第八十二話
しばらくの間、三人の兵士はただその場に立ち尽くしていた。
誰一人として動かない。
アインが示した選択肢は、あまりにも単純だった。だからこそ、彼らにはその意図が理解できなかった。
「……どういう意味だ?」
中央にいた兵士が、ようやく口を開いた。
目の前に数メートル離れて立つ男を見つめながら、小さく首を振る。眉間には深い皺が寄っていた。
「お前は、一体何者なんだ?」
返事はない。
アインはただ、静かに立っていた。
左側の兵士が槍を強く握り直す。
「身元も明かさずこの地区に入り込んで、俺たちを脅した挙句、生きるか死ぬかを選べだと?」
一歩、前へ出る。
「ふざけるな!」
右側の兵士も動いた。
「アストラヴェルの住民に危害を加えるつもりなら、力ずくでも追い出してやる!」
二本の槍が持ち上がる。
「お前が何者だろうと関係ない」
その瞬間、初めてアインの表情がわずかに変わった。
鋭く目を細める。
「おお……」
「随分と度胸があるな」
その声に感嘆はなかった。
ただ、淡々と観察しているだけだった。
中央の兵士が槍を構える。
「立ち去ることを拒むというのなら――」
最後まで言い終えるより先に。
両脇の二人が、先に動いた。
一本目の槍が、アインの胸元めがけて一直線に突き出される。
アインは身体をわずかにずらした。
槍の穂先が、その脇を通り過ぎる。
同時に、アインの右手の甲が兵士の顔面を打ち抜いた。
ドゴォッ!
兵士の身体が軽い物のように吹き飛び、通りの右手にあった店の壁へ叩きつけられる。
建物の正面が一気に崩れ落ちた。
木材とガラスの破片が、四方へ飛び散る。
「きゃあああっ!」
まだ通りに残っていた住民たちが、一斉にパニックに陥った。
何人かはすぐさまその場から逃げ出す。中には足をもつれさせて転倒する者もいたが、迫ってくる瓦礫に気づくと慌てて立ち上がった。
二人目の兵士が攻撃に移ろうとした、その瞬間。
動きが止まった。
槍が手から落ちる。
すでにアインの左手が、その首を掴んでいた。
兵士の身体が地面から持ち上げられる。
「ぐっ……!」
両手が反射的にアインの手首へ伸びる。
必死に引き剥がそうとする。
だが、びくともしない。
足が宙を蹴り、呼吸が次第に苦しくなっていく。
「ぐっ……あ……」
アインは無表情のまま、その顔を見つめていた。
数秒が過ぎる。
兵士の抵抗が、少しずつ弱くなっていく。
やがて両手が力なく垂れ下がった。
身体が動かなくなる。
アインはしばらく、その顔を眺めた。
「まだ首すら折っていないんだがな」
手を離す。
兵士の身体は、そのまま道端へ落ちた。
まるで、もう何の価値もない物であるかのように。
中央にいた兵士は凍りついた。
視線が、店の瓦礫の中に倒れている仲間から、すでに動かなくなったもう一人の仲間へと移る。
手にはまだ槍を握っている。
だが今度、彼をその場に立たせていたのは勇気ではなかった。
ただ、身体を動かすことができなかっただけだ。
アインが顔を上げる。
次の瞬間――
ザッ!
赤い閃光が空中を走った。
アインの姿が消える。
兵士は槍を持ち上げる暇すらなかった。
次に姿を現したアインは、すでに目の前にいた。
拳が、兵士の腹部へ叩き込まれる。
ドゴォッ!
