第七十八話
周囲の空気がかすかに震えた。
何もない空間から小さな氷の粒が生まれ、どこからともなく吹く風に乗って漂い始める。その数は次第に増え、一点へとゆっくり集まりながら、二つの人影を形作っていった。
一歩。
粒子はまず足を編み上げ、続いて胴体、腕、そして顔へと組み上がっていく。それは誰かが突然現れたようには見えず、歩みを進めるその一瞬の最中に、肉体そのものが再構築されているかのようだった。
数秒後、すべての氷の粒子は再び一つへと溶け合う。
ケイルは足を止めた。
数歩先には、すでにラインマーが立っている。その周囲では、消えきらなかった氷の粒がなおもゆるやかに舞い、やがて風にさらわれるように姿を消した。
ケイルは両手を持ち上げる。
指を大きく開き、今こうして見えている身体が、本当に自分のものなのかを確かめるように。
「……すごいな、これ」
思わず口をついて出た言葉だった。
消え残った氷の粒が、指の間をふわりと通り抜けていく。
ケイルは両手をゆっくりと返しながら、つい先ほど起きた現象に見入っていた。
「つまりこれが……テレポート?」
「まあ、そんなところだ」
ラインマーは気楽な足取りで彼の横を通り過ぎる。
「そんなところ?」
ケイルもすぐに後を追った。
「普通のテレポートは、人をある地点から別の地点へ移動させるだけだ」
ラインマーは歩きながら言う。
「だが、さっき私がやったのは、単に移動させただけじゃない」
ケイルは眉を上げた。
「じゃあ?」
「私は、その仕組みそのものを理解している」
ラインマーは片手を上げ、背後の何もない空間を指し示した。
「空間、距離、位置。そして、人という存在が別の場所に再び現れるまでの過程」
そう言って手を下ろす。
「概念さえ理解できれば、その過程は再構築できる」
ケイルはしばらく黙り込んだ。
「つまり……ただテレポート魔法を使ってるわけじゃないんだ」
「その通り」
「最初から、どうしてテレポートが成立するのかを理解しているってことか」
ラインマーはかすかに微笑む。
「そこが違いだ」
ケイルは再び自分の両手へ視線を落とした。
「だからさっき、あんな変な見え方だったのか」
数歩歩きながら、小さくつぶやく。
「だとしたら……俺が基礎魔法をなかなか覚えられないのも、それが理由なのかもしれないな……」
歩調が少し緩む。
「やっぱり俺、術式を理解するのが苦手なのかも」
くすり、と隣から笑い声が聞こえた。
ケイルはすぐに振り向く。
「何?」
「いや、別に」
ラインマーはまだ薄い笑みを浮かべたままだ。
「そのまま考えを続けるといい」
「……お父様、今絶対笑ってたよね」
「まさか」
「その返事のほうが怪しいんだけど」
ラインマーは小さく喉を鳴らして笑うだけだった。
二人はそのまま、目の前に広がる大通りを歩き続ける。
遠くでは、傾き始めた午後の日差しがアストラヴェルの建物をやわらかく照らしていた。
しばらく歩いたところで、ケイルはふとあることに気づく。
「……待って」
歩みを少し緩めた。
「ここって、まだアストラヴェルだよね?」
「それがどうかしたか?」
「なんか、雰囲気が違う」
ラインマーは周囲へ軽く視線を巡らせた。
「もうアッパー・ディストリクトに入っているからだ」
ケイルは顔を上げる。
周囲の建物は以前いた地区よりもゆとりをもって建ち並び、通りを行き交う人の数もずっと少ない。人影はあるものの、街全体を包む空気はどこか落ち着いていた。
夕風が建物の合間をすり抜け、肌に心地よい涼しさを運んでくる。西へ傾いた陽光は街をやさしい暖色に包み込み、穏やかな景色を描き出していた。
「どうしてここへ連れてきたの?」
「見せたい場所がある」
ラインマーはそれ以上は説明しなかった。
少し高くなった道沿いへ向かい、いくつかの建物を通り過ぎると、やがて開けた場所で足を止める。
