第七十五話
コツン。
……
コツン。
……
財務局の奥にある廊下から、靴音が静かに響いてきた。
まだ遠い。
それなのに、なぜか利用客たちの話し声が少しずつ途切れていく。先ほどまで忙しく手を動かしていた職員たちも、一人、また一人と動きを止め始めた。
「ん?」
一人の窓口係が顔を上げる。
隣にいた職員もつられるように廊下の方へ視線を向けた。
コツン。
……
コツン。
……
今度は、さっきよりもずっと近い。
何人かの職員が顔を見合わせる。
その表情から、ゆっくりと血の気が引いていった。
「あっ……」
「あれって、まさか……」
最後まで言い終えるより早く――
「きゃあああぁぁっ!」
「全部片づけてぇぇぇぇ!!」
次の瞬間、財務局のホールは再び大混乱に包まれた。
もっとも、先ほどのような騒ぎとはまったく違う。
誰もが必死になって、騒動の痕跡を消そうとしていたのだ。
「書類! 早く、早く!」
「その椅子、まだ逆向きよ!」
「さっき机に乗ったの誰!? 早く降りて! 今すぐ!」
「やばっ、髪がぐちゃぐちゃ!」
女性職員が床に散らばった書類を慌てて拾い集める。その横では、倒れた椅子を起こそうとした二人の職員が危うくぶつかりそうになった。
ガタンッ!
「すみません!」
「すみません!」
窓口の前では、ガラスに映る自分の姿を見ながら前髪を整える者がいる。その隣では、頬を赤くしたまま慌てて営業用の笑顔を作る職員の姿もあった。
利用客たちも負けてはいない。
さっきまで一番大声で笑っていた男は、背筋をぴんと伸ばしてサービス案内のパンフレットを真剣な顔で読み始める。
年配の男性などは慌てて新聞を広げた。
……ただし、その新聞は上下逆さまだった。
数秒後にようやく気づくと、何事もなかったかのような顔で静かに持ち替える。
ホールの隅では、床が十分すぎるほど磨かれているにもかかわらず、職員の一人がモップを手に取り、さらに念入りに床を磨き始めていた。
「あっちも急いで!」
「その書類、元に戻して!」
「三番窓口! 笑顔、笑顔!」
ほんの数秒。
ついさっきまで笑い声に包まれていた財務局のホールは、何事もなかったかのように整然とした空間へと戻っていた。
「……」
ケイルはただ瞬きを繰り返す。
片方の眉がぴくりと引きつった。
「いったい、何が――」
コツン。
……
コツン。
……
その足音が、ついに廊下の出口までたどり着く。
黒い杖の先端が大理石の床に触れ、その音に合わせるように、迷いのないハイヒールの足音が静かに響いた。
白いコートの裾が歩みに合わせて揺れ、そのたびに深い紫色の裏地がわずかに覗く。腰元に下がる細い金の鎖が、規則正しい杖の音に重なるようにかすかな音色を奏でた。
黒い手袋に包まれた手が、その杖をしっかりと握っている。
杖の上部には紫色の結晶が埋め込まれ、ホールの照明を受けて静かな輝きを放っていた。
コツン。
……
コツン。
……
やがて、その人物が廊下から姿を現す。
財務局のホールの入口で静かに立ち止まった。
その瞬間、空間は水を打ったように静まり返る。
冷たい眼差しがホール全体をゆっくりと見渡し、一つとして見逃すまいとするように隅々まで確認していく。
やがて、その手にした杖がわずかに持ち上がった。
コツ。
杖の先端が大理石を軽く打つ。
決して大きな音ではない。
それでも、その短い反響だけで息を呑む職員が何人もいた。肩が反射的に強張る。
利用客たちでさえ、ごくりと唾を飲み込んだ。
落ち着き払った、低く威厳に満ちた声が静寂を破る。
「……誰か説明していただけますか」
視線はまっすぐ前を向いたまま。
「先ほど、どうして財務局はあれほど騒がしかったのでしょう?」
ホール全体が再び沈黙に包まれる。
誰一人として顔を上げようとはしない。
先ほどまで書類を走っていたペンの音すら、いつの間にか完全に消えていた。
女性はゆっくりと視線を一つの支払い窓口へ向ける。
その先で硬直したまま立つ女性職員を見据えた。
「……リヴィア」
その一言だけで、女性職員の身体がびくりと震える。
