第八十三話
アインは立ち止まった。
その言葉が、二人の間に静かに残った。
夕暮れの風がアストラヴェルの通りを吹き抜け、ラインマーの衣服とカエラの髪を揺らしていく。誰も、この静寂を破ろうとはしなかった。
遠くからは、今も街の喧騒が聞こえている。
けれど、彼らの意識は次第に、もっと単純なものへと引き寄せられていった。
風に揺れるオータム・ヴェイルの樹の葉。
一枚の葉が、枝から離れる。
その葉はゆっくりと宙を舞いながら、やがて通りの上へと落ちていった。
ラインマーは、その場から動かなかった。
カエラもまた、動かない。
ただアインだけが、わずかに微笑んでいた。
アストラヴェルの上空、その遥か高くにある区画では、巨大なドームの向こう側にレプリカ・ツリーが静かに立っていた。
夕暮れの光がその表面を透かし、未だ桃色を保っている葉々を柔らかく包み込んでいる。
何枚かの葉が、風に合わせるようにゆっくりと揺れていた。
その木の下で、一人の竜人の女が地面から数センチほど浮いた状態で座っている。
脚を折り畳み、両手を膝の上に置いたまま。
目は閉じられている。
頭からは赤みを帯びた角が伸び、尾はその背後で静かに身体へと巻き付いていた。
余計な動きは一切ない。
まるで、何日も前からずっとそこに座っていたかのように。
あるいは、それより遥かに長い時間を。
一枚の葉が、彼女の傍らへ落ちる。
そして、もう一枚。
風が長い髪を撫でていく。
それでも、女は動かなかった。
だが、ゆっくりと――その呼吸が変化した。
ほんの僅かに。
ほとんど聞き取れないほどの変化だった。
頭上のレプリカ・ツリーもまた、揺れ始める。
風のせいではない。
葉々がそれぞれ異なる方向へ動き、まるで目には見えない何かに反応しているかのようだった。
竜人の女の眉が、僅かに寄る。
「……何かが、変わった」
目はまだ閉じられている。
再び風が吹き抜ける。
今度は、どこか異質だった。
「この場所のものじゃない」
その声は低く、独り言のような呟きに近かった。
彼女の頭上で、いくつかの葉が次第に桃色を失っていく。
その先端から、ゆっくりと色が変わり始める。
紫へと。
女は、僅かに目を開いた。
「どうして……」
ドームを満たしていた柔らかな光が、変わり始める。
紫の色彩が、レプリカ・ツリーの枝々の間へと広がっていった。
「……また来たの?」
再び視線を閉ざす。
まるで遠く離れた場所から伝わってくる何かを、目ではなく感じ取っているかのように。
その顔に、薄い笑みが浮かんだ。
喜びの笑みではない。
それはむしろ、最初から一度たりとも揺らいだことのない確信に近かった。
「この家は、彼らのものじゃない」
赤みを帯びていた角が、ゆっくりと色を失っていく。
紫色が根元から伸び、先端へ向かって広がっていった。
「そして、奪いに来た者たちは……」
女は静かに息を吸う。
「……自分たちが与えたものを、返してもらうことになる」
レプリカ・ツリーの変化が、さらに速くなる。
桃色。
紫。
そして、さらに深く。
その色が、次第にすべての枝々を満たしていく。
竜人の女が目を開いた。
初めて、その顔から静けさが消えた。
「もし、本当に王の血がまだ自分の家を覚えているのなら……」
その声は、囁きとほとんど変わらなかった。
「……知っているはず」
しばしの沈黙。
「私たちの家から何かを奪う者が、その代償を払わずに済むことはない」
チリン……
澄んだ音が、一つ響いた。
柔らかな音。
それでも、その水晶のような余韻は上層区画を遥かに越えて広がっていった。
アストラヴェル全域に、その音が届く。
通りでは、人々の足がゆっくりと止まっていく。
何人もの者が、顔を上げた。
