第六十九話
四人の黒いローブの人物が紡いでいた囁きが、少しずつ変化していく。
その詠唱は次第に速さを増し、重みを帯びていった。
淡く脈打つだけだった濃紫の光は、今や眩いほどの輝きを放ち始める。
彼らの足元に刻まれた魔法陣は回転を加速させ、周囲一帯を膨大な魔力の奔流で満たし、その余波だけで空気までも震わせていた。
カイデンは目を細める。
「儀式が……」
「……もうすぐ終わる」
その言葉が口をついた直後だった。
ロナンの体の下にある地面が、不意に姿を変える。
ひび割れたわけでもない。
崩れ落ちたわけでもない。
――溶けたのだ。
漆黒の泥が魔法陣の内側からじわりと滲み出し、冒険者の体の下でゆっくりと広がりながら水たまりのような黒い沼を形作っていく。
音は何一つしない。
爆発もない。
ただ、その黒い液体だけが、生き物のように静かに蠢いていた。
やがて――
一本の手が現れる。
墨を流し込んだような漆黒。
骨ばって細く、不気味なほど長く伸びた指。
その手が、ロナンの腕をがしりと掴んだ。
続いて二本目。
三本目。
四本目。
ほんの数秒のうちに――
数え切れないほどの黒い手が泥の中から次々と姿を現した。
それらはあらゆる方向からロナンへと伸びていく。
腕。
脚。
肩。
首。
血に染まった衣服までも、容赦なくその手に絡め取られていく。
「……なんだ、あれは……」
答える者はいない。
誰もがただ、目の前で起きる光景を見つめることしかできなかった。
ロナンの体はゆっくりと泥の中へ沈んでいく。
そして――
無数の手が一斉に引いた。
その瞬間、ロナンの体は漆黒の泥の奥へと引きずり込まれる。
抵抗はない。
まるでその肉体は、地の底で待ち続けていた何かへ捧げられる供物だったかのように。
数秒後――
ロナンの姿は完全に消え去った。
同時に黒い泥も跡形もなく消滅する。
そこに誰かがいた痕跡さえ、何一つ残さずに。
次の瞬間――
ゴゴゴゴゴォォォッ!!
地下空間全体が激しく震えた。
石壁が唸るように軋み、
天井から大量の砂埃が降り注ぐ。
峡谷の縁には細かな亀裂が次々と走っていった。
エレナはすぐに身を低くし、岩の通路へ体を寄せる。
ローワンも反射的に傍らの岩へ手をついて体勢を支えた。
一方で、カイデンだけは視線を下へ向けたまま微動だにしない。
「……成功したんだ」
リサンドラがかすかに呟く。
儀式は終わった。
四人の黒いローブの人物は、ほぼ同時に掲げていた手を下ろす。
眩く輝いていた魔法陣も、ゆっくりと光を失い、やがて完全に消えた。
誰一人として振り返ることはない。
間を置かず、四人は対岸の岩道へ向かって一斉に駆け出した。
そのまま儀式の正面にある通路へ飛び込み、瞬く間に姿を消していく。
「揺れがどんどん強くなってる……」
ローワンが小さく呟く。
だが、カイデンは動かなかった。
「構うな」
その視線はなおも四人の背中を追い続けている。
「まだ観察は終わっていない」
他の三人も、それ以上は動かなかった。
地鳴りはなお続いている。
それでも彼らの意識は、たった今現れた唯一の手がかりへと向けられていた。
四人の黒いローブの人物が完全に姿を消す、その寸前――
最後尾の一人が、不意に足を止めた。
通路へ背を向けたまま、
ゆっくりと片手を持ち上げる。
詠唱はない。
大仰な動作もない。
ただ、軽く一度だけ手を振った。
その瞬間――
ゴゴゴゴゴッ!!
