第八十一話
二人はそのまま並んで座り、遠くにそびえ立つレプリカ・ツリーを眺めていた。
しばらくの間、もう言葉を交わす必要はなかった。
残された静寂は、先ほどまでとは比べものにならないほど穏やかなものだった。ケイルは力を抜いてゆったりと身体を預け、ラインマーもまた、何かを説明する必要もなく、ただ息子と共に過ごす時間を静かに味わっていた。
やがて、ラインマーがふと思い出したように口を開く。
「そういえば。あの贈り物はどうなった?」
ケイルが少しだけ顔を上げる。
「贈り物?」
「あの子たちの分だ。もう全部買ったのか?」
「ああ」
ケイルは小さく頷いた。
「もう買ってある。品物を保管しておくロジスティクス・ネストも決めてある」
「南部地区のロジスティクス・ネストか?」
「そう」
ラインマーは頷いた。
「それならちょうどいい。私たちの馬車もそこにある。帰る前に、品物も一緒に受け取っていこう」
ケイルはゆっくりと頷いた。
「それなら、ケイルはもう帰ったほうがいい」
ラインマーは、次第に光を失っていく空をちらりと見上げた。
「もうかなり遅い。今日の用事も終わったんだ。お母様も、そろそろ待っているかもしれない」
一拍置いて、続ける。
「エアリンも、アステリアもな」
「分かってる」
ケイルの声が途端に平坦になる。
ラインマーは、わずかに笑みをこらえた。
「どうした?」
「別に」
返事があまりにも早かった。
ラインマーはただ、眉をわずかに上げる。
ケイルは小さく息を吐いた。
「どうせ、あいつはプレゼントを待ってるだけだろ」
「そうなのか?」
「父さんがそう思いたいなら、ご自由に」
ラインマーはとうとう小さく笑った。
「どうやら、お前はあの子のことをよく分かっているようだな」
「残念ながら」
ケイルは再びレプリカ・ツリーへ視線を戻した。
なぜだか、アステリアの名前を聞いただけで、帰ったときにあのメイドがどんなふうに出迎えてくるのか、容易に想像できてしまう。
きっと、満面の笑みで。
それも、妙に張り切った様子で。
そして、やたらとよく喋るに違いない。
ケイルはもう一度、小さく息を吐いた。
するとラインマーが、再びケイルへ視線を向ける。
「では、もう帰るんだ。南部の倉庫で、ついでに贈り物も受け取ってくるといい」
ケイルは頷いた。
「じゃあ、父さんも帰るんだろ?」
ラインマーは黙り込んだ。
ケイルが少し眉をひそめる。
「父さんのこっちでの用事も、もう終わったんじゃないのか?」
「まだだ」
ラインマーの返事は落ち着いていた。
「私はもうしばらくアストラヴェルに残る必要がある」
ケイルは父親を見つめる。
「どうして?」
「まだ片付けなければならないことがある」
「商売のこと?」
「違う」
ラインマーはゆっくりと首を横に振った。
「それに、カエラもしばらくは私と一緒に残ることになるだろう。すべてが片付いたら、私と一緒に帰ればいい」
ケイルはしばらく黙っていた。
「さっきの話と関係があるのか?」
「一部はな」
ラインマーは短く息を吐く。
「エレノアとの話し合い自体は、今のところ終わっている。だが、だからといって、あの件がそこで終わったわけではない」
ケイルは父親の顔をじっと見つめた。
「じゃあ、まだ何かを待っているのか?」
「そうだ。エレノアからの続報を待っている」
「情報?」
ラインマーは静かに頷いた。
「特に、最近アストラヴェルで少しずつ広まり始めている噂についてな」
「噂?」
ケイルはわずかに眉をひそめた。
ラインマーはすぐには答えなかった。
ケイルはしばらく待った。しかし、それでもラインマーが黙ったままだったため、ふと別のことが頭をよぎる。
「そういえば……」
ケイルは再び父親へ視線を向けた。
「父さんがまだこっちにいるなら……シルヴィアお母様は今どこにいる?」
ラインマーはゆっくりと首を横に振った。
「すまない、ケイル」
一度、言葉を切る。
「今は、お前に説明することができない」
「お前に話したくないわけじゃない。ただ、まだお前には説明できないことがいくつかある。私自身も、まだ確かなことを待っている段階なんだ」
その声には、質問を避けようとしているような響きはなかった。
むしろ逆だった。
今のラインマーは、自分が話せることを、話せる範囲でできる限り説明しようとしている。
ケイルには、それが分かった。
