第七十三話
ケイルは階段の最上段で足を止めた。
その先には、一際壮麗な建物がそびえ立っていた。
外壁は白い大理石を基調とし、建物の角には青銅色の金属フレームが組み合わされている。白磁で覆われた円柱が高く掲げられた屋根を支え、その軒先や壁面の縁にはヴィクトリア様式の繊細な装飾が施されていたが、決して華美には映らない。
その建物には正面玄関が存在しなかった。
代わりに、まっすぐ奥へと続く開放的な通路が設けられており、訪れる者を自然と迎え入れながらも、アストラヴェルの金融を司る中心地にふさわしい威厳を漂わせている。
その通路の上には、白いエナメル加工が施された金属製の看板が掲げられていた。
財務局――南部支局A。
ケイルはわずかに顔を上げる。
「……ここが、例の財務局か」
そう呟いたあと、視線を右後方へ向けた。
広場の向こう、大きな噴水を中心とする行政区画の奥には、この建物に劣らぬ風格を持つもう一つの建物がそびえている。
行政庁舎。
その正面には貴族たちの馬車が何台も整然と並び、そのうちの一台がすぐに目を引いた。
白い車体に描かれた家紋。
見覚えのある紋章だった。
「それに、あそこが……行政庁舎か」
その視線を追って、シルヴィアも振り向く。
「あれは……」
目を少し見開いた。
「マシュフォード家の馬車じゃありませんか? 前に見たものとまったく同じ色です」
「ええ」
カエラは静かにうなずく。
「先に届いていた手紙の内容からしても、私たちの目的地はあちらです」
そう言ってからケイルへと視線を向けた。
「そして、あの手紙の送り主が誰なのかも、若様ならもうお分かりでしょう」
ケイルは小さく笑みを浮かべた。
「言いたいことは分かったよ」
マシュフォード家の馬車がすでに到着している以上、答えは考えるまでもない。
だが、すぐに意識を目の前の財務局へと戻した。
「まずは、こっちの用事を済ませよう」
「それから、向こうへ行けばいい」
そう言うと、ケイルはためらうことなく通路へ足を踏み入れた。
「かしこまりました、若様」
カエラもすぐに後を追う。
シルヴィアももう一度だけ行政庁舎を振り返ってから、二人に続いた。
開放された通路を抜けた瞬間、建物の中の空気は外とはまるで違っていた。
高い天井を持つ広々とした空間が奥まで続き、象牙色の陶磁で覆われた柱が左右に規則正しく並んでいる。柱には青銅色の金属装飾と控えめなヴィクトリア様式の彫刻があしらわれ、格式を感じさせながらも落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
メインホールにはクリスタルランプが整然と吊り下げられ、柱と柱の間には観葉植物が置かれている。堅苦しさを和らげつつも、この建物の品格を損なうことはなかった。
左右には長く伸びる窓口が並び、磨き上げられた大理石のカウンター越しでは、財務局の職員たちが次々と訪れる利用者の対応に追われている。
男女ともに黒と白を基調とした端正な制服を身にまとい、フォーマルなベストに薄手の手袋、小さく傾けた制帽が役職を示していた。
書類を素早く確認し、公印を押し、オーレル紙幣を数え、取引書類をまとめたファイルを利用者へ手渡す。
その一連の動きには無駄がなく、まるで長年積み重ねられた作法そのものだった。
足音。
控えめな話し声。
紙の上を滑るペン先の音。
書類に印章が押される乾いた音。
それらが重なり合い、忙しさの中にも整然とした空気を生み出している。
人の流れは途切れることがない。
大きな帳簿と取引書類の束を両腕いっぱいに抱えた商人。
旅の埃をまだ払いきれていない外套と軽装鎧のまま列に並ぶ冒険者たち。
腰に武器を提げる者、小さな木箱を抱える者、分厚い革袋を身につけた者――その姿もさまざまだ。
別の列では、狐耳を持つ獣人の女性が窓口係と話しながら数枚の書類を差し出している。その後ろには、身なりの良い年配の貴族と、金属で補強された革製のトランクを運ぶ従者が静かに順番を待っていた。
さらに、研究資料の入ったファイルを手にしたルーメン・ハイム魔法学院の学術関係者の姿も見える。その周囲には各種サービス業者や一般市民も混じり、それぞれの用件のために列を作っていた。
そこには特定の階層だけが集まっているわけではない。
まるでアストラヴェルで暮らすすべての人々が、最後にはこの場所へ行き着くかのようだった。
ケイルは無意識のうちに歩みを緩める。
想像していた以上に活気に満ちた光景が、目の前いっぱいに広がっていた。
