第六十一話
その告白の直後、誰もそれ以上口を開こうとはしなかった。
ヴィナは唇をきゅっと結び、ロッキーは気まずそうに首の後ろをかく。漂う沈黙は少しずつ二人の気勢を削ぎ、前を歩く二人の判断に再び異を唱える勇気を奪っていった。結局、数メートルほど距離を空けたまま、後ろから黙ってついていくしかなかった。
時折、崩れた瓦礫の奥からぱきりと枝が折れる音が響く。
そしてまた、静寂が戻る。
あの魔物たちに襲いかかる意思がない以上、一体ずつ狩っていては時間を無駄にするだけで、調査の進行も遅れてしまう。
さらに数歩進んだところで、周囲の空気がわずかに変わり始めた。
ヴィナとロッキーは呼吸も足取りも乱さぬよう努めていたが、この領域へ足を踏み入れた瞬間から胸にのしかかっていた恐怖は、再びゆっくりと全身へ広がっていく。
暗い通路を通るたびに肩が反射的に強張る。岩陰から小さな物音がしただけで、二人の鼓動は目に見えて速くなった。
――だが、前を歩く二人だけは違う。
その足取りは終始変わらず、一定だった。
焦ることもなければ、
遅れることもない。
まるで、進行を止めるに足る出来事など、まだ何一つ起きていないかのように。
あるいは――
最初から、すべて気づいていたのか。
黒髪の青年はゆっくりと目を閉じた。
一歩。
その足が再び石床を踏みしめる。
――ドクン。
足裏から淡い青色のレゾナンスが脈動となって四方へ広がり、地面を駆け抜け、黒い岩壁を這い、崩れた石柱を伝い、闇に隠されたあらゆる狭い隙間へと染み渡っていく。
やがて、そのレゾナンスは戻ってきた。
音としてではない。
空間情報の連なりとなって、意識の中へ流れ込んでくる。
通路の形状。
岩盤の密度。
壁一面に埋め込まれた青い鉱石。
亀裂の隙間に根を張る、赤い葉脈を持つ白い植物。
そして、レゾナンスの探知範囲に散らばる百を超える存在。
あるものは瓦礫の陰に潜み、
あるものは洞窟の天井に張り付き、
さらに奥には、他とは比較にならないほど巨大な気配がいくつも留まり、並の魔物とは一線を画す圧力を放っていた。
エリートモンスター――。
だが、彼が意識を向けていたのは、その数ではない。
問題は――
その動きだった。
――ドクン。
次のレゾナンスが再び周囲一帯を駆け巡る。
脳裏の地図が瞬時に更新された。
先ほどまで通路の右側にあったいくつかの反応が――
消えた。
いや、消滅したわけではない。
移動したのだ。
それと同時に、各所に散っていた数十もの反応が一斉に動き始める。ばらばらだった進路は少しずつ一つへ収束し、大きく弧を描きながら、彼らのいる場所へ向かっていた。
もはや遠巻きに様子を窺っているだけではない。
包囲網を築こうとしている。
――ドクン。
さらに次の走査で、地図は再び書き換えられる。
動き出した反応はさらに増えていた。
新たな魔物が現れたわけではない。
それぞれの縄張りを守っていた別々の群れが、自らの領域を離れ始めていたのだ。
前方の群れはそのまま距離を詰め、
左側の群れは別の通路を迂回する。
さらに、互いに離れた場所にいた複数の魔物までが、争う気配を微塵も見せず、同じ一点を目指して駆けていた。
青年の眉がわずかに動く。
事前に得ていた情報では、アゼンティナム・レルムの魔物は互いを喰らい合い、進化を遂げる存在だった。群れ同士の争いなど、むしろ日常茶飯事のはずである。
それなのに――
戦おうとする個体が一体もいない。
本来なら互いにぶつかり合うはずの狩猟本能は、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せ、
ただ一つの目的だけが残されていた。
獲物を囲い込むこと。
そこで初めて、青年は歩みを緩めた。
「……エレナ」
黒みがかった藍色の髪を揺らす女性は、すぐに足を止める。
返事はしなかった。
ただ静かに立ち止まり、意識を前方へ広がる通路へと向ける。
「遅かれ早かれ……」
青年は静かに口を開いた。
「……やるしかない」
その言葉だけで、エレナは意図を理解した。
この任務を受けてからというもの、彼らの目的は、遭遇するすべての魔物を相手にすることなく、可能な限り効率よく調査を終えることだった。
だが、状況はもう、その選択を許してはくれない。
「ええ」
短く応じると、エレナは通路の右手にある細い裂け目へ視線を向けた。
肉眼では何も見えない。
それでも闇の奥に潜む微かな圧力だけで、状況が変わったことを悟るには十分だった。
「……連中、すべての退路を塞ぎ始めてる」
右だけじゃない。
前方からも。
後方。
さらに、いくつもの気配が洞窟の天井をゆっくりと這うように移動し始めていた。
青年は静かに目を開く。
「連中は、覚悟を決めようとしているわけじゃない」
その視線は、暗い通路の奥をまっすぐ見据えたままだった。
「動きが整いすぎている」
「……まるで誰かが進むべき方向を示しているみたいに」
「陣形を組んでいる」
その言葉が、静寂の中へ落ちる。
「この階層の魔物は互いを喰らい合う存在だ。これだけの群れが、偶然だけで本能を抑えて行動を合わせるなんてあり得ない」
「誰かが、俺たちがここへ来ることを知っていた」
「……そして、足止めのために連中を動かしている」
エレナはしばらく黙っていたが、小さく息を吐いた。
「……私もそう思うわ、カイデン」
「何かに強制されでもしない限り、エリートモンスターが他の群れと協力するなんて考えられないもの」
「命令か……」
「……あるいは、支配」
再び沈黙が通路を包み込む。
数歩後ろにいたヴィナとロッキーは、ただ目を見開くことしかできなかった。
「……カイデン?」
ロッキーが呆然と呟く。
「……エレナ……?」
ヴィナの囁きは、かすれるほど小さい。
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
その名前は――
なぜだか、ひどく聞き覚えがあった。
だが、思い出そうとしたその瞬間――
――キィィィィィィィッ!!