先ほどまで二人で交わしていた話を思えば、これ以上無理に聞き出そうとは思わなかった。
「そうか……分かった」
ケイルは再び身体を預けた。
「父さんがまだ片付けなきゃいけないなら、そうすればいい。無理に聞くつもりはない」
ラインマーはしばらく息子を見つめてから、やがて頷いた。
「ありがとう」
ケイルは答えなかった。
ただ、ゆっくりと暗くなっていくアストラヴェルの空を見つめていた。
この街で、何かが起きている。
それが何なのか、ケイルには分からない。
だが、ラインマーの話し方を聞いている限り、彼が待っているものが単なる商売上の問題ではないことだけは明らかだった。
今は、これ以上掘り下げないことにした。
再び、二人の間に静寂が降りる。
ただし、今度は長く続かなかった。
ラインマーの身体が、突然強張った。
一瞬、呼吸が止まる。
穏やかだった表情から、瞬く間に余裕が消えた。
彼の意識が、何かを捉えたのだ。
見知らぬ気配。
強い。
ただ誰かがいる、と表現するにはあまりにも強すぎる。
ラインマーはすぐに顔を上げた。
その感覚は、二人のいる場所より遥か下から伝わってきている。
アストラヴェルの下層地区、その方向から。
何かが、あそこで現れた。
そしてなぜなのか、その瞬間に意識へ触れた気配には、どこか強い既視感があった。
ケイルもすぐにその変化に気づいた。
「父さん?」
返事はない。
ラインマーはゆっくりと立ち上がった。
視線は地区の遥か下へ向けられたまま、その身体全体がすでに警戒態勢に入っている。
ケイルも立ち上がる。
「どうした?」
それでも、返事はなかった。
ラインマーはただ、同じ方向を見つめ続けていた。
その表情が険しくなる。
この気配を、彼は知っている。
そして今、アストラヴェルで何か大きなことが起きた。
◇
アッパー地区の遥か下。
アストラヴェルの街の空気が、どこか違って感じられた。
大通りをまっすぐ中心地区へ向かって伸びる道を、足音が進んでいく。
両側に立ち並ぶ、ヴィクトリア様式の高層建築。その間を、一人の白髪の男がゆっくりと歩いていた。
風に煽られ、白い髪が軽く揺れる。
顔を縁取るカーボン製の顎当てが街灯の光を反射し、背中から伸びる長い赤い布が歩みに合わせて揺れていた。
白いシャツは上部を開けたまま、その上から黒いジャケットを整えることなく羽織っている。
しかし、周囲の人々が次々と距離を取り始めた理由は、その姿ではなかった。
男の身体から、徐々に赤い気配が滲み出していた。
明るく輝いているわけではない。
爆発するように広がっているわけでもない。
ただ細い流れとなって、彼の歩みに合わせて漂っている。
まるで、光と呼ぶにはあまりにも濃密な赤い霧のように。
すれ違おうとしていた一人の通行人が、突然足を止めた。
顔が青ざめる。
一歩、後ずさる。
そして、もう一歩。
何も言わず、そのまま道の端へと退いた。
他の者たちも、それに続くように同じ行動を取り始めた。
先ほどまで大通りを満たしていた会話が、少しずつ消えていく。
友人の腕を引いて距離を取る者もいれば、顔を伏せて足早にその場を通り過ぎようとする者もいる。
まるで、少しでも目をつけられることを避けるかのように。
誰も叫ばない。
誰も近づこうとはしない。
男は歩き続ける。
自分の前から、街道そのものが少しずつ人の姿を失っていくことなど、まるで気にも留めていないかのように。
アインは、わずかに顔を上げた。
「ん……」
その声は、吹き抜ける風に紛れてしまいそうなほど小さかった。
「ここに来るのも、ずいぶん久しぶりだな」
古びた建物の前を通り過ぎる。
石造りの外壁は、今もなお頑丈な姿を残していた。
街のいくつかの場所は、彼の記憶とは随分と違っている。
古い建築の間には新しい建物が増え、通りには明かりが灯され、さまざまな店の看板が建物沿いに並んでいた。
アストラヴェルは、今も発展を続けている。
それでも、変わらないものがある。
アインは薄く笑った。
「ずいぶん変わったな」
背中の赤い布が、再び風を受けて大きく翻る。
「だが……お前たちは、相変わらずだ」
すぐそばに立っていた男が、思わず息を止めた。
アインは振り返ることなく、その男の横を通り過ぎた。
「まだ怯えてる」
その声に嘲りはなかった。
ただ、そう判断しただけだった。
アインは再び中心地区へ向かって歩き出す。
だが、その先で三人の人影が道の中央に立ちはだかった。