「は、はいっ!」
慌てて深く頭を下げる。
「レ、レディ・ヴィオレッタ!」
制服のスカートの前で、両手をぎゅっと握り締めた。
「私の質問に答えなさい。」
「ここで何があったのですか?」
リヴィアはごくりと唾を飲み込む。
「そ、その……」
助けを求めるように右を見る。
左を見る。
しかし、誰一人として目を合わせようとはしなかった。
それどころか、全員がこれまで以上に仕事をしているふりに没頭している。
何も書かれていない書類を真剣な顔でめくる者。
すでに数え終えたマーチャント・インボイスを、もう一度数え直す者。
部屋の隅では、さっきから花瓶を拭き続けている職員までいる。
「……」
リヴィアは今にも泣き出しそうだった。
「え、えっと……」
「す、すべて問題ありません、レディ・ヴィオレッタ」
「な、何も起きておりません」
「わ、私たちはただ……」
「……いつも通りに業務を行っていただけです」
沈黙。
ヴィオレッタはすぐには答えなかった。
その視線はゆっくりと窓口の机へ落ち、床を静かに見渡したあと、再びリヴィアへ戻る。
「そうですか」
声色は変わらず淡々としていた。
だからこそ、その静けさがリヴィアの背筋をぞくりと震わせる。
杖がわずかに持ち上がる。
コツ。
杖の先が大理石の床に触れた。
今度はほとんど音すらしない。
それなのに、リヴィアの胸はさらに締めつけられていく。
「何も起きていないというのなら……」
ヴィオレッタの視線はまっすぐリヴィアを捉えたまま。
「……なぜ、そんなに息が乱れているのですか?」
リヴィアの身体が硬直する。
「どうして額には汗が浮かんでいるのでしょう?」
「……」
ヴィオレッタの視線が、その両手へと落ちる。
「それに、なぜ手が震えているのですか?」
リヴィアは反射的に両手を背中へ隠した。
だが、もう遅かった。
「うっ……」
「そ、それは……」
「嘘をついてはいけません」
遮るように告げられたその声は、むしろ優しく聞こえるほど穏やかだった。
ホール全体の空気が再び張り詰める。
リヴィアは肩を跳ねさせた。
「ひゃ、ひゃいっ!?」
「も、申し訳ございません!」
勢いよく頭を下げる。
「申し訳ありません、レディ・ヴィオレッタ!」
「ほ、本当に申し訳ありません!」
何度も何度も頭を下げるせいで、髪まで乱れてしまう。
「申し訳ありません!」
「わ、私が悪かったです!」
背後にいた同僚たちは、一斉に目を閉じた。
終わった。
秘密は一分と保たなかった。
ヴィオレッタは小さく息を吐く。
「……もういいでしょう」
「私が自分で探します」
返事を待つことなく、支払い窓口の横を通り過ぎて歩き始める。
コツン。
……
コツン。
……
一歩進むたびに、大理石の床へ静かな足音が響く。
その視線は焦ることなくホール全体をゆっくりと見渡していた。
誰かを問い詰めるためではない。
先ほどまでここで起きていた騒ぎの痕跡を探すために。
一つ目の窓口。
異常なし。
職員たちは頭を下げ、黙々と仕事をしている。
二つ目の窓口。
異常なし。
利用客たちは真剣な表情で申請書を書いていた。
三つ目の窓口――
一人の職員が花瓶を拭いている。
それはもう、驚くほど熱心に。
何度も何度も。
花瓶の表面は、自分の顔が映るほど磨き上げられているというのに。
「……」
ヴィオレッタの足が止まる。
片方の眉がわずかに上がった。
ようやく自分が見られていることに気づいた職員は、ゆっくりと手を止める。
「……」
手にした布巾を見る。
そして目の前の花瓶を見る。
「……」
青ざめた顔のまま、その布巾を素早く畳み、背中へ隠した。
まるで最初から何もしていなかったかのように。
ヴィオレッタは何も言わない。
ホールの反対側では、男性職員が書類の束を忙しなくめくっていた。
一枚。
開く。
閉じる。
次の一枚。
また開く。
あまりにも手際よくページをめくっているせいで、読んでなどいないことは一目瞭然だった。
ヴィオレッタの視線がその職員で止まる。
男はぴたりと動きを止めた。