先ほどまで街を満たしていた会話が、一つ、また一つと消えていく。
ラインマーが凍りついた。
カエラもまた、言葉を失う。
アインは、微動だにしなかった。
その頭上で、オータム・ヴェイルの樹の葉々が変わり始める。
アストラヴェルを彩っていた橙色と黄金色が、ゆっくりと紫の色彩へと置き換わっていった。
同じ光が、レプリカ・ツリーの方角から広がってくる。
眩しいほどではない。
それでも、遠くからでもはっきりと見えるほどだった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
彼らは皆、その音を知っている。
かつて、聞いたことがある。
かつて。
アストラヴェルが、今の世代より遥かに古い恐怖を知っていた時代。
そして――
チリン……
二度目の音が響いた。
今度は、より長く。
より深く。
ラインマーの目が大きく見開かれる。
こめかみに冷たい汗が浮かんだ。
「……そんな」
カエラの身体が強張る。
周囲では、市民たちが互いに顔を見合わせ始めていた。ゆっくりと後ずさる者もいれば、ただその場に立ち尽くしている者もいる。
誰も、説明を必要としていなかった。
二度の音。それだけで十分だった。
ラインマーは拳を握り締める。
「今じゃない……」
アインが彼へ振り向く。
そして、口元が僅かに上がった。
先ほどまでとは違う笑みだった。
まるで、ずっと待ち続けていた知らせを、ようやく聞いたかのように。
そして――
グルルルルルルルル――!
世界を揺るがす轟音が響き渡った。
大地が震える。
建物が揺れる。
まるで空さえも脈打っているかのようだった。
アストラヴェルの遥か上空。
本来ならば、その世界に存在するはずのない何かが、動き始めていた。
そして別の場所。
アストラヴェルの地表から遥か下方。
空中に開いた青白い次元の亀裂から、いくつもの砲口が姿を現した。
次の瞬間、プラズマの弾幕が一斉に放たれる。
ヴォーム! ヴォーム! ヴォーム!
迸ったエネルギーが、荒涼とした大地の中央に立つ巨大な人影へと叩き込まれた。
連続する爆発が地表を揺さぶる。
土煙と地面の破片が高く舞い上がり、焼けた物質から生じた黒い残滓と混ざり合う。
数秒もしないうちに、その巨体はすべて煙の向こうへと消えた。
カイデンが片方の手を下ろす。
背後に浮かんでいた次元の亀裂が、ゆっくりと閉じていった。
しかし、誰一人として警戒を解かなかった。
ローワンは未だ前線に立ち、盾を構えている。
その数歩後ろでは、リサンドラが距離を保ちながら、両手に形成された魔法陣を維持していた。
エレナはカイデンの隣で防御態勢を取り、目の前に立ち込める煙を絶えず見つめている。
彼らは、あまりにも長く戦い続けていた。
それでも、敵はまだ倒れていない。
「いったい、何者なんだよ……?」
ローワンが舌打ちする。
「俺たち、何回あいつをぶっ飛ばしたと思ってる?」
盾を握る手に、さらに力が込もる。
「なんで……まだ立ってられるんだよ!?」
黒い煙が、ゆっくりと薄れていく。
その向こうから、大きなシルエットが浮かび上がった。
そして――黒いバイザーの奥で、二本の赤いV字の光が灯る。
「まだ足りない」
重い声が、感情を伴わずに響いた。
ローワンが言葉を失う。
「……マジかよ?」
その姿が、煙の中から歩み出る。
黒いアーマーには無数の傷が刻まれ、装甲の一部には亀裂が走っている。
それでも、その歩みは安定していた。
急ぐこともない。
何かに怯む様子もない。
カイデンが目を細める。
彼らはすでに、自分たちが持つ力のほぼ半分を使っていた。
四人。
一人の指揮官を相手に。
それだけの攻撃を受けてもなお、敵は立っている。
そして――
グルルルルルル――!
