第七十二話
会話が終わって間もなく、店の奥から足音が聞こえてきた。
店主が両手に分厚い本を二冊抱えて戻ってくる。表紙は深い赤色をしており、四隅は長い年月を物語るように色褪せていた。
だが、ケイルのもとへ向かう前に、店主はまずその二冊を軽く叩く。
ぱん、ぱん。
たちまち細かな埃がふわりと舞い上がった。
もう一度同じように叩くと、表紙に積もっていた埃が少しずつ落ちていく。外から差し込む陽光が、その舞い散る埃をきらきらと照らし出していた。
その様子に、ケイルもカエラもシルヴィア・ローゼンタイドも、そしてエルフの少女までもが自然と視線を向ける。
ケイルは二冊の本をしばらく見つめると、苦笑を浮かべた。
「どうやら……本当に長い間、誰にも手に取られていなかったみたいですね」
その呟きを聞き、店主の手がぴたりと止まる。
少しだけ気まずそうな表情を浮かべながら、申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません……」
「そう言われると、なんだかこちらまで申し訳ない気持ちになってしまいますね」
店主は小さく笑いながら、なおも本を軽く叩き続ける。
「正直なところ、これを探しに来るお客様がまだいるなんて思ってもいませんでした」
「少々お待ちください」
「きれいにしてからお渡ししますね」
そう言うと、レジのそばに掛けてあった布を手に取り、表紙を丁寧に拭き始めた。残っていた埃もすっかり取り除かれ、二冊は見違えるほどきれいになる。
その間も、『The Lost Echoes』を抱えたままのエルフの少女は、不思議そうな目でケイルを見つめていた。
「いったい、どんな本を探しているの?」
視線を向け返し、ケイルは答える。
「外縁地区に関する歴史書と、魔法について書かれた本です」
少女は何度かぱちぱちと瞬きをした。
「えっ?」
「そういう本って、もう残ってないものだと思ってた」
その言葉に、ケイルはわずかに目を見開く。
「残っていない……?」
詳しく尋ねようとした、そのとき。
ちょうど店主が本を拭き終えた。
「はい、お待たせしました」
店主は歩み寄ると、二冊の本をそっと差し出す。
「幸い、状態はまだかなり良いですよ」
「ありがとうございます」
ケイルは慎重に受け取り、まず右手の一冊へ視線を落とした。
History of the Outer Regions.
「……『外縁地区の歴史』か」
続いて、もう一冊へ目を移す。
Magic and Lumenaris.
「……『魔法と……ルメナリス』?」
ケイルはわずかに眉を上げた。
「聞き覚えのない言葉ですね」
小さく呟きながら、その題名を見つめ続ける。
ひとまず二冊を腕に重ねると、『Magic and Lumenaris』を近くの棚へ置き、『History of the Outer Regions』を開いた。
すぐに内容を読み始めるわけではない。
紙や製本の状態を確かめるように、指先で何ページかを素早くめくっていく。
ぱらっ。
ぱらっ。
ぱらっ。
どのページもきれいに綴じられていた。
破れもなければ、湿気で傷んだ跡もない。
文字も挿絵も、はっきりと読み取れる状態だった。
「……状態はいいですね」
小さく頷き、口元を緩める。
「表紙に埃が積もっていただけみたいです」
店主はほっとしたように微笑んだ。
「それならよかったです」
「ずっと乾燥した棚で保管していましたから」
「ただ……あまりにも長い間、誰も手に取ることがなかっただけなんです」
ケイルは歴史書を閉じると、『Magic and Lumenaris』を手に取った。
今度も同じように状態を確かめていく。
ぱらっ。
ぱらっ。
ぱらっ。
結果はほとんど変わらない。
製本はしっかりしており、紙も目立った傷みはなく、十分に読める状態だった。
「こちらも問題ありませんね」
「十分読むことができます」
丁寧に本を閉じると、二冊を胸元へ抱える。
その瞬間、不意にエアリンの顔が脳裏に浮かんだ。
