪が形を成し始める。


「そして、それが世界へ入り込んだ時……」


アインは両腕をさらに大きく広げた。


「……変わり始めるのは、世界そのものだ」


空が震える。


アストラヴェル上空の亀裂が、さらに広がっていく。


空に浮かぶ光の一部が剥がれ落ちるように崩れ、その向こうに濃密な闇が覗いた。


ラインマーは瞬き一つせず、その光景を見つめていた。


やがて、アインが再び彼を見る。


その笑みには、もう嘲りの色はなかった。


今度は、目の前で起きているすべてを心から楽しんでいるようだった。


「ラインハルト」


その声は、穏やかだった。


「今日……」


そこで言葉を切る。


遠くから、再び歪んだ音が響いた。


「ギィィィィィィン――」


巨大な構造体が動き始める。


その下に広がる大地が、さらに大きく裂けていく。


巨大な構造体のコアから赤い光が空へと噴き上がり、雲を突き抜けて地平線全体を照らし出した。


再び、共鳴の波動が世界を駆け抜ける。


そして――空中に光の線が現れた。


一本。


二本。


数十。


数百。


赤い幾何学的な線がその巨体から伸び、互いに交差しながら、空に巨大な紋様を描いていく。


その線の間に、大きな円環がいくつも現れる。


それは機械には見えなかった。


魔法にも見えない。


すべてが、自然という言葉では到底片付けられないほど完璧な調和を保ちながら動いていた。


第一の輪が再び回転する。


続いて第二の輪。


そして第三の輪。


その巨大な構造体の中心で、コアが再び完全な威厳をもって輝きを放つ。


その光が、空を呑み込んでいく。


ほんの一瞬、アストラヴェル全体が、山々の遥か彼方にそびえ立つ何かの影に覆われた。


アインは街路の中央に立っていた。


その身体は、背後にそびえる巨大な存在と比べれば、あまりにも小さい。


彼は顎を上げる。


そして、両腕を大きく広げた。


まるで何かを迎え入れるように。


まるで、舞台の幕を開くように。


その背後で、巨大な構造体が完全に立ち上がっていた。


山々を遥かに越えてそびえ立ち、無数の巨大な輪と、空へと広がり続ける光り輝く幾何学的な構造に包まれている。


赤いコアだけが、まるで生きているはずのない構造体の中で、唯一の心臓のように感じられた。


アインは笑った。


そして初めて、その声が高らかに響く。


「見届けろ……」


両手を広げたまま。


「ずっと俺たちを待っていた舞台を」


背後で、幾何学的な光の線がさらに広がっていく。


「生きてはいない……」


遠くから、低い共鳴音が響く。


「ヴゥゥゥゥゥゥン――」


アインが前へ歩き出す。


それは、眠りから目覚めた生き物の歩みではなかった。


まるで、一つの構造体がようやく現実の中に自らの居場所を定め終えたかのようだった。


「……それでも、その存在だけで、あらゆる生命を変えてしまう」


アインは息を吸う。


笑みがさらに広がる。


背後の巨大な存在を見つめる。


そして、声を張り上げた。


「THE LIVING DISASTER!」


「ギィィィィィィン――ッ!」


再び歪んだ音が空気を貫く。


空が震える。


現実の亀裂がさらに広がる。


巨大な輪が一斉に動く。


赤いコアが、世界そのものが光に呑まれたかのような強烈な輝きを放つ。


それでもアインは、その場に立ち続けていた。


静かに。


その両手は、己自身を点のように見せてしまうほどの災厄へ向かって、なお広げられたままだった。


そして、笑う。


「Chaosのアンカー」


「メルモラの母よ!!」


ラインマーは、すぐには答えなかった。


数秒の間、身体から動くという機能そのものが失われたかのように立ち尽くす。


こめかみを冷たい汗が伝う。


その隣では、カエラも凍りついていた。


虎の耳が強張り、尻尾が身体の後ろで硬直している。


両手を強く握り締めているにもかかわらず、その指先は震えていた。


アストラヴェルの街路では、人々が次々と倒れ始めていた。


一部の者は膝をついた。


またある者は、どこへ向かえばいいのかも分からないまま、その場から離れようとする。


群衆の中で、子供たちの泣き声が上がった。


馬たちは恐慌に陥ったように嘶き、馬車を乱暴に引き始める。


これまで街路を守るために立っていた兵士たちでさえ、その顔から恐怖を隠すことができなかった。


誰も、何が起きているのか理解していない。


