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第七十話

ケイルとカエラは、あと数歩で書店の前に整然と並ぶ木製の本棚へとたどり着こうとしていた。


午後のやわらかな陽射しに温められた木の香りと、古い紙の匂いが風に乗って漂う。建物のテラス沿いに設けられた展示台には、色とりどりの表紙をまとった本が所狭しと並べられていた。


その本棚のひとつの前で、先ほどから夢中になって本をめくっていたシルヴィア・ローゼンタイドが、不意に顔を上げる。


二人の姿を見つけた瞬間、その瞳がぱっと輝いた。


「えへへ」


何も言わないまま慌てて棚から一冊の本を取り出すと、誇らしげな笑みを浮かべながら頭上高く掲げる。


「ケイル! 見て!」


ケイルはその前で足を止め、本の表紙へと視線を落とした。


そこには、大きな文字でタイトルが記されている。


『Love Triangle』


一度だけ瞬きをする。


「……それで?」


シルヴィアも小首を傾げた。


「それで?」


「どういうつもりで、恋愛三角関係の本なんて見せてきたんだ?」


「えっ?」


シルヴィアの顔がたちまち困惑に染まる。


「れんあい……さんかくかんけい?」


少しだけ本を下ろし、表紙の題名を改めてじっと見つめた。


「……これって、どんなお話なの?」


ケイルは半眼になる。


「やっぱりな。」


「面白そうってだけで、中身も知らずに手に取ったんだろ。」


「うん。」


シルヴィアは悪びれる様子もなく、こくりとうなずいた。


あまりにも素直な返事に、説教を続ける気力がすっと抜けていく。


結局、こめかみを軽く押さえながらため息をついた。


「とにかく、そういう本はまだお前には早い。」


「え?」


「どうして?」


「まだ子供だからだ。」


するとシルヴィアはすぐに頬をふくらませた。


「ケイルだって子供じゃない。」


「わたしたち、どっちも七歳なのに。」


「そういう話じゃない。」


ケイルは小さく首を振る。


「そういうことを、まだ知る必要はないって意味だ。」


しかし、その言葉を聞いたシルヴィアの表情には、ますます好奇心が浮かんでいく。


「じゃあ、ケイルは恋愛三角関係って何か知ってるの?」


二人のやり取りを微笑ましそうに眺めていたカエラが、そこでようやく口を開いた。


「三人の人が、お互いの恋心に関わるような関係のことですよ、シルヴィアお嬢様。」


「例えば、一人の女の子を二人の男の子が好きになったり。」


「あるいは、その逆だったりですね。」


シルヴィアはぱちりと瞬きをする。


「好き同士?」


「たいていは、お互いに相手を取り合うことになります。」


カエラが穏やかな笑みを浮かべながら話すせいか、その説明もどこか柔らかく聞こえた。


「みんな、自分が選ばれたいと思っていますから。」


「へぇ……」


シルヴィアはもう一度、手にした本へ視線を落とす。


「じゃあ、この本ってケンカするお話なの?」


「まあ、そんなところだ。」


ケイルはうなずく。


「面白いこともある。」


「イライラすることもある。」


「読んでるほうまで頭が痛くなることだってある。」


「ふぅーん……」


シルヴィアは小さく声を漏らしながら首を傾げた。


「どうしてみんな、お友達のままでいられないの?」


そのあまりにも無垢な疑問に、カエラはくすりと笑う。


「もしそんなに簡単だったら、そういう本は売れないかもしれませんね。」


ケイルも同意するようにうなずいた。


「物語は、そういう衝突があるから先へ進むんだ。」


シルヴィアは再び何かを考え込むような表情になる。


「じゃあ……」


「好きになる人が二人じゃなかったら?」


カエラは人差し指を立てた。


「三人かもしれません。」


続けて二本目の指も立てる。


「五人かもしれません。」


さらに手のひらを大きく広げて、シルヴィアに見せた。


「十人だってありえますよ。」