「ここだ」
ケイルも立ち止まった。
ラインマーは前方へ手を伸ばす。
「見てごらん」
ケイルはその指し示す先へと視線を向けた。
しばらくの間、言葉が出なかった。
壮麗な建物や巨大な構造物が立ち並ぶその一帯の向こうで、それらすべてをはるかに凌ぐものが、静かにそびえ立っていた。
巨大な一本の樹。
ドーム状の施設の中央に、その巨木は根を下ろしている。
幹は深い褐色を帯び、裂け目や枝の内側では、金と橙が混ざり合った淡い光が静かに脈打っていた。頭上を覆う無数の葉は、夕陽を受けて穏やかな黄金色に輝いている。
その根元を囲む巨大なドームは、まるで一本の樹ではなく、それ以上に尊い何かを守るために築かれた古代の建造物のようだった。
ケイルはゆっくりと顔を上げる。
「……わあ」
夕風が再び吹き抜ける。
前髪がふわりと揺れた。
――その時だった。
景色が静かに変わり始める。
木々の間で輝いていた黄金色が、一枚、また一枚と薄れていった。
ケイルは眉をひそめる。
「え……?」
黄金に染まっていた葉は、ゆっくりと色を変えていく。
赤ではない。
まして鮮やかな色でもない。
淡くやさしい桜色が樹冠の奥から広がり、まるで光が枝を伝うように、木全体へと静かに染み渡っていった。
ほんの数秒後。
樹冠はすべて、柔らかな桃色へと姿を変えていた。
ケイルは動けなかった。
その瞳がわずかに見開かれる。
街の喧騒が遠ざかり、耳に届くのは夕風の音だけになる。
ラインマーもまた、何も口にしなかった。
やがてケイルは一度だけ瞬きをする。
「あれが……レプリカ・ツリー?」
ラインマーはすぐには答えない。
代わりに向きを変え、少し離れた場所にあるベンチへ歩いていく。
「座りなさい」
ケイルは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、結局その後に続いた。
二人は並んで腰を下ろし、同じ景色を見つめる。
しばらくの間、夕風だけが二人の間を静かに流れていた。
「そうだ」
やがてラインマーが口を開く。
「あの樹は、ずっと昔からあそこにある。あれを見るためだけに、各地から人が訪れるほどだ」
ケイルは、今もなお桃色に染まった樹冠から目を離さない。
「綺麗だから?」
「それも理由の一つだ」
ラインマーは背をベンチに預けた。
「だが、人々があの樹を敬う理由は、それだけではない」
ケイルは黙って続きを待つ。
「レプリカ・ツリーは、街を飾るためだけに造られた樹じゃない。アストラヴェルにとって、もっと重要な役割を担っている」
「役割?」
「ああ」
ラインマーはゆっくりとうなずく。
「深く説明しようとすると長くなるが……簡単に言えば、あの樹はこの世界について多くのことを知っている」
ケイルは視線を向けた。
「多くのこと?」
「これから訪れる変化。近づいてくる異変。そして、まだ起きていない出来事さえも」
ケイルは再び樹を見上げる。
「じゃあ、監視役みたいなもの?」
「そう言えなくもない」
ラインマーはかすかに微笑んだ。
「だが、人のように座って未来を考えているわけではない。その在り方は、もっと複雑だ」
ケイルは小さくうなずく。
そして再び、風に揺れる桃色の葉へと目を向けた。
「変だな」
「何がだ?」
「さっきまで金色だったよね」
ラインマーは少しだけ沈黙した。
「ああ」
「じゃあ、どうして色が変わったの?」
「さあな」
返事はあまりにも早かった。
ケイルはすぐにラインマーを見る。
ラインマーは小さく息をついた。
「少なくとも、私はあんなふうに色が変わるのを見たことはない」
「本当に?」
「もちろんだ」
ラインマーは少し間を置き、それからケイルを横目で見た。
「もしかすると……君がここへ来てくれたのが嬉しかったのかもしれないな」
