第六十八話
四人は再び歩き始めた。
それ以降、意味のある会話はほとんど交わされなかった。
ローワンが展開する黄金のバリアは、なおも透明なドームとなって四人を包み込み、一歩進むたびにゆっくりと寄り添うように移動している。その表面ではリサンドラのレゾナンスが薄く巡り、時折漂ってくる赤い煙を形を失わせ、そのまま静かに霧散させていた。
足元で小石を踏む乾いた音だけが、ときおり暗い岩壁に反響して響く。
彼らが進む通路は、次第に異様な光景を見せ始めていた。
エレナが不意に足を止める。
通路の右側、岩壁にもたれかかるように、一人の人間が立っていた。
身体は原形を保っている。
だが皮膚は岩と見紛うほど白く変色し、生気は完全に失われていた。
傷はない。
血も流れていない。
虚ろな瞳だけが、その瞬間のまま凍りついている。まるで命そのものを一瞬で奪われたかのようだった。
「……また犠牲者か」
ローワンが低く呟く。
少し先には、別の遺体がうつ伏せに倒れていた。
さらに数メートル進んだ場所では、また一人が立ったまま動きを止めている。
最期の姿勢のまま息絶えたその姿は、遠目には人間というより石像のように見えた。
奥へ進めば進むほど、犠牲者の数は増えていく。
骨だけが散乱している者もいれば、肉体の形を保ったまま、皮膚だけが脆い白い石のように硬化している者もいた。
その通路は、いつしか巨大な墓所へと姿を変えていた。
「……報告より、ずっと数が多いな」
カイデンが低い声で言う。
エレナは静かに頷いた。
「もし全員がこれで命を落としたなら……」
「……抵抗する暇すらなかったってことね」
戦闘の痕跡はどこにも見当たらない。
魔法が炸裂した形跡も、モンスターが現れた痕跡もない。
残されているのは、ただ静寂と命を失った者たちだけだった。
リサンドラは通り過ぎる遺体を一体ずつ観察し続ける。
穏やかな視線が、一つの亡骸から次の亡骸へと静かに移っていった。
「全員、ほぼ同じ死の経過を辿っています」
「曝露時間が長くなるほど……」
「……レゾナンスは意識の深層へ侵食していく」
「そして最終的には、身体機能が完全に停止するのです」
ローワンは短く息を吐いた。
「……本当に、ぞっとする場所だな」
誰も否定しなかった。
四人は再び歩みを進める。
通路を奥へ進むにつれ、赤い煙は徐々に姿を見せなくなっていった。
やがて、完全に消え失せる。
リサンドラがわずかに顔を上げた。
「……レゾナンスが消えました」
ローワンもすぐに気づく。
「ああ。どうやら、そのようだな」
数秒ほどバリアを維持したまま、彼はカイデンへ視線を向けた。
「このまま進むか?」
カイデンは前方の通路を見据える。
「……進む」
しばらくすると、通路の先に淡い光が見え始めた。
魔法の光ではない。
開けた空間があることを示す光だった。
四人の足取りは自然と速まる。
走るほどではないが、出口までの距離を縮めるには十分だった。
彼らを包んでいた黄金のバリアは、ゆっくりと薄れていく。
光の欠片がふわりと舞い散り、やがて完全に消え去った。
そして四人は通路の出口へとたどり着く。
だが、その足はほぼ同時に止まった。
「……何だ、あれは」
眼前に広がっていたのは、想像を遥かに超える広大な地下空間だった。
彼らが通ってきた通路は、高所から突き出す石の通路となっており、その先には眼下へ広がる巨大な空間が見渡せる。
左右には底の見えない暗い奈落。
その中央には、円形に広がる広大な地面があった。
彼らの立つ石の通路は、そのまま対岸まで真っ直ぐ伸び、まるで別の通路同士を繋ぐ橋のようになっている。
だが、誰一人としてそこへ目を向けてはいなかった。
視線を奪っていたのは――巨大な円陣を囲むように立つ、四人の黒いローブ姿だった。
「……あの人たちは?」
エレナの声は囁きにも満たない。
四人は漆黒の長いローブを身にまとい、深く被ったフードが顔をほとんど隠している。
