第六十七話
ローワン・ハースは静かに息を吐いた。
視線は再び奥へと伸びる石造りの通路をなぞり、やがて無数の亀裂が走る荒れた壁で止まる。
「……嫌な予感は外れてなかったみたいだな」
「ここは……見た目以上にひどい場所だ」
「ええ」
リサンドラ・ヴェイルが短く応じる。
魔女帽子のつばを軽く整えると、通路の端へ歩み寄った。
紫色の瞳が、数メートル先に横たわったまま動かない冒険者の亡骸へと向けられる。
しばらく無言のまま見つめてから、静かに口を開いた。
「通路の入り口だけで、この有様ですもの」
「……この先にある遺体の数が少ないとは、とても思えません」
声音はいつも通り穏やかだった。
だが、そのあまりにも率直な言葉に、エレナ・ヴォスは一瞬だけ押し黙る。
リサンドラは亡骸の傍らにしゃがみ込んだ。
生気を失った顔を静かに見つめるその表情には、わずかな揺らぎもない。
「亡くなって、まだ間もないのでしょう?」
カイデン・アークライトはうなずいた。
「君たちが来る数分前だ」
「……そう」
リサンドラは立ち上がり、視線をカイデンへ向ける。
「なら、この人を外へ運びましょう」
「せめて……」
「……帰るべき場所へ帰してあげないと」
短い沈黙が通路を包んだ。
カイデンはしばらく亡骸を見つめ、やがて静かにうなずく。
「ああ」
「身元確認部門なら死因を調べられるはずだ」
「冒険者ギルドにも、この人が誰なのか伝える必要がある」
「もし帰りを待っている家族がいるなら……」
「……少なくとも、弔うことはできる」
それ以上、誰も口を開かなかった。
静寂の中、リサンドラはゆっくりと両手を掲げる。
亡骸の下に青紫色の魔法陣が静かに浮かび上がり、柔らかな光を放つ魔法文字を伴って穏やかに回転し始めた。
衣服から、髪から、そして全身から、小さな光の粒がふわりと舞い上がる。
やがてその姿は少しずつ光の欠片へと溶けていき――
ほんの数秒後には、冒険者の身体は跡形もなく消えていた。
魔法陣もまた静かに薄れて消え去り、そこには最初から誰もいなかったかのように、冷たく静まり返った石床だけが残される。
エレナは視線を、遥か先まで続く暗い通路へと向けた。
細く伸びるその道は、果ての見えない闇に飲み込まれている。
あるのは、不気味なほど穏やかな静寂だけだった。
目を閉じて小さく息を吐くと、再び瞼を開く。
「行きましょう」
三人を順に見渡しながら言う。
「これで全員揃ったわ」
「ここまでして、この場所を隠そうとしていたなら……」
「……きっと、何かを隠している」
その声には迷いがなかった。
「これ以上、時間を与えるつもりはないわ」
返事を待たず、エレナは先頭に立って通路を歩き始める。
コツ、コツ。
靴音が石壁の間で静かに反響した。
リサンドラは腕を組み、遠ざかっていくエレナの背中を眺める。
ふっと口元が緩んだ。
「あなたって、本当に変わらないわね」
エレナは振り返らない。
「どういう意味?」
「好奇心が強すぎるの」
リサンドラの声は柔らかい。
だが、その響きには三人にとって聞き慣れた、からかうような色が滲んでいた。
「謎めいた扉があれば……」
「……真っ先に開けたがるのは、きっとあなた」
「誰も踏み入れたことのない通路があれば……」
「……真っ先に入っていくのも、やっぱりあなたでしょう?」
エレナは気にした様子もなく答える。
「誰かが先に入らなかったら……」
「……中に何があるかなんて分からないでしょう?」
「ふふ……」
リサンドラは腕を組むのをやめ、頬杖をつきながら小さく首を傾げた。
「いかにもあなたらしい答えね」
カイデンとローワンは顔を見合わせ、小さく苦笑する。
そして二人もエレナの後を追って歩き始めた。
最後に動き出したのはリサンドラだった。
落ち着いた足取りのまま、白いローブが石床を踏むたびに静かに揺れる。
しばらくの間――
地下通路には、四人の足音だけが響いていた。
やがて、その静寂を破るようにリサンドラがぽつりと呟く。
「……私の勘違いならいいのだけれど」
三人がわずかに振り返る。
リサンドラは前だけを見据えたまま続けた。