確かにここは財務局だ。
だが、その賑わいは単なる金を管理する施設というより、街全体へ絶え間なく血を送り続ける心臓のようにも思えた。
視線を巡らせると、窓口の上には案内板が並んでいる。
両替。
口座登録。
取引確認。
請求書支払い。
いくつかの窓口には、真鍮製の仕切りを越えてなお長い列が続いていた。
「……すごい人ですね」
シルヴィアはゆっくりとその場で見回し、周囲の様子を目に焼き付ける。
人混みの中には獣人の姿も少なくなかった。
少し離れた場所では、猫耳の女性が小さな子どもを抱きながら手続きを終えている。腕の中の子どもは、時折小さな尻尾をぱたぱたと揺らしていた。
そのとき、シルヴィアの動きが止まる。
「……ん?」
視線がホールの一角へ向けられた。
そこには、灰色の毛並みに全身を覆われた大柄な人物が立っていた。
頭部は完全に狼そのもので、長い口吻と鋭い牙がはっきりと見える。それでも体つきは人間と変わらず、仕立ての良いスーツを着こなし、書類の入ったファイルを脇に抱えていた。
その近くでは、人型の黒猫が財務局の職員と気軽に言葉を交わしている。
周囲の誰一人として彼らを気に留める様子はない。
まるで、その姿こそが当たり前であるかのように。
シルヴィアは何度か瞬きをした。
「カエラ」
「はい?」
「さっきの獣人たちは、あなたみたいに人間の顔だったのに……」
「……どうしてあの人たちは、本当に動物そのものの姿をしているんですか?」
カエラはその視線の先を見やる。
「ああ、あの方たちですね」
「あの方たちは、セリアンという種族です」
「セリアン?」
シルヴィアは興味深そうに首をかしげた。
「はい。獣人とは違って、セリアンは動物としての特徴がずっと色濃く現れる種族なんです」
カエラはそこで一度言葉を切った。
虎の耳が小さくぴくりと動き、部屋の隅に立つセリアンへ視線を向ける。
「それでも、他の種族と共に社会の一員として暮らしています」
「じゃあ……」
シルヴィアも再びそのセリアンへ目を向けた。
「シルヴィア様は、これまで一度もご覧になったことがないのですか?」
シルヴィアは静かに首を振る。
「うん、ないよ」
「お母さんと商船で旅をしていた頃に会ったのは、人間とエルフ、それにカエラみたいな獣人ばかりだったから」
「ああいう、本当に動物みたいなセリアンは……」
「……見るのは初めて」
その答えに、カエラはさほど意外でもないというように穏やかにうなずいた。
「当然だと思います」
「すべての種族が、どの地域でも見られるわけではありませんから」
「それに……この世界には十二の種族が存在します」
シルヴィアは目を丸くする。
「そんなにいるの?」
「はい」
「今のように他種族と共に暮らしている者たちもいれば、滅多に姿を見せない種族もいます」
シルヴィアは感心したようにもう一度ホールを見渡した。
「アストラヴェルに来てから思うんだけど……」
「……この世界って、私が想像していたよりずっと広いんだね」
その一方で、ケイルは周囲の賑わいを眺め続けていた。
見れば見るほど、財務局を訪れる人々の素性が実にさまざまであることが分かる。
ここには、ほとんどあらゆる職業の人々が集まっていた。
「……むしろ気になるのは、あの人たちだな」
そう言って、窓口を離れていく冒険者たちへ軽く顎を向ける。
「冒険者の用事はギルドだけで済むものだと思っていた」
「私も」
シルヴィアもそちらへ視線を向けた。
「商人さんもすごく多いし」
「市場だけで全部済ませるのかと思ってた」
二人の素朴な疑問に、カエラは小さく微笑む。
「確かに、冒険者の仕事を管理しているのは冒険者ギルドです」
「ですが、高額報酬の支払いや資金の預かり、それに各種金融取引については、財務局を通して処理されます」
続いて、商人たちの列へ視線を移した。
「商人も同じです」
「売上金の管理、両替、資金の預け入れ、大口取引などは、ほとんどこちらで行われます」
「職人や学術関係者、商会、さらには一部の行政機関まで、それぞれ必要に応じて財務局を利用しています」
ケイルは改めて広いホールを見渡した。
「なるほど……」
「ここは、単なる両替所なんかじゃないんだな」
「はい」
カエラはうなずく。
「アストラヴェルの金融を支える中心と言ったほうが正しいでしょう」
「この街で暮らし、働き、あるいは商売をする以上、遅かれ早かれ誰もが財務局と関わることになります」
シルヴィアも納得したように両手を腰へ当ててうなずく。
