第七十七話
ラインマーはしばらく沈黙したあと、マシュフォード家へと視線を向けた。
「ともかく、まずはきちんと紹介しておかないとな」
そう言って、隣に立つ女性へ軽く合図を送る。
「こちらは西部地区で知り合った旧友だ。名前は――」
しかし、その女性のほうが先に微笑んだ。
「セレスティン・マシュフォードと申します」
穏やかで落ち着いた声だった。
セレスティンは小さく首を傾げ、柔らかな笑みを浮かべたままケイルを見つめる。
「初めまして、ケイル」
ケイルも軽くうなずいた。
「初めまして」
セレスティンは、ことさらに振る舞わずとも自然と気品が伝わってくる女性だった。
深紅のドレスは身体のラインに沿って美しく仕立てられ、随所に施された金の装飾が華やかさを添えながらも決して華美には見えない。濃い茶色の髪は肩を越えてゆるやかに流れ、その穏やかな眼差しからは、長年さまざまな商談や交渉の場をくぐり抜けてきた者ならではの落ち着きが感じられた。
ラインマーは微笑む。
「セレスティンはマシュフォード家の当主で、私の古い知人でもある」
一度、行政庁舎へ視線を向けると、再びケイルへと目を戻した。
「マシュフォード家は、アストラヴェルでも有数の商業貴族の一つだ。代々、この街でブティックを営んでいてな」
セレスティンが静かにうなずく。
「ええ。我が家は長年、衣料品を扱う事業を続けています」
薄く微笑みながら続けた。
「マシュフォードの名を掲げるブティックの大半は、今も私が管理しています」
「なるほど」
ケイルはそう返すと、セレスティンから少し離れた場所に立つ年配の男性へ視線を移した。
ラインマーがその人物へ手を向ける。
「そして、こちらは――」
年配の男性は閉じていた目をゆっくりと開き、半歩前へ進み出た。
落ち着いた無駄のない所作で一礼する。
「エドガと申します、ラインマー様」
姿勢を正すと、淡々としながらも礼を失わない口調で続けた。
「長年、マシュフォード家に仕えてまいりました。ご子息にお目にかかることができ、大変光栄に存じます」
ケイルは軽くうなずく。
「こちらこそ、初めまして。エドガさん」
エドガは穏やかに微笑み返すと、再びセレスティンの傍らへ戻った。
そしてラインマーは、最後の一人へと視線を向ける。
セレスティンの隣には、一人の美しい少女が立っていた。
ベル。
先ほどから一言も口を開いていない。
ラインマーの視線が自分へ向いた途端、その肩がわずかに強張った。
「それから……」
ラインマーは一瞬言葉を切る。
セレスティンへ目を向け、それから再びベルへ。
「こちらは、娘さんの……」
ベルはすぐに母を見上げた。
セレスティンも静かに娘を見つめ返す。
言葉はなかった。
それでも、その眼差しだけで十分だった。
ベルは静かに息を吸い込み、それまで母の服の裾を握りしめていた指をそっと離す。
一歩、前へ。
深紅のドレスがその動きに合わせて柔らかく揺れた。幾重にも重ねられたスカートは床近くまで優雅に広がり、裾には白いレース、小さな金の装飾が全体にさりげなく散りばめられている。
金色の髪は左右に長く結われ、身体の両脇へと流れていた。
長い髪をそのまま下ろしたセレスティンとは対照的に、ベルの装いは年相応の可憐さを感じさせる。
両手を胸の前で静かに揃える。
頬はほんのりと赤く染まっていた。
それでも今度は、もう後ろへは下がらなかった。
ベルはゆっくりと顔を上げる。
澄み切った青い瞳には、アストラヴェルの空の光が映り込み、その視線はまっすぐケイルへと向けられた。
ケイルもまた、静かに彼女を見つめ返す。
しばらくの間、二人は何も言わなかった。
どちらも視線を逸らさない。
ベルを縛っていた緊張は、少しずつほどけていく。
もう一度、小さく息を吸い――
さらに数歩、前へ。
一歩ずつ距離を縮めていき、
二人の間には、あと数歩ほどしか残されていなかった。
ケイルはしばらく彼女を見つめる。
そして何も言わず、静かに右手を差し出した。
カエラがぱちりと瞬きをする。
その後ろに立つシルヴィア・ローゼンタイドも、不思議そうな表情で二人を見守っていた。
ラインマーは一瞬たりとも目を逸らさず、その様子を見つめている。
セレスティンもわずかに眉を上げた。
エドガもまた、いつもより少しだけ目を見開く。
その場にいた誰もが、ベルの反応を待っていた。
ベルは差し出された手を見つめる。
そして、ケイルの顔へ視線を移した。
次の瞬間――