この距離では、素性も表情もまったく判別できない。
それぞれが東西南北を思わせる四方に立ち、
前方。
後方。
左。
右。
その足元では、巨大な魔法陣が禍々しい紫の光を放ちながら、ゆっくりと脈動していた。
見慣れない紋様が絶え間なく回転し、四つの魔法陣を結ぶ魔力の流れと同期している。
時折、四人は両手を掲げた。
唇が静かに動く。
祈りのようにも――
あるいは呪文のようにも聞こえる囁きが、
地下空間にかすかに響き渡っていた。
そして、その中心には――
一人の人間が仰向けに横たわっている。
黒く変色した血が、その下の地面を濡らしていた。
身体は微動だにしない。
リサンドラは思わず息を呑む。
「……誰かが儀式を行っている……」
「……こんなダンジョンの中で?」
ローワンは眉をひそめた。
「こんな話は聞いたこともないぞ」
カイデンは石の通路の縁に身を低くしたまま、黒いローブの四人から一瞬たりとも目を離さない。
「ここまで潜ってこられたってことは……」
「……最初からここが目的だったんだろう」
リサンドラはすぐには答えなかった。
その視線は、眼下で明滅する魔法陣の光をじっと追い続けている。
「それに、あの儀式は……」
「……始まったばかりではありません」
再び沈黙が四人を包んだ。
誰も軽々しく動くことはできない。
石の通路の縁に身を潜めながら、黒いローブの者たちが紡ぐ囁きはかすかに響き続け、中央では紫の魔力が低く唸るように脈動を繰り返していた。
エレナは円陣の中心に横たわる人物から目を離せない。
最初は輪郭しか見えなかった。
だが、紫の光が一際強く脈打った瞬間、その男の顔が一瞬だけ照らし出される。
「……」
エレナの瞳がわずかに見開かれた。
「待って……」
目を細め、今見えたものが見間違いではないか確かめるように、その人物をじっと見つめた。
「あれは……」
数秒の沈黙が流れる。
そして、エレナは息を呑んだ。
「あのときの冒険者……」
カイデンがすぐに振り向く。
「銀髪の女性と一緒にいた……」
エレナの声は先ほどよりもさらに小さくなっていた。
「ロナン」
カイデンもすぐに思い出す。
上層で一度だけ遭遇した、ランクA冒険者。
その後、謎の集団に属する銀髪の女性に連れ去られていった男だ。
まさか、こんな形で再び目にすることになるとは、誰一人として思ってもいなかった。
エレナの視線はゆっくりとロナンの身体へ落ちる。
冒険者の装束は乾いた血で赤黒く染まり、ところどころ大きく裂けていた。
魔法陣の中央で身動き一つせず横たわるその身体へ、四方から紫色の光が絶え間なく流れ込んでいる。
「どうして……」
その声は、ほとんど囁きだった。
「どうして、あの人があそこに……?」
誰も答えられなかった。
目の前で起きている出来事を、まだ誰も完全には理解できていない。
黒いローブの四人は、なおも儀式を続けている。
調査チームの存在に気づいた様子はまるでない。
エレナは唇を強く噛み締めた。
「……もし儀式が始まったばかりなら」
「……まだ間に合うかもしれない」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。
「エレナ」
カイデンの声は落ち着いていた。
だが、そのときにはもう彼女は立ち上がっていた。
「あの人たちを止めないと」
視線はロナンから離れない。
「まだ生きているかもしれない」
「少しでも遅れたら――」
言い終える前に、一つの手が腕を掴んだ。
反射的に振り返る。
カイデンだった。
彼の視線は依然として儀式の場へ向けられたままだ。
「よせ」
たった一言。
短く、平坦な声音。
それだけで、エレナの足は止まった。
「俺たちは、まだあいつらが何者なのかも知らない」
「どんな儀式を行っているのかも分かっていない」
エレナは眉を寄せる。