「だから窓口がこんなに多いんだ」
「みんなが同じ場所に来るなら……」
「……列がなくならないのも当然だね」
まるでその言葉を裏づけるように、財務局の職員が顔を隠すほど大量のファイルを抱えながら足早に通り過ぎていく。
同時に、新たな利用者が建物へ入り、手続きを終えた者たちは公印の押された書類を手に窓口を後にしていた。
騒がしさはない。
混乱もない。
何百もの取引が同時に進んでいるにもかかわらず、すべてが秩序だった流れの中で動いている。
まるで、この建物を支える歯車はずっと昔から寸分の狂いもなく回り続けてきたかのようだった。
ケイルは**「請求書支払い」**と書かれた窓口へ向かう。
幸いにも、ちょうど列は途切れたばかりだった。
先ほどまで職員と話していた中年の男性は、書類を鞄へしまい直すと礼を述べ、そのまま三人の横を通り過ぎていく。
窓口には誰もいなくなった。
三人が近づくのに気づいた若い女性職員は、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「ようこそ、財務局・南部支局Aへ」
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
ケイルは軽くうなずく。
「請求書の支払いをお願いしたい」
「かしこまりました」
「どうぞこちらへ」
女性は机の上の書類を手際よく整える。
「お支払いになる請求書を拝見してもよろしいでしょうか?」
ケイルはコートの内ポケットから四枚のマーチャント・インボイスを取り出し、相手に見えるよう軽く掲げた。
女性は一目見ただけで内容を確認すると、変わらぬ笑みを浮かべる。
「承知いたしました」
「どうぞ、お近くへ」
ケイルが一歩踏み出そうとした、その瞬間――
くいっ。
不意に背中側から服の裾を引っ張られた。
足がぴたりと止まる。
「……?」
ケイルが振り返ると、裾をつまんでいたのはシルヴィアだった。
より正確に言えば――
シルヴィアは、ケイルの背中に隠れていた。
コートの裾を両手でぎゅっと握りしめ、その半身をすっかり彼の後ろへ隠している。
「……シルヴィア?」
ケイルはわずかに眉をひそめた。
「どうして服を引っ張るんだ?」
返事はない。
「……」
「それに、様子もおかしい」
「そんなに緊張してる君を見るのは珍しいな」
「どうした?」
それでもシルヴィアは黙ったままだった。
やがて、おずおずと左手の人差し指を持ち上げ、受付カウンターのほうをまっすぐ指さす。
ケイルはその先へ視線を向けた。
受付カウンターの隅、書類の山のすぐ横。
そこには、一匹の小さなドラゴンが丸くなってくつろいでいた。
大きさは成体のカラカルほどしかない。
黒紫色の鱗に覆われた身体には、首元から折り畳まれた翼へと続く金色の模様が走っている。長い尾の先が時折ゆらりと左右に揺れ、その姿は眠っているようでいて、完全に眠り込んでいるわけではないことを感じさせた。
瞼は閉じられたまま。
だが、穏やかな寝息だけが静かに響いている。
「……」
ケイルは数秒ほどその姿を眺めた。
「それで?」
再びシルヴィアへ顔を向ける。
「怖いのか?」
シルヴィアは勢いよく何度も頷いた。
あまりにも勢いよく首を振ったせいで、髪までふわりと揺れる。
ケイルは小さなドラゴンとシルヴィアを見比べた。
「ドラゴンだぞ」
「シルヴィア」
「前に、お母さんと一緒にリヴァイアサンには何度も会ったことがあるって話してただろ?」
シルヴィアはこくりとうなずく。
「なのに……」
「……俺の拳より大きくもないドラゴンは怖いのか?」
その瞬間、シルヴィアの頬がぷくっと膨らんだ。
じとっとした視線がケイルへ突き刺さる。
それでも、コートを掴んだ両手だけは決して離そうとしなかった。
二人の様子を見守っていた受付の女性は、ようやく事情を察したようだった。
「ああ……」
くすりと笑みをこぼす。
「止まってしまった原因は、エクリプスだったんですね」
慣れた手つきでそっと手を伸ばし、小さなドラゴンの頭を優しく撫でる。
「ご安心ください」
「この子はいつもここにいるんですよ」
小さな角の間を猫でも撫でるように優しく指先で撫でていく。
「誰かに危害を加えることはありません」
「よほどちょっかいを出されたりしない限りは……」
「ほとんど寝てばかりですから」
その言葉に応えるように、ドラゴンの尻尾がゆっくりと揺れた。
目は閉じたまま。
そのままシルヴィアのほうへ顔だけをわずかに向ける。