彼女は優雅な所作で、静かに一礼した。
あまりにも自然なその動きに、ケイルは一瞬だけ動きを止める。
そして――
なぜか、その瞬間、脳裏にまったく別の光景がよぎった。
学校の廊下。
窓から差し込む淡い光。
一人の少女が、自分の前に立っている。
長い白髪が背中で静かに揺れていた。
その顔は見えない。
見えるのは、ただ輪郭だけ。
少女はゆっくりと頭を下げる。
まるで――
……
ケイルは小さく瞬きをした。
その光景は、まるで幻だったかのように消え去る。
周囲の音が、ゆっくりと耳へ戻ってきた。
建物の間を吹き抜ける風。
行き交う人々の足音。
遠くから聞こえてくる街のざわめき。
目の前では、ベルがまだ頭を下げたままでいる。
ケイルはしばらく彼女を見つめると、戸惑いを表に出すことなく静かに手を下ろした。
そして、口元に淡い笑みを浮かべる。
ただ、彼女が顔を上げるのを待った。
数秒後。
ベルはゆっくりと姿勢を戻す。
頬はまだほんのりと赤い。
それでも、その瞳には先ほどよりも確かな意志が宿っていた。
静かに息を吸い込み、顔を上げる。
「ベル・マシュフォードです」
声は相変わらず穏やかだったが、もう震えてはいなかった。
「マシュフォード家の長女です」
両手を身体の前で重ね、小さく一礼する。
「……どうぞ、よろしくお願いします」
ケイルは静かにうなずいた。
二人の視線が再び重なる。
「ケイル・ラインマー」
落ち着いた声で名乗る。
「ハウス・ラインマーの長男だ」
余計な言葉はない。
交わされたのは、ただ二つの名前だけ。
二つの名門貴族。
そして、本来よりほんの少しだけ長く重なり合う二人の視線。
セレスティンは何も言わず、娘を見つめていた。
その微笑みが、わずかに変わる。
これまで何度もベルが人と会う姿を見てきた。
けれど――娘が誰かをあんなふうに見つめる姿は、一度として見たことがなかった。
単なる興味ではない。
娘の中で、何かが変わっている。
それが何なのかは分からない。
それでもセレスティンは、思わず息を止めてしまうほどの違和感を覚えていた。
隣に立つエドガも、静かにベルへ目を向ける。
表情は変わらない。
だが、その眼差しにはわずかな変化があった。
何が起きたのかは分からない。
それでも一つだけ、はっきりしていることがある。
お嬢様は、先ほどまでよりずっと嬉しそうだった。
少し後ろで様子を見守っていたカエラが、ようやく前へ歩み出る。
ケイルの隣に並ぶと、マシュフォード家へ小さく微笑みかけた。
「それじゃあ、私も自己紹介をしますね」
軽く頭を下げる。
「カエラ・アーデントです」
一度だけケイルへ視線を向け、それからセレスティンへと戻した。
「ハウス・ラインマーで若様にお仕えしています」
セレスティンは穏やかに微笑んだ。
その眼差しからは、この場で初めて会ったわけではないことがうかがえる。
「久しぶりね、カエラ」
カエラも礼儀正しく微笑み返した。
「またお会いできて嬉しいです、セレスティン様」
隣にいたエドガも、カエラへ静かに会釈する。
ベルはそのやり取りを黙って見つめていた。
ほどなくして、シルヴィア・ローゼンタイドも前へ出る。
小さく片手を上げ、まるで「次は私」と言わんばかりに笑みを浮かべた。
「じゃあ、私も自己紹介するね!」
明るく笑うと、その手を胸の前へ戻す。
「私はシルヴィア・ローゼンタイド。皆さん、よろしくお願いします!」
ケイルやカエラよりも、ずっと軽やかな口調だった。
その名前を聞いたセレスティンの表情がわずかに変わる。
「ローゼンタイド……」
視線がシルヴィアに留まる。
「その名前……あなたは、エレノアの娘なの?」
シルヴィアはぱちりと目を瞬かせた。
少し目を丸くしたあと、勢いよくうなずく。
「はい!」
嬉しそうに笑う。
「もしかして、お母さんをご存じなんですか?」
「もちろんよ」
セレスティンは優しく微笑んだ。
「アストラヴェルで、あなたのお母様の名を忘れる人なんてそうはいないもの」
シルヴィアはさらに身を乗り出す。
「そうなんですか?」
「この地に立った冒険者の中でも、屈指の実力者として知られていたわ」
そう言って、セレスティンは一度ラインマーへ目を向ける。
「『太陽の槍』という二つ名も、誰にでも与えられるものではありません」
シルヴィアは誇らしげに胸を張った。
「やっぱり、お母さんはすごいんだ!」
ケイルはそんな彼女を横目で見る。
今のシルヴィアは、いつもより少しだけ声が弾んでいた。