アインの足が止まる。
アストラヴェルの兵士が三人、彼の行く手を塞いでいた。
中央に立つ兵士が片手を上げ、アインを止めるよう合図する。
「そこで止まれ!」
アインは答えない。
兵士は目を細めた。
「何者だ?」
沈黙。
「この地区でお前を見たことはない」
その隣にいた兵士の一人が、突然ごくりと唾を飲み込んだ。
アインが顔を上げる。
その視線が、三人の兵士をまっすぐ捉えた。
「え、えっと……」
左側の兵士の身体が強張った。
武器を握る指が、無意識に震え始める。
右側の兵士も半歩後ずさった。
呼吸が浅くなる。
あの男の眼差しには、本能が離れろと叫び出すような何かがあった。
それでも中央の兵士だけは、無理やりその場に立ち続けた。
喉が乾ききっていても、視線を逸らさない。
「聞いているのか?」
アインは黙ったままだ。
兵士は武器を握る手に力を込める。
「アストラヴェルの住民じゃないなら、勝手に中心地区へ入ることはできない」
半歩、前へ出る。
「だから質問に答えろ。何者だ、よそ者!」
アインの目が、ゆっくりと細められる。
「……よそ者?」
その声はあまりにも小さく、呟きにも近かった。
口元がわずかに動く。
「死ねばいい」
兵士の一人が眉をひそめた。
「何?」
アインは答えない。
「今、何か言ったか?」
一瞬、アインの表情は変わらなかった。
そして次の瞬間には、何事もなかったかのように顔つきが戻る。
「いや」
薄く笑う。
「この世界で、何を死なせるか決めていただけだ」
三人の兵士が黙り込む。
アインはそこでようやく足を止めた。
三人を一人ずつ見つめ、それから口元をわずかに吊り上げる。
「まずは、ここからだ」
「お前たちに一度だけ機会をやる」
三人の兵士は黙ったままだ。
「道を空けろ。そうすれば生きられる」
薄い笑みは消えない。
「ここに残れば……死ぬ」
その声には、脅しの響きすらなかった。
まるで、ただ簡単な選択肢を提示しているだけのようだった。
三人の兵士は答えない。
しばらくの間、誰一人として動かなかった。
先ほどまで少しずつ静まり返っていた大通りは、今やアインの視線の下で完全に凍りついたようだった。
◇
遠くから、その様子をラインマーが見つめていた。
今度の動きは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
もはや、落ち着いた様子などどこにもない。
その身体全体が、完全に警戒態勢へと移っている。
ますます気になったケイルが、声を上げる。
「父さん?」
ラインマーはすぐには答えなかった。
視線はなお地下界の方角へ向けられている。
まるで、先ほど感じ取ったものが本当にそこにあるのか、もう一度確かめようとしているかのようだった。
「これは……危険だ」
その声は低く、静かだった。
ケイルは眉をひそめる。
「何を感じたの?」
ラインマーはようやく振り返った。
そしてケイルのそばまで歩み寄ると、二人の視線がほぼ同じ高さになるよう身を屈めた。
「よく聞きなさい」
その声を聞いて、ケイルはそれ以上問いかけるのをやめた。
「下で何が起きているにせよ、自分で確かめに行こうとはするな」
「でも――」
「帰るんだ」
ケイルは黙った。
「今すぐに」
「父さんは、まだ何が起きているのか説明してくれてない」
「分かっている」
ラインマーはまっすぐにケイルを見つめる。
「だからこそ、今はお前に説明している時間がない」
ケイルは小さな拳を握りしめた。
「危険なら、僕も知っておいたほうがいいんじゃないの?」
「今回だけは違う」
ラインマーの返事はきっぱりとしていた。
「これは、お前が向き合う必要のあるものじゃない」
ケイルはなおも父親を見つめる。
「父さん、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
「じゃあ、父さん一人であれに向かうの?」
「いや」
ラインマーは首を横に振った。
「私が対処する。お前は帰ればいい」
ケイルはしばらく父親の顔を見つめていた。
「じゃあ、どうしてそんな顔をしてるの?」
ケイルに父親へ逆らうつもりはなかった。
ただ、本当に父親が何を相手にしているのか、分かっているのかを確かめたかった。
ラインマーはやがて息を吐いた。
「次に何が起こるのか、私にも分からないからだ」