だが、身体だけは一つのことを理解していた。


逃げろ。


自分たちより遥かに巨大な何かが、この世界へ入り込んだ。


ラインマーが、一歩後退した。


たった一歩。


踵が石畳の上をわずかに滑る。


彼は山々の向こうにそびえ立つメルモラの母を見つめた。


そのコアから放たれる赤い光が、巨大な心臓のように脈動している。


周囲を取り巻く巨大な輪は回転を続け、その周りでは幾何学的な光の網が、ほとんど完全に赤く染まった空を覆い尽くしていた。


ラインマーは唾を呑み込む。


「……そんな」


声は低かった。


カエラが彼を見る。


「ラインマー様……?」


ラインマーは答えなかった。


その目は、あれほど遠くにあるにもかかわらず、胸を締めつけるような圧迫感を与えてくる存在から離れない。


「生きてきた中で……」


その手が、ゆっくりと握り締められる。


「俺は、あんなカオスを見たことがない」


短く息を吸う。


「一度もない」


アインが笑った。


「知ってる」


ラインマーは、ようやく彼を見る。


アインは階段の遥か下に立っていた。


二人の間には、何十メートルもの石畳の道が広がっている。


だが、今だけは、その距離に何の意味もないように感じられた。


「それが、お前の恐怖だ」


アインは軽い口調で言った。


「お前でさえ、後ろへ下がった」


ラインマーは奥歯を噛み締める。


アインがくすりと笑った。


「勘違いするな」


再びメルモラの母へと顔を向ける。


「お前を馬鹿にしているわけじゃない」


その笑みが、さらに広がる。


「むしろ、嬉しいんだ」


片手を上げる。


「それほどの恐怖があるということは……」


指をゆっくりと開く。


「……ようやく世界が、自分たちの前に何が立っているのかを理解し始めた証拠だからな」


アインは一瞬、目を閉じた。


「そして、これもすべて……」


再び目を開く。


「……今日より遥か前から準備されていた」


ラインマーが黙り込む。


「何だと!?」


アインがわずかに顔を向ける。


「何千年も前からだ」


その笑みが消える。


そこに残ったのは、冷たい静けさだけだった。


「俺が、自分の名前すら知らなかった頃よりも遥か前から」


カエラの背筋に、再び悪寒が走った。


アインは続ける。


「俺がカオスを理解するよりも、ずっと前からだ」


その手を下ろす。


「この世界が、なぜ変わらなければならないのか。それすら理解していなかった頃には、もうすべてが始まっていた」


ラインマーが鋭く睨みつける。


「誰が準備した?」


アインはしばし黙った。


そして、小さく笑う。


「いい質問だ」


再び、ゆっくりと歩き始める。


「残念ながら……」


一歩。


「……俺は、すべての答えを与えるために来たわけじゃない」


さらに一歩。


「俺はただ、与えられた役割を果たしているだけだ」


ラインマーが拳を握り締める。


「役割?」


「当然だ」


アインは肩をすくめる。


「この舞台は、俺一人のものにするには古すぎる」


メルモラの母を見つめる。


「俺がここに立つ遥か前から、誰かが舞台を用意していた」


その声が、さらに低くなる。


「そして俺は、幸運にも幕が上がる日まで生きていただけだ」


ラインマーは何も言わなかった。


だが、その表情が変わっていた。


まるで、アインの言葉を聞くほどに、状況がさらに悪化していくようだった。


アインが再び笑う。


「ああ」


足を止める。


「それと、もう一つ」


ラインマーが顔を上げる。


アインは、まっすぐに彼を見つめた。


「お前が今見ているものが、一つだけだと思うなよ」


ラインマーが黙り込む。


「何?」


アインがくすくすと笑う。


「言っただろ?」


一本の指を立てる。


「この舞台は、一つの舞台だけで収まるほど小さくない」


そして――


アインが指を鳴らした。


「遥か彼方だ」


雨というものを知らない、遥かな土地。


砂嵐が荒れ狂っていた。


砂漠が地平線の果てまで広がっている。


だが、その嵐の只中で、赤い光がゆっくりと現れた。


大地が震える。


砂が宙へと舞い上がる。


黒紫色の構造体が、砂漠の地表を突き破った。


「ギィィィィィィン――」


一つ目のレゾナンス・リングが現れる。


続いて、二つ目。


荒れ狂う砂嵐の中で、その赤いコアが輝きを放つ。


その姿はなおも上昇を続ける。