別れる前、彼女は贈り物に本が欲しいとわざわざ頼んでいた。
そのときは、どうしてそんな質素な贈り物を望むのだろうと少し不思議に思ったものだ。
けれど今なら分かる気がする。
手にしたのは、誰にも忘れ去られかけていた二冊の本。
(気に入ってくれるといいな)
(古い本ではあるけれど、その中に眠る価値は、見た目以上かもしれない)
確認を終えたケイルは顔を上げ、店主へ視線を向けた。
「では――」
「この二冊、おいくらですか?」
店主は穏やかに微笑んだ。
「この二冊は、私のところに残っている最後の写本ですからね」
「だからといって、あまり高い値段をつけるのも違う気がするんです」
店主はケイルの腕に抱えられた二冊の本へ目を向けた。
「ご覧の通り、状態もこのくらいですし」
「長い間ずっと棚に置かれたままで、ほとんど誰にも手に取られることがありませんでしたから」
そう言って再びケイルへ視線を戻す。
「一冊二十オーレルです」
「合わせて四十オーレルになります」
ケイルは静かに頷いた。
「妥当な金額ですね」
十分に納得できる価格だった。
むしろ、予想していたよりも安いくらいだ。
それに、先ほどまで立ち寄っていた店で発行したマーチャント・インボイスの支払いもまだ残っている。
それらを含めても、出費は見積もっていた範囲に収まりそうだった。
「では……」
「二冊ともいただきます」
「ありがとうございます」
店主はにこやかに頷く。
だが、本を包もうとしたところで、ケイルが再び口を開いた。
「ただ……」
「今はその場で支払うことができません」
店主は少しだけ首をかしげる。
「アストラヴェルに来たばかりなので」
「まだ紙幣のオーレルを持っていないんです」
「外縁地区の金貨なら持っていますが」
そう言って、ケイルは小さく微笑んだ。
「もし可能でしたら、マーチャント・インボイスでお願いしたいのですが」
「ああ……」
「なるほど、そういうことでしたか」
店主は何かに気づいたように小さく頷く。
「そういえば……」
「あなたのお顔を見るのは初めてでしたね」
「本当にこちらへ来たばかりなんですね」
「でしたら問題ありません」
「外から来られた方は、たいてい皆さん同じようになさいますから」
そう言うとレジへ戻り、引き出しから一枚のマーチャント・インボイス用紙を取り出した。ペンを手にして再びケイルの前へ戻る。
「それでは――」
「宛名はどなたのお名前でお作りしますか?」
「ケイル・ラインマーです」
「……ラインマー?」
店主のペン先がぴたりと止まる。
一瞬の静寂のあと、小さな笑みが口元に浮かび、くすりと笑い声を漏らした。
「ふふ……」
「どこか聞き覚えのある фам…」
言いかけた言葉を飲み込み、そのまま何事もなかったようにケイルの名前を丁寧に記入していく。
続けて必要事項を書き終えると、顔を上げた。
「はい、これで大丈夫です」
「お支払いが財務局で確認できましたら、この本はどちらへお届けいたしましょうか?」
ケイルは少し考えてから答える。
「南部中央倉庫のロジスティクス・ネストまでお願いします」
「かしこまりました」
店主は届け先を書き込み、まだ乾ききっていないインクへ軽く息を吹きかけてからペンを置いた。
そして、完成したマーチャント・インボイスをケイルへ差し出す。
「これですべて完了です」
「このインボイスのお支払いが済み次第、本の発送手続きを進めさせていただきます」
ケイルはインボイスを受け取ると、それまで抱えていた二冊の本を店主へ返した。
「ありがとうございます」
店主は穏やかに微笑みながら本を受け取り、レジの上へそっと置く。
その直後、それまで『The Lost Echoes』を抱えていたエルフの少女がレジへ歩み寄った。
「ミレルさん」
店主はすぐに振り向く。
「あら?」
その表情はたちまち柔らかな笑みに変わった。
「ああ、セレニー」
「本当に今日来てくれたのね」
セレニーは静かに頷く。
「もちろんです」
「今日はこの本を買うために来たんですから」
その返事を聞き、ミレルはくすりと笑った。