セレスティンはくすりと笑う。
「街が今のような姿になる前から、あの人はアストラヴェルで多くの人を助けてきたの」
その視線は、再びラインマーへ向けられる。
「それはラインマー様も同じですけれど」
ラインマーは眉を上げた。
「どうして私まで話に入るんだ?」
セレスティンは微笑みを崩さない。
「あなたも、この街の人々の暮らしを立て直すために尽力した一人ですもの」
シルヴィアは二人を交互に見つめる。
「へぇ……」
感心したように目を輝かせた。
「じゃあ、お母さんもケイルのお父さんも、アストラヴェルでは有名なんだ?」
ラインマーは苦笑交じりに笑う。
「私をお母さんと一緒にしないでくれ」
「どうして?」
「あの人は、興味を引かれるものを見つけると一直線だからな」
小さく息をついた。
「気になることができると、他のことが見えなくなる」
まるで、その娘と同じように。
シルヴィアはくすくすと笑った。
「確かにそうかも」
すると、何かを思い出したようにラインマーへ顔を向ける。
「あ、そうだ」
その表情が少しだけ変わる。
「そういえば今さらだけど……」
先ほど通ってきた道へ目を向けた。
「どうしてお母さんは来てないの?」
ラインマーはすぐには答えなかった。
その問いを聞いたケイルも、顎に手を当てながら父へ視線を向ける。
「そういえば、父上はお母様と話したいことがあるって言ってなかったか?」
ラインマーはしばらく黙り込む。
視線が一度だけ財務局の建物へ向けられ、それから再び皆へ戻った。
「その予定だった」
いつもより慎重な口調で続ける。
「だが、お母さんのところへ急ぎの用件が入ってしまってな」
シルヴィアは小さく首を傾げた。
「急ぎの用事ですか?」
「ああ」
ラインマーは薄く微笑んだ。
「だから、一緒には来られなかったんだ」
「ふーん……」
シルヴィアは小さくつぶやく。
その表情に目立った落胆はない。
まるで、それくらいのことは珍しくもないと言わんばかりだった。
「そういえば……お母さんって昔からそんな感じだったよね」
小さく息をつく。
「何か気になることがあると、すぐそっちへ行っちゃうし」
ラインマーはくつくつと笑った。
「その通りだ。さっき話したとおりだな」
シルヴィアもゆっくりとうなずく。
「やっぱり、お母さんの性格はあまり変わってないんだ」
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
行政庁舎の前庭を、柔らかな風が静かに吹き抜けていく。
ベルは数歩後ろへ下がり、再びセレスティンの隣へ戻った。
それでも時折、そっとケイルへ視線を向ける。
そして目が合いそうになるたびに――
いつも先に視線を逸らすのはベルのほうだった。
ただ、その口元にはまだかすかな笑みが残っている。
穏やかな沈黙が、再び行政庁舎の前を包み込む。
すると――
建物の中から、慌ただしい足音が響いてきた。
速く、どこか急いた足取り。
その場にいた全員が、ほぼ同時にそちらへ顔を向ける。
大きく開かれた両開きの扉から、一人の若いメイドが駆け出してきた。数歩先で立ち止まると、息を少し弾ませながらセレスティンへ向かって頭を下げる。
「セレスティン様」
短く一礼する。
「お取り込み中、申し訳ございません」
セレスティンの表情がすぐに引き締まった。
「何かあったの?」
「事務部より、すぐにお戻りいただきたいとのことです」
メイドは一度息を整えてから続ける。
「至急処理しなければならない書類がいくつかございます。それに加え、ブティックのほうでも人手が足りておりません」
「人手不足?」
「新しい在庫の搬入と注文が同じタイミングで重なりまして……」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「想定以上の数量となってしまい、現在のスタッフだけでは予定どおりに対応しきれません」
セレスティンは一瞬だけ目を閉じた。
「なるほど、事情は分かったわ」
それまで黙って話を聞いていたカエラが口を開く。
「もしよろしければ、私がお手伝いしましょうか?」
セレスティンが振り向く。
「カエラ?」
カエラはうなずいた。
「本当に急ぎでしたら、遠慮はいりません」
小さく微笑む。
「荷物の整理くらいなら、お力になれると思います」
セレスティンは少し驚いたような表情を浮かべた。
「でも……」
視線をラインマーへ向ける。