「だからこそ、今すぐ動くべきなんじゃないの?」
声を荒らげないよう抑えてはいるものの、その焦りは隠しきれなかった。
「もし本当に誰かを生け贄にしているなら……」
「黙って見ているわけにはいかないでしょう」
カイデンは視線を逸らさない。
「もし、それが罠だったら?」
「俺たちの誰かが飛び出すのを待っているとしたら?」
エレナは言葉を失う。
それでも、その瞳から反発の色は消えなかった。
「見捨てろと言ってるわけじゃない」
カイデンは落ち着いた口調のまま続ける。
「ただ、状況も分からないまま、チーム全員を危険へ飛び込ませたくないだけだ」
数秒の沈黙が流れた。
エレナは再びロナンへ目を向ける。
気づけば拳を強く握り締めていた。
カイデンは小さく息を吐く。
そして、彼女の腕からそっと手を離した。
分かっていた。
もしエレナが本気で駆け出すと決めたなら――
誰にも止められない。
だからもう、力づくで引き止めようとはしなかった。
そのときだった。
静寂を破ったのは、リサンドラの穏やかな声だった。
「あの冒険者は……」
「……もう亡くなっています」
エレナが勢いよく振り向く。
「……え?」
「そんなはず……」
リサンドラは、自らの集中を乱さないようにするかのような静かな口調で続けた。
「間違いありません」
「生命反応は、すでに完全に消えています」
ローワンも遠くからロナンの身体を見つめる。
「……本当なのか?」
リサンドラは小さく頷いた。
「はい」
短い返答だった。
だが、その声に宿る確信は、それを聞いた誰の疑念も払拭するのに十分だった。
カイデンはそこで再び口を開く。
「だから止めたんだ」
エレナは黙って彼を見つめる。
「もしロナンが本当に死んでいるなら……」
「……あいつらにとって重要なのは、遺体そのものじゃない」
カイデンは再び黒いローブの四人へ視線を向けた。
「そう考えるのが自然だ」
「……だから、もう少し様子を見るべきだ」
カイデンの言葉は、その場に静かに残った。
エレナは両拳をさらに強く握り締める。
胸の奥が締めつけられるように苦しかった。
恐怖ではない。
もっと昔から知っている、この感覚だった。
また――
助けられたかもしれない誰かを、ただ見ていることしかできない。
脳裏に、過去の光景がよみがえる。
姉の面影。
必死に忘れようとしてきた記憶が、静かに胸の奥から浮かび上がってきた。
エレナはゆっくりと目を閉じる。
そして、大きく息を吸った。
再び目を開けても、その眼差しは眼下に広がる現実をまだ受け入れきれてはいなかった。
一方、リサンドラは終始、儀式の場から目を離さない。
その瞳の変化は静かに始まっていた。
銀色の淡い光が虹彩の奥で揺らめき、続いて幾重もの細い光の線が透明な円環を描く。
それは彼女だけに見える光景だった。
次の瞬間、半透明のウィンドウが視界に次々と展開される。
一枚、また一枚と。
観察対象に合わせ、それぞれが静かに表示されていく。
最初に視線を向けたのは、儀式の中心に横たわる男だった。
ほどなくして情報が表示される。
《 TARGET ANALYSIS 》
名前:ロナン
状態:死亡
ランク:ランクA冒険者
レベル:70
生体状態:活動反応なし
心拍:――
生命レゾナンス:――
エーテル活動:検出されません
パネルの内容に変化はない。
生命反応を示す項目は、すべてゼロを示していた。
リサンドラはなおもしばらく観察を続ける。
鼓動もない。
エネルギーの流れもない。
生存を示す生体反応は、微塵も検出されなかった。
彼は間違いなく、すでに命を落としている。
何も口にすることなく、リサンドラは一人目の黒いローブの人物へと視線を移した。
新たなパネルが開く。
だが――
そこに表示された内容は、空白同然だった。
《 TARGET ANALYSIS 》
名前:???
状態:???
レベル:???
種族:???
レゾナンス:???