「やっぱりそうだったのね」
そう言って、セレニーの腕の中にある小説へ目を向ける。
「今日は運が良かったわよ」
「それがうちに残っていた最後の一冊だったの」
「ここ最近、この本を探しに来る人が本当に多くてね」
「あと少し遅かったら……」
「きっと手ぶらで帰ることになっていたわ」
セレニーは安堵したように息をつく。
「よかった……」
「今日来て本当に正解でした」
先ほどまで張り詰めていた表情が、ゆっくりと和らいでいく。
それを見たミレルも優しく微笑んだ。
「ずっと楽しみに待ってくれていた人の手に渡って、私も嬉しいわ」
セレニーは小さく微笑み返し、本を抱く腕にほんの少し力を込めた。
そのやり取りを静かに見守っていたケイルが、ふと口を開く。
「お二人は、以前からお知り合いだったんですか?」
「ええ」
ミレルは迷いなく頷いた。
「もう偶然なんて言えませんね」
「セレニーさんは、本を探しに来るたびによくこの店へ立ち寄ってくださるんですよ」
そう言われると、セレニーは少し照れくさそうに笑った。
「えへへ……」
「確かによく来ています」
ケイルは片手を腰に添える。
「なるほど……」
「それで納得しました」
「お二人とも、すっかり常連客と店主という感じですね」
その言葉に、ミレルはくすりと笑った。
「そう言われれば、そうかもしれませんね」
「面白そうな新作小説が入荷するたびに、ほとんど毎回来てくださいますから」
セレニーは困ったように小さく笑うだけで、何と返せばいいのか分からない様子だった。
やがて再びレジの向こうにいるミレルへ視線を向ける。
「それじゃあ……」
「『The Lost Echoes』はいくらですか、ミレルさん?」
ミレルは少し考えてから答えた。
「最後の一冊ですし……」
「……それに、お買い上げいただくのがセレニーさんですから……」
「百四十オーレルで結構ですよ」
セレニーは少し目を丸くする。
「本当にいいんですか?」
「もっと高かったはずですけど……」
ミレルは穏やかに頷いた。
「ええ、もちろん」
「ほかの在庫はもう全部売れてしまいましたし」
「少しくらいお安くしても構いませんから」
一拍置いて、柔らかな口調で続ける。
「それに……」
「人に親切にしたからといって、損をするとは限りませんもの」
セレニーはしばらく彼女を見つめ、それから静かに頷いた。
「……そうなんですね」
「ありがとうございます」
そう言うと、小さな鞄へ手を入れ、オーレル紙幣を何枚か取り出して両手でミレルへ差し出した。
「どうぞ」
ミレルは頷きながら受け取る。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、お買い上げありがとうございます」
セレニーは再び『The Lost Echoes』を胸に抱き寄せた。
「すみません、そろそろ失礼します」
「今日はまだ済ませないといけない用事が残っているので」
「そうですか……」
ミレルは理解を示すように頷く。
「お気をつけて」
セレニーは小さく頭を下げた。
「それでは、また」
そうして踵を返し、書店をあとにする。
プロムナードの歩道へ出ると、その足取りは少しずつ速くなっていった。
だが、本当に遠ざかる直前、不意に振り返る。
視線がケイルと重なった。
柔らかな笑みが再びその顔に浮かぶ。
「本を譲ってくださって、ありがとうございました」
「またお会いしましょう」
ケイルも小さく頷き返した。
「また会いましょう」
セレニーは軽く手を振ると、小走りで人混みの中へ駆けていき、その姿はやがて行き交う人々の中へ溶け込むように見えなくなった。
ミレルはそこでようやく、受け取った紙幣へ目を落とす。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
「……あら?」
わずかに眉を上げる。
「これ……」
「二百オーレルあるじゃない」
ミレルは小さく息をつき、困ったように微笑みながら首を横に振った。
