第六十四話
店内はようやく静けさを取り戻した。
建物を揺るがした振動は、ほんの数秒で収まった。
だが、そのあとに訪れた静寂のほうが、かえって不気味に感じられる。
顔を青ざめさせたまま客同士が視線を交わし、店員たちは棚から落ちた宝飾品の箱を慌ただしく拾い集めていた。
青川蓮司――いや、ケイルは、ショーウィンドウの向こうに広がる空からまだ目を離せずにいた。
あの振動は……。
自然に起きたものとは思えない。
その奥には、まるで世界の層さえ貫くほどの巨大なエネルギーの波動が潜んでいるように感じられた。
そのとき、少し離れた店の隅に、一人の男が静かに立っていた。
灰がかった白髪はわずかに乱れ、金の装飾があしらわれた白・赤・黒を基調としたシャツとの対比が印象的だった。胸元には装飾用のチェーンが整然と垂れ、四角いフレームの眼鏡が穏やかにその顔を彩っている。
男はゆっくりと右手の人差し指を持ち上げる。
ほとんど音も立てず、その指先で眼鏡を軽く押し上げた。
きらり、と白い光がレンズをかすめる。
一瞬だけ、その反射が両目を覆い隠した。
「……このレゾナンスの波動」
落ち着いた声だった。
しかし、その一言は十分にはっきりとしていて、ケイル、カエラ、シルヴィアはほぼ同時に振り向く。
「間違いない」
男はわずかに顔を上げた。
「あのエネルギー反応は、KDT-03――トライデントによるものだ」
そう言うと背筋を伸ばし、ゆっくりと三人のほうへ向き直る。
眼鏡の奥にある鈍い金色の瞳は、どこまでも静かだった。
「……妙だ」
「トライデントは、そう簡単に投入されるような兵器じゃない」
男は一度言葉を切り、頭の中で情報を組み立てるように沈黙する。
「それが使用されたということは……」
「……それだけ、それを最も効率的な選択肢と判断せざるを得ない状況だったということだ」
その言葉によって、店内は再び静まり返った。
カエラがゆっくりと瞬きをする。
「……KDT-03?」
しゃがみ込んでいたシルヴィアは服を軽く払いながら立ち上がり、困惑したように眉をひそめると、その男とケイルを交互に見た。
「……何の話をしてるの?」
一方、ケイルは瞬きひとつせず、その男を見つめ続けていた。
「……君は誰だ?」
その問いは淡々としていた。
警戒していたからではない。
彼は、自分たちですら正体を掴めていないあの振動の原因を、まるで知っているかのように語っていたからだ。
だが、眼鏡の男が口を開くより早く、先ほどまで宝飾品の箱を拾っていた女性店員が慌てて駆け寄ってきた。
「も、申し訳ありません!」
彼女はまず男へ深く頭を下げ、それから急いでケイルたちへ向き直る。
「驚かせてしまって、本当にすみません」
気まずそうな笑みを浮かべながら続けた。
「こちらのお方は、このお店の店主なんです」
「ヘルトンさんとおっしゃいます」
「その……いつもああして、気配もなく現れるものですから」
店員は苦笑を漏らした。
どうやら上司のそんな癖には慣れっこのようだ。
ヘルトンは小さく息をつく。
「どうやら私は、従業員たちから日に日に変わり者だと思われているらしい」
口調は穏やかだったが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
やがて、その視線は再びケイルへ向けられる。
鈍い金色の瞳は、先ほどよりも鋭さを帯びていた。
まるで、この会話を続けるに値する相手なのかを見極めようとしているかのように。
ケイルは少しだけ黙り込み、先ほど紹介してくれた女性店員へ視線を向けた。
「……店主だったのか」
静かに息を吐く。
「すまない。早合点してしまった」
カエラも頭を下げた。
「失礼しました」
シルヴィアもこめかきを掻きながら苦笑する。
「ごめんなさい。本当にびっくりしちゃって」
ヘルトンはくすりと笑った。
「気にしなくていい」
その笑みは控えめながらも温かい。
「見ず知らずの相手が、理解できない話を急に始めたら、そういう反応になるのが普通だからね」
穏やかな口調に、不快感や怒りはまったく感じられなかった。
ぎこちなかった空気も、少しずつ和らいでいく。
やがてカエラが、先ほどの言葉を思い出したように口を開いた。
「そういえば……」