身体が強引にくの字へ折れ曲がる。
口から血が噴き出した。
ほんの一瞬、世界がゆっくりになったように感じられる。
指から槍が滑り落ちる。
身体が地面から浮き上がり、そのまま後方へ大きく吹き飛ばされた。
通りを滑るように飛んでいき、地区の中心へ続く大階段へ向かっていく。
だが、その身体が最上段へ叩きつけられるより先に――
誰かが受け止めた。
「うぐっ……」
意識が遠のきかける。
身体を支える手の感触を感じた。
薄く目を開く。
そこには、見慣れた顔があった。
「こ……隊長……?」
男はすぐには答えなかった。
ラインマーは兵士の身体を少し引き寄せ、なんとか隣に立てるように支える。
その表情は、完全に変わっていた。
先ほどまでの気の抜けた父親の姿は、もうどこにもない。
そこに残っていたのは、かつての指揮官としての眼差しだけだった。
そしてその目は、自分がよく知る何かと、今まさに対峙した者のそれだった。
ラインマーは、アインを真っ直ぐ見据える。
「地区の各所に兵を集めろ」
兵士は呆然とした。
「え……?」
「一箇所たりとも見落とすな」
「で、ですが、隊長……あなたはもう――」
「俺の命令だ」
ラインマーの声は、低かった。
だが、その声には確かな強さがあった。
兵士は迷った。
確かにラインマーは、かつて彼らの指揮官だった。
しかし、今は違う。
正式にその地位を引き継いでいる上官が、別にいる。
「で、ですが……もう、あなたにその権限はありません」
ラインマーが、ようやく振り向いた。
その眼差しを受けた瞬間、兵士は口を閉ざした。
「誰に命令する権限があるのか、それを問題にしたいなら後にしろ」
ラインマーは再び、眼下の通りへ視線を戻す。
「今は前を見ろ」
兵士も、その視線の先を追った。
アインはまだそこに立っていた。
一人で。
静かに。
まるで、たった今自分が打ちのめした三人の兵士など、何の意味も持たないかのように。
「お前の目の前にいる脅威は、一個小隊で対処できるようなものじゃない」
ラインマーは一度、言葉を切った。
「それに……今日の問題は、あいつ一人だけじゃない気がしてならない」
兵士が唾を飲み込む。
その顔から、迷いが消えた。
すぐさま姿勢を正し、敬礼する。
「了解!」
兵士は踵を返し、そのまま走り去っていった。
ラインマーは追わなかった。
その視線は、ゆっくりと一人の人物へ戻っていく。
アイン。
まるで、ようやく目の前に立つ相手の正体に気づいたかのように、アインがゆっくりと顔を上げた。
視線が交わる。
アストラヴェルに入ってから初めて、アインの笑みがはっきりと浮かんだ。
それまでのような、薄く嘲る笑みではない。
もっと大きく。
もっと生き生きとした笑み。
まるで、長い間探し続けていた何かを、ようやく見つけた者のようだった。
アインは遠く離れたラインマーを見つめる。
そして両腕を大きく広げながら、ゆっくりと唇を動かした。
「……銀霜の王冠」
ラインマーは、すぐに眉をひそめた。
その呼び方は、単なる呼び名ではなかった。
そこには、何かが違う。
まるでアインが、長い年月の中に埋もれた伝説の名を口にしているかのようだった。
「ラインハルト・ラインマー」
フルネームが、どこか妙な強調を伴って発せられる。
まるで敬意を表しているかのように。
……ほとんど、そう聞こえるほどに。
「……ようやく」
アインの笑みがさらに広がる。
「また会えたな」
「ラインハルト……」
ラインマーの眉間に、さらに深い皺が刻まれる。
「……アイン」
その名が、彼の唇から静かにこぼれた。
アインは一瞬、黙り込んだ。
そして――
「ふふふ……」
小さな笑い声が漏れる。
面白かったからではない。
本当に嬉しかったのだ。
「はぁ……俺の名前をまだ覚えていてくれたのか」
その笑みが、さらに深くなる。
「実に光栄だ」
アインはわずかに身体を屈めた。
まるで、思いもよらない栄誉を授かったかのように。