「あの子ったら……」
「百四十オーレルでいいって言ったのに」
「値引きすると、いつもこうして何とかして多めに払おうとするのよね……」
視線は店の外へ向く。
そこにはもう、セレニーの姿はなかった。
「本当に昔から変わらないわ」
隣に立つケイルも同じ方向を見つめる。
やがて、口元に穏やかな笑みが浮かんだ。
「きっと、それが彼女なりのお礼なんでしょう」
ミレルが振り向く。
ケイルは落ち着いた口調で続けた。
「心から善意を向ける人は、きっと同じように心の温かい人と巡り会えるものです」
「これはきっと……」
「ミレルさんが親切にしてきたことへの、ご褒美なんですよ」
ミレルはしばらく黙っていた。
手元の紙幣へもう一度目を落とし、それからゆっくりと温かな笑みを浮かべる。
「……そうかもしれませんね」
「ありがたく受け取ることにします」
そう言って、ケイルへ小さく頷いた。
「ありがとうございます」
ケイルも微笑み返す。
「どういたしまして」
そんな穏やかなやり取りがひと段落した頃、それまで本棚の間を見て回っていた二人が、ようやくケイルたちのもとへ戻ってきた。
「二人とも、見終わった?」
カエラは軽く頷いた。
「うん」
「ほかに気になるものは見つからなかったわ」
隣では、シルヴィア・ローゼンタイドがまだ店の外へ視線を向けている。
セレニーの姿はすでに遠く小さくなっていたが、それでも胸に本をしっかり抱えたまま、プロムナードを駆けていく様子がかすかに見えていた。
「本当に忙しそうな子ね」
シルヴィアが静かに呟く。
「それでも、一冊の本を買うためだけに時間を作って来たなんて」
ケイルも同じ方向へ目を向けた。
「ええ」
「きっと、あの本は彼女にとってそれだけ大切なものだったんでしょう」
穏やかな笑みが口元に浮かぶ。
「時々思うんです」
「忙しい毎日の中だからこそ、ああいう小さな楽しみのために時間を作りたくなることってあるんですよね」
その言葉は、ごく自然に口をついて出た。
なぜか、前世の自分を思い出したからだ。
終わりの見えない忙しさに追われる日々の合間でも、蓮司はずっと楽しみにしていた新刊を買うため、本屋へ立ち寄ることが何度かあった。
どれほど疲れていても、新しい一冊を抱えて帰る足取りだけは、不思議なくらい軽かった。
その懐かしい記憶も、一瞬で胸をよぎっただけだった。
ケイルは静かに意識を現在へ戻す。
「さて」
「そろそろ行きましょう」
受け取ったばかりのマーチャント・インボイスを軽く持ち上げる。
「今日はまだ財務局で支払いを済ませないといけませんし」
「そのあとには……」
「行政庁舎にも寄る予定です」
シルヴィアは小さく頷き、ようやく今日の本来の目的を思い出したように微笑む。
「そうだったわね」
「今日のお出かけ、まだ終わりじゃなかったわ」
ケイルは小さく笑った。
「ええ。まだ少し用事が残っています」
「全部終われば、ようやく落ち着いて帰れますね」
「それじゃあ、行きましょうか」
三人は書店をあとにした。
本棚の並ぶ通路を通り過ぎる際、カエラは足を止めることなくミレルへ小さく会釈を送る。
ミレルも温かな笑みでそれに応えた。
言葉は交わさない。
それだけで十分だった。
三人は再び、夕暮れの光に包まれ始めたプロムナードを歩き出す。
行き交う人々の話し声。
荷車の車輪が軋む音。
商品を運び込む商人たちの威勢のいい声。
街の活気は、変わらず辺りを満たしていた。
やがて商業地区を抜けると、周囲の景色は少しずつ様変わりしていく。
壮麗な石造りの建物が立ち並び、アストラヴェルの行政機関が集まる区域へと入っていった。
木々の合間や、一つ、また一つと灯り始めた街灯の向こうには、広々とした区画が姿を現す。
そこには、堂々たる姿で建つグランド・オーレル財務局支部と行政庁舎があった。
次なる目的地は、あそこだ。
黄金色へと染まりゆくアストラヴェルの夕空の下。
なおも賑わいを見せる街の鼓動に溶け込むように、三人は次の用件が待つ場所へ向かって歩みを進めていった。