鼓膜をつんざくような絶叫が、不意に岩壁の向こうから響き渡った。
一つの黒い影が通路の脇から勢いよく飛び出す。
漆黒の鱗に覆われた身体は一瞬だけ岩肌を這い、次の瞬間、後ろ脚が力強く地を蹴った。
カニバルが一直線にヴィナとロッキーへ襲いかかる。
鋭い鉤爪を大きく広げ、
顔に走る赤く輝く亀裂が不気味な光を放つ。そして口からは、背筋を凍らせる甲高い咆哮が響いた。
――キィィアアァァッ!!
「なっ!?」
「上だ――!」
ヴィナとロッキーは反射的に振り向く。
目に飛び込んできた光景に、息を呑んだ。
「きゃっ……」
魔物はすでに宙へ躍り出ている。
距離は――
あと数メートルもない。
間に合わない。
避ける時間など、どこにもなかった。
――だが。
チッ……
まるでデータが乱れるような微かなノイズが走る。
あまりにも小さく、
誰一人として気づけないほどに。
次の瞬間。
カニバルが跳躍した、その軌道のど真ん中で――
その身体は静止した。
まるで時間だけが、そこだけ止まってしまったかのように。
そして――
ビッ……ビビッ……
青い光の亀裂が全身へと走る。
黒い鱗は砕け散るのではなく、青白く発光する無数の半透明のキューブへと分解されていった。
データの欠片のようなそれらは、一つ、また一つと身体から剥がれ落ち、
まるでシステムから情報を削除するかのように、空気へ溶けるように消えていく。
ほんの数秒後には――
そこには何も残っていなかった。
血の一滴すら残さず、
カニバルは跡形もなく消滅していた。
「……」
「……え?」
ヴィナは何度も瞬きを繰り返す。
反射的に顔を庇っていた腕が、ゆっくりと下がった。
「わ……私たち……」
「お、俺たち……」
ロッキーは困惑したまま、自分の身体を見回す。
「……生きてる?」
二人は思わず視線を向けた。
その時になって初めて気づく。
黒髪の青年は、すでに背を向けていた。
物音一つ立てず、
誰にも気づかれないまま。
彼は今しがた通ってきた通路へ向かって歩き出していた。まるで最初から、自分が最後尾を守ると決めていたかのように。
歩調は変わらない。
焦る様子もまったくない。
「二人とも、その場を動くな」
「えっ……?」
「どこにも行くな」
淡々とした声だった。
それだけで、二人は思わず息を呑む。
「ま、待ってくれ!」
ロッキーが反射的に呼び止めた。
「さっきの魔物……」
「あれを倒したのって、あなたなんですよね!?」
ヴィナも慌てて言葉を重ねる。
「さっき、一体何が起きたんですか?」
「さっきの魔物……いきなり消えちゃって……」
青年は振り返らなかった。
「説明は後だ」
「……その時まで生き残っていればな」
その言葉が終わった、まさに次の瞬間――
――ブゥゥン……
青い光が、ゆっくりと彼らの頭上へ降りてきた。
黒い機体の小型ドローン。
青く輝くコアを備えたそれは、音もなく空中を滑るように飛行し、ヴィナとロッキーの数メートル上で静止する。
「……え?」
「なんだ、これ――」
二人が言い終えるより早く、
ドローンから細い光線が何本も床へと照射された。
――ジジジッ……
青い光の線は互いに結びつき、
やがて巨大な立方体の骨格を描き出す。
次の瞬間、透明なエネルギーの膜が展開され、二人の周囲を完全に包み込んだ。
その表面はほとんど目に映らない。
かろうじて、各面を絶えず流れる青いデータの軌跡だけが、幾何学的なコードのような模様を描いていた。
「えっ?」
ヴィナは慌てて透明な壁へ手を伸ばす。
だが、その手は途中でぴたりと止められた。
「な、何これ!?」
ロッキーも掌で勢いよく叩く。
――ドンッ。
びくともしない。
「おい!」
「カイデン!」
「エレナ!」
「聞こえてるのか!?」
二人は必死に叫び続ける。
それでも――
その声は、一切外へ届かなかった。
ヴィナは青ざめた顔で辺りを見回す。
「ど、どうして……声が外に出ないの!?」
「こんなバリア、見たことない……!」
ロッキーも透明な立方体を見つめることしかできない。
困惑の色が、その表情いっぱいに広がっていた。
一方、そのバリアの外では、
通路の前後に立つ二人は、誰一人として振り返ろうとはしない。
無視しているわけではない。
それどころではなかった。