身体を起こすと、赤い瞳が鋭く輝いた。
「お前は本当に、あまりにも多くの弟子を失った師のようになったな」
くすりと笑う。
「実に興味深い」
アインはゆっくりと歩き始めた。
大通りを数歩、横へ移動すると、今度は反対方向へ歩いていく。
その動きはあまりにも気楽で、まるで目の前にいる相手と談笑でもしているかのようだった。
二人の間にある数十メートルの距離など、最初から気にしていない。
「昔はな。『銀霜の王冠』という名を口にするだけで、攻撃を仕掛ける前に一度は考え直すほどだった」
アインが再び振り返る。
指先を胸元へ持ち上げ、両手の爪をゆっくりと触れ合わせる。
まるで、長い間記憶の奥底にしまっていた何かを、もう一度思い出しているかのように。
「たった一つの人生の失敗だけで戦場を凍りつかせた、かつて最強と呼ばれた指揮官」
さらに数歩進んだところで、再びラインマーへ振り返る。
「誰一人として近づこうとはしなかった」
笑みが広がる。
「本当に、美しかった」
その声音には、ほとんど感嘆さえ混じっていた。
だが、その奥には、もっと鋭い何かが潜んでいる。
「俺が憧れたのは、お前の強さだけじゃない」
アインは再び背を向け、別の方向へ数歩歩いていく。
「お前だけが、かつて俺に死を感じさせた」
足を止める。
しばらくの間、アインはラインマーに背を向けたまま立っていた。
やがて、わずかに首だけを振り返る。
「だが、残念なことに……」
口元が下がる。
悲しんでいるような表情を作る。
「お前は、また失敗した」
そして、その笑みが再び浮かんだ。
「なぜなら俺は……」
アインの手が上がり、自らの炭素製の顎へ触れる。
指先が、黒い金属の表面をゆっくりとなぞった。
まるで、この上なく大切なものを愛でるように。
「今もこうして生きている……この力のおかげでな」
その声が変わる。
そこには、あまりにも深い歓喜があった。
ほとんど狂信的なほどに。
「別のリージョンのアスピラントたちでさえ、お前の指揮下にある地域を避ける方法を常に探していた」
小さく笑う。
「奴らは一つだけ知っている」
その眼差しが鋭くなる。
「全盛期のラインハルト・ラインマーと戦わなければならないのなら……」
アインは言葉を止めた。
「……別の戦場を探したほうがいい」
ラインマーは黙ったままだった。
しかし、その眉間の皺はさらに深くなっている。
アインは、そのわずかな変化を見逃さなかった。
笑みが再び大きくなる。
「ああ」
両腕を少し広げる。
「こんなに強い気配を感じるのは、久しぶりだ」
声が、ほとんど囁きへと落ちる。
「何年も経って……ようやく、またお前を見ることができた」
ラインマーが視線を上げる。
「俺は隠れていたことなど一度もない」
「本当にそうか?」
アインが小さく笑う。
「なら、かつて最前線に立っていた男が、今では北部の貴族商人としてしか知られていないのはなぜだ?」
その声音は、先ほどまでよりも軽くなっていた。
より嘲るような響きがあった。
「なんとも哀れなものだ」
ラインマーが、ようやく口を開いた。
「まさか、もう一度お前を見ることになるとは思わなかった」
「そこまで言うか?」
アインが笑う。
「俺はむしろ、この日をずっと待っていた」
ゆっくりと両手を下ろす。
「何年も、ずっと待っていた」
その笑みが消えた。
「俺は今でも、すべてを覚えている」
赤い瞳が冷たくなる。
「俺たちの戦いを」
右手がわずかに持ち上がる。
指が、ゆっくりと宙をなぞる。
「そして、この手も」
その手を握り締める。
「お前はかつて、氷の剣でこの手を切り落とした」
一瞬の沈黙。
やがて、握り締めていた拳が再び開かれる。
「だが、見ろ」
指を一本ずつ動かしていく。
「俺はまだ、この手を持っている」
その声音には、もう冗談めいたものはなかった。
一つ一つの言葉の奥に、深い確信が込められている。
「俺はまだ立っている」
アインは再びラインマーを見つめた。