シルヴィアは目を丸くした。


「そんなにたくさん?」


ケイルは口元をわずかにゆるめる。


「それでもまだ少ないほうだ。」


「物語によっては、主人公が何十人もの女の子に好かれることだってある。」


「百人なんて話もあるぞ。」


「ひゃ、百人!?」


シルヴィアは反射的に本を胸へぎゅっと抱き寄せた。


「なんでそんなに多いの?」


ケイルは肩をすくめる。


「さあな。」


「主人公がものすごく優秀なのかもしれないし。」


「あるいは、作者がそうしたかっただけかもしれない。」


カエラはわざと真面目な表情を作り、シルヴィアを見つめる。


「それとも――」


「いつかシルヴィアお嬢様を百人の男の人が好きになる、なんてこともあるかもしれませんよ。」


シルヴィアはぴたりと固まった。


「……ひゃ、百人!?」


「ええ。」


「どこへ行っても、みんなが後をついてきて。」


「毎日、誰が一番最初に話しかけるか競い合って。」


「花を持ってくる人もいれば。」


「贈り物を持ってくる人もいて。」


「少しでも近くに立とうとして押し合いになって。」


「そして全員が、『自分こそ一番ふさわしい』って言い続けるんです。」


カエラが話し終えるより早く、シルヴィアの想像はすでに暴走していた。


頭の中では、何十人もの男たちが四方八方から自分を取り囲んでいる。


『シルヴィア!』


『こっちを見て!』


『僕のほうがかっこいい!』


『僕のプレゼントのほうが素敵だ!』


『僕と一緒に来て!』


幾重にも重なる声は、やがて聞き分けられないほど入り混じる。


騒がしい。


落ち着かない。


一瞬たりとも静まる気配がない。


「わぁ……」


シルヴィアの顔はみるみる青ざめた。


次の瞬間には慌てて**『Love Triangle』**を元の棚へ戻す。


「やだ!」


「怖すぎるよ!」


その反応に、ケイルはつい吹き出してしまった。


「ぷっ……」


「はははっ……」


カエラも口元を手で隠しながら、くすくすと笑う。


シルヴィアは頬を膨らませ、不満そうに二人を見た。


「二人とも、わたしを怖がらせたかったんでしょ?」


「いいえ。」


カエラは落ち着いた様子で首を振る。


「ただのたとえ話です。」


「本当にそうなるとは限りません。」


「……もっとも、絶対にないとも言い切れませんけど。」


「それ、全然安心できない……」


シルヴィアは頬をぷくっと膨らませたまま、小さくぼやいた。


ケイルはまだ笑みを残したまま口を開く。


「恋人は、別にたくさんいる必要なんてない。」


「一人いれば、それで十分だ。」


「もちろん、もっと多くても悪いってわけじゃない。」


「大事なのは、関わる全員がお互いをちゃんと理解して、支え合えることだからな。」


とはいえ――


(蓮司だった頃に読んだ小説を思い返すと、現実はそんなに単純じゃないんだよな。)


(ハーレムって、紙の上では楽しそうに見える。)


(でも、主人公を好きになる相手が増えれば増えるほど、それに付きまとう問題も複雑になっていく。)


嫉妬。


すれ違い。


水面下での駆け引き。


言い争い。


中には恋愛がきっかけで、政治劇のような展開へ発展していく作品まであった。


しかも、そのたびに主人公は仲裁役を押しつけられる。


(……見るからに疲れそうだ。)


(そういう立ち回りが得意な性格じゃなくて、本当に助かった。)


笑い声が落ち着くと、その場は再び穏やかな空気に包まれた。


そのとき、不意に横から女性の声がかかる。


「もしよろしければ……」


「何かお探しの本でもございますか?」


「……!」


三人はそろって声のしたほうを振り向いた。


テラスの端にある簡素なレジカウンターの向こうでは、中年の女性が穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。先ほどまで話していた客は、いつの間にか帰ってしまっていたらしい。