「さっきKDT-03トライデントって言っていましたよね」
小さく首を傾げる。
「あれは、一体何なんですか?」
ヘルトンは一度だけ店の外へ目を向け、それから答えた。
「オートノマス・ヘビー・ビームキャノン・タレットだ」
「簡単に言えば……誰かが保有している高火力の戦闘タレットだよ」
「それが投入されるようなら、対処している状況は決して軽いものじゃない」
話を聞いていたケイルが、そこで口を開く。
「つまり、さっきの振動がどこから来たのか知っているんですね?」
ヘルトンは薄く微笑んだ。
「その前に、一つお願いがある」
気軽な仕草で片手を上げる。
「『さん』や『様』はいらない」
「ヘルトンと呼んでくれ」
「そのほうが気楽だからね」
シルヴィアが小さく笑う。
「お店のオーナーさんなのに、ずいぶん気さくなんですね」
「そう言ってもらえるなら、ありがたく受け取っておこう」
その返答に、隣にいた女性店員は苦笑いを浮かべるしかなかった。
こうしたやり取りは、どうやら日常茶飯事らしい。
ヘルトンは再びケイルへ視線を向ける。
「さっきの質問だけど……」
「私は実際に何が起きたのかを見たわけじゃない」
「だが、この数日、あるダンジョンで多数の死者が出たという噂が広まっていてね」
「それと同時に、ルーメン・ハイム魔法学院が特別調査チームを派遣したという話も耳に入っている」
そこで一度言葉を切る。
「その二つの情報を結びつければいい」
「トライデントのレゾナンスが同じタイミングで発生したのなら……」
「……おそらく、その任務を遂行している最中なんだろう」
ケイルは黙り込んだ。
(……つまり)
(あのとき、シルヴィアのお父さんとお母さんが話していたのは、このことだったのか……?)
(だから、あんなに深刻そうな表情をしていた……?)
その考えは一瞬だけ浮かび、すぐに意識の奥へ沈んでいった。
一方、カエラはまだ疑問を抱いたままだった。
「もしそうだとして……」
「どうして、さっきからトライデントの使用がそんなに重大なことみたいに聞こえるんですか?」
ヘルトンは静かに腕を組む。
「トライデントは、単に手間を省くための兵器じゃない」
「使用者があれを持ち出すと決めた時点で……」
「……それだけ状況が切迫しているということだ」
短く息を吐く。
「さっき私が感じた攻撃も、あのタレットが放てる出力の中では最低クラスだった」
「だからといって、軽く見ていいものではない」
そう話しながら、ヘルトンはケイルたちの横をゆっくりと通り過ぎる。
落ち着いた足取りのまま店の外に面した大きなショーウィンドウの前で立ち止まった。
アストラヴェルの光が眼鏡のレンズに淡く映り込み、彼は静かに空を見上げる。
「その波動は、ここまで届いている」
「アストラヴェルとダンジョンは異なる次元層に存在しているというのにね」
「同じ宇宙に属しているとはいえ、これほどのレゾナンスなら無視はできない」
シルヴィアも思わず空を見上げた。
「たった一発撃っただけで……」
「……こんなところまで揺れが伝わってくるの?」
ヘルトンは静かに頷く。
「だからこそ不思議なんだ」
「トライデントの所有者なら、その使用が何を引き起こすか理解しているはずだ」
「それでも撃ったということは……」
「……レゾナンスの影響を気にしていられないほど重要な何かが、あそこにあったということだろう」
その金色の瞳は再び静けさを取り戻す。
「そして、私の知る限りでは……」
「……あのダンジョンで調査任務に当たっているのは、その人物のチームだ」
「ルーメン・ハイム魔法学院・特別調査部門だよ」
再び室内を静寂が包んだ。
今度は店を揺らした振動のせいではない。
遠く地下で起きている出来事が、自分たちの想像をはるかに超える規模なのだと、ようやく実感したからだった。
ケイルは眉をひそめる。
「……特別調査部門?」
カエラを一瞥してから、再びヘルトンへ視線を戻した。
「学院にそんな部門があるんですか?」
「名前からして、学院って勉強する場所じゃないんですか?」
カエラも小さく頷く。
「私も初めて聞きました」
シルヴィアも首を傾げた。
「調査部門があるってことは……」
「……ほかにもいろんな部門があるんですか?」