「そして、お前もまだ生きている」
ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「おかしいと思わないか?」
小さく笑う。
「本来なら死んでいるはずの二人が、こうして同じ場所に立っている」
ラインマーは、まだ答えなかった。
アインは再び数歩前へ進み、それから顔を上げる。
「何年もの間、ずっと考えていた……」
遠く離れたラインマーを、頭の先から足元までゆっくりと見渡す。
「かつて九つのリージョンに、その名を口にするだけで一度は考え直させた男が、まだその身体の中にいるのか?」
視線がラインマーの瞳で止まる。
「銀霜の王冠は、まだ牙を持っているのか?」
しばしの沈黙。
「他の全員が逃げることを選んだ時、それでも最前線に立っていた男なのか?」
アインの笑みが再び大きくなる。
「決して退かなかった男」
「お前がまだ立っている限り、自分たちは負けないと兵士たちに信じさせた男」
アインは小さく首を振る。
「それが今では……」
視線がゆっくりと下がる。
「……北部の貴族商人として、俺の前に立っている」
「随分と落ちぶれたものだな」
ラインマーは黙ったままだった。
だが、身体の脇に垂れていた指が、ゆっくりと握り締められていく。
アインはそれを見逃さなかった。
笑みがさらに深くなる。
声が再び軽くなる。
「その眼差しだ」
小さな笑い声が響く。
まるで、ずっと恋い焦がれていたものを味わうように。
「その眼差しだけは……今でも忘れられない」
そして、その声が低くなる。
「レイ……」
その名が、はっきりと響いた。
「今日は、復讐の日だ」
ラインマーが、ようやく顔を上げきる。
アインは笑った。
「お前は生きている」
再び両腕を広げる。
「そして俺も生きている」
赤い瞳が、鋭く輝いた。
「なら、世界が俺たちに二度目の機会を与えてくれたということだろう?」
答えはない。
二人の間には、ただ静寂だけが広がっていた。
アインは、まるでこの世界に他に興味を引くものなど何一つ存在しないかのように、ラインマーを見つめ続ける。
「だから……」
その笑みが、ほとんど狂信的なものへと変わる。
「俺に証明してみろ」
わずかに頭を下げる。
「かつて俺が恐れた銀霜の王冠は、本当にお前の過去と共に死んだのか?」
その眼差しが鋭くなる。
「そして、その答えは……」
ゆっくりと手を下ろす。
「今日、すぐに分かる」
瞳が鋭く光る。
「俺が用意した舞台の中でな」
ラインマーは黙ったままだった。
だが、その指はさらに強く握り締められていく。
その名。
アイン。
最後に二人が向かい合ってから、もう何年もの歳月が流れていた。
あの時から、多くのものが変わった。
アストラヴェルは発展した。
かつて最前線に立っていた者たちに代わり、新たな世代がその役割を担うようになった。
そしてラインマー自身もまた、かつてその名を街中に知らしめた地位を去っている。
だが、目の前にいる男だけは――
何一つ変わっていなかった。
ラインマーの眼差しが険しくなる。
今でも覚えている。
その強さのためではない。
かつて残した殺戮のためでもない。
ただ、アインがいつも破壊の真っ只中に立ちながら、それすらまるで当たり前の光景であるかのように振る舞っていた、その姿を。
「……お前には、二度と戻ってきてほしくなかった」
ようやく、ラインマーの声が響いた。
アインは一瞬、黙り込む。
そして、笑みを広げた。
「残念だが、お前の願いがこの世界の法になることはない」
ラインマーは答えなかった。
その手が、ゆっくりと身体の脇へ移動する。
武器は抜かない。
まだ。
だが、その全身はすでに戦闘に備えていた。
アインはその動きを見つめる。
「なるほどな」
「お前がその気なら――」
だが、会話が続くより先に――
コツ。
遠くから、一歩の足音が響いた。
続いて――
コツ、コツ、コツ、コツ!