ケイルは思わず姿勢を正す。


なぜだろう。


まるで他人の店で騒ぎすぎてしまい、店主に見つかった子供のような気分だった。


「す、すみません。騒がしくしてしまって。」


「いいえ、とんでもありません。」


女性は変わらぬ穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくり首を振る。


「皆さん、とても楽しそうにお話しされていましたから。」


「それに、本屋というのは、おしゃべりを楽しむのにもぴったりな場所ですし。」


その言葉に、ケイルの肩から力が抜けた。


「そうですか……」


小さくうなずく。


「実は、何冊か探している本があるんです。」


女性は優しく微笑む。


「どのような本でしょう?」


「この店に、外縁地区の歴史や魔法について書かれた本はありますか?」


女性は目をわずかに見開いた。


「まあ。」


「そのくらいの年齢のお子さんが、そういう本を探しに来るなんて珍しいですね。」


「僕が読むためじゃありません。」


ケイルは静かに首を振る。


「家の者に、贈り物として探してきてほしいと頼まれたんです。」


「そうでしたか……」


女性は微笑みを崩さなかったが、その眼差しには少しずつ別の色が宿っていく。


しばらくケイルを見つめると、聞き間違いではないかと確かめるように目を細めた。


「……」


「本当に、久しぶりですね……」


まるで独り言のように、小さくつぶやく。


ケイルは首を傾げた。


「何か、おかしいですか?」


女性は静かに首を横へ振る。


「いいえ、おかしいわけではありません。」


「ただ、そのような本を探す方が、本当に少なくなってしまったものですから。」


彼女の視線は店先に並ぶ本棚へと移り、何かを思い返すように細められる。


「多くのお客様がお求めになるのは、冒険小説や恋愛小説、料理本、それに仕事の手引き書などです。」


「そういった本のほうが、気軽に楽しめますからね。」


「それに比べて歴史書は……」


一度言葉を区切ってから、続けた。


「……特に外縁地区の歴史となると、たまに探しに来る方がいる程度です。」


「古い魔法書も同じですね。」


「今でも買ってくださる方はいらっしゃいますが、その数は片手で数えられるほどですよ。」


ケイルは小さく首を傾げた。


いつの間にか顎に添えていた指先で軽く考え込むようにしながら、女性の表情が変わった理由を探る。


「うーん……どうしてなんですか?」


女性は静かに息をついた。


「きっと、多くの方は、すぐに役立つものに興味を持たれるのでしょう。」


「歴史は難しいものだと思われがちですし。」


「昔の魔法理論も、もう時代遅れだと考えられて、少しずつ忘れられてしまっています。」


「今の時代では、そこに書かれている知識は役に立たないと思っている方も少なくありません。」


少し寂しそうに微笑む。


「けれど、よく考えてみれば……」


「今の私たちが理解している多くのことは、そうした積み重ねの上にあるんですけれどね。」


ケイルも彼女の視線を追い、本棚の並ぶ店先へと目を向けた。


「ということは……」


顎から手を離す。


「そういう本も、まだ置いてあるんですか?」


「あるとは思います。」


「ただ……」


女性はゆっくりと首を横に振った。


「記憶では、外の棚には並べていなかったはずです。」


「そういった本は店の奥にしまってあります。」


「長いこと、探しに来る方がいませんでしたから。」


「もしよろしければ、その間にほかの本をご覧になっていてください。少し探してまいります。」


ケイルはすぐに軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


「お手数をおかけしてすみません。」


「いえいえ。」


女性は先ほどよりもさらに柔らかな笑みを浮かべる。


「まだそういう本に興味を持ってくださる方がいると思うと、私もうれしいですから。」


そう言い残すと、彼女は店の奥へと姿を消した。


ケイルはその背中を見送り、扉の向こうへ消えていくまで目で追う。


(やっぱり、歴史書を探す人はもう少ないのか……)


(だからエアリンは、ああいう贈り物を頼んだんだな。)


