第七十九話
ラインマーは長く、重たい息を吐いた。
しばらくの間、すぐには答えようとしなかった。その視線は再び遠くにそびえるレプリカ・ツリーへと向けられる。まるで、胸の奥にしまい続けてきた答えが、あの大樹の枝葉の間に眠っているかのようだった。
「いつかお前がこのことを尋ねてきたら、その時はちゃんと説明できると思っていた」
かすかな笑みが口元に浮かぶ。
だが、それはすぐに消え去った。
「……だが、そう簡単にはいかなかった」
ケイルは黙ったまま耳を傾ける。
ラインマーは少しだけ身体をベンチにもたれさせた。
「世間では、私は元司令官として知られている。強い男として、多くの兵を率い、アストラヴェルを守った人間としてな」
そこで一度言葉を切る。
「人々が覚えているのは勝利だ。救われた命。そして、私が背負っていた肩書きだ」
膝の上に置かれた指先がゆっくりと動いた。
「……それでいいのかもしれない。本来、人々が覚えているべきなのは、それだけなのだろう」
ケイルはわずかに眉をひそめた。
「でも……?」
ラインマーは小さく微笑む。
「だが、すべてが終わった後のことを知る者は誰もいない」
午後の柔らかな陽射しが木々の隙間から差し込み、ベンチや足元の地面を静かに照らしていた。
「混乱の波が押し寄せた時、司令官は前に立って人へ戦えと命じるだけの存在ではない」
その声は終始穏やかだった。
「誰を前へ送り出すのか。誰を退かせるのか。どこを守り、どこを捨てるのか――そのすべてを決めなければならない」
ケイルは口を挟まない。
「この者はもう戻ってこられないと、分かっていたこともあった」
ラインマーは静かに視線を落とした。
「それでも……送り出した」
沈黙が流れる。
「見捨てたかったからじゃない」
静かに息を吸う。
「その者たちの後ろにいる、多くの命を守らなければならなかったからだ」
ケイルは父の横顔を見つめた。
その瞬間、これまで知っていたラインマーとは違う何かを初めて目にした気がした。
弱さではない。
長い年月、誰にも見せることなく抱え続けてきた深い疲弊だった。
「正しい決断をしても、受け入れられない結末になることはある」
ラインマーは声にならないほど小さく笑う。
「……皮肉なものだろう?」
ゆっくりと首を横に振った。
「司令官なら苦しい決断ができて当然だ、と人は言う」
「それは間違っていない」
「だが、その決断が何年経っても自分を苦しめ続けることを、誰も教えてはくれない」
ケイルは何も言えなかった。
ラインマーはしばらくその静寂に身を委ね、それから再び口を開く。
「私は多くの者を失った」
今度の声は、先ほどよりもさらに低かった。
「部下も、戦友も……長い年月を共に過ごしてきた者たちも」
視線が自らの両手へと落ちる。
「そして……本当なら助けられたはずの者も、何人かいた」
その手がゆっくりと握り締められる。
「だが、私は救えなかった」
その言葉に強い抑揚はなかった。
だからこそ、飾り気なく告げられた一言は、胸に重く沈んだ。
「状況が悪かったと言うこともできる。あれが最善の判断だったと説明することもできる。混乱の波のせいだと、戦場の状況のせいだと、あの時起きたすべてを理由にすることだってできる」
ラインマーは力なく笑う。
「……だが、最後に残る事実は一つだけだ」
「その者は、死んだ」
ケイルは静かに目を伏せた。
これまで知っていたのは、人々が語るラインマーの姿だけだった。
司令官。
英雄。
アストラヴェルの守護者。
揺るぎない強者。
だが今になってようやく理解し始める。
それらの称号は、父という人間の人生の、ごく表面しか映していなかったのだと。
誰にも見えなかったのは――すべてが終わったあとも、ラインマーが背負い続けてきたものだった。
「つまり……」
ようやくケイルが静かに口を開く。
ラインマーが顔を向けた。
「お父様は、自分の名声を隠していたわけじゃなかったんですね」
少し間を置いて続ける。
「隠していたのは……そのすべての裏側だった」
ラインマーは何も答えなかった。
だが、その眼差しだけで十分だった。
ケイルはゆっくりと息を吐く。
なぜだろう。
会話が始まってから初めて、胸に渦巻いていた怒りが少しだけ形を変えた気がした。
まだ知りたいことは山ほどある。
説明されていないことも、あまりにも多い。
だが今では、ケイルにも父がなぜ過去を語ろうとしなかったのかが少しだけ分かる気がした。
ラインマーが自分に知られたくなかったからではない。
きっと、どれほど歳月が流れても、言葉にするにはあまりにも重すぎる記憶というものがあるのだ。
ケイルはしばらく、その静けさに身を任せた。
もう答えを急かそうとは思わなかった。
少なくとも今は、ラインマーの過去が軽々しく語れるようなものではないと理解できたからだ。
それでも、一つだけ胸に引っかかっていることがあった。
「……じゃあ、お母様も同じなんですか?」
ラインマーはすぐには答えなかった。
その問いを受けると、再び背中をベンチへ預ける。
「マリアーネのことか?」