ぎこちない動きで手元のファイルを閉じる。
「え、えへへ……」
引きつった笑みは一瞬で消えた。
すぐに頭を下げ、何事もなかったように仕事を続け始める。
ヴィオレッタの視線はさらに動く。
利用客。
異常なし。
列。
異常なし。
支払い窓口。
異常なし。
あまりにも――
不自然なほどに、異常がなかった。
まるでホール中の誰もが、何事も起きていなかったと必死に言い聞かせようとしているかのようだった。
そして――
その視線が止まる。
見つめた先は、ホールの中央。
そこには……床に座り込んだままの少年が一人いた。
ケイル。
先ほどの騒ぎ以来、まだ立ち上がる暇すらなかった。
その隣にはカエラが立っている。
口元にはぎこちない笑みを浮かべていたが、その額には冷や汗がうっすらと滲んでいた。
シルヴィア・ローゼンタイドだけは、呆然と立ち尽くしていた。
周囲の誰もがあまりにも整然としているせいで、三人の姿だけがかえって目立ってしまっている。
再び静寂がホールを包む。
ヴィオレッタは数秒間、ケイルをじっと見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「……なるほど」
静かな声がホール中に響いた。
「今日の騒ぎの元凶は、あなたでしたか」
「……へっ!?」
ケイルはぱちぱちと瞬きをする。
右を見る。
続いて左を見る。
まるで、自分以外の誰かが話しかけられているのではないかと探すように。
だが、ヴィオレッタの鋭い視線は微動だにせず、まっすぐケイルへ向けられていた。
「……えっ!?」
ケイルは自分を指差す。
「お、おれ?」
ヴィオレッタはそのまま歩み寄ってくる。
コツン。
……
コツン。
……
コツン。
近づく足音が一歩ごとに大きくなるたび、ケイルの居心地は悪くなっていく。
「え、えっと……」
「ま、待ってください……!」
慌てて両手を上げる。
「違います!」
「おれじゃありません!」
「本当です!」
「おれ、何もしてません!」
「ぜ、全部勝手にそうなっただけで!」
みるみる顔が青ざめ、瞳にはうっすら涙まで浮かび始める。その姿は、まるで悪戯を見つかってしまった子どものようだった。
「おれだって被害者なんですよ!」
「マーチャント・インボイスだって、まだ支払ってないんです!」
何度も首を横に振る。
「だ、だからそんな目で見ないでください……」
「お願いですから、まず話を聞いてください!」
それでも――
ヴィオレッタの足は止まらない。
表情は少しも変わらず、鋭い視線もそのまま。
一歩近づかれるたびに、ケイルは後ずさりしたくなってしまう。
もっとも、床に座り込んだままでは逃げることもできなかった。
コツ。
黒い杖の先端が、ケイルの足元で止まる。
その瞬間、身体がぴたりと固まった。
ヴィオレッタはまっすぐ立ち、両手を杖に添えている。
先端にはめ込まれた紫色の結晶が、ホールの灯りを受けて淡く輝いていた。
少し離れた窓口の机の上で、一対の紫色の瞳がゆっくりと開く。
エクリプスが顔を上げた。
小さなドラゴンは小さく欠伸をすると、ぐっと身体を伸ばし、そのまま机から降りる。
ケイルは思わずそちらへ視線を向けた。
エクリプスは数歩歩き――
ぴょん、と跳ぶ。
もう一度。
小さな身体がふわりと宙を舞い、そのまま軽やかにヴィオレッタの肩へ着地した。
頭は首の左側へちょこんと寄せ、後ろ足は右肩へ気楽に乗せる。
まるで最初からそこが自分の居場所だったと言わんばかりに、肩の上で落ち着いてしまった。
こっそり様子を窺っていた職員たちは、一斉に視線を逸らして頭を下げる。
もう誰一人として見ようとはしなかった。
ケイルはごくりと唾を飲み込む。
ヴィオレッタはエクリプスのことなどまるで気に留めず、視線をケイルから外さない。
数秒が過ぎる。
やがて、その視線はケイルのコートに刺繍された、銀の棘をあしらった黒い王冠の紋章へと落ちた。
ヴィオレッタの表情がわずかに変わる。
「……ラインマー」
ケイルは目を瞬かせた。
もう気づいていたのか?