岩と岩が擦れ合う轟音が地下空間いっぱいに響き渡る。
四人が通ったばかりの通路が突如として崩落した。
天井から巨大な岩塊が次々と落下し、
わずか数秒で――
通路の入口は完全に塞がれてしまう。
土煙が舞い上がり、視界を覆う。
向こう側へ続いていたはずの通路は、今や完全な行き止まりとなっていた。
まるで最初から、そこに道など存在しなかったかのように。
エレナは閉ざされた通路を見つめる。
「彼ら……」
「……道を塞いだのね」
「私たちを足止めするためじゃない」
リサンドラが間髪入れずに言葉を継ぐ。
その視線は、巨大な岩の山から一度も離れない。
「ここがあったこと自体を、隠すためよ」
カイデンは小さく頷いた。
「ということは……」
「……ここは奴らの最終目的地じゃない」
「ええ」
リサンドラは迷いなく答える。
「もしこの儀式そのものが目的だったなら……」
「……わざわざこの場所へ続く道を消す必要なんてないもの」
一瞬だけ言葉を切る。
それから、完全に塞がれた通路へと静かに目を向けた。
「つまり……」
「……彼らは誰にも、自分たちの足取りを追わせないようにしたのよ」
ローワンは静かに息を吐いた。
「つまり……」
「……あの通路の先には、まだ奴らが隠している何かがある」
「しかも、それはさっきの儀式よりも、さらに重要なものということだ」
誰一人として異論を口にする者はいなかった。
あの何気ない行動が持つ意味を、全員が理解していたからだ。
あの儀式は終着点ではない。
もっと大きな何かへ至るための、一つの過程にすぎなかったのだ。
カイデンは、向こう側の通路を隔てるように積み重なった岩塊を静かに見つめ続ける。
その表情に変化はない。
だが、その眼差しは先ほどまでよりも、はるかに鋭さを帯びていた。
「……俺たちは、奴らの計画のほんの一端を目にしたにすぎない」
それ以上、誰も口を開かなかった。
やがて地鳴りは少しずつ収まっていく。
その一方で、崩れ落ちた岩壁のさらに奥には――
また別の秘密が、静かに眠っている。
そして今はまだ――
アゼンティナム・レルムの深淵で、本当は何が目覚めようとしているのかを知る者は、一人としていなかった。
◇ ◇ ◇
一方その頃。
夕暮れの柔らかな陽光が降り注ぎ始めたアストラヴェルの空の下。
メイン・プロムナードは相変わらず多くの人々で賑わい、通りの両側に並ぶ店々のショーウィンドウは夕日に照らされて美しく輝いていた。行き交う人々の話し声に、ときおり遠くから聞こえてくる馬車の車輪の音が重なり合う。
ヘルトンの宝飾店を出てから、それほど時間は経っていない。
そんな賑わいの中――
ケイルは三枚のマーチャント・インボイスを手にしたまま歩いていた。
淡いクリーム色の紙は、風が吹くたびにかすかに揺れる。
その視線は、整然と並ぶ数字を一つひとつ追っていた。
一枚目。
ドドリト亭。
三百八十オーレル。
「……まだ許容範囲だな」
小さく呟く。
二枚目。
フォージウィンド・カトラリー。
鍛冶用品やナイフ、小型工具を扱う店だ。
二百オーレル。
ケイルは軽く頷いた。
「これも妥当な金額だ」
そして――
最後の一枚へと視線を移す。
一番下に記された金額を目にした瞬間、
自然と足取りまでゆっくりになった。
アウリエリス・ジュエリー・アトリエ
支払総額:一二〇〇オーレル
「……千二百か」
口元がぴくりと引きつる。
「はぁ……」
思わず片手で顔を覆った。
「改めて考えると……」
「……アステリア、本当に予想の斜め上を選んでくれたな」
長いため息が漏れる。
「まあ、あいつが悪いわけじゃない」
「プレゼントするって約束したのは俺だし」
「でも……」
もう一度、請求書の一番下に書かれた金額へ目を落とす。