並んでいるのは、無数の疑問符だけ。
取得できた情報は一つもない。
リサンドラの眉がわずかに動く。
続いて二人目へ視線を移す。
結果は同じ。
三人目。
四人目。
全員がまったく同じだった。
名前も、レベルも、種族も、レゾナンスさえ判別できない。
まるで何かに覆い隠され、その存在そのものが解析を拒絶しているかのようだった。
能力そのものが、完全に弾かれている。
アゼンティナム・レルムへ入って以来、初めてリサンドラの表情にわずかな変化が浮かぶ。
驚きではない。
純粋な興味だった。
「……興味深いですね」
ほとんど聞き取れないほど小さく呟く。
カイデンが横目で彼女を見る。
「何か分かったのか?」
リサンドラは視線を下へ向けたまま答えた。
「識別能力で、彼らを解析できません」
「全員か?」
「はい」
小さく頷く。
「最も基本的な情報すら表示されません」
「まるで彼らの存在そのものが……」
「……何かによって隠されているようです」
ローワンは眉をひそめた。
「そんなことは初めてなのか?」
「少なくとも……」
「……ここまで完全に空白になったのは初めてです」
リサンドラは再びロナンへ視線を戻す。
彼の解析パネルだけは、今も正常に表示されていた。
何一つ欠けることなく。
妨害される様子もない。
「その一方で……」
「彼だけは通常どおり解析できます」
少しだけ間を置き、変わらぬ落ち着いた口調で続ける。
「ロナン」
「ランクA冒険者」
「レベル70」
「生命反応は、すべて停止しています」
「心拍だけではありません。生命レゾナンスも完全に消失しています」
リサンドラは一度静かに目を閉じ、解析結果をあらためて確かめるように意識を集中させた。
そして、ゆっくりと目を開く。
「結果に変化はありません」
「彼は……すでに亡くなっています」
その一言が、エレナの胸にかろうじて残っていた最後の希望を打ち砕いた。
肩が静かに落ちる。
視線は再びロナンへ向けられた。
だが、その瞳に宿る色は先ほどまでよりもずっと重かった。
リサンドラは続ける。
「もう一つ、気になることがあります」
その口調の変化を、カイデンはすぐに察した。
「何だ?」
「これまで見つけた犠牲者も……」
「地上へ運び出した遺体も含めて考えると……」
「……ほとんどがランクA冒険者です」
ローワンはこれまで目にした犠牲者たちを一人ずつ思い返した。
「……そう言われてみれば」
名もない冒険者は一人もいなかった。
むしろ、その大半は豊富な経験を持つ実力者ばかりだった。
リサンドラは静かに続ける。
「一方で、ランクSと確認できた犠牲者は一人もいません」
「本来、この現象が本当に対象を選ばないものなら……」
「……その可能性があっても不思議ではないはずです」
カイデンは顎に手を当てたまま考え込む。
「つまり……」
「……犠牲者の選定には何らかの法則がある」
「あるいは――」
「……あの儀式を行っている者たちが、意図的に選んでいるかだ」
その可能性は、これまでの予想よりもさらに深刻だった。
もし犠牲者が最初から選別されていたのだとすれば――
アゼンティナム・レルムで起きている一連の出来事は、単なる自然現象ではない。
長い時間をかけて計画された何者かの意図によるものだ。
エレナは深く息を吐いた。
そして静かに腰を下ろす。
三人の隣へ戻り、再び膝をついた。
その表情にはまだ割り切れない思いが残っていたが、儀式の場へ飛び出そうとはもうしなかった。
「……ごめん」
消え入りそうな声だった。
カイデンは静かに首を横へ振る。
「気にするな」
視線は再び眼下の四人へ向けられる。
「今は……」
「……まず、あいつらが何をしているのか見極めよう」
ローワンも静かに頷いた。
「観察を続ければ……」
「……目的も見えてくるはずだ」
四人は再び沈黙する。
誰一人として口を開かなかった。
眼下では、黒いローブをまとった四人がなおも儀式の円陣を囲み続けている。
祈りにも呪文にも聞こえる囁きは途切れることなく響き、濃紫の光は一定の律動を刻みながら脈打ち続けていた。
その中心では、ロナンの身体が微動だにすることなく横たわっている。
その姿は、アゼンティナム・レルムの深い闇に隠された新たな謎の始まりを、静かに物語っていた。




