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第七十六話

ケイル、カエラ、そしてシルヴィアは行政庁舎へと歩き始めた。


少し先では、ラインマーがマシュフォード家の面々と行政庁舎の正面階段で話を続けている。


交わされる会話は、ここまでかすかに聞こえてくる程度だった。


もっとも、ケイルはそれにほとんど意識を向けていなかった。


彼の思考は、まだ財務局での出来事に引きずられていたからだ。


とりわけ、自分のフルネームが呼ばれただけで、あの場の空気が一変したことが頭から離れない。


ケイルは小さく息を吐く。


(はぁ……)


(早く帰りたいな……)


何が起きたのか、まだ完全には理解できていない。


それでも今は、深く考えないことにした。


少なくとも、そのつもりだった。


だが、その一方で――


「最後に会ってから、もう何年になるかしらね、レイ」


ラインマーは口元をわずかに緩め、肩の力を抜きながら短く息をついた。


「まったく……またその呼び方か」


そう言って彼女を見つめると、穏やかな声で続ける。


「君もエレノアも、昔と何も変わらないな」


「そうかしら?」


ラインマーはくすりと笑った。


「たぶん、君が今でも俺をそう呼ぶからだろう」


女性は小さく笑みをこぼす。


「そういうことなら、否定はしないわ」


ラインマーは眉を上げ、そのまま声を立てて笑った。


二人の会話は、ごく自然に続いていく。


そこに気まずさは微塵もない。長い年月が流れても、互いの距離は少しも変わっていないかのようだった。


その傍らでは、一人の少女が静かに立っていた。


ベルは先ほどからほとんど口を開いていない。


周囲の大人たちの会話に耳を傾けながら、ときおりラインマーへ視線を向けるだけだった。


やがてラインマーが彼女に目を向けると、小さな体がぴくりと強張る。


そして、おずおずと半歩後ろへ下がった。


「おや、そういえば」


ラインマーは何かに気づいたようにベルを見つめる。


「この子が君の娘か?」


ベルは小さくうなずいた。


「は、はい……」


「最後に見たときは、本当に小さかったのにな」


ラインマーはしばらく彼女を見つめた。


目の前の少女と、記憶の中に残る幼い姿を重ね合わせるように。


「もうこんなに大きくなったんだな」


ベルは何も答えなかった。


視線をそっと伏せると、そのままゆっくりと後ろへ身を寄せていく。


数秒もしないうちに、その体の半分は母親の後ろへ隠れていた。


ラインマーはぱちりと瞬きをする。


「ん?」


母親は思わず笑みをこらえた。


「この子、まだ少し人見知りなんです」


「なるほど」


ラインマーは気にした様子もなく、小さく笑う。


「それでも、俺のことは覚えているんだろう?」


ベルは母親の陰からそっと顔をのぞかせた。


見えたのは一瞬だけ。


すぐにまた身を引っ込めてしまう。


「……少しだけ」


その声はあまりにも小さく、行政庁舎の周囲を行き交う人々の足音や話し声に溶けてしまいそうだった。


ラインマーはただ穏やかに微笑む。


「まあ、それなら十分だ」


その横で、ずっと静かに控えていたエドガがようやく口を開いた。


「お嬢様は、もともとそのようなお方でございます」


目を閉じたまま、落ち着いた口調で告げる。


一語一語を慎重に選ぶことが身についた執事らしい、礼節を崩さない話し方だった。


「特に、長らくお会いしていなかった方を前にされますと」


母親が横目で彼を見る。


「そこまで説明しなくてもいいのよ、エドガ」


「失礼いたしました、奥様」


エドガは軽く頭を下げた。


「私は事実を申し上げたまででございます」


「ええ、わかっているわ」


ラインマーも微笑みながら頷く。


「なるほど、本当に恥ずかしがり屋なんだな」


ベルは再び母親の後ろへ身を隠した。