ヘルトンはぱちりと瞬きをした。
「……え?」
心底意外そうな表情が浮かぶ。
「本当に知らないのかい?」
三人は顔を見合わせた。
ヘルトンは小さく笑い、ゆっくりと首を横に振る。
「まあ、それも無理はないか」
「ハイ・サンクタムの仕組みまで知っている人は、そう多くないからね」
ヘルトンはアストラヴェルの空から視線を外し、三人のほうへ向き直る。
ゆったりと歩み寄ると、展示台の脇へ軽く体を預けた。
「世間では、ハイ・サンクタムはただの学院だと思われている」
「だが、あそこは最初から教育だけを目的として作られた場所ではない」
穏やかな笑みは変わらない。
「学院は、あくまで入口に過ぎないんだ」
そう言って一拍置き、その言葉を静かに空気へ溶かしてから続ける。
「最終的な目的は、アストラヴェルを守ることのできるアスピラントを育て上げることだ」
「正式なアスピラントになれば、統括司令部の評価に基づいて、それぞれのチームへ配属される」
「調査、遠征、諜報、防衛、レゾナンス現象の研究……」
「……そのほかにも、多くの実働部門が存在している」
「君たちがよく耳にするトーナメントも、その実力を測るための手段の一つにすぎない」
「最終的には、誰もが実際の任務に就くことになる」
ケイルは黙り込んだ。
(トーナメントが最終目標じゃない。)
(本番の作戦へ向かうための準備にすぎないんだ。)
なぜだろう。
ヘルトンの説明を聞いたことで、ハイ・サンクタムに対する印象が大きく変わっていた。
ただ学ぶための場所ではない。
アストラヴェルを守る者たちを育てる機関だったのだ。
シルヴィアが何度か瞬きをする。
「……初めて知った」
「それじゃ、まるで軍隊みたいですね」
ヘルトンは軽く頷いた。
「まあ、おおむねそんなところだ」
そう言うと、一人ひとりへ視線を向ける。
「……待てよ」
「まさか、トライデントの所有者が誰かも知らないのか?」
三人はそろって首を横に振った。
ヘルトンは小さく息を吐き、くすりと笑う。
「ハイ・サンクタムじゃ、それなりに有名な子なんだがね」
シルヴィアが身を少し乗り出した。
「誰なんですか?」
ヘルトンはゆっくりと顎を撫で、どう説明したものかと考える。
やがて、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「ふむ……」
「できるだけ簡単に説明するなら――」
「……見た目は、ごく普通の子だ」
そこで一拍置く。
「……なのに、なぜか戦闘艦隊を作り上げてしまった」
「……」
「……」
「……」
店内が、不意に静まり返る。
ケイルは固まった。
カエラはただ静かに瞬きをし、
シルヴィアはわずかに口を開く。
「……え?」
三人の反応を見て、ヘルトンは小さく笑った。
「ああ」
「私も初めて見たときは、だいたいそんな反応だったよ」
◇ ◇ ◇
通路を満たしていた青い光が、ゆっくりと薄れていく。
眩い輝きは少しずつアゼンティナム・レルムの闇へ呑み込まれ、やがて完全に消え去った。
残されたのは――
静寂だけだった。
つい先ほどまで幾十ものカニバルの咆哮が響き渡っていたとは思えないほど、不自然な静けさ。
天井からは、なお砂塵が舞い落ちている。
細かな塵が空中をゆっくりと漂い、洞窟の壁に埋め込まれた青い鉱石の淡い光に照らされていた。
時折、亀裂から小さな岩が外れ、床へ落ちる。
……コツ。
……カツ。
……ゴト。
その音だけが、長い坑道の奥へと静かに反響していく。
先ほどまで無数の魔物で埋め尽くされていた巨大な石の回廊は、今や地平線の彼方の闇まで一直線に続く破壊の軌跡へと変わり果てていた。
両脇の岩壁は無惨に引き裂かれ、
巨大な亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、アゼンティナム・レルムの天井をいつから支え続けてきたのかも分からない天然の石柱を切り裂いている。
中には、根元から完全に断ち切られたものさえあった。
その断面はあまりにも滑らかで、まるで精巧に削り出された彫刻のようですらある。
その直後――
ゴゴゴゴ……。
家ほどもある巨岩の一つが、ついに均衡を失った。
ゆっくりと傾き、
そして――崩れ落ちる。
――ズドォォォンッ!!