別の足音が重なる。
速い。
そして、さらに速くなる。
ラインマーがすぐに眉を上げた。
アインの笑みも止まる。
その音は、別の通りから聞こえてきた。
まだ姿は見えない。
ただ、次第に近づいてくる足音と、それに混じるかすかな金属音だけが響いていた。
ラインマーが、一瞬だけ視線を逸らした。
「カエラ……?」
シュッ!
交差点から、一つの影が飛び出した。
アインは、その速度を目で追うことができた。
ヒュッ!
片手が上がる。
アストラ・ヴォレアの刃が、アインの顔面すれすれで止まった。
アインは、それを二本の指で受け止めていた。
ただ、それだけだった。
後退することもない。
立ち位置を変えることすらない。
たった二本の指だけで、攻撃の勢いをすべて受け止めている。
初めて、アインの表情にわずかな驚きが浮かんだ。
「ほう?」
指に挟まれた剣を見つめ、それからゆっくりと顔を上げる。
「誰かと思えば……」
その目の前には、両足をしっかりと路面へ踏み込んだカエラが立っていた。
眉間に皺を寄せ、両手でアストラ・ヴォレアを握り締めたまま、なんとか刃を押し込もうとしている。
だが、剣は微動だにしない。
「ぐっ……」
カエラがさらに力を込める。
それでもアインは動かなかった。
表情さえ、再び平静に戻っている。
「随分と無礼だな」
声は穏やかだった。
だが、言葉の端には鋭さがあった。
「人の会話に、呼ばれもしないのに割り込むとは」
カエラは答えない。
ただひたすらに押し続ける。
アインが小さく息を吐いた。
「お前の主人は、まだあそこに立っているというのに」
視線がカエラの肩越しへ移り、ラインマーへ向けられる。
「一人で攻撃してくるのか?」
薄い笑みが再び浮かぶ。
「いい度胸だ」
アインが首を傾ける。
「だが、残念だな……」
その手が動いた。
アストラ・ヴォレアの刃が、一瞬で弾き飛ばされる。
同時にカエラの身体も後方へ押し出され、黒い靴が路面を擦った。
一歩。
二歩。
三歩。
ようやくカエラが身体を止める。
アストラ・ヴォレアは、まだその手に握られていた。
顔を上げる。
アインは、先ほどとまったく同じ場所に立っている。
一歩たりとも動いていない。
その笑みは消えていた。
冷たい眼差しが、先ほどと同じように戻っている。
「だが、勘違いするな」
手を下ろす。
「俺は今、ある人物と話をしている」
アインの視線が、再びラインマーへ向かう。
「邪魔されるのは好きじゃない」
カエラは、それ以上待たなかった。
再びアストラ・ヴォレアを振り上げる。
次の瞬間、身体が前へ弾けた。
シュッ!
一閃目が首を狙う。
アインが首を傾ける。
刃が髪の先をかすめて通り過ぎた。
二撃目が、反対側から迫る。
アインが腕を上げる。
ガキィン!
アストラ・ヴォレアの刃が腕の装甲と擦れ合う。
そのままアインは身体を回転させ、続く攻撃を腰から数センチのところで通り過ぎさせた。
カエラは動きを止めない。
一歩。
二歩。
次々と斬撃が繰り出され、アインに反撃する隙すら与えない。
それでもアインは、まるで刃が動くより先に、その軌道を知っているかのようだった。
一撃を避け。
次の一撃を受け止め。
さらに別の一撃を、掌だけで逸らす。
無駄な動きはない。
焦りもない。
ただ、正確だった。
カエラがさらに速度を上げる。
ヒュッ! ヒュッ!
