第七十四話
ケイルは短く息を吐くと、先ほど見せた四枚のマーチャント・インボイスを取り出し、受付カウンターの上へ一枚ずつ並べて置いた。
「これがインボイスです」
「はい」
カウンターの向こうにいた女性は、すぐに四枚すべてを受け取る。
「少々お待ちください。確認しますね」
「お願いします」
軽くうなずく。
その後ろでは、シルヴィア・ローゼンタイドが相変わらずマントの裾をぎゅっと握ったまま、少しも離す気配を見せなかった。
ときおり視線を横へ向けると、テーブルの上ではエクリプスが再び目を閉じ、気持ちよさそうに丸くなって眠っている。
受付係は一枚目のインボイスに目を通し始めた。
「『ドドリト』……」
「お支払い金額は……三百八十オーレル」
ペン先がさらさらと動き、必要事項を書き込んでいく。
二枚目も同じように確認を進める。
「……問題ありません」
「三枚目……」
「んー……」
やがて最後の一枚へ。
視線が記載された情報を上から下までゆっくりとなぞっていく。
「インボイスの名義は……」
「……ケイル……」
その瞬間、不意に手が止まった。
「……ラインマー?」
声の調子がわずかに変わる。
眉がゆっくりと寄せられた。
もう一度視線を落とし、名前を見直す。
「……あれ?」
「……ラインマー……?」
今度のつぶやきは、かろうじて聞き取れるほどの小ささだった。
ケイルは首をかしげる。
「はい」
「僕ですが」
受付係はゆっくりと顔を上げた。
ケイルを見る。
そしてインボイスへ。
さらにもう一度、ケイルの顔へ。
「……ケイル・ラインマー?」
「はい」
ケイルは小さく微笑む。
「何か問題でもありましたか?」
受付係はすぐには答えなかった。
もう一度、目の前の名前を確かめる。
その手がかすかに震え始める。
「い、いえ……」
「ち、違う……」
「わ、私の見間違い……?」
慌てて両目をこすり、もう一度インボイスを見つめる。
「ケイル……」
「……ラインマー……」
「……ま、待って……」
みるみるうちに顔色が青ざめていく。
(……なんだ?)
さすがに様子がおかしい。
「えっと……」
「本当に大丈夫ですか?」
受付係はごくりと唾を飲み込んだ。
震えはさらに大きくなる。
「ラ……」
「……ラインマー……」
まるで、あり得ないものを目の当たりにしたかのような声だった。
ケイルはただ静かにうなずく。
「はい」
「僕の名前は、ケイル・ラインマーです」
受付係は固まった。
数秒の静寂。
そして――
「ええええええええええええええええっ!?」
甲高い悲鳴が財務局のホールいっぱいに響き渡った。
ケイルは反射的に片耳を押さえる。
「えっ!?」
あちこちでペンがカランと落ちる。
椅子がガタガタと動く。
何十人もの視線が一斉に支払い窓口へ向けられた。
「な、何事ですか!?」
「強盗ですか!?」
「エクリプスが暴れたの!?」
「え? でもドラゴンなら寝てるよね?」
受付係はぶんぶんと首を横に振る。
「ち、違います!」
「こ、これを見てください!」
震える両手でインボイスを掲げた。
「な、名前が……」
「ラ、ラインマーなんですっ!!」
「……は?」
隣の窓口にいた受付係が勢いよく立ち上がる。
ケイルは眉をひそめた。
「……え?」
「どれ!? 見せて!」
隣の受付係は椅子を飛び越えそうな勢いで身を乗り出す。
ほかの受付係たちも次々と集まってきた。
「何の騒ぎ?」
「ちょっと、私も見せて!」
「ちょっとどいて!」
「待って待って!」
ものの数秒で、数人の女性職員が支払いカウンターの前に集まっていた。
「どれ?」
「どのインボイス?」
「これ?」
最初の受付係は、まだ震える手でそのインボイスを差し出す。
「な……名前が……」
「ケイル……」
「……ラインマー……」
その瞬間、その場は水を打ったような静けさに包まれた。
全員が一斉にケイルへと顔を向けた。
そしてインボイスへ。
再びケイルへ。
またインボイスへ。
そしてもう一度、ケイルへ。
まるで信じられない何かを必死に照らし合わせるように、その視線は何度も行き来し、首の動きも次第に速くなっていく。
「……」
「……」
「……」
その様子に、ケイルは思わず半歩後ずさった。
「……どうして、そんなふうに僕を見るんですか?」
誰も答えない。
すると、一人の女性職員が突然ケイルのマントの裾へと手を伸ばした。
「す、少しだけ見てもいいですか?」
「え?」
ケイルが反応するより早く、彼女はマントをそっとめくる。
その瞬間、目が大きく見開かれた。
「……も、紋章……」
銀の棘に縁取られた黒い王冠の紋章が、はっきりと目の前に現れる。
彼女の全身がぴたりと固まった。
ほかの職員たちも身を乗り出す。
「その紋章……」
「えっ……」
「ま、まさか……」
互いに顔を見合わせる。
そして――
「きゃああああああああああああああっ!!」
今度の悲鳴は、さっき以上の大音量だった。
ケイルはただ呆然と立ち尽くす。
「……いったい何が起きてるんですか!?」
その悲鳴が引き金になった。
次の瞬間、財務局中の女性職員たちが一斉に動き出す。
「待って!」
「本当なの!?」
「どこ!?」
「私にも見せて!」
「い、椅子どけて!」
ガタンッ!