「どうしていきなり一番高いものを選ぶんだよ……」
隣を歩くカエラは、小さく微笑んだ。
虎の耳がぴくりと小さく動く。
若様が誰のことをぼやいているのかなど、言われるまでもなく分かっていた。
その一方で――
反対側を歩いていたシルヴィアが、そっと近寄ってくる。
何も言わないまま少しだけ背伸びをし、ケイルが見つめ続けている請求書を覗き込もうとした。
「ふむ……」
シルヴィアは小首を傾げる。
「数字がいっぱい」
ケイルは反射的に請求書を少し高く持ち上げた。
「覗くな」
「見てるだけ」
「それを覗くって言うんだ」
「近くで見てるだけ」
「だから、それが覗いてるんだって」
シルヴィアは数回まばたきをすると、
「……そう」
と、いつもの調子で淡々と返した。
あまりにもあっさりした返事に、ケイルは言い返す気力を失ってしまう。
再び三枚の請求書へ視線を落とした。
「カエラへのプレゼントはシンプルだったのにな」
二枚目の請求書を持ち上げる。
「小さなナイフ」
「二百オーレルだけだ」
続いて一枚目。
「ドドリト亭の分も、まだ納得できる」
そして最後の請求書をもう一度掲げ、
「でも、これは……」
「……支払いのことを考えると、今からちょっと怖くなってきた」
カエラはそっと口元を押さえ、笑みをこらえる。
「若様」
「ん?」
「そのお言葉をアステリア様がお聞きになったら……」
「……少し悲しまれてしまうかもしれません」
ケイルは慌てて首を横に振った。
「そういう意味じゃないんだ」
「ちゃんと買うつもりだよ」
「約束したからな」
「ただ……」
もう一度、その金額へと目を落とす。
「……まさかここまで高いとは、本当に思ってなかった」
シルヴィアも再びインボイスへ視線を向ける。
そして一本の指を顎に添えた。
「うーん……」
「そういえば……」
「お母様も、とても高価な宝石をたくさん持ってた」
ケイルはすぐに振り向く。
「そこで急にお金持ち自慢を始めるなよ」
シルヴィアは首を傾げた。
「えぇ……?」
「もう家の財産を自慢するようになったのか?」
シルヴィアはぱちぱちと瞬きをする。
「え? あれはお母様の物だけど?」
「なんであなたが気にするの?」
ケイルは淡々と答えた。
「お前がお母様の娘だからだ」
シルヴィアは黙り込む。
「……」
数秒後、
「あ」
「それもそう」
小さく頷いた。
「だったら……」
「いつか全部、私の物になるかもしれない」
ケイルは無表情のまま彼女を見つめる。
一方のシルヴィアは、本気でその可能性を考えているようだった。
「そうね」
「今度、お母様に一つもらおう」
「うーん……」
「リボンの飾りにできそうなのがいいかも」
「それとも……」
「……髪飾りにするのも悪くない」
ケイルは黙ることにした。
もはや、どこから突っ込めばいいのかさえ分からない。
数歩歩いたところで、
再び手元の三枚のマーチャント・インボイスへ視線を落とす。
深く息を吐いた。
「……いっそ借金でもするか」
カエラがすぐに振り向く。
「若様?」
ケイルは顔を上げた。
「なあ、財務局って……」
「……借金とかできたりしないのか?」
「持ってきた金貨を両替しても足りなかったらさ」
マーチャント・インボイスは、トレジャリーで通貨を両替し、代金を支払った後に初めて商品を受け取ることができる。もっとも、その書類自体に融資の制度があるわけではない。
カエラは小さく微笑んだ。
虎の耳がぴくりと揺れる。
「できますよ」
ケイルの目がぱっと輝く。
「本当か?」
カエラは静かに頷いた。
「ええ、もちろんです」
「その代わり毎月――」
「……怖い顔をした借金取りの方々が、若様を訪ねて来られることになりますが」
その笑みは少しも崩れない。
数秒遅れて、ケイルはようやく気づいた。