だが今度は、その仕草がほんの少し違っていた。


細い指が、おずおずと母親の服の裾をつまむ。


その小さな力に気づき、母親は振り返った。


「ん?」


だが、ベルは母親を見ていたわけではなかった。


少女は母親の後ろからそっと顔をのぞかせ、その視線はまっすぐ前方の通りへ向けられていた。


母親もその視線を追う。


財務局の方角から、数人の人影がこちらへ歩いてくるのが見えた。


その中でも、三人が並んで歩く姿がひときわ目を引く。


母親は小さく首を傾げ、口元に穏やかな笑みを浮かべた。


「まあ」


ラインマーが彼女を見る。


「どうした?」


彼女はすぐには答えず、近づいてくる一団から目を離さなかった。


「どうやら、お客さんみたいね」


エドガが静かに目を開く。


ラインマーも振り返った。


最初は、人混みの中を歩いてくる三人組が見えただけだった。


だが数秒後、その視線は先頭を歩く青年の姿でぴたりと止まる。


見覚えのある顔だった。


ラインマーの表情がぱっと明るくなる。


「おお……」


先ほどまでとは比べものにならないほど弾んだ声だった。


「ケイル」


「俺の息子だ」


その声が届く距離まで近づいていたケイルは、顔を上げた。


二人の視線がようやく交わる。


ラインマーは片手を軽く上げた。


「来たのはお前たちだったのか」


ケイルは離れた場所から返事をすることなく、そのまま歩き続ける。


後ろにはカエラとシルヴィアが並んで続いていた。


三人はそのまま距離を縮め、やがて互いの声がはっきり届くところまで近づく。


そして財務局を出て以来初めて、ケイルは父親と向かい合った。


ケイルはラインマーの数歩手前で立ち止まる。


カエラとシルヴィアもその後ろで足を止めた。


ラインマーは満面の笑みを浮かべる。


「今日はカエラとシルヴィアと一緒にアストラヴェルを回ってきたんだろう? どうだった?」


ケイルは黙った。


その表情から少しずつ感情が抜け落ちていく。


そして――


「……今日一日を振り返っても、楽しい外出だったと思えるような時間は一つもなかった」


少し間を置き、淡々と続ける。


「むしろ、早く家に帰りたいってことばかり考えてた」


ラインマーは目を瞬かせた。


「おや、どうしてだ?」


「別に……父様がそこまで詳しく知る必要はないと思う」


そう言いながら、首の後ろへ手を回す。


「あー、はは……そうか」


「うん」


あまりにもそっけない返事に、ラインマーは自分の聞き方がよくなかったのだとすぐに察した。


ケイルは短く息をつく。


「それより」


一歩前へ出る。


「父様は、ここで何をしてるんだ?」


「ん?」


ラインマーは一瞬言葉を選ぶような表情を見せ、それから答えた。


「ああ、それはな……」


「実は、お前を探していたんだ」


ケイルはわずかに片眉を上げる。


「俺を?」


「ああ」


ラインマーはうなずいた。


「お前たち三人が無事かどうか、確認したかっただけだ」


カエラは小さく微笑む。


ラインマーは急ぎの用事を抱えているようには見えなかったが、その声には子を案じる父親らしい気遣いが確かに滲んでいた。


「アストラヴェルを見て回っている間に、何かあったんじゃないかと少し気になってな」


ゆっくりと息を吸い、


「だから、困ったことに巻き込まれていないか確かめたかったんだ」


ひとまず、それで話は終わったかのように思えた。


だがラインマーは、不意に人差し指を立てる。


「ああ、そうだ。もう一つあった」


ケイルが視線を向ける。


「何?」


ラインマーは頬をぽりぽりとかいた。


「金のことだ」


ケイルはぴたりと動きを止めた。


「……金?」


「ああ」


ラインマーは気まずそうに笑う。


「出発する前に、一つ説明し忘れていたことを思い出してな」


ケイルの目がゆっくりと細くなる。


「まさか……」