誰かが椅子にぶつかり、勢いよく倒れる。
「いたっ!」
「あっ、ごめん!」
「押さないでください!」
「押したの誰ですか!?」
「ちょっと、足踏まないで!」
「きゃあっ!」
一人がバランスを崩して前の職員へ突っ込み、その拍子にさらに二人が巻き込まれて倒れ込む。
書類がぱさぱさと宙を舞った。
「私のインボイス!」
「それ私のです!」
「誰か押さえて!」
「踏まないでくださーい!」
ほんの数秒前まで整然としていた財務局のホールは、あっという間に大混乱へと変わっていた。
利用客たちはただ呆気に取られたようにその光景を眺めるしかない。
「さっきまで普通に仕事してたよな……?」
「なんで急にこんな騒ぎになってるんだ?」
その頃――
ケイルが顔を上げると、いつの間にか十数人もの女性職員にぐるりと囲まれていた。
全員の視線が一斉に彼へと注がれる。
一人が震える指でケイルを指差した。
「め、目が……」
「髪も……」
「よく見たら……」
「本当にそっくり……」
「まさか、あの方も来てるの……?」
別の職員が慌てて首を振る。
「まだよ!」
「まだ確定じゃない!」
「もう一度、紋章を見て!」
何人もの視線が一斉に、ケイルのマントに留められた銀の棘をまとった黒い王冠の紋章へ向けられる。
短い沈黙。
そして次の瞬間――
「きゃああああああああああっ!!」
「本物だぁぁぁ!!」
「ラインマー様のご子息よ!!」
「見間違いじゃなかった!!」
「本当にラインマー様のご子息だぁぁぁ!!」
「きゃあああああっ!!」
財務局のホールは再び絶叫に包まれた。
ケイルは反射的に一歩後ずさる。
「ま、待ってください」
「どうして皆さん――」
言い終える前に、
一人の女性職員が勢いよく受付カウンターの上へ飛び乗った。
ドンッ!
「えっ!?」
「な、何をする気ですか!?」
周囲の声などまるで耳に入っていない。
彼女の瞳は、宝物でも見つけたかのようにきらきらと輝いていた。
「私、この目で確かめます!!」
「えぇっ!?」
ドンッ!
彼女はそのまま跳びかかる。
「え、え、えぇっ!?」
ケイルの後ろに隠れていたシルヴィア・ローゼンタイドは、反射的に横へ飛び退いた。
「きゃっ!」
「ケイル!」
ドサッ!
不意を突かれたケイルは体勢を崩し、そのまま仰向けに床へ倒れる。
「うっ……!」
起き上がる間もなかった。
女性職員は、すでに彼の真上まで迫っていた。
……
……
……
二人の視線がぶつかる。
ケイルは硬直した。
一方、女性職員は目を丸くしたまま、
「近い……」
「すごく近い……」
「んん~~~……」
「本当にそっくり……」
「待って――」
突然、彼女は両手でケイルの頬をつまんだ。
むにっ。
むにっ。
「やわらかい……」
「え?」
「きゃああああああああっ!!」
「本当にいたぁぁぁ!!」
「実在したぁぁぁ!!」
「ちょっと!」
「何してるんですか!?」
すると周りの十数人の女性職員たちが一斉に抗議の声を上げる。
「ずるいです!」
「私だって自分で確かめたいのに!」
「ちょっとどいて!」
「私にも見せて!」
「みんな一度に押しかけないで!」
だが、誰一人として耳を貸さない。
ほんの数秒で、ケイルは完全に人だかりの中心になっていた。
肩をつかむ者。
至近距離から顔をまじまじと見つめる者。
目を潤ませながら隣にしゃがみ込む者までいる。
「笑った顔まで……」
「そっくり……」
「まあ……」
「こんなに大きくなられて……」
「つい昨日まで、ラインマー様がよくここへ来られていた気がするのに……」
ケイルはただ財務局の天井をぼんやりと見上げることしかできなかった。
……
……
……
(……いったい、何が起きてるんだ?)