再び大地が震えた。
四人の動きが、同時に止まる。
敵からの攻撃ではない。
その揺れは、別の場所から伝わってきていた。
もっと深い場所から。
カイデンがゆっくりと顔を上げる。
頭上に広がるくすんだ黄色の空は、先ほどまでと何も変わっていない。
それでも、ダンジョン全体がまるで長い息を吐いたかのように揺らめいていた。
遠方に浮かぶ巨大な柱々が震える。
その表面に刻まれた古代文字が、一つ、また一つと光を灯していく。
エレナが眉をひそめた。
「地震……?」
「ダンジョンの中で?」
リサンドラが周囲を見渡す。
「そんなはず……」
指揮官は、何も言わなかった。
その赤いバイザーだけが、世界の最深部の中心へと向けられている。
やがて、静かに口を開いた。
「始まった」
カイデンが、すぐさま振り向いた。
「どういう意味だ?」
指揮官が、ようやく彼らへと視線を向けた。
「私の任務は終わった」
ローワンが眉をひそめる。
「何?」
「お前たちを足止めすることだ」
その声は相変わらず平坦だった。
「もう十分に時間は稼いだ」
指揮官は、僅かに顔を上げる。
「アイン様が成し遂げた」
一瞬の沈黙。
「破滅の舞台は、すでに開かれた」
カイデンが目を細める。
「アインは何をした?」
答えは返ってこなかった。
指揮官は、ただ僅かに身体の向きを変える。
「お前たちは、あまりにも多くの時間を無駄にした」
ローワンが拳を握り締める。
「ふざけるな」
「四人対一人」
その重い声はあまりにも穏やかで、それゆえに嘲笑のようにも聞こえた。
「それでも、お前たちは私を倒せていない」
ローワンは黙り込む。
指揮官は、それ以上何も言わなかった。
すでに、その意識は別の場所へと向けられている。
遠くで――巨大な柱の一つが動いた。
ゴゴゴゴ……
岩が擦れ合う音が、周囲一帯へと響き渡る。
柱が、空中でゆっくりと回転する。
続いて、二本目。
三本目。
四本目。
これまでただの遺跡の一部にしか見えなかった巨大な構造物が、一つずつ本来の位置から動き始めていく。
カイデンがそれを見つめる。
「何が起きてる……?」
柱々は、一つの地点へ向かって移動していた。
無秩序にではない。
それぞれが定められた位置で停止し、中央の紫色の根の巣と、その周囲を埋め尽くす無数の卵を取り囲むように、巨大な幾何学模様を形作っていく。
その表面に刻まれた古代文字が、次々と光を灯し始めた。
一つ。
二つ。
そして、すべてが。
ヴンンンンンン――
低いレゾナンスがダンジョン全体を満たす。
大地が震える。
遠くにある巨大な卵までもが、脈打つように揺れ始めた。
カイデンがすぐに手を上げる。
「何かいる」
柱の配置によって生まれた中央の空間が、ゆっくりと変化していく。
地面から、一筋の光が現れた。
細く。
真っ直ぐに。
まるで世界を下から空へ向かって切り裂くかのように。
ジィィィン!
光が垂直に駆け上がる。
大きくはない。
爆発することもない。
それでも、その光は頭上に広がる黄色い空を貫き続けた。
その先端が空の表面へ触れた瞬間――そこが波打つ。
そして、開いた。
空中に巨大な円が形成される。
雲ではない。
ただの穴でもない。
一つの次元空間だった。
その内部には何も見えない。
ただ、紫と白の光が渦巻く闇だけが広がっている。
リサンドラが凍りつく。
「……あれは何?」
下方から、光が流れ続けている。
紫と白のエネルギーがその光の筋に沿って集まり、次元空間の中へと消えていく。
まるで、この構造全体が何かを別の場所へ送り込んでいるかのようだった。
カイデンが拳を握る。
「このエネルギー……ダンジョンの外へ送られてる……」
「そんなはずがない!」
指揮官が、ついに口を開いた。
「お前たちは、もう遅い」
カイデンがすぐさま振り向く。
「何だって!?」
「今、この場所を破壊したとしても……」
赤いバイザーが再び光を放つ。
「……お前たちが気づくより前に、遥かに大きなものがすでに形作られている」
ローワンが盾を構える。
「お前たちは何を作っている?」
答えはなかった。
指揮官は、ただその場から歩き去っていく。
カイデンが追おうとした。
だが、その姿が止まる。
指揮官が目の前の虚空へ手を伸ばした。
そして――
バキッ。
指が空間を掴む。
まるで一枚の布を引き裂くかのように、それを引いた。
ビリィィィッ!