コートに家紋を堂々と掲げている以上、自分の素性を説明する必要などない。
「北部の商人」
ヴィオレッタの視線が再びケイルの顔へ戻る。
「その紋章……」
一拍置いてから続けた。
「あなたが、その息子ですね」
ケイルは思わず背筋を伸ばす。
背後では何人かの職員がそっと顔を見合わせた。
中には小さく口元を緩める者までいたが、
エクリプスがほんの少し首を動かしただけで、全員が慌てて再び俯く。
何事もなかったかのように。
ヴィオレッタは再び口を開いた。
「それで、財務局へ騒ぎを起こしに来たのですか?」
「違います!」
ケイルの返事はあまりにも早かった。
「おれはマーチャント・インボイスの支払いに来ただけです!」
慌てて窓口を指差す。
「本当です! 支払う前に、急にみんなが――」
そこで言葉が止まる。
十数人もの職員に囲まれた光景が脳裏によみがえった。
「……と、とにかく、おれは支払いに来ただけなんです」
ヴィオレッタは何も言わない。
机の上に積まれたマーチャント・インボイスへ視線を向け、それから再びケイルを見る。
「そうですか」
先ほどよりも、ほんの少しだけ声音が和らいだ。
「でしたら、早く用件を済ませなさい」
ケイルは何度も頷く。
「はい!」
「それと……」
コツ。
杖が再び床を打つ。
「財務局を、これ以上騒がせないように」
ケイルは慌てて両手を上げた。
「でも、おれ本当に――」
鋭い視線が向けられた瞬間、言葉が喉で止まる。
「……!」
ケイルはそっと両手を下ろした。
「……はい」
ヴィオレッタの肩の上では、エクリプスが穏やかな紫の瞳でこちらを見つめている。
ケイルも思わず見返した。
なぜだろう。
その視線まで、自分を責めているように感じられる。
「……お前まで乗っからなくていいだろ」
エクリプスはただ一度、ぱちりと瞬きをした。
ヴィオレッタは小さく息をつく。
「ラインマーの息子……」
その声には、ほんのわずかに疲れの色が滲んでいた。
「どうやら、あなたはあの人から受け継いでしまったようですね」
ケイルは首を傾げる。
「何をですか?」
ヴィオレッタは答えなかった。
代わりに、視線を財務局の入口へ続く通路へ向ける。
「あなたのお父様は、まだこの近くにいるのでしょう?」
ケイルは言葉を失う。
「……お父様?」
「ええ」
ヴィオレッタはわずかに顎を上げた。
「気配を感じます」
ますます訳が分からない。
だが、問い返す間もなく、ヴィオレッタは再びケイルへ視線を戻した。
この場に現れて以来、初めてその口元がわずかに緩む。
ほとんど気づけないほどの、小さな微笑みだった。
「もう長いこと、あの人には会っていません」
ケイルは眉をひそめる。
あの人?
お父様のことか?
だが、ヴィオレッタはすでに背を向けていた。
白いコートの裾が、歩みに合わせて静かに揺れる。
コツン。
……
コツン。
……
エクリプスは相変わらず、肩の上でくつろいだままだ。
完全に立ち去る前に、ヴィオレッタはふと足を止める。
少しだけ振り返り、
「マーチャント・インボイスを支払いなさい」
と静かに告げた。
ケイルはすぐに頷く。
「はい」
「終わったら、そのまま帰りなさい」
「……はい」
ヴィオレッタの口元に、再びかすかな笑みが浮かぶ。
「結構です」
そう言い残すと、今度こそ振り返り、歩き去っていった。
コツン。
……
コツン。
……
コツン。
ずっとホールを覆っていた重苦しい空気が、ようやく少しずつ和らいでいく。
ケイルはまだ床に座ったまま、遠ざかっていくヴィオレッタの背中を見送った。
それからカエラへ目を向ける。
返ってきたのは、どこか引きつった笑顔だけだった。
ケイルは深く息を吐く。
「……あの人、結局怒ってたのかな」
ヴィオレッタの足音が奥の通路へ消えてからも、ホールにはしばらく気まずい空気が漂っていた。
やがてケイルは床から立ち上がり、大きく息をつく。
「今日はやたら長く感じるな……」
カエラがすぐに歩み寄ってくる。
「ケイル、大丈夫?」
「ちょっと疲れただけ」
シルヴィア・ローゼンタイドも隣までやって来た。
「でも、とりあえずこれで一件落着ですね」
ケイルは彼女を見る。
「……いや」
そう言って、窓口を指差した。
「おれのマーチャント・インボイス」
三人はそろって黙り込む。
――そうだった。
まだ支払いが終わっていない。
先ほどヴィオレッタに問い詰められていた女性職員が、ぴんと背筋を伸ばした。
「は、はい! もちろんです!」
慌ててケイルの書類を引き寄せる。
「で、では……お支払いの手続きを再開いたします!」
今度は誰も叫ばない。