(僕はただ、インボイスを支払いに来ただけなんだけど……)
なんとか起き上がろうとする。
だが、誰かが再び肩を押さえた。
「まだ動かないでください!」
「私たち、まだ確認が終わってません!」
「何を確認するんですか!?」
「あなた、本当にあのお方のご子息なんですよね!?」
「そうです!」
「だったら、どうして皆さん急に猛獣みたいになってるんですか!?」
その場がぴたりと静まり返る。
……
……
……
一拍置いて――
「ぶはははははっ!!」
今度は周囲の利用客たちが一斉に吹き出した。
「猛獣だってよ!」
「そりゃそうだ!」
「見てみろよ!」
「財務局の職員がここまで取り乱してるのなんて初めて見たぞ!」
ようやく自分たちの振る舞いに気づいた女性職員たちは、一斉に顔を赤くする。
「ち、違います!」
「普段はこんなんじゃないんです!」
「そうです!」
「今日は特別なんです!」
「全部あなたのせいですよ!」
「えぇっ!?」
ケイルは信じられないという顔で自分を指差した。
「僕ですか!?」
「そうです!」
「いきなりラインマーなんて名乗るんですもの!」
「まさかラインマー様に、こんなに大きなご子息がいらっしゃるなんて思わないじゃないですか!」
「心の準備なんてできませんよ!」
ケイルはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「……それって、僕のせいじゃないですよね?」
「はぁ……」
一人の職員が長く息をついた。
その目は再びケイルへ向けられ、感慨深そうに細められる。
「本当に……」
「ラインマー様のご子息なんですね……」
「こんなに立派になられて……」
別の職員も静かにうなずいた。
「もう七年です……」
「ラインマー様が最後に財務局へ来られてから、もう七年になります」
「まさか……」
「ご子息までいらっしゃったなんて」
ようやく起き上がれたケイルは、まだ少し痛む頬をそっとさすった。
「ちょっと待ってください」
「父が元司令官だったのは知っています」
「でも……」
「どうして、ここまで大騒ぎになるんですか?」
「ここまでですって!?」
一人の職員が目を丸くする。
「むしろ私たちなんて、まだ全然普通の反応ですよ!」
「そうです!」
「もし昔の衛兵隊のベテランたちがまだ現役だったら、今ごろ泣いてました!」
ケイルは思わず瞬きをする。
「……泣く?」
すると別の職員が、人差し指を立てた。
「あっ」
「でしたら……」
「ご自分の目で見てください」
そう言って、財務局ホールの一角を指差す。
ケイルはその指先を追って視線を上げた。
高くそびえる大理石の壁には、四つの大きな額縁が整然と飾られている。
最上段には、一人の中年女性の肖像画。
眼差しは厳しく、それでいてどこか穏やかだった。
その下には、三枚の額縁が横一列に並んでいる。
右端には――
黒髪の青年が司令官用のマントをまとい、堂々と立っていた。
今よりもずっと若く見える。
姿勢は真っ直ぐで、
鋭い眼差しには揺るぎない意志が宿っていた。
肩の後ろで翻るマントは、どこか見慣れた司令官の姿を思わせる。
……
「……お父様……?」
ケイルは小さくつぶやく。
信じられなかった。
肖像画の中の父は、今知っている姿よりもはるかに若い。
司令官の装いを差し引いても、端正な顔立ちだと言って差し支えなかった。
「ラインマー様は……」
一人の職員が穏やかに微笑む。
「かつてアストラヴェルが崩壊寸前まで追い込まれたとき、最前線で戦い続けた司令官のお一人です」
「何度も命を懸けて、この街を守ってくださいました」
「ラインマー様がいらっしゃらなければ……」
「この財務局も、今ここには存在していなかったかもしれません」
ケイルは黙ったまま、その肖像画を見つめ続ける。
やがて視線は、隣の額縁へとゆっくり移った。
そこには、濃い茶色の髪をした一人の女性が、上品な微笑みを浮かべている。
飾り気のない白いドレス。
柔らかな眼差し。
それなのに、その瞳からは言葉では言い表せないほどの威厳が静かに漂っていた。
ケイルはすぐにその女性が誰なのか気づく。
……
「まさか……」
「え?」
職員たちは顔を見合わせた。
「ご存じないんですか?」
「何をです?」
「あちらはマリアーネ様です」
「アストラヴェル復興の立役者のお一人でもあります」
「街の復興へのご功績は、今でも多くの人に語り継がれているんですよ」
ケイルは再び言葉を失った。
……
お母様……?