「もし本当に、これがもっと大きな何かの前触れだとしたら……」
「……最初に気づくのは、私たちじゃないでしょうね」
一拍置いて、静かに言葉を継ぐ。
「――あの人よ」
それ以上の説明はなかった。
だが、カイデンには誰のことかすぐに分かった。
彼らの報告を受ける人物。
そして最初から、アゼンティナム・レルムの件を特別調査部門に極秘で担当させた人物だ。
もし、この一連の出来事が何かの始まりなのだとすれば――
彼らの報告は、その人物がすでに集めている情報の、ほんの一片に過ぎないのかもしれない。
リサンドラはそれ以上語らず、三人に追いつくよう少しだけ歩調を速めた。
再び通路は深い静寂に包まれる。
だが今回は――
どこか様子が違っていた。
真っ先にその違和感へ気づいたのは、エレナだった。
歩みがゆっくりと鈍る。
「……ん?」
その先の暗闇で――
通路の奥深く――
闇のさらに向こうで。
何かがゆっくりと動いていた。
魔物ではない。
影でもない。
それは、濃い紅色を帯びた煙の塊だった。
低く漂いながら、静かにこちらへ流れてくる。
煙――
だが、ただの煙ではない。
その内部には暗紅色の筋が脈打つように揺らめき、まるで生きているかのような気配を漂わせていた。
煙は一気に通路を満たすことはなく、
ゆっくりと這い、
長く伸び、
幾重にも渦を巻きながら、
静まり返った空気の流れに沿って、やがて彼らのもとへと近づいてくる。
近づくほどに、
その煙がまとった異様な気配が、はっきりと感じられた。
冷たい。
息苦しい。
まるで通路の空気そのものが、急に何倍もの重さを帯びたかのようだった。
やがて――
赤い煙はエレナの目の前を静かに流れていく。
身体には触れない。
ただ、そのまま通り過ぎただけだった。
だが、その直後――
「っ……!」
エレナの足がぴたりと止まる。
息が詰まり、右手が反射的にこめかみを押さえた。
「頭が……」
眉間に深い皺が刻まれる。
「どうして……」
「……急に、こんな……」
もう一歩踏み出そうとする。
だが、痛みはさらに鋭く頭の奥へと突き刺さった。
まるで何かが、耳を通してゆっくりと入り込んでくるような感覚だった。
「エレナ?」
カイデンが歩調を速める。
「どうした?」
エレナは片目を閉じ、指先に力を込めて頭を押さえた。
「私……」
「……どうしてか……」
呼吸が次第に乱れていく。
「何かが……」
「……何かが、入ってこようとしてる……」
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、すでに焦点を失い始めていた。
「それに……」
「この音……」
声は小さく、
まるで自分自身に問いかけるように呟く。
「……誰が……」
「……歌ってるの……?」
その言葉に、カイデンとローワンは同時に足を止めた。
二人は一瞬だけ顔を見合わせる。
「歌?」
カイデンは眉をひそめた。
「何も聞こえないぞ」
エレナは小さく首を振る。
息遣いはさらに荒くなっていた。
「違う……」
「外から聞こえてくる声じゃない……」
「でも……」
再び頭を強く押さえる。
「頭の中で……誰かが直接囁いてるみたいで……」
その声は、ますます鮮明になっていく。
優しく。
女性の声だった。
聞いたこともない旋律に乗せられ、
歌詞もなければ、
言葉ですらない。
それなのに、一つひとつの音色が意識の奥深くへと静かに染み込み、
少しずつ、確実に意識を削り取っていく。
「ぁ……」
ついにエレナの膝から力が抜けた。
そのまま石床へ膝をつき、両手で頭を強く抱える。
「やめて……」
「……もう……」
カイデンは即座に駆け寄ろうとした。
「エレナ!」
だが、二歩踏み出した、その瞬間――
「っ!」
身体が不意に硬直する。
予兆もなく、鋭い激痛が頭を貫いた。
思わずこめかみを押さえる。
「なっ……」
視界がぐらりと揺れる。
そして次の瞬間――
聞こえた。
かすかに。
あまりにも遠く、
まるで人の身では決して辿り着けない場所から響いてくるかのように。
旋律。
一人の女性の歌声。