「俺が渡した金貨は、アストラヴェルで普段の買い物にそのまま使えるものじゃないってことを、先に伝えておくべきだった」


沈黙が落ちた。


ケイルはしばらくラインマーを見つめ、それから静かに息を吐く。


「……やっぱりか」


カエラは小さく俯いた。


ラインマーは慌てて言葉を続けた。


「買い物にはオーレルが必要なんだ。金貨を使うなら、まず財務局で両替しなければならない」


ケイルは深く息を吸う。


「つまり、父様も忘れてたってことか」


「……ああ。どうしてそう思う?」


ケイルは一度目を閉じた。


そしてゆっくりと開き直す。


「そのことなら、カエラも途中で教えてくれた」


「でも、その時にはもうミスター・ウォードのドドリトで料理を注文した後だったんだ」


カエラはまだ視線を伏せたままだった。


「……申し訳ありません、若様。私が先にお伝えするのを忘れてしまったせいです」


ケイルはゆっくりと首を横に振る。


「そんなに気にしなくていい。もう終わったことだから」


カエラはしばらく黙っていた。


やがてゆっくりと顔を上げる。


張りつめていた表情が少しずつ和らぎ、小さな笑みが浮かんだ。


「……ありがとうございます、若様」


「つまり、誰も覚えてなかったってことだな」


ラインマーは一瞬言葉を失う。


それから苦笑交じりに笑った。


「ははは……そういうことになるな」


ケイルは特に返事をしなかった。


ただ、長く息を吐くだけだった。


「だから父様は、俺たちが財務局にいるかもしれないと思ったんだな」


「そして、その予想は当たった」


少し間を置いてから、再び父へ視線を向ける。


「考えてみれば……」


ケイルは小さく息をついた。


「俺には最初から、ほかに選択肢なんてなかったのかもしれない」


ラインマーが眉を上げる。


「結局、マーチャント・インボイスを支払うには財務局へ行くしかなかったんだから」


視線が一瞬、背後に建つ建物へ向く。


「遅かれ早かれ、俺はあそこへ行くことになってた」


再びラインマーを見つめたケイルの表情には、疲労の色が浮かんでいた。


「その結果、俺の家名はみんなに知られることになった」


ラインマーはぎこちなく笑う。


「……ああ」


「これで、父様が俺たちの無事を確認したかった理由もわかった」


ラインマーは静かに息を吐いた。


「どうやら、気づくのが少し遅かったみたいだな」


ケイルは数秒間、感情の読めない目で父を見つめる。


「うん。父様って、たまにそういうところあるよね」


ラインマーは返す言葉を失った。


しばらくして、話題を切り替えるように口を開く。


少し離れた場所に立つ三人へ視線を向けながら言った。


「そうそう。あの人たちの馬車が行政庁舎の近くに止まっているのが見えたから、財務局へ向かう前に挨拶だけしておこうと思ってな」


ラインマーは小さく笑う。


「ところが、お前たちのほうが先にこっちへ来たというわけだ」


ケイルもその視線を追った。


「ああ」


「本当は、お前に紹介しようと思って――」


「うん。父様の知り合いなんだろ?」


ラインマーの動きがぴたりと止まる。


「……あ、ああ」


「マシュフォード家の人たちだ」


ラインマーは目を瞬かせた。


「知っていたのか?」


ケイルは気負いなくうなずく。


「前に見かけたことがあるから」


ラインマーはケイルとマシュフォード家の間で視線を往復させた。


「いつだ?」


「パレードのとき」


「パレードで?」


カエラが小さくうなずく。


「直接お会いしたわけではありません。ただ、人混みの中でマシュフォード家の馬車をお見かけしました」


そう言って、家族のほうをそっと示す。


「そのとき、お嬢様も窓際にいらっしゃいました」


その言葉を聞いた途端、ベルは母親の服の裾をぎゅっと握りしめた。


そして再び、その後ろへ身を隠す。


ケイルはちらりと彼女へ視線を向ける。


(あの子か……)