さらに高く。


さらに巨大に。


やがて、砂嵐を遥かに越え、空を貫く塔のようにそびえ立った。


別の場所では――雪に閉ざされた世界。


白い吹雪が絶え間なく荒れ狂っていた。


氷の山々が、あらゆる方向へと連なっている。


そして――吹雪の向こうに赤い光が現れた。


氷の表面を亀裂が走る。


「ギィィィィィィン――」


巨大な構造体が、氷の層を突き破った。


雪の破片が宙へと舞い上がる。


吹雪の只中で、巨大な輪が回転を始める。


メルモラのコアから放たれた赤い光が、白い霧を貫く。


やがて、空に幾何学的な光の線が形を成し始めた。


一つ。


また一つ。


新たに立ち上がったその姿を縁取るように、光の線が空を覆っていく。


そして、さらに遠く――巨大な森が揺れた。


塔のような大きさを持つ木々が、押し寄せる圧力の波に煽られて揺れている。


鳥たちが一斉に飛び立った。


木々の根元にいた生き物たちが、一斉に逃げていく。


やがて、森の中央にある大地が裂けた。


その深部から、赤い光が現れる。


黒紫色の構造体が、木々の間からゆっくりと姿を現した。


だが、今回は――


巨大な木々そのものが、小さく見えた。


メルモラの母は、森全体よりも遥かに高くそびえ立っていた。


巨大な輪が雲の間で回転する。


赤いコアが輝く。


その背後では、巨大な幾何学模様が空を埋め尽くしていた。


そして、それはそこだけではなかった。


世界各地の遥かな場所で、同じ赤い光が次々と立ち上がり始める。


すべてが、同じリズムで脈動していた。


再び、アストラヴェル。


ラインマーは、完全に血の気を失った顔で遠くを見つめていた。


カエラも、その隣で硬直している。


「……一つじゃないの?」


アインが薄く笑う。


「一つだけじゃない」


両手をわずかに持ち上げる。


「二つでもない」


その笑みが広がる。


「三つでもない」


ラインマーは答えなかった。


もう理解していた。


起きているのは、一つの攻撃ではない。


侵略でもない。


軍勢が一つの都市へ向かって進んでいるわけでもない。


標的となる一点があるわけでもない。


メルモラの母は、世界各地で同時に姿を現している。


そして、その一体が立ち上がるたびに――


空が変わる。


現実が震える。


世界と、その外側にある何かとの隔たりが、少しずつ薄くなっていく。


ラインマーは、アストラヴェルの空に走った亀裂を見つめた。


生まれて初めて、彼は敵を見ているのではなかった。


一人を倒すだけでは止められない何かを見ていた。


アインがゆっくりと手を下ろす。


その笑みが、どこか優しさすら感じさせるものへと変わった。


ラインマーを見る。


「さて……」


ほとんど人のいなくなった街路を風が通り抜ける。


二人の間で、埃が舞った。


アインが首を傾げる。


「これから、どうする?」


ラインマーは答えなかった。


生まれて初めて、彼には答えがなかった。


何をすべきか分からないからではない。


これほどのものを前にしては、どんな選択も十分ではないと感じられたからだ。


アインはしばらく待った。


そして、薄く笑う。


「隊長?」


ラインマーは、なおも黙ったままだった。


頭上では、空の亀裂が広がり続けている。


遥か山々の向こうで、再び赤い光が輝いた。


「ヴゥゥゥゥゥゥン――」


共鳴の波動がアストラヴェルを駆け抜ける。


建物が震える。


窓ガラスが次々と砕ける。


家々の屋根から埃が落ちていく。


だが、今度は誰一人としてアインを見なかった。


ラインマーを見る者もいない。


すべての視線が、空へ向けられていた。


ゆっくりと開いていく亀裂。


その向こうに、本来なら決して目にすることのなかった何かが姿を現そうとしている。


そして世界各地の遥かな場所でも――同じ赤い光が灯り始めた。


一つ。


そして、また一つ。


さらに、もう一つ。


世界の九つの方角。


九つの地点が、一つのリズムで共鳴を始めていた。


宣言はなかった。


戦争が始まったわけでもない。


王国が滅びたわけでもない。


それでも、その日の夕暮れ――世界は、一つの境界を越えた。


一度越えてしまえば、二度と元へ戻ることのできない境界を。


ただし……

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