何を歌っているのかは分からない。
それでも、その一音一音が波となって押し寄せ、容赦なく思考を揺さぶってくる。
その一方で、ローワンも足を止めていた。
息が詰まる。
「……くそっ」
反射的に頭へ手を当てる。
「俺も……」
「……聞こえる……」
通路は再び静寂に包まれた。
だが今、その静寂は――
彼らにしか聞こえない歌声で満たされていた。
赤い煙はなおも静かに彼らの傍らを流れていく。
その身体には、一切触れることなく。
熱はない。
だが、その煙が彼らの傍らを流れるたびに――
旋律はさらに近づいてくる。
より鮮明に。
まるで意識の奥深くへ入り込む隙を探しているかのように。
カイデンは奥歯を噛み締めた。
「つまり……」
「……あの冒険者が言っていたのは、これか……」
「耳を塞げって……」
そこまで言いかけた瞬間、
激痛が再び頭を襲う。
しかも、先ほどとは比べものにならないほど強く。
視界がぐらりと揺れた。
前方では、エレナがすでに俯いている。
意識を繋ぎ止めようとするように、その肩がかすかに震えていた。
その時――
「ローワン」
後ろから、リサンドラの穏やかな声が響く。
いつもと変わらぬ落ち着いた声音。
そこには微塵の焦りもなかった。
「盾を使って」
「私たち全員を包む防壁を展開して」
ローワンは顔を上げる。
苦痛を堪えた表情のまま問い返した。
「防壁……?」
「何のためにだ……?」
「今は従って」
リサンドラの声は静かなままだった。
「終わったら説明するわ」
ローワンは眉をひそめる。
「お前……」
「……聞こえてないのか?」
リサンドラは一瞬だけ沈黙した。
「聞こえているわ」
そう言うと、カイデンの横を静かに通り過ぎる。
白いローブが、なおも流れ続ける赤い煙の中でゆるやかに揺れた。
「あの声も」
「意識へ入り込もうとする旋律も」
「でも――」
紫の瞳はまっすぐ前だけを見据えている。
「……私は、まだ拒める」
その一言に、ローワンは思わず息を呑んだ。
一つの考えが脳裏をよぎる。
もしあの歌声が精神そのものを侵しているのなら――
必要なのは物理的な防御ではない。
その影響を遮断するための障壁だ。
ローワンは迷うことなく盾を強く握り締めた。
高く掲げ、
その石突きを勢いよく石床へ打ち下ろす。
ゴォンッ!
重い衝撃音が通路いっぱいに響き渡る。
打ち付けた地点から黄金の光が一気に広がり、
四人を包み込む透明な黄金色のドームが形成された。
柔らかな輝きを帯び、
堅牢で、
一切の綻びもない。
リサンドラはすぐに右手を掲げる。
青紫色の魔法陣が次々と目の前へ展開され、
無数のアビサン文字が、それぞれの魔法陣に沿って回転を始めた。
やがて、その掌が黄金の障壁へ触れる。
「イコライザー」
その瞬間、
すべての魔法陣が黄金のバリアへと溶け込んだ。
第二の層が形成される。
先ほどより遥かに薄い。
だが、その表面には無数の魔法文字が絶え間なく巡り続け、
まるで何かを計測し、
解析し、
そして目には見えない何かへ適応しているかのようだった。
ドームの外では――
赤い煙が再び流れ寄ってくる。
しかし今度は、
バリアへ触れる寸前で、その流れが小さく震えた。
ゆっくりと軌道を変え、
見えない壁に弾かれたかのように逸れていく。
赤い煙は黄金のドームを取り囲みながら漂い続ける。
侵入できる隙を探すように。
それでも、リサンドラが築いた第二の障壁を突破することはできなかった。
数秒後――
歌声は消えた。
頭を締めつけていた痛みも、静かに薄れていく。
エレナは深く息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げて立ち上がった。
カイデンもこめかみを軽く押さえる。
「……消えたな」
ローワンは長く息を吐き出す。
ようやく、本当の静寂が通路へ戻ってきた。
ドームの外では、なおも赤い煙が通路を漂い続けている。
しかし今では黄金の障壁の周囲を巡るばかりで、その歌声はまるで四人の存在を見失ったかのように、二度と届くことはなかった。