「あなたの手を借りても構わないのかしら?」
ラインマーは小さく鼻を鳴らした。
「どうして私に聞く?」
そう言ってケイルへ目を向ける。
「ケイルもここにいる。本人が手伝いたいと言うなら、止める理由はない」
カエラは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、ラインマー様」
メイドはほっとしたように胸をなで下ろす。
「助かります……」
すぐに踵を返した。
「では、こちらへお願いいたします」
カエラも軽くうなずく。
そのまま数歩歩き出した、そのときだった。
「待って!」
後ろからシルヴィアの声が飛ぶ。
だが、二人はすでに歩き始めていた。
「私も行く!」
カエラが振り返る。
「あなたも?」
シルヴィアは勢いよくうなずいた。
「人手が足りないなら、手伝ったほうがいいでしょ?」
「それもそうね」
無邪気に笑う。
「私もやってみたい!」
ケイルはそんな彼女を数秒見つめた。
いつもなら、何か一言くらいは口を挟むところだ。
けれど今回は違った。
ただ小さく息をつくだけ。
「分かった」
シルヴィアはぱっと笑顔になる。
「またあとでね!」
そう言うと、すぐに二人の後を追いかけた。
やがて三人の姿は、行政庁舎の両開きの扉の向こうへ消えていく。
ケイルはその背中をしばらく見送る。
そして静かに視線を逸らした。
(これで少しは、あいつがいないぶん落ち着けそうだ)
なぜだろう。
そう思うだけで、少し気が楽になった。
一方、セレスティンは改めてラインマーへ向き直る。
「それでは、私たちも失礼します」
礼儀正しく微笑む。
「まだ片づけなければならない仕事がありますので」
「もちろんだ」
ラインマーはうなずいた。
「どうぞ」
セレスティンはそのまま、ケイルへ視線を向けた。
「今日はお会いできてよかったです」
ケイルは静かにうなずいた。
「こちらこそ」
セレスティンは穏やかに微笑むと、その視線をベルへ向ける。
「ベル」
黙って立っていたベルは、すぐに顔を上げた。
「はい」
「行きましょう」
ベルは小さくうなずく。
「はい」
エドガが一歩前へ出て道を開ける。
その後ろをセレスティンが歩き、ベルもその隣に並んだ。
だが、数歩進んだところで――
ベルの足が止まる。
わずかに振り返り、背後へ視線を向けた。
探していたのは、一人の姿。
ケイル。
彼はまだ、行政庁舎の前でラインマーと並んで立っていた。
ベルはその姿を数秒間じっと見つめる。
そしてゆっくりと前へ向き直り、再び歩き出した。
「ケイル」
背後からラインマーの声が響く。
ケイルは振り返った。
「どうした?」
「少し、お前と話がしたい」
今のラインマーの声は、それまでとは違っていた。
どこか真剣な響きを帯びている。
「二人きりでな」
ケイルは父を見つめた。
何も問い返さない。
皆が立ち去った今、この場に残る理由もなかった。
「分かった」
ラインマーは薄く笑みを浮かべる。
「よし。少し付き合ってくれ」
そう言って近づくと、片腕をケイルの肩へ自然に回した。
まるで、息子を連れて歩き出す父親のように。
ケイルは一度だけその腕へ目を向ける。
だが、何も言わなかった。
次の瞬間――
二人の身体が、ゆっくりと淡い光の粒へとほどけ始める。
まるで氷の欠片のような、小さな光の結晶。
魔法陣は現れない。
轟音も響かない。
ただ、無数の粒子だけが身体から静かに舞い上がり、風に乗って散っていく。
まるで空気そのものが、二人の存在を少しずつ溶かしていくかのように。
そして、次の瞬間。
ラインマーとケイルの姿は跡形もなく消えていた。
ベルは再び足を止める。
なぜかもう一度、振り返った。
そこには、もうほとんど誰もいない。
ケイルの姿も。
ラインマーの姿も。
ベルは、二人が立っていた場所を見つめる。
その瞳がわずかに見開かれた。
「……もう、行ってしまったんだ」
数歩先を歩いていたセレスティンが振り返る。
「ベル?」
ベルははっと我に返った。
「あっ……」
小さく首を横に振る。
「何でもありません」
それでも再び歩き出す前に、もう一度だけ中庭へ視線を向けた。
(本当に、行ってしまった……)
やがて静かに踵を返す。
行政庁舎の大きな扉が、背後でゆっくりと閉じられていった。
先ほどまでケイルとラインマーが立っていた場所には、もう誰の姿もない。
ただ、氷の欠片にも似た淡い光の粒だけが、静かな風に乗って漂っていた。