闇へ潜んでいた幾十もの気配が、
ついにその姿を現し始めていたからだ。
透明な立方体の内側で、ヴィナとロッキーはただ立ち尽くす。
やがて二人の視線は、
なおも前方の通路を見据えたまま立つエレナへと向けられた。
白い外套の裾が、
岩の隙間を吹き抜ける風に静かに揺れる。
視線を逸らすことなく、
その右手がゆっくりと動いた。
細身の長剣が、静かに鞘から抜き放たれる。
白銀の刀身は通路に淡い光を映し出し、その奥深くでは濃い青色のコアが柔らかな輝きを放っていた。まるで金属の内側を絶え間なくエネルギーが流れ続けているかのようだった。
エレナは剣先を低く地面へ向けたまま構える。
その足取りは変わらず穏やかで、
焦る様子は一切ない。
たとえこの先に何が現れようとも、
自分の歩みを止められるものなど存在しないと知っているかのように。
「どれだけ来ようと――」
エレナの声は静かだった。
「……結末は変わらない」
「死は――」
「……あいつらの影よりも速く訪れる」
――コツ。
――コツ。
――コツ。
足音が、通路を満たし始める。
一体や二体ではない。
数十。
エレナの正面から。
カイデンの背後から。
壁の上から。
岩の隙間からさえ。
まるで洞窟そのものが、一斉に目覚めたかのようだった。
カニバルたちの足音が、アゼンティナム・レルムの隅々まで響き渡っていく。
それでも――
黒髪の青年は、一度たりとも振り返らない。
まるで最初の一体が動き出すよりも前に、
あらゆる可能性を計算し終えていたかのように。
その左右に、
青い光点が一つ、また一つと浮かび始める。
――ジジジッ……
半透明のデータキューブが、無数に空中へと舞い散った。
それらは互いに重なり合い、
回転し、
組み上がっていく。
一つ、また一つと骨格が形成され、
やがて黒い金属装甲がそのフレームを包み込み、二基の自動タレットへと姿を変えた。
その全高は成人の胸元ほど。
六本の機械脚が重厚に機体を支え、上部に据えられた長い砲身がゆっくりと旋回しながら獲物を探していく。
それぞれの機体中央では、青いエネルギーコアが淡く脈動し、静かな光を放っていた。
カイデンは何も言わない。
ただ右手を持ち上げる。
掌は顔の前を斜めに横切り、左頬の脇で静止した。
そして、そのままゆっくりと横へ払う。
次の瞬間。
半透明の青いホログラムパネルが目の前に展開された。
デジタルインターフェースが何層にも重なりながら次々と出現する。
三次元化された通路のマップ。
移動ルート。
予測進路。
そして、あらゆる方向から現れ続ける無数の赤いマーカー。
その数は、刻一刻と増え続けていた。
表情一つ変えないまま、
彼は静かに口を開く。
「Targeting Protocol」
「Initialize」
二基のタレットが即座に反応した。
砲身が高速で旋回し、ホログラムパネル上の情報更新に合わせて照準を切り替えていく。
一つ、
また一つと、
赤いマーカーがロックオンされていった。
《All targets locked.》
二基のユニットから、落ち着いた合成音声が同時に響く。
《Trajectory calculation complete.》
《Fire control system online.》
《Combat support ready.》
青い光のラインが何本も伸び、二基のタレットとカイデンの前に浮かぶホログラムパネルを接続した。
すべての射線は、魔物の動きに合わせてリアルタイムで更新され続ける。
そのシステムに死角は存在しなかった。
すべてのパラメータが正常に稼働していることを確認すると、
カイデンは静かに手を下ろす。
ホログラムパネルはたちまち青いデータ片へと分解され、そのまま空中へ溶けるように消えていった。
それでも彼の視線は、なお前方だけを見据えている。
「説明している時間は……」
「……もう、ほとんど残されていない」
短い沈黙。
そして、
その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「だから――」
「俺たちが相手にしている存在が何者なのか……」
「……その前に、俺たちが何者なのかを教えてやる」




