第七十一話
ケイルは再び本棚の列の中へと足を踏み入れた。
ときおり指先で本の背表紙をなぞるものの、どれ一冊として手に取ることはない。
「これだけジャンルが揃ってるなら……」
「見て回るだけで半日くらい潰せそうだな」
視線を棚から棚へと滑らせていると、一冊だけ他とはどこか雰囲気の異なる本が目に留まった。
深い紫色の装丁。
決して派手ではないが、表紙の四隅を彩る銀細工が、周囲の本とは一線を画す上品な存在感を放っている。
ケイルはゆっくりとその本を引き抜いた。
『Void Frame』
「なかなか惹かれるタイトルだな」
表紙を開くと、最初のページにはわずかな導入文だけが記されていた。
己の存在すら見失った一人の魔族が、失われたアイデンティティを取り戻すための旅へと歩み出す。
《Void Frame》を巡って争い続ける世界で、その力の本質を真に理解する者は誰一人として存在しない。
ある者はそれを祝福と呼び――
またある者は呪いだと語る。
そして、自分自身すら知らない者にとって、《Void Frame》とは、すべての始まりに過ぎないのかもしれない。
「……」
しばらく読み進める。
次のページをめくると、そこには先ほどとは打って変わって長い文章が並び始めていた。
ケイルは静かに本を閉じる。
「謎だらけだな」
「でも、今読むべきじゃないか」
読み始めれば、最初の数章だけで一、二時間は平気で過ぎてしまう。
そもそも今日は小説を読みに来たわけではない。
「また今度にしよう」
そう呟き、本を元の場所へと戻した。
再び視線を巡らせると、隣の棚にも興味を引かれるタイトルがいくつも並んでいる。
Aspirants of the Northern Sky.
The Clockwork Alchemist.
When the Last Dragon Smiled.
The Librarian of Hollow City.
Songs Beyond the Frozen Sea.
「……」
「どれもなかなかセンスのあるタイトルだ」
少し離れた場所には、古びた塔の頂に一羽のカラスが止まるイラストをあしらった、黒い表紙の小説まで置かれていた。
もっとも、タイトルを一瞥しただけで、そのまま視線を逸らしてしまう。
読書は好きだ。
だが――
前世の蓮司だった頃は、一冊の小説に夢中になりすぎて時間を忘れることが何度もあった。
放っておけば、その悪い癖がまた顔を出しかねない。
(集中しろ)
(今日はエアリンへの贈り物を探しに来たんだ)
(読みたい本を増やしに来たわけじゃない)
数歩進んだところで、ふと視線がすぐ隣の一冊で止まる。
不思議だった。
こんなによく目立つ場所にあったというのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
表紙は深紅。
白い亀裂のような紋様が全体に走り、その上を黄金の線が、ゆっくりと崩れ落ちていく王冠を思わせる意匠として描き出している。
壮麗でありながら――
どこか言葉では表し難い滅びの気配を秘めたデザインだった。
(これは……)
視線を表紙のタイトルへと移す。
The Lost Echoes.
(どうしてだろう……)
気づけば、自然と手を伸ばいていた。
ほぼ同じ瞬間――
もう一つの手が、その本へ向かって伸びてくる。
指先が、そっと触れ合った。
「えっ?」
ケイルは反射的に手を止める。
隣へ目を向けると、そこには白い髪と澄んだエメラルドグリーンの瞳を持つエルフの少女が立っていた。
肩を越えて流れる長い白髪は丁寧に整えられ、片側には小さな葉の飾りが付いた白いカチューシャが添えられている。白いニットセーターに深緑のロングスカートという装いは飾り気こそ少ないものの、どこか気品を感じさせた。肩から下げた小さなバッグには、白いジャケットがふわりとかけられている。
互いの指先が触れたことに気づいた途端――
少女の頬がほんのりと赤く染まった。
長い耳が落ち着かなげにぴくりと揺れ、一度だけ申し訳なさそうに伏せられたあと、ゆっくりと元の位置へ戻る。
視線も慌てて横へ逸らし、ケイルの顔をまともに見ることができないようだった。
「ご、ごめんなさい……」
小さく控えめな声。
「わ、私がもっと気をつけるべきでした」
そう言って、すぐに手を引っ込める。
「その本は……どうぞ」
「お取りください」
ケイルは片眉を上げた。
本棚の本と、目の前のエルフの少女へ交互に視線を向ける。
立ち方。
何度も本へ向いてしまう視線。
そして、不安そうに指先を握りしめたり緩めたりする仕草。
それだけで、一つだけ確信できることがあった。
何も言わずに棚から『The Lost Echoes』を手に取る。
だが、自分の手元へ引き寄せるのではなく、そのまま少女へ差し出した。
「ほら」