マリアーネ様が……?
毎朝、「ちゃんと朝ごはんを食べなさい」と声をかけてくれる人。
帰りが遅くなると、いつも小言を言ってくる人。
家に帰れば、必ず優しい笑顔で迎えてくれる人。
「……伝説?」
ケイルの頭は、もう情報でいっぱいになり始めていた。
すべてを整理する間もなく――
別の職員が最後の額縁を指差す。
「それから、あちらにいらっしゃるのが……」
「エレノア・ローゼンタイド様です」
「シルヴィア様のお母様ですね」
「えっ?」
ケイルは思わずシルヴィア・ローゼンタイドのほうを振り向いた。
当のシルヴィアも、不思議そうに小首をかしげる。
「ん?」
その表情は、ケイルと同じくらい困惑していた。
「あなたもご存じなかったんですか?」
シルヴィアは小さく首を横に振る。
「……ママ、一度も話してくれなかった」
その言葉を聞いた職員たちは、ほぼ同時に額へ手を当てた。
「もう……」
「あの方たち、本当に昔のことを何も話していなかったんですね……」
その頃――
ホールの片隅では、利用客たちのひそひそ話が広がり始めていた。
「本当にラインマー様のご子息なのか?」
「こうして見ると……」
「目元なんて、そっくりだな」
「ああ」
「家紋も本物だ」
「俺はラインマー様を覚えてるよ」
「あの頃は、まだ子どもだったけど」
「父が言ってたんだ」
「あのお三方がいなかったら……」
「アストラヴェルは、とっくに消えていたかもしれないって」
ささやきは少しずつホール全体へ広がっていく。
もちろん、その声はケイルの耳にも届いていた。
だが、聞けば聞くほど、新たな疑問ばかりが頭の中に浮かんでくる。
お父様。
お母様。
それに、シルヴィアのお母様まで。
どうして三人とも、そこまで有名なんだ?
もし本当にそんな存在だったのなら――
どうして家では、あんなにも普通の暮らしを送っているんだ……?
ケイルはこめかみを軽く押さえた。
そして、ゆっくりと隣へ視線を向ける。
その先には――カエラがいた。
……
先ほどからずっと黙って立っていたカエラは、ぎこちない笑みを返す。
こめかみには、一筋の冷や汗が流れていた。
「えへへ……」
「若様……」
「その……ちゃんと説明はできます……」
ぴくり、とケイルのこめかみが引きつる。
そして――
アストラヴェルへ来て以来、一番大きな声を張り上げた。
「カエラァァァァァァァァァッ!!」
ホール中が再び静まり返る。
「どうして最初から教えてくれなかったんだぁぁぁっ!!」
カエラは反射的に背筋をぴんと伸ばした。
「も、申し訳ありません……」
「わ、私も……」
「まさか、ここまで大騒ぎになるなんて思っていなくて……」
ケイルは両手で周囲を指し示す。
「見てよ、みんなを!!」
「さっきなんて、危うく食べられそうだったんだから!!」
「頬までつねられたし!」
「まだ痛いんだよ!?」
「しかも、インボイスの支払いすら終わってないんだからね!!」
一瞬の静寂。
そして――
「ぶははははははっ!!」
再び財務局中が笑いに包まれた。
さっきまで取り乱していた女性職員たちでさえ、口元を押さえながら笑いをこらえている。
カエラは申し訳なさそうな表情のまま、小さく苦笑した。
「……申し訳ありません」
「本当に、ごめんなさい」
ケイルは大きく息を吐き、力なく肩を落とす。
「今日という日は……」
「……間違いなく、僕の人生で一番変な日だ」