ベルは慌てたように顔を背けた。


ラインマーはまだ少し戸惑った様子だった。


「じゃあ、お前たちはもうお互いに顔を見ていたんだな?」


「まあ、そんなところ」


それまで黙っていたシルヴィアが、ようやく口を開く。


「ケイル様は、最初からあの方たちがマシュフォード家だとご存じでしたから」


薄く微笑みながら、右手を腰に添える。


「もっとも、ここでまたお会いすることになるとは思っていなかったみたいですけど」


ケイルはシルヴィアを横目で見る。


その視線は、「それ以上説明しなくていい」とはっきり物語っていた。


だが、シルヴィアは小さく微笑むだけだった。


「でも――」


再びケイルへ視線を向ける。


「さっき財務局であんなことがありましたし、今のケイル様のお気持ちも何となくわかる気がします」


ケイルはじっと細めた目を向ける。


「……その話はやめて」


ラインマーが眉をひそめた。


「財務局で何かあったのか?」


シルヴィアは肩をすくめる。


「それは……私からお話しするより、ケイル様ご本人が話されたほうがいいと思います」


ケイルはしばらく黙っていたが、やがて長く息を吐いた。


「はぁ……」


疲れ切った表情のまま、父を見つめる。


「父様、自分の名前がアストラヴェルでどれだけ有名か、わかってる?」


ラインマーは目を瞬かせた。


「俺の名前が?」


ケイルはうなずく。


「まさか、今でもそれを俺に隠せると思ってたわけじゃないよね?」


ラインマーは少し黙り込み、それから頭を何度かかいた。


「あはは……そのことか」


「うん。俺がケイル・ラインマーだって名乗った途端、みんなすぐに俺が誰の息子なのかわかったんだ」


ラインマーの視線がゆっくりとケイルの服へ落ちる。


そこにはハウス・ラインマーの紋章がはっきりと刻まれていた。


「……なるほど」


ケイルは腕を組む。


胸の内には、まだ完全には消えきっていない苛立ちが残っていた。


「しかも、すごく騒がしかった」


ラインマーは再び黙り込む。


そこでようやく、先ほどからケイルの返事が妙によそよそしかった理由を理解した。


名前が知られたことだけではない。


ケイルは、突然自分へ注目が集まること自体を好まないのだ。


ラインマーはしばらく息子を見つめた。


アストラヴェルで「ラインマー」という名がどれほどの重みを持つのか、彼自身が誰よりも理解している。


もし財務局の人々が、目の前にいた青年が自分の息子だと気づいたのなら――


「ああ……」


ラインマーは静かに目を閉じた。


「ようやくわかった」


カエラは思わず笑みをこらえる。


シルヴィアも口元に淡い笑みを浮かべていた。


ラインマーは再び目を開く。


「だから、さっきのお前はあんなにそっけなかったのか」


ケイルは申し訳なさそうな父を見つめる。


「別に想像しなくてもいいよ」


一度言葉を切り、


「今日のことは、もう終わったことだから」


それまで静かに話を聞いていた女性が、くすりと笑った。


「皆さん、本当に賑やかな毎日を送っていらっしゃるのね」


シルヴィアは苦笑混じりに微笑む。


「ええ……まあ、そんな感じです」


エドガは女性の隣で静かに立ったまま、小さく一礼するようにうなずいた。


ラインマーは改めてケイルへ視線を向ける。


その表情には、どこか照れくさそうな色が浮かんでいた。


「すまなかった」


ケイルはすぐには答えない。


「最初からオーレルのことを説明していれば、あんなことにはならなかったかもしれない」


「もういいよ」


あまりにも即答だったため、ラインマーは苦笑するしかなかった。


「……ああ、わかった」


その言葉を最後に、ラインマーはそれ以上深く尋ねようとはしなかった。


もう十分に想像がついていたからだ。


ラインマーという名が持つ知名度。


それに付きまとう数々の評判。


そして、ケイルがその長男であるという事実。


財務局でのほんの短い滞在が、大きな騒ぎへと発展したとしても何ら不思議ではない。


そうして何が起きたのかを理解したラインマーは、つい先ほどの出来事をこれ以上蒸し返すのをやめた。

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