再び土煙が舞い上がる。
だが、それほどの轟音ですら、たった今放たれた一撃と比べれば、あまりにも小さく感じられた。
ヘビー・ビーム・キャノンが貫いた軌道には――
岩肌は、もはや岩とは呼べなかった。
表層は想像を絶する高熱によって融解し、その後すぐに冷え固まって、黒いガラスのような光沢を放っている。
いくつもの亀裂からは、なお熱気が立ち上っていた。
時折――
……パチッ。
青いエネルギーの火花が、熱を残した岩の間を小さく跳ねる。
血は見当たらない。
肉片も、
死骸もない。
硬い骨で知られるカニバルでさえ、一片の欠片すら残さず、この世から消え去っていた。
まるで、先ほどまであの回廊を埋め尽くしていた魔物の群れなど――
最初から存在しなかったかのように。
カイデンの数メートル後方では、ヴィナとロッキーを守り続けていた透明なバリアに、ゆっくりとデータの亀裂が走り始めていた。
……ジジッ。
……ジィィィッ。
透明な立方体の障壁は無数の青い光の欠片へと分解され、そのまま空気へ溶けるように消えていく。
再び静寂が坑道を包み込んだ。
ヴィナとロッキーは、まだ床に座り込んだまま動けずにいる。
その視線は虚ろだった。
瞳から焦点は失われ、白目だけが目立つほど呆然としていた。
「……」
「……」
「か……」
ヴィナが口を開く。
しかし、声は喉の奥で止まってしまう。
「か……け……」
ロッキーも何とか言葉を紡ごうとする。
「け……」
「けほっ……」
結局、二人ともまともな言葉にはならなかった。
脳がまだ、たった一つの事実を受け入れ切れていない。
あれほど巨大だった回廊が――
たった今――
消し飛ばされた。
熱を帯びた風がゆっくりと吹き抜け、髪の先や衣服を静かに揺らす。
それでも二人は微動だにしない。
やがて、背後から足音が響いてきた。
静かで、
乱れのない足取り。
……コツ。
……コツ。
……コツ。
エレナがゆっくりと歩み寄る。
その手に握られていた剣は、濃紺の光の粒子へとほどけ、空中へ散ったかと思うと跡形もなく消え去った。
彼女は立ち止まり、背を向けたままのカイデンへ声を掛ける。
「手加減するものだと思っていたわ」
その瞬間――
「ひぃぃぃっ!!」
ヴィナとロッキーは同時に飛び上がった。
全身の毛が逆立つ。
反射的に――
二人は互いへしがみつくように抱き合った。
「こ、殺さないでくださぁぁい!!」
「まだ若いんですぅぅ!!」
水に放り込まれた子猫のように、二人の身体はぶるぶると震えている。
ほんの数分前まで、
カニバルこそが、この世で最も恐ろしい存在だった。
だが今は――
目の前に立つ二人と比べれば、あの魔物たちのほうがよほど親しみやすく思えてしまう。
カイデンは後頭部をぽりぽりと掻いた。
「いやぁ……」
「俺はあまり時間を無駄にしたくない性分でね」
軽く肩をすくめる。
「だから――」
言葉はそこで止まった。
振り返った先にいたのは、先へ進む準備を整えた冒険者ではない。
互いに抱きついたまま、震え続ける二人の姿だった。
カイデンは数秒間、黙り込む。
「……そんなにひどい反応か?」
ロッキーは電光石火の勢いで頷いた。
「ひどいなんてもんじゃありません!!」
ヴィナも負けじと何度も首を縦に振る。
「ものすっごくひどいです!!」
エレナは相変わらず落ち着いた表情のまま、二人を見つめた。
「それで?」
「これで、あなたたちは……」
「……これで、私たちについて少しは分かったかしら?」
その言葉に、威圧するような響きはまったくなかった。
だが、ヴィナとロッキーの耳には――
まるで裁きの宣告のように聞こえた。
次の瞬間、二人は慌てて抱き合っていた腕をほどく。
そして――
――ドンッ!
勢いよく床へ土下座した。
「ご、ごめんなさぁぁぁい!!」
「俺たちが全面的に悪かったですぅぅ!!」
慌てて身体を起こし、
そのまま再び床へ額を叩きつける。
――ゴンッ!
「信じなくて本当にすみませんでしたぁ!!」
「心から反省してます!!」
さらにもう一度。
――ゴンッ!
「どうかお許しくださぁぁい!!」
「あのタレットの中には入れないでくださいぃ!!」
「まだ親孝行もしてないんですぅぅ!!」
カイデンはしばらく二人を見つめていた。
やがて静かにエレナのほうを見る。
「……この二人、いつもこんな感じなのか?」
「私も見るのは初めてよ」
エレナはいつも通り落ち着いた口調で答えた。
カイデンは再び視線を戻す。
二人の冒険者は、額が土埃で汚れ始めてもなお必死に土下座を続けていた。
彼は小さく息をつく。
「……それなら助かった」
その一言で、二人の動きがぴたりと止まる。
「ということは……」
「……もう説明する手間は省けそうだな」
ヴィナとロッキーは機械仕掛けのような勢いで何度も頷いた。
「はいっ!!」
「もう全部分かりました!!」
「ちゃんと理解しましたぁ!!」
ロッキーは涙目になりながら顔を上げる。
「皆さんは……」
「……本当に、ルーメン・ハイム魔法学院・特別調査部門所属のチーム・ハイペリアルだったんですね」
隣でヴィナも力強く頷いた。
「最初から知っていたら……」
「……私たちだって疑ったりなんかしませんでした……」
静寂が再びその場に降りる。
だが今度は――
恐怖によるものではなかった。
カイデンとエレナは短く視線を交わし、
ほぼ同時に小さく息を吐く。
少なくとも――
これでもう、自分たちの正体を説明する時間を費やさずに済みそうだった。