「君が持っていくといい」
少女はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「……え?」
「この本が欲しかったんだろ?」
「俺は表紙が気になって、ちょっと見てみたかっただけだから」
「本当に買いたいなら、遠慮しなくていい」
「俺は君から取り上げるつもりなんてないから」
「……っ!」
エメラルドグリーンの瞳が大きく見開かれる。
頬に浮かんでいた恥じらいは、ゆっくりと驚きへと変わっていった。
「ほ、本当に……?」
思わず両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
さっきまで視線を逸らし続けていたその瞳が、少しずつケイルの目をまっすぐ見つめ返した。
隠しきれない小さな喜びが、その奥でそっと輝く。
「……本当に? この本を……私に?」
差し出されたままの本へ視線を落とし、続いてもう一度ケイルを見つめる。
それでも表情には、まだどこかためらいが残っていた。
ケイルは穏やかに微笑む。
「気にしなくていい」
「そんなに遠慮しなくても」
「受け取って」
エルフの少女は下唇をそっと噛んだ。
「で、でも……」
「さっき、その表紙が気になるって言ってましたよね?」
「だから、きっと読むはずだって?」
ケイルは小さく首を振る。
「いや、そういうわけじゃない」
「よく考えたら、今は小説を読んでる時間なんてないし」
周囲の本棚へ軽く目を向ける。
「今日は自分の本を買いに来たわけじゃないんだ」
「誰かへの贈り物を探しに来ただけだから」
「だから、この本を取り合う理由もない」
それでも少女は動かなかった。
両手を体の前で戸惑うように浮かせたまま、どうしていいのかわからない様子だ。
その姿を見て、ケイルは小さく息をついた。
「そういうことなら……」
半歩だけ距離を詰める。
そして少女の両手の上へ、そっと『The Lost Echoes』を載せた。
「ほら」
「これでもう遠慮しなくていい」
「……!」
少女は反射的に両手で本を受け止めた。
刷りたての装丁から伝わるかすかな温もりが、手のひらに心地よく残る。
「……ありがとうございます」
声は相変わらず控えめだった。
けれど、その響きは先ほどよりずっとしっかりとしていた。
本を胸の前で大切そうに抱きしめる。
その顔には、小さな笑みが浮かんでいた。
柔らかく。
飾り気のない、心からの笑顔。
安堵したように長い耳までぴくりと揺れ、その気持ちを素直に映し出している。
やがて少女は、もう一度ケイルを見上げた。
「……一つ、お聞きしてもいいですか?」
「もちろん」
「どうして……」
「どうして私が、この本を本当に欲しがっているってわかったんですか?」
ケイルはほとんど考えることもなく答えた。
「簡単だよ」
「答えは君自身が教えてくれてたから」
「えっ?」
ケイルは少女の肩に掛かった小さなショルダーバッグを指差す。
「バッグの中に、もう何冊か本が入ってる」
「つまり、読書が好きなんだろうなって思った」
「それに――」
「君は周りの本には目もくれず、俺と同じ本に真っすぐ手を伸ばした」
「だったら、最初から目当てはこの一冊だったんだろうって」
軽く肩をすくめる。
「それだけの話」
少女は何度か瞬きを繰り返した。
そして、ゆっくりと視線を落とす。
「……すごいです」
「ん?」
「観察力が」
「本当に鋭いんですね」
「まだ会ったばかりなのに」
ケイルは小さく笑った。
「たまたま目についただけだよ」
「そんな大したことじゃない」
あまりにも何気ない口調でそう返されたからこそ、少女はかえって感心してしまう。
彼女にとっては――
ほんの数秒相手を見ただけで、そこまで多くのことを読み取れる人など、そういるものではなかった。
一方のケイルにとって、それは特別なことでも何でもなかった。
腕を組みながら、何気なく問いかける。
「よかったら聞いてもいいか?」
「どうしてそんなにその本が欲しかったんだ?」
エルフの少女はゆっくりと視線を落とした。
胸に抱いた本へ目を向け、金色の箔で刻まれた題名を指先でそっとなぞる。
『The Lost Echoes』
「私……」
「この本が出るのを、何か月もずっと待っていたんです」
ケイルはわずかに眉を上げた。
「そんなに?」
少女はこくりとうなずく。
「最初はただの噂でした」
「そのあと、作者が本当に原稿を書き上げているらしいって話が流れてきて」
「でも、それからは……」
「何か月経っても、まったく続報がなくて」
「発売そのものが中止になったんじゃないかって、そう思っていました」
その顔に、また穏やかな笑みが浮かぶ。
「でも、ほんの数日前に、ようやく初版の販売が始まったって聞いたんです」
「その最初の入荷店舗の一つが……」
「……このお店でした」