現実の壁が、本当に引き裂かれた。
目の前に、赤い裂け目が生まれる。
指揮官は、その中へと足を踏み入れた。
去り際に、ただ一言だけを残す。
「お前たちは、自分の目で見ることになる」
その身体が消える。
赤い裂け目が閉じていく。
バキッ。
静寂。
説明は何もない。
追いかける機会すら、もう残されていなかった。
そして――
グルルルルルルルル――!
次の揺れが、その場を襲った。
先ほどよりも、遥かに強い。
カイデンが足場を失う。
ローワンはよろめきながら、盾を地面へ突き立てた。
リサンドラが倒れかける一方、エレナはすぐに身体を低くして、バランスを保つ。
周囲のすべての柱が激しく揺れ動く。
頭上の紫と白の光が、さらに濃くなっていく。
そのとき、カイデンは初めて気づいた。
あの空間を通して送り込まれているものが何であれ――それは、ダンジョンの中だけに留まるものではない。
* * *
遠く離れた場所――一台の馬車がアストラヴェルの南部地区を離れて走っていた。
鉄製の車輪が、街道の上を絶えず回り続けている。
馬車の中では、ケイルが背もたれに身体を預け、窓の向こうに流れていく景色を眺めていた。
その隣の座席には、茶色の鞄が一つ置かれている。
三人のメイドへの贈り物は、すでにその中へきちんと収められていた。
少なくとも、これで一つの用事は片付いた。
ケイルは小さく息を吐き、頭を背もたれへ預ける。
「疲れたな……」
馬車はそのまま街道を進んでいく。
すると――
突然、前方の馬たちがいなないた。
ヒヒィィィン!
ガタガタッ!
四頭の馬が、ほとんど同時に前脚を持ち上げる。
馬車が急停止した。
ケイルの身体が前へ投げ出される。
「うわっ――!」
ドンッ!
ケイルの肩が座席の前側へとぶつかった。
隣に置いていた茶色の鞄も勢いでずれたが、落ちる前にケイルがすぐさま掴んだ。
「何だよ……?」
ケイルが顔を上げる。
馬車の前では、馬たちが未だに落ち着きを失っていた。
荒い息遣いが、外からはっきりと聞こえてくる。
そして――大地が揺れた。
それほど強くはない。
それでも、馬車全体がその場で揺れる程度には十分だった。
ケイルは黙り込む。
鞄を握っていた手から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……地震?」
揺れは数秒ほど続き、やがて収まった。
街道には、再び静けさが戻る。
ケイルはゆっくりと立ち上がり、窓へ近づいた。
道沿いに垂れ下がっていたいくつかの葉が、ぱらぱらと落ちていく。
だが、普通の地震だと思わせるような兆候は何もない。
なぜか、胸の奥に嫌な感覚が残っていた。
その瞬間、頭に浮かんだのは一つの場所だった。
アストラヴェル。
そして、そこにまだ残っている一人の人物。
「……お父様」
「……カエラ」
ケイルの指が、ぎゅっと強く握られる。
一瞬、ラインマーの顔が脳裏をよぎった。
あの人はまだ、街にいる。
ケイル自身でさえ、その正体を知らない何かと、今も向き合っている。
ケイルは窓越しに、前方へ伸びる街道を見つめた。
「お父様……」
その声は、ほとんど囁きだった。
遠くで、再び風が吹き抜ける。
ケイルが気づかないまま――ゆっくりと橙色を失っていく空が、変わり始めていた。