「……からかったな?」
カエラは何も答えない。
だが、口元の笑みは先ほどよりも少しだけ深くなっていた。
ケイルの脳裏には、
なぜか毎月の初めになると、屈強な男たちがラインマー家の屋敷を訪ねてくる光景が浮かぶ。
「ケイル様――」
「今月のお支払いのお時間です」
強面の男たちが次々と現れ、
自分はやつれた顔で扉を開け、日に日に軽くなっていく金袋を差し出している――そんな姿まで想像してしまった。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
「人生って、案外大変なんだな……」
その一言で、カエラはついに堪えきれなくなった。
声こそ小さいものの、
くすりと零れた笑いだけで、三人の間に流れていた空気は再び和らいでいく。
それから間もなく――
「あっ!」
突然、シルヴィアの声がプロムナードの賑わいを突き抜けた。
目を輝かせながら片手を上げ、通りの脇を指差している。
「あそこ!」
ケイルとカエラも反射的にその指先を追った。
整然と並ぶヴィクトリア様式の建物の一角。
ほど近い場所に、木製の看板を掲げた一軒の書店が建っていた。
店先には本棚が並べられ、たくさんの本が入口の前まで所狭しと陳列されている。
店先では、何人かの客が本を手に取り、ページをめくりながら店主と楽しげに言葉を交わしていた。
「あそこ、本屋さん!」
シルヴィアはすぐにケイルのほうを振り向く。
「早く行こう!」
返事を待つことなく――
そのまま真っ先に駆け出した。
「お、おい――」
ケイルが手を伸ばいたときには、
すでにシルヴィアは人混みを軽やかにすり抜けていた。
「そんなに遠くまで走るなよ!」
後ろから声を張る。
シルヴィアは振り返ることもなく、ひらひらと手を振った。
「はーい!」
返事だけは元気よく返ってくる。
だが、その足が少しでも緩む気配はまったくなかった。
ケイルは呆れたように首を振る。
「……あいつ」
カエラも、もうすぐ店に着こうとしているシルヴィアへ目を向けた。
「シルヴィア様は、本当に本がお好きなのですね」
「いや、本が好きっていうより……」
ケイルは苦笑する。
三枚のインボイスを見て頭を抱えていた先ほどまでとは違い、その表情からはいつしか重苦しさが消えていた。
三枚の紙を丁寧に折り畳み、
コートの内ポケットへしまい込む。
「そういえば……」
ケイルは再びカエラへ視線を向けた。
「ちょっと忘れかけてたんだけど」
「エアリンが欲しいって言ってた本、何だったっけ?」
カエラは考える素振りもなく答える。
「歴史書の写本と」
「外縁地域に伝わる魔法について書かれた本です」
「ああ……」
ケイルは頷いた。
「そうだった」
以前交わした会話が自然と思い浮かぶ。
宝石や――
高価な品々よりも――
エアリンは昔から、本のように知識を得られるものへ興味を示すことが多かった。
アステリアが心の赴くままに選ぶのだとすれば、
エアリンはほとんどいつも、自分の知的好奇心に従って選ぶ。
「……よし」
ケイルは静かに息を吐いた。
「せめて、あのペンダントより高い本じゃありませんように」
カエラはくすりと笑う。
「それはさすがに難しいかと思います、若様」
「それなら助かる」
少なくとも――
財布も少しは安心して息をつけそうだった。
その頃には、
シルヴィアはすでに書店のショーウィンドウの前に立っていた。
何がそんなに目を引いたのか、
店の中を何度も指差しながら、その瞳はますます輝きを増している。
ケイルとカエラは一瞬だけ顔を見合わせると、
そのまま歩き出した。
夕暮れの賑わいに包まれたアストラヴェルのプロムナードへ溶け込むように、シルヴィアの後を追っていくのだった。