本当に多くの人から忘れられ始めているのなら、その価値は見た目以上に大きいのかもしれない。


「待っている間に……」


カエラは近くの棚から一冊の本を抜き取った。


「私たちも少し見て回りませんか?」


シルヴィアはすぐに元気よくうなずく。


三人はそれぞれ、店先に並ぶ木製の本棚へと散っていった。


見て回れば回るほど、この書店の品揃えは想像以上だとケイルは実感する。


一番手前の棚には、表紙に魔物や騎士のイラストが描かれた冒険小説がずらりと並び、その隣には料理本、薬草図鑑、旅行記、詩集、さらには手芸の入門書まで揃っていた。


子供向けの初級魔法書や、さまざまな魔物を紹介した絵本だけを集めた棚まである。


「……ずいぶん充実してるな。」


ケイルは小さくつぶやく。


「小説だけじゃない。」


「ほとんどどんな本でも置いてありそうだ。」


気の向くままに何冊かの背表紙へ指を滑らせる。


簡素な装丁のものもあれば、


金の箔押しや、まるで一枚の絵画のように精巧なイラストで飾られたものもあった。


「これだけあると……」


「逆に選ぶのが難しいな。」


その頃、カエラは別の棚の前で足を止めていた。


小さな星模様が縁を彩る濃紺の表紙の本を手に取り、静かに題名を読む。


『How Can I Know You?』


「ふむ……」


一ページ目を開こうとした、そのとき。


「カエラ!」


弾んだ声がすぐ横から聞こえた。


新しく見つけた本を抱えたシルヴィアが、小走りで駆け寄ってくる。


「面白そうなのを見つけたよ!」


好奇心いっぱいの笑顔で、その本をカエラの胸元あたりまで持ち上げた。


真っ白な表紙。


中央には、眠っている赤ちゃんの輪郭を金色の細い線で描いたイラストが添えられている。


その上には、大きく題名が記されていた。


『How to Make a Baby』


カエラはその場で固まった。


力を抜いていた虎耳が、ぴんと反射的に立ち上がる。


じわりと頬が赤く染まっていった。


「……」


「……」


数秒が過ぎても、一言も言葉が出てこない。


ただ、その表紙を見つめたまま、頭の中が真っ白になったように動きを止めていた。


やがて――


「こほん。」


小さく咳払いをして、どうにか平静を取り戻そうとする。


「シルヴィアお嬢様。」


「その……」


「その本は、読まないほうがいいと思います。」


「え?」


シルヴィアは不思議そうに首を傾げた。


「どうして?」


「それは……」


カエラは短く息を吸う。


「子供が読むような本ではありませんから。」


「どうしてなの?」


「中身は……秘密です。」


「秘密?」


シルヴィアは本を顔の近くまで持ち上げ、不思議そうに眺めた。


「でも、ただの本だよ?」


カエラは手にしていた青い本を静かに閉じると、シルヴィアのもとへ歩み寄る。


その口元には、かすかな微笑み。


穏やかに閉じられた瞳。


けれど、なぜだろう。


シルヴィアの目には――


その瞬間、カエラを取り巻く空気が一変したように映った。


背後には黒い影がゆらりと立ち上り、濃い紫色の気配が静かに周囲へと広がっていく。


その圧迫感はあまりにも強く、シルヴィアは思わず背筋を震わせた。


「……カエラ?」


「どうしたの……?」


「何かあったの?」


カエラはゆっくりと瞼を開く。


「あの本は……」


「……とても過酷な手順が書かれている本なんです。」


「えっ?」


「読んだ人は、そこに書かれていることを最後まで全部やらなければいけません。」


「逆らうことも。」


「一つでも手順を飛ばすことも許されません。」


そこで一度だけ言葉を切る。


「もし失敗したら――」


無表情は少しも崩れない。


「……最初から全部やり直しです。」


「……!!」


「それに、私からすれば……」


「とても……」


「……とても大変です。」


シルヴィアはごくりと唾を飲み込んだ。


「そ、そんなに怖いの?」


カエラは静かにうなずく。


「だから、子供にはおすすめできません。」


その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアはくるりと踵を返した。


「じゃあ、やめる!」


稲妻のような速さで、**『How to Make a Baby』**を元あった場所へ差し戻す。


本は何事もなかったかのように、きちんと棚へ収まった。


そのまま数歩離れると、シルヴィアは口笛を吹く。


「ふぅ~♪」


「ふぅ~♪」


「本がいっぱいあるねぇ……」


できる限り自然な口調で。


まるで最初からその本に触れてなどいなかったかのように。


あまりにも見え透いた芝居に、カエラの眉がぴくりと動いた。


(どうしてこの子は、いつもこういう本ばかり見つけてしまうのでしょう……)


少しだけ考え込む。


(……まだ年齢には早すぎるものばかり。)


書店に入ってまだ数分。


最初は恋愛三角関係。


今度は赤ちゃんの作り方。


この棚には何百冊も本があるというのに、どうして真っ先にその二冊を見つけてしまうのだろう。


「……本を選ぶ趣味が不思議ですね。」


一方その頃、別の棚を見ていたケイルがようやくこちらを振り返る。


「どうかしたのか?」


「いえ。」


カエラはいつもの無表情に戻り、短く答えた。


「……少し誤解があっただけです。」


シルヴィアも慌てて何度もうなずく。


「うん!」


「今度は冒険のお話を探す!」


その返事を聞き、カエラはようやく胸をなで下ろした。


「そのほうが、ずっと安心ですね。」


一方のシルヴィアは、すでに次の本棚へ向かって小走りで駆けていく。


何があったのかまったく理解できていないケイルは、小さく首を振るだけだった。


そのまま再び目の前の本棚へ視線を戻し、木製の棚いっぱいに並ぶ何百冊もの本の中から、目的の一冊を探し始めた。

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