その正直な答えに、ケイルは少し驚いた。
「だからこそ、お前には一刻も早くここから離れてほしい」
ラインマーはケイルの肩をそっと叩いた。
「私を心配させるようなことはするな。お母様も同じだ」
ケイルはしばらく俯いた。
「僕はただ……」
「分かっている」
ラインマーは薄く笑った。
「だがな。すべての答えを知る前に、誰かを信じなければならない時もある」
ケイルは顔を上げた。
「父さんも?」
「もちろんだ」
しばらくの間、二人はただ黙って見つめ合った。
やがて、ラインマーが再び立ち上がる。
「お前を南部地区のロジスティクス・ネストまで直接転移させる。私たちの馬車は、御者と一緒にまだあそこにある。分かったな?」
「じゃあ、父さんは?」
「私のことは心配するな」
ケイルはすぐに眉をひそめた。
「カエラがまだ下にいる。彼女も私と一緒に行動する」
ケイルはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「分かった。今回は父さんの言うことを聞くよ」
「それでいい」
ケイルは薄く笑いながら、父親を見上げた。
「でも、一つだけお願いがある……」
「何だ?」
「父さんは、強いんだよね?」
ラインマーは一瞬、言葉を失った。
ケイルはまっすぐに父親を見つめる。
「本当に強いなら……それを見届けられない息子を、がっかりさせないでよ」
ラインマーは小さく笑った。
「そういうことか?」
首をゆっくり横に振りながらも、その顔には笑みが残っている。
「分かった。お前の気持ちはよく分かったよ」
そして、ケイルの頭を優しく撫でる。
「私ももう歳だが、息子にそう頼まれたとなれば、まだまだ気合いは一番だ」
ケイルは何も答えなかった。
それでも、その顔には小さな笑みが残っていた。
「だから、安心しなさい」
ラインマーの声が柔らかくなる。
「アストラヴェルには、強い者が一人しかいないわけじゃない」
しばらくケイルを見つめる。
「それに、私も一人じゃない」
ケイルはようやく息を吐いた。
「……分かった」
まだ完全に納得した様子ではない。
それでも今度は、もう何も尋ねなかった。
ラインマーが片手を上げる。
ケイルの身体の横に、氷の紋様の欠片がゆっくりと空中へ現れた。
小さく細いそれは、まだ完成していない紋様の一部のようだった。
欠片がゆっくりと回転する。
周囲の空気に細かな氷の粒が舞い始め、冷気がケイルの肌を撫でた。
「贈り物を受け取るのを忘れるなよ」
ケイルは頷いた。
「覚えてるよ」
「それから、終わったら寄り道せずにまっすぐ帰るんだ」
「うん」
「もうどこにも寄るなよ」
ケイルは父親を見る。
「父さん、うるさいな」
ラインマーはただ笑った。
氷の紋様の欠片が、さらに速く回転し始める。
ケイルの身体が、ゆっくりと空中で輝く細かな欠片へとほどけていく。
一瞬で消えるわけではない。
身体そのものが氷の粒子へと変わり、それらが紋様の周囲を渦巻く風に引かれるように流れていく。
数秒後、最後の欠片までもが消えた。
その場には、ラインマーだけが残された。
彼は遠くに広がるレプリカ・ツリーの景色を見つめていた。
やがて、ゆっくりと手を下ろす。
その笑みが、少しずつ消えていった。
「エレノアが、もう答えを掴んでいるといいが……」
視線が再び地下界へ向けられる。
アストラヴェルの街には、夜の訪れとともに明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。
しかし、ラインマーの意識がその美しい街並みに向けられることはなかった。
「このすべての裏で、本当は何が起きているのか……早く突き止められればいいんだが」
彼は黙った。
長い間があった。
そして、ようやくラインマーが続ける。
「早く戻ってきてくれ、エレノア」
その手が、ゆっくりと握り締められる。
「お前がここにいてくれれば……少なくとも、私一人でこれに向き合わずに済む」
そう口にしたあとも、ラインマーの視線が地下界から離れることはなかった。
アストラヴェルに、何かが現れた。
それが何なのか、彼自身にもまだ理解できていない。
そして、これほど長い間そう思ったことのなかったラインマーは、初めて確信を持てずにいた。
自分が信頼する者たちは、すべてが手遅れになる前に、この場所へ戻ってきてくれるのだろうか、と。