剣があらゆる角度から振り抜かれる。
アインは、またしてもそれをかわした。
そして――
その手が、アストラ・ヴォレアの刃の側面を掴む。
カエラが剣を引く。
動かない。
目が細くなる。
アインは、ただ彼女を見つめていた。
「まだ弱すぎる」
小さく引く。
アストラ・ヴォレアがカエラの手から抜け、そのまま道端へ弾き飛ばされた。
だが、カエラは剣を追わなかった。
そのまま前へ踏み込む。
右拳が、アインの顔面へ突き出される。
アインが掌で受け止める。
カエラはすぐに身体を捻った。
右脚が低く薙ぎ払われ、右から左へとアインの脚を狙う。
アインは右足を軽く持ち上げた。
蹴りが、その下を通り過ぎる。
アインは静かに二歩後退した。
カエラもすぐに姿勢を立て直す。
距離を取る暇すら与えない。
再びアインへ飛び込んだ。
肘。
拳。
膝。
蹴り。
二人の動きが、目で追うことすら難しいほどの高速な応酬へと変わっていく。
アインが一撃を払いのける。
カエラが身体を捻り、反対側から蹴りを繰り出す。
アインが身を屈める。
蹴りが頭上を通り過ぎる。
その手が、すぐさまカエラの手首へ伸びた。
だが、カエラは掴まれるより先に身体を捻り、拘束を逃れて再び攻撃へ移る。
数秒の間、二人は絶え間なく攻撃を交わし続けた。
だが、時間が経つほど、その差は明確になっていった。
カエラは速い。
非常に速い。
それでも、アインは常に一歩先を行っていた。
カエラが攻撃を完全に繰り出すよりも前に、その軌道を読んでいる。
隙を待つ。
そして、そこを突く。
ほんの小さなミスで十分だった。
アインの右手が素早く動く。
バキッ!
強烈な一撃が、カエラの右肩を打ち抜いた。
身体が横へ弾き飛ばされる。
関節から、短い音が響いた。
ゴキッ!
カエラは片膝を地面につけた状態で着地する。
息が詰まる。
右肩が正常な位置からわずかに下がり、その顔を痛みが走った。
だが、それも一瞬だった。
カエラは左手を上げ、右腕を支える。
そして――
コキッ。
自ら引き戻した。
短く身体を震わせるような一動作。
肩が元の位置へ戻る。
カエラが立ち上がった。
アインは、それを見つめる。
戦いが始まってから初めて、わずかに眉を上げた。
「……面白い」
カエラは答えない。
再び構えを取る。
アストラ・ヴォレアは、数メートル後方の路上に転がったままだった。
だが、彼女はそれを気にしなかった。
両足で再び地面を踏み締める。
前へ出ようとした、その時。
「カエラ!」
ラインマーの声が、彼女を止めた。
カエラはすぐに足を止める。
「やめろ」
ラインマーが一歩、前へ出る。
その視線は一度もアインから離れない。
「そこから動くな」
カエラが振り返る。
「旦那様?」
「お前一人で相手にできる敵じゃない」
ラインマーの声は、はっきりとしていた。
「どれだけ速く動けても、どれだけ強く攻撃しても……まだ、差がありすぎる」
カエラは黙り込んだ。
数秒後、息を整えて後退する。
一度の素早い跳躍で、アインから距離を取った。
そのままラインマーのもとへ移動し、右隣で立ち止まる。
今、二人は並んで立っていた。
アインは追ってこなかった。
ただ二人を見つめ、それからゆっくりと服の前を整える。
肩を二度ほど軽く叩いた。
まるで、今しがた埃でも付いたかのように。
その視線がカエラへ移る。
「獣人か」
薄い笑みが浮かぶ。
「それに、なかなか頑固だ」
カエラは答えない。
アインは再びラインマーへ視線を戻す。
「あいつは悪くない」
その笑みが消えた。
「だが、俺はあいつを探しに来たわけじゃない」
一瞬、言葉を止める。
赤い瞳が再び鋭くなる。
「俺が来たのは、お前に会うためだけだ」
ラインマーは答えない。
アインが一歩、前へ出る。
「だから、俺たちの再会に他の誰かを割り込ませるな」
薄い笑みが浮かぶ。
「だって、もうすぐ……」