ケイルはうなずいた。
ラインマーは短く息を吐く。
「お母様は、私とは違う」
「どう違うんです?」
「私より、ずっと強い」
その言葉は、ごく自然に口をついて出た。
ケイルはわずかに眉を上げる。
そんな反応を見て、ラインマーは小さく笑った。
「勘違いするな。別に自分を卑下しているわけじゃない」
「お父様にも、そんなことを考える時があるんですか?」
「たまにはな」
ケイルは少し黙り込む。
ラインマーは再びレプリカ・ツリーへ視線を向けた。
「純粋な実力だけで言えば、マリアーネは私を大きく上回っている」
その声に誇らしさはなかった。
ただ、ずっと以前から受け入れてきた事実を口にしているだけだった。
「彼女は、歴史に名を残すほどの大魔導師の一人だ」
ケイルは今日一日の出来事をゆっくりと思い返す。
自分の家名。
ラインマーに気づき、敬意を向ける人々。
今までずっと身近にありながら、何も知らなかった数々の事実。
そして今――
お母様。
自分にとっては、ただのマリアーネだった。
毎日食事を作ってくれる人。
帰りを待っていてくれる人。
困った時には、いつも家にいてくれる人。
そんな存在が、ラインマーの過去をも上回るほど大きなものを胸に秘めていた。
「だが……」
ラインマーは静かに続ける。
「一つだけ、彼女には私よりも脆いところがある」
ケイルは再び父を見つめた。
「それは強さの話ではない」
ラインマーはゆっくりと首を横に振る。
「マリアーネは、多くの人なら途中で心が折れてしまうようなことでも乗り越えられる」
少しだけ言葉を区切り、
「だが、お前のことになると、あの人は決して強くはいられない」
ケイルは何も言わなかった。
「お前が生まれてから、すべてが変わった」
ラインマーの声は、先ほどまでよりもずっと柔らかかった。
「お前が問題を運んできたからじゃない」
そう付け加える。
まるで、ケイルが何を考えたのか見透かしていたかのように。
「その逆だ」
ラインマーはまっすぐにケイルを見つめた。
「初めて、本気で守りたいと思える存在ができたんだ」
ケイルは静かに目を伏せる。
「私もお母様も、お前には私たちが背負ってきたものを背負わせたくなかった」
ラインマーは軽く顔をなでた。
「この世界は、若い者たちにあまりにも多くを求めすぎる」
「幼い頃から強くあれと教えられ、戦いを強いられ、自分でも理解しきれないものに立ち向かわされる」
そう言って、小さく息をついた。
「私は、お前までそうなってほしくなかった」
ケイルは静かに耳を傾ける。
「だから隠していたんですね」
「ああ」
返事はあまりにも簡潔だった。
言い訳もなければ、自分たちを正当化しようとする響きもない。
「毎朝目を覚ました時、戦争のことなんて考えなくていい人生を送ってほしかった」
ラインマーは穏やかに微笑む。
「学院へ通って、友達と遊んで、くだらないことで言い合いをして、訓練が厳しいと愚痴をこぼす」
最後の一言に、ケイルは思わず口元を緩めそうになった。
「そんな何気ない毎日こそが――」
ラインマーは再びレプリカ・ツリーを見上げる。
「私たちにとっては、何より大切なものだった」
風が再び二人の間を吹き抜けた。
遠くでは、淡い桃色の葉が午後の陽射しを受けながら、静かに揺れている。
「マリアーネは、あるものを見たことで、その想いをさらに強くした」
ケイルはゆっくりと顔を上げた。
ラインマーはすぐには説明しない。
「彼女は、お前の未来へとつながる可能性を見た」
「未来を……見たってことですか?」
「そんな単純な話ではない」
その声音は再び真剣なものへと変わる。
「確定した未来を見たわけじゃない。彼女が見たのは可能性だ。開かれ得る道……そして、その中心にあるあまりにも大きな何かだった」
ラインマーは一度言葉を止めた。
「お前の存在によって、この世界そのものが変わるかもしれない」
ケイルは身じろぎ一つしなかった。
「だが……」
ラインマーは静かに続ける。
「彼女が見たその可能性の中で、お前は世界を滅ぼす者ではなかった」
そう言ってケイルへ視線を向ける。
「むしろ――世界を救おうとしている者だった」
ケイルには、返す言葉が見つからなかった。
しばらくして、一匹の蝶がふわりと舞い降り、ケイルのすぐそばに羽を休める。
だがすぐに羽ばたき、木々の間へと静かに消えていった。
「だからこそ」
ラインマーは静かに言った。
「私たちは、ますます恐れるようになった」
「恐れた……?」
「お前を、ではない」
その答えは間髪入れずに返ってきた。
「お前が自分自身を見つけるより先に、この世界がお前を見つけてしまうことを恐れていたんだ」
ケイルは再び黙り込んだ。
これまでどこか噛み合わないままだったものが、少しずつ一本の線で結ばれていく。
ラインマーの過去。
マリアーネのこと。
二人が自分を育ててきたやり方。
そして、自分ですら理解していない何かから、いつも遠ざけようとしていた二人の態度。
だが、一つの答えを得たことで、かえってもっと重い疑問が生まれた。