ケイルは再び樹へと視線を戻す。
「……そんなわけないでしょ」
小さくつぶやく。
「見えてるとも思えないし」
その言葉に、ラインマーはくすりと笑った。
樹冠は今もなお、やわらかな桃色を保っている。
その光景には、言葉では言い表せない何かがあった。
脅威を感じるからではない。
むしろ、その逆。
まるで何かが、自分を静かに迎え入れてくれているような――そんな不思議な感覚だった。
しかし、ケイルが口を開くよりも先に、ラインマーが再び声をかける。
「ケイル」
その声色は、先ほどまでより少しだけ重かった。
「ん?」
「君をここへ連れてきた理由は、もう一つある」
ケイルはゆっくりと振り向く。
ラインマーは視線を落とし、膝の上に置いた指先をじっと見つめていた。
長い間、一人で胸にしまい込んできたものを、今ようやく口にしようとしている――そんな表情だった。
「レプリカ・ツリーは……君とも関わりがある」
ケイルは息をのむ。
「……俺と?」
ラインマーはすぐには答えなかった。
その表情を見ただけで、次に語られる話が決して簡単なものではないことを、ケイルは悟る。
――レプリカ・ツリーは……君とも関わりがある。
その言葉が、何度も頭の中で反響する。
なぜだろう。
その一言を聞いた瞬間、心の奥深くに埋もれていた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくるような気がした。
「……お父様」
ラインマーは静かに顔を上げる。
「前に、俺に話したいことがあるって言ってたよね」
夕風は相変わらず二人の間を吹き抜けていた。
けれど、もうケイルの意識はそこには向いていなかった。
「ここへ来る途中で」
ラインマーは静かに黙り込んだ。
ケイルはしばらく俯いていた。
「お父様、あとで本当のことを話すって約束したよね」
膝の上に置いた手が、ゆっくりと握り締められる。
「ちゃんと覚えてる」
返事はなかった。
その沈黙が、胸の奥に押し込めてきた疑問を、かえって重く膨らませていく。
「でも、どうして……」
ケイルは静かに息を吸った。
「……どうして俺だけが、自分の家族のことを何も知らないんだろう」
ラインマーの表情がわずかに固まる。
彼が口を開くより先に、ケイルは続けた。
「今日になって初めて知ったんだ。お父様は、ただ北部地区で商売をしていた人じゃなかったって」
声は次第に重みを帯びていく。
「昔は指揮官だった。財務局の人たちはみんなお父様を知ってた。それに、お父様とお母様の写真まで飾られてた」
ゆっくりと視線を上げる。
「それに、お母様だって、ただ家で家族を支えてるだけの人じゃなかった」
家名が告げられた瞬間の、周囲の反応が脳裏によみがえる。
「カエラもそうだ」
苦い笑みが口元に浮かんだ。
「ずっと、家にいるメイドなんだと思ってた」
握った拳にさらに力がこもる。
「でも実際は……戦える人だった」
次々と、今日出会った人たちの顔が浮かび上がる。
セレスティン。
エドガ。
シルヴィア。
エレノア・ローゼンタイド。
今日まで名前すら知らなかった人たち。
それなのに、誰もが自分の家族と関わりを持っていた。
その中心にいるはずの自分だけが、何も知らないまま。
「どうして?」
ケイルの声がかすかに震える。
「どうして、みんなお父様のことを知ってるの?」
ラインマーは黙ったままだ。
「どうして、お母様のことまで知ってるんだ?」
ケイルは喉を鳴らす。
「どうして俺だけ、今になって初めて全部知るんだよ」
声が少しだけ強くなる。
「……俺は、お父様たちの子供なんだよね?」
その問いだけが、二人の間に静かに残った。
ラインマーは何も言わず、ただ息子を見つめている。
ケイルは耐えきれずに視線を逸らした。