ケイルは小さく息を吐いた。
「なるほどな……」
「でも、いつまでも俺の後ろに隠れていたら用事が終わらないぞ」
そう言うなり、迷いなく受付へ歩み寄る。
「……!」
シルヴィアは反射的にぎゅっと目を閉じた。
そして慌てて両手でケイルのコートを引っ張る。
(だめ)
(行かないで)
そんな必死な気持ちが、その小さな力いっぱいの動きから伝わってくる。
だが――
ケイルの足は少しも止まらなかった。
「あ、あ……」
声にならない声を漏らしながら、シルヴィアはコートを掴んだまま数歩引きずられていく。
それでも、その手だけは頑として離れない。
隣を歩くカエラはその様子を一瞥しただけで、何事もないように歩き続けていた。
その光景に、受付の女性は困ったように左頬をぽりぽりとかき、小さく笑う。
「えへへ……」
「どうやら私の説明では、あまり安心していただけなかったみたいですね」
ケイルは受付の前で足を止め、背中に隠れたままのシルヴィアをちらりと振り返った。
「気にしないでください」
「こいつは……」
「……鱗のある生き物とは、ちょっと複雑な縁があるんです」
受付の女性は苦笑を浮かべる。
「いえ、たぶんそういう問題では――」
最後まで言い終えるより早く――
ぎゅっ。
「――っ!」
左の脇腹に鋭い痛みが走った。
反射的に、その場所を押さえる。
「いたたたた……」
振り向くまでもない。
犯人はもちろん――
シルヴィアだった。
頬をぷくっと膨らませ、いかにも不満そうな目で睨んでいる。
それでも、ケイルのコートだけはしっかりと掴んだままだ。
ケイルは脇腹をさすりながら苦笑する。
「俺は事実を言っただけなんだけどな」
シルヴィアの視線は、ますます鋭くなった。
もしあのドラゴンさえいなければ――
次のつねりが飛んできていたのは間違いなかった。
そのとき――
先ほどまでゆったりと揺れていたドラゴンの尻尾が、不意にぴたりと止まる。
その瞬間、空気がわずかに静まり返ったような気がした。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。
現れたのは、一対の紫色の瞳。
静かで。
冷たく。
そこには感情らしいものが一切浮かんでいなかった。
ドラゴンは丸くなっていた体をゆっくりと起こし、そのまま静かに立ち上がる。
翼は変わらず背中に美しく畳まれたまま。
黒紫色の鱗が、頭上のクリスタルランプの光を鈍く映し返した。
唸り声はない。
咆哮もない。
威嚇する素振りすら見せない。
それでも、ただ立ち上がったというだけで、受付一帯はドラゴンという存在が放つ圧倒的な威厳に包まれていた。
先ほどまで脇腹をさすっていたケイルも、思わず手を止める。
視線が交わる。
「……」
「……」
財務局へ入ってから初めて――
ケイルは言葉を失った。
その背後では、シルヴィアが硬直している。
顔色はみるみる青ざめ、コートを掴む両手にはさらに力がこもった。
受付の女性は肩の力を少し抜く。
「あら……」
「起きてしまったみたいですね」
慣れた手つきで、もう一度ドラゴンの首筋を優しく撫でる。
「エクリプス」
「何もありませんよ」
エクリプスはなおも数秒間、ケイルをじっと見つめていた。
やがて――
その視線は、ケイルの後ろへ身を隠すシルヴィアへ移る。
「……っ」
シルヴィアは反射的に顔の半分を隠した。
背中から覗く大きな瞳だけが、おそるおそるエクリプスを見つめ返している。
静寂がしばらく続いた。
そして――
エクリプスは短く息を吐くと、
ゆっくりと目を閉じた。
まるで興味を失ってしまったかのように。
受付の女性は小さく微笑む。
「ほら、申し上げたでしょう?」
「この子は誰かを襲ったりしません」
「安心してください」
ケイルは静かにうなずいた。
「どうやら……」
「起こされたことに少し不機嫌だっただけみたいだな」
しかし、シルヴィアは依然として動こうとしない。
ケイルのコートを握る手も、まったく緩む気配がなかった。
ケイルは肩越しに振り返る。
「……シルヴィア」
返事はない。
「もう服を放してもいいぞ」
シルヴィアはぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「まだ」
ケイルは額に手を当て、こめかみを軽く押さえる。
「……どうやら、この場で一番厄介なのはドラゴンじゃないな」
「君のほうだった」
その一言で――
受付の女性は、とうとう堪えきれずに吹き出した。