もし二人が最初から自分について何かを知っていたのなら。
もし世界がお前を見つけることさえ恐れていたのなら。
――なぜ、自分は幼い頃から何一つ持たない人間だと思い続けてきたのだろう。
ケイルは静かに俯く。
「……それなら」
その声は、先ほどよりも低く沈んでいた。
「どうして僕は、一度も魔法を使えなかったんですか?」
ラインマーは黙り込む。
ケイルはゆっくりと顔を上げた。
「僕がずっと試してきたこと、お父様は知ってますよね」
責めるような響きはなかった。
だが、その声はもう先ほどまでのような穏やかさではない。
「剣も、魔法も……何だって」
膝の上で拳を固く握り締める。
「全部試しました」
ラインマーは何も言わない。
「子どもの頃は、自分の努力が足りないだけなんだって思ってました」
ケイルは短く笑った。
「そう思うしかなかったんです」
視線を自分の掌へ落とす。
「剣が重いなら、もっと鍛えればいい」
「魔法陣がうまく組めないなら、もっと理解すればいい」
「失敗したら……またやり直せばいい」
その笑みは静かに消えた。
「でも、一度もできなかった」
ラインマーは目を伏せる。
ケイルは父が口を開く前に続けた。
「お父様やお母様が見ていない時を、わざと選んで練習していたこともありました」
その声は、かすかに震え始める。
「諦めたなんて思われたくなかったから」
沈黙が流れる。
「だから、お父様たちに『お前には才能がない』と言われた時……」
そこで言葉が途切れた。
息遣いが少しずつ重くなる。
「僕は、それを信じました」
ラインマーはようやく口を開く。
「ケイル――」
「違います」
ケイルは遮った。
激しく感情をぶつけたわけではない。
それでも、その一言にはラインマーの言葉を止めるだけの強さがあった。
「今、知りたいことがあるんです」
ケイルはまっすぐ父を見つめる。
「僕には、本当に力がなかったんですか?」
ラインマーは答えない。
一秒。
二秒。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
ケイルの身体が強張る。
「……違う」
ようやくラインマーが口を開いた。
その声は静かだった。
「お前に力がなかったわけじゃない」
ケイルは父を見つめる。
「……え?」
「お前の力は、確かに存在している」
ラインマーは深く息を吐いた。
「ただ……最初から、その力を使う機会を与えられなかっただけだ」
ケイルはすぐには意味を理解できなかった。
「……どうしてです?」
ラインマーは静かに目を閉じる。
そして、ゆっくりと開いた。
「私とお母様が――その力を封印したからだ」
ケイルは言葉を失った。
まるで、周囲の音が一斉に遠のいてしまったかのようだった。
「……封印、した?」
ラインマーは静かにうなずく。
「お前がまだ幼い頃からだ」
ケイルは瞬きすら忘れたように父を見つめた。
「じゃあ、今までずっと……」
その視線が、自分の両手へと落ちる。
「僕が弱かったからじゃ、なかったんですか?」
「違う」
「才能がなかったからでも?」
「違う」
ケイルはゆっくりと息を吸う。
「じゃあ……今までの僕の失敗は……」
ラインマーはすぐには答えなかった。
そして、その会話が始まって以来初めて――ケイルの中で何かが音もなく崩れ落ちた。
自分に力があったと知ったからではない。
何年もの間、自分のせいだと思い込み、自分自身を責め続けてきたことが、実は自分の過ちではなかったと知ってしまったからだ。
「……お父様は知っていたんですか?」
ラインマーはうなずく。
「お母様も?」
「ああ」
ケイルはそっと目を閉じた。
長い息が鼻から静かに漏れる。
「いつから……?」
「お前が生まれた時からだ」
ケイルはゆっくりと目を開く。
その瞳には、先ほどまでとは違う色が宿っていた。
そこにあったのは失望だった。
憎しみでもない。
激しい怒りでもない。
長い間探し続けてきた答えを、最も近くにいた人たちだけが最初から知っていた――その事実を知ってしまった者だけが抱く痛みだった。
「どうして……」
ケイルは父を見つめる。
「どうして僕に、そんなふうに思わせたままだったんですか?」
ラインマーは黙っていた。
「どうして、お父様は僕に、自分は足りない人間なんだと思わせ続けたんですか?」
今度ばかりは、ラインマーにもすぐに返せる答えはなかった。
ケイルは深く息を吸う。
「もし最初から知っていたなら……」
そこで言葉を切る。
「少なくとも、挑戦することはできた」
再び拳を握り締める。
「もっと学べた」
「もっと強くなれた」
「大切な人たちを守れるようになれた」
その声は少しずつ熱を帯びていく。
「どうして、そんなに僕が強くなることを恐れたんですか?」
ラインマーは静かに息子を見つめ返した。
そして、その瞬間。
ケイルは父の表情に初めて変化を見た。
ただ悲しんでいるだけではない。
その奥には、もっと深く、もっと重いものがあった。
長い年月をかけて、ラインマーが決して表へ出すまいと抱え込み続けてきたものが。