そう言って、本をもう一度大事そうに抱き寄せる。
「だから、知らせを聞いてすぐに来ました」
ケイルは納得したようにうなずいた。
「なるほどな」
「それだけ待ち続けてたなら……」
「物語の内容も、ある程度は知ってるんじゃないのか?」
少女は控えめに微笑む。
「少しだけです」
「本当に、少しだけ」
「全部知っているわけではありません」
「以前、学院の図書館で、この作品について書かれた資料を読んだことがあるんです」
本の表紙の角を優しくなでる。
「でも、置いてあったのは資料だけで……」
「原作そのものではありませんでした」
「内容も物語の全部じゃなくて」
「興味深い部分だけが抜粋されていたんです」
「だからこそ……」
「実際の小説が、本当に私の読んだ内容と同じなのか気になって」
ケイルは軽く片手を上げる。
「つまり、あらすじみたいなものか?」
「そんな感じです」
少女は小さく笑った。
ケイルは彼女が抱える本へ目を向け、それから静かに目を閉じる。
「なるほど……」
「少なくとも、大まかな話は知ってるってことだな」
少女はしばらく黙り込んだ。
言葉を慎重に選ぶように、小さく息をつく。
「その資料が本当に正しかったのかは、私にもわかりません」
「物語のすべてを知っているのは、作者本人だけですから」
「でも……」
もう一度視線を落とし、表紙に記された題名を見つめる。
「もし資料の内容が本当なら……」
「この小説は、一人の王の物語なんです」
「王?」
少女は静かにうなずいた。
「国を治めている王ではありません」
「世界を征服しようとする王でもありません」
「――そうではなく」
「ずっと昔に姿を消した、一人の王です」
ケイルは口を挟まなかった。
ただ黙って、その先を促す。
「私が読んだ資料には、こう書かれていました」
「世界という物語が、その終幕へとたどり着き……」
「本来なら決して訪れるはずのなかった結末が、現実になろうとするとき――」
「その王は、再び姿を現す」
「……」
ケイルの表情がわずかに引き締まる。
「生まれ変わるってことか?」
「はい。だいたい、そんな感じです」
少女は小さく頷いた。
「でも……」
「その王が何者なのかを知る人は、ほとんどいません」
「どこから現れるのかも、誰も知らない」
「それどころか……」
「その資料には、多くの人がずっと前に死んだと思っているその王は、本当は今も生きているのかもしれない、と書かれていました」
夕暮れの風が静かに吹き抜け、本棚に整然と並ぶ本のページをさらりと揺らす。
少女は胸に抱えた小説の表紙を、もう一度そっと撫でた。
「その資料の中で……」
「一番印象に残っている一文があるんです」
そう言って顔を上げる。
エメラルドグリーンの瞳には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
穏やかで――
どこまでも深い眼差し。
「過去の最後の残響が消え去るとき――」
「王は再び歩み始める」
「歴史を書き換えるためではなく」
「決して訪れるはずのなかった結末へ、物語が辿り着かないようにするために」
「……」
ケイルは言葉を失った。
その一節は――
なぜだろう。
どこか奇妙な響きを持っていた。
意味がわからないからではない。
まるで、その短い言葉の奥に、もっと巨大な何かが隠されているような気がしたのだ。
「ずいぶん謎めいた話だな」
「はい」
少女はくすりと笑う。
「だからこそ気になるんです」
「あの資料も、その先は何も書かれていませんでした」
「本当に、あそこまでで終わっていて……」
「まるで――」
「……答えは自分で見つけてほしい、と言っているみたいでした」
ケイルは再び『The Lost Echoes』の表紙へ目を向ける。
その話を聞いただけでも――
確かに惹きつけられるものがある。
何か月も発売を待ち続ける人がいても、不思議ではなかった。
やがて視線を少女へと移す。
話を聞いて興味は湧いたものの、それ以上に、自分の判断は間違っていなかったという思いが強くなる。
この本は、一瞬表紙に惹かれただけの自分よりも。
ずっと前から心待ちにしていた彼女の手にあるほうが、きっとふさわしい。
「なるほど」
ケイルは穏やかに微笑んだ。
「本当に小説が好きなんだな」
少女は少し照れくさそうに頬を染める。
「はい」
「読むことは、昔から好きなんです」
「気になる小説があると……」
「最後まで読まないと気が済まなくて」
そう言って、本をもう一度大切そうに抱きしめた。
「それに、この作品だけは……」
「長い間待ち続けてきたので、簡単には手放せません」
その答えに、ケイルは静かに頷く。
「そうか」
「期待どおりの物語だといいな」
少女の口元に、柔らかな笑みが広がった。
「……私も、そう願っています」