エレナは目の前の障壁へ視線を向ける。
赤い煙は依然として通路を満たしている。
それでも、もう彼らへ近づくことはできない。
カイデンはその光景をしばらく見つめ、静かに息を吐いた。
「……つまり」
「あれは、ただの霧じゃないんだな」
「ええ」
リサンドラは掌をバリアに当てたまま答える。
紫の瞳は、一度も外を漂う赤い煙から逸れなかった。
「あの煙は、ただの媒体にすぎないわ」
「本当に私たちを攻撃していたのは、煙が運んでいるレゾナンスよ」
「あの波動が、聞いた者の意識へ直接作用していたの」
エレナがゆっくりと顔を上げる。
「じゃあ……あの音楽の噂って……」
リサンドラは小さくうなずいた。
「本当よ」
「女性の歌声を聞いたという冒険者もいれば」
「ただ旋律だけを覚えている者もいるわ」
「でも、全員に共通していることがある」
リサンドラの視線は再び赤い煙へ向けられる。
「彼らは、それを聞いていた」
「……あの事件が起きる前に」
再び静寂が通路を包み込んだ。
これまで噛み合わなかった数々の情報が、ようやく一つへと繋がっていく。
傷一つない遺体。
何の変化も見られないダンジョン。
そして、これまで荒唐無稽な話として片づけられていた冒険者たちの証言。
ローワンは静かに息を吐いた。
「……じゃあ、あの噂は本当だったんだな」
「噂ではないわ」
リサンドラは落ち着いた声で答える。
「ただ……」
「……誰も、その原因を理解していなかっただけ」
エレナはゆっくりと拳を握り締めた。
「もし、あのまま進み続けていたら……」
リサンドラは小さくうなずく。
「レゾナンスは蓄積し続けるわ」
「長く聞けば聞くほど……」
「……その影響は、より深くなる」
そこで言葉を切る。
その先を聞く必要は誰にもなかった。
たった今、自分たちの身をもって体験したばかりなのだから。
カイデンはバリアを覆う魔法の層へ視線を向けた。
「じゃあ、お前の《イコライザー》は……」
「……そのレゾナンスを乱しているのか?」
「だいたい、そんなところね」
「ローワンのバリアが、安定した媒体になってくれているの」
「私はそこへ、レゾナンスの伝達経路を乱す層を重ねただけ」
「その波動が私たちまで届かない限り……」
「……精神へ干渉することはできないわ」
ローワンは安堵したように息を吐く。
「だから最初にバリアを張れって言ったのか」
「ええ」
リサンドラはようやくバリアから手を離した。
それでも青紫色の魔法陣はなお回転を続け、第二の層を維持している。
「器のないものを制御するのは難しいもの」
「あなたのバリアは、十分に安定した媒体になってくれたわ」
エレナは首筋を軽くさすり、小さく笑う。
「あと数秒遅れていたら……」
「……私たち三人がどうなっていたか分からなかったわね」
カイデンもうなずく。
「何に攻撃されているのかさえ、俺には分からなかった」
「俺も同じだ」
ローワンはかすかに笑みを浮かべた。
「今回は、本当にお前に助けられたな」
静けさが戻ってから初めて、
リサンドラは三人へ振り返る。
一度だけ瞬きをすると、小さく息を吐いた。
「大げさよ」
その声音はいつも通り穏やかだった。
「他のレゾナンス現象と比べれば……」
「……これはまだ単純な部類だもの」
「どんなものでも、まだ法則があるなら……」
「……干渉する方法も必ずあるわ」
口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「そう考えれば、むしろ良い知らせじゃない?」
「まあ、それはあなたたち次第だけれど」
カイデンとエレナ、そしてローワンは顔を見合わせる。
そして――
三人は揃って小さく笑った。
彼らの知る限り、
こんな現象を「まだ単純」と言い切れるのは、きっとリサンドラくらいのものだろう。
だが、不思議なことに――
その一言のおかげで、場の空気は少しだけ和らいだ。
少なくとも、彼らは一つの答えを手にした。
冒険者たちが命を落とした理由。
そして何より――
この先へ進むための手段を、ようやく見つけることができたのだった。