走り回る者もいない。
ケイルを囲もうとする者もいなかった。
誰もが静かに仕事へ戻っている。
静かすぎるほどに。
ケイルは何人かの職員がこっそり自分を見ていることに気づいた。
目が合った途端、彼らは何事もなかったように書類へ視線を戻す。
また少し居心地が悪くなる。
やがてケイルは袋から大量の金貨を取り出し、窓口へ並べた。
カチャン。
黄金の輝きに、何人かの視線が思わず吸い寄せられる。
職員は一枚ずつ丁寧に数えていく。
「金額に間違いありません」
そう告げると、金貨を保管箱へ収めた。
「お支払いは完了しました」
ケイルはほっと頷く。
「よかった……」
支払い済みの印が押されたマーチャント・インボイスの控えを受け取る。
ようやく。
終わった。
今日一日、あれほど訳の分からない出来事が続いたというのに――
結局、最初の目的はたった一つだった。
マーチャント・インボイスを支払うこと。
ケイルは控えをポケットへしまう。
しばらくして、カエラとシルヴィア・ローゼンタイドとともに出口へ続く通路まで歩いてきた。
外へ出る直前、ケイルはふと足を止め、もう一度だけ財務局のホールを振り返る。
すべてが元通りだった。
職員たちは仕事をこなし、
利用客は順番を待ち、
書類は整然と積み上げられている。
ひっくり返った椅子も、
散らばった紙も、
叫び声を上げる者もいない。
まるで、あの騒動など最初から存在しなかったかのように。
ケイルは長く息を吐いた。
「……もう二度と、ここには来たくないな」
そう呟き、出口へ続く通路を歩き始めた。
カエラとシルヴィア・ローゼンタイドは顔を見合わせると、何も言わずにその後を追った。
もっとも――
当のケイル自身も、その願いが叶うとはあまり思っていなかった。
◇ ◇ ◇
外へ出た途端、ひんやりとした空気が三人を迎える。
ケイルは大きく息を吸い込み、ようやく肩の力を抜いた。
「ああ……」
「外の空気だ……」
隣を歩くカエラがくすりと笑う。
「若様、まるで戦場から戻ってきたみたいなお顔をしていますよ」
「実際そんな気分だよ」
ケイルは疲れたように顔をこすった。
「最初はマーチャント・インボイスを支払いに来ただけだったのに」
そう言って指を一本ずつ折って数え始める。
「まず家名で大騒ぎになって、お父様の肖像画があって、そのうえお母様まで有名人だった」
一本、また一本と指を折り、
その動きがふと止まる。
「シルヴィアのお母様まで有名だったし」
少し黙り込んでから、
「……そのうえドラゴンまで出てきた」
シルヴィア・ローゼンタイドは不思議そうに首を傾げる。
「ドラゴンって、何か関係ありましたか?」
「さあ……」
ケイルは力なく息をついた。
「とにかく疲れた」
三人が歩き出して間もなく。
前方から聞こえてきた話し声に、ケイルの足が止まった。
「……」
ゆっくりと顔を上げる。
財務局の行政庁舎、その正面入口の前。
何人かが立ち話をしていた。
その中に――
見慣れた男の姿があった。
遠くからでも、一目で分かる。
堂々とした立ち姿。
見慣れた髪。
そして深緑のコートは、戦場を率いる指揮官というより、一人の貴族商人によく似合っていた。
見間違えるはずがない。
ケイルはその場で固まる。
「……お父様?」
カエラも足を止めた。
シルヴィア・ローゼンタイドも静かに顔を上げる。
三人の視線は自然と同じ方向へ向かった。
ラインマーは、マシュフォード家の者たちと穏やかに談笑していた。
まるで何事もなかったかのように。
ケイルはしばらく言葉を失う。
そして、不意にヴィオレッタの言葉が脳裏によみがえった。
――あなたのお父様は、まだこの近くにいるのでしょう?
――気配を感じます。
ケイルはゆっくりと片手で顔を覆う。
「……あの人の言う通りだった」
カエラが瞬きをする。
「誰のことですか?」
「レディ・ヴィオレッタ」
手を下ろし、もう一度ラインマーへ目を向ける。
「本当に、お父様はここにいたんだ」
本当なら、ただそれだけで終わるはずだった一日。
けれど、どうやらまだ終わってはいないらしい。
「……なんで、まだ何か起こりそうな気がするんだろう」
カエラとシルヴィア・ローゼンタイドは、互いに顔を見合わせることしかできなかった。
遠くでは、ラインマーが変わらずマシュフォード家との会話を続けている。
その姿を見つめながら、ケイルは言葉にできない複雑な思いを胸に、その場へ立ち尽くしていた。
その日初めて、小さな予感が胸の奥で静かに芽生える。
もしかすると――
今日起きた数々の不可解な出来事は、本当は見た目ほど単純なものではないのかもしれない。