「自分の家族に何があったのかさえ、俺は何一つ知らない」
呼吸が少しずつ乱れていく。
「それに、一番つらかったのは……」
再び俯く。
「……全部、自分が悪いんだって思ってたことなんだ」
ラインマーはわずかに眉を寄せた。
ケイルは唇を噛む。
「俺なりに頑張ったんだ」
その言葉は、ひどく小さかった。
「でも、一度も上手くいかなかった」
視線は前方の道へと向けられたまま。
「剣だって習った」
古い記憶がゆっくりとよみがえる。
幼い自分が、一人で裏庭に立っていた。
両手には木剣。
それを持ち上げる。
振り下ろそうとする。
――重い。
耐えきれず、木剣は手を離れて地面へと転がった。
幼いケイルは数秒だけ黙ってそれを見つめ、それから何事もなかったように拾い上げる。
「もう一回やってみた」
景色が切り替わる。
本で覚えた初級魔法の術式を、小さな両手でなぞる。
一秒。
二秒。
何も起こらない。
幼いケイルは眉をひそめた。
もう一度。
それでも変わらない。
自分の手のひらを見つめる。
そして、また試す。
何度も。
息が切れるまで。
「二人に見られてない時も、ずっと練習してた」
意識は現在へと戻る。
ケイルの声はさらにかすれていた。
「失敗するたびに、努力が足りないだけなんだって思ってた」
小さく笑う。
面白かったからではない。
「もっと頑張れば、いつかきっとできるようになるって、本気で信じてた」
また一つ、記憶が浮かぶ。
二階の窓辺で、マリアーネが静かに立っていた。
何度も転び、
立ち上がり、
また挑み、
そしてまた失敗する幼いケイルを、ただ見つめ続けていた。
窓枠を強く握るその手と、必死に何かを押し殺している表情を――あの頃のケイルは気づきもしなかった。
意識は再びベンチへ戻る。
「俺は戦えない」
ケイルは自分の手を見つめる。
「力もない」
呼吸が震えた。
「魔法だって使えない」
そう言って、ゆっくりと顔を上げた。
「俺は……他の子なら普通にできるようなことさえ、何一つできなかった」
瞳が少しずつ赤く染まっていく。
「だからずっと思ってたんだ……きっと、俺が足りないだけなんだって」
ラインマーはゆっくりと口を開いた。
「ケイル――」
「お父様」
ケイルがその言葉を遮る。
今度は、はっきりとした口調だった。
「もう、『大丈夫だ』なんて言わないで」
ラインマーは言葉を失う。
「その言葉なら、もう十分聞いてきた」
ケイルは拳を握り締める。
力が入りすぎて、指の関節が白くなるほどに。
「俺はずっと我慢してきた」
声が思わず強くなる。
「お父様たちの過去を話してくれなんて、一度だって無理に頼んだことはない」
鋭く息を吸い込む。
「どうしてあんなにたくさん秘密があるのかも、聞こうとはしなかった」
真っ直ぐにラインマーを見据えた。
「才能がないんだって言われても、それを受け入れた」
声が震え始める。
「でも今日……」
息を止める。
「……全部、この目で見たんだ」
ラインマーを知る人たち。
マリアーネという名前。
カエラ。
財務局。
マシュフォード。
今まで何一つ繋がらなかった欠片が、頭の中で少しずつ形を成し始めていた。
「それでようやく気づいた」
ケイルは、もう隠しきれない苛立ちを滲ませながら父を見つめる。
「何も知らなかったのは……ずっと俺だけだったんだ」
ラインマーは身じろぎ一つしない。
ケイルは深く息を吸い込んだ。
そして――これまで胸の奥へ押し殺し続けてきた怒りが、初めてその声にはっきりと宿る。
「本当は……」
「お父様とお母様は、今まで何を俺に隠してきたの?」
ラインマーはただ、息子を見つめ返した。
長く。
あまりにも長く。
やがてその表情からは、すべての感情が抜け落ちたかのようだった。
まるで今になって初めて、息子の中にある何かを目の当たりにした――そんなふうに。




