第六十話
頭上を覆うようにそびえ立つ岩盤の天井が、上から差し込む光のほとんどを遮っていた。かろうじて残された淡い光だけが、青黒い岩肌にぼんやりと反射している。
彼らの前には、まっすぐ広い石畳の道がどこまでも伸びていた。まるで遥か昔、誰かが山の胎内を貫くように切り拓いたかのような道だ。
分岐はない。
地下河川もない。
こんな場所で生き延びられる緑の植物も存在しない。
道の両脇に広がっているのは、ただ果てしない黒い岩原だけだった。
その隙間には、小さな結晶が淡い青い光を放ち、まるで地中へ埋め込まれた星屑のように静かに瞬いている。
その輝きだけでは通路全体を照らすには到底足りない。それでも、歩みを進めるたびに足元へ柔らかな光が揺れ、歩調に合わせて静かに踊っていた。
さらに岩場のあちこちには、奇妙な白い植物が群生している。
細い茎は大人の腰ほどの高さまで伸び、その花弁は固く閉ざされたままだった。薄い白い膜の奥からは、深紅の色彩がかすかに透けて見える。
その数はあまりにも多く、一般的なダンジョンでは決して目にすることのない、異質な光景を作り上げていた。
風は吹かない。
水の流れる音もない。
ただ足音だけが響き、やがて広大な岩の回廊へ静かに飲み込まれていく。
その数十メートルもの高さを誇る岩壁の上で――
一対の瞳が、ゆっくりと開かれた。
黒い鱗に覆われた体が音もなく岩肌を這い、生きた影のように壁へ張り付いている。
鋭い爪はほとんど音を立てることなく岩を掴み、その頭がわずかに下を向いた。
真下を、四人の人影が歩いている。
その魔物は近づこうとはしなかった。
ただ、じっと見つめているだけだった。
やがて――
さらに奥の岩陰から、もう一匹が姿を現す。
続いて、さらにもう一匹。
影が、また一つ。
また一つと。
岩壁沿いを静かに動き始める。
あるものは岩の出っ張りへ身を潜め、あるものは亀裂の走る天井へ逆さに張り付き、またあるものは、下からでは到底気づけないような天然の裂け目から静かにこちらを窺っていた。
どの一匹も、まったく音を立てない。
まるで、この回廊そのものが息を潜めているかのようだった。
一方その頃――
四人は歩みを止めることなく進み続けていた。
先頭を歩くのは、腰を越えるほど長い濃紺の髪を揺らす一人の女性。
身に纏う白いコートは歩みに合わせて静かに揺れ、周囲を埋め尽くす暗い岩肌との鮮やかな対比を描いている。
その表情には一切の動揺がなく、目の前に続く静まり返った回廊も、まるで何度となく通り慣れた道であるかのように歩いていた。
隣には、黒髪の青年が同じ歩調で歩いている。
視線はまっすぐ前を向き、青い装飾が施された黒いコートのポケットへ両手を入れたまま、その歩みが乱れることはない。
二人の間に会話はない。
だが、その沈黙は不思議なほど自然だった。
それとは対照的だったのが、数歩後ろを歩く二人の若い冒険者である。
「……」
「……」
二人は何度も左右へ視線を走らせた。
岩の影が揺れるたびに肩が強張り、
暗い隙間を見るたびに、何かが飛び出してくるのではないかという錯覚に襲われる。
本人たちは気づいていなかったが、前を歩く二人のインフィルトレーターとの距離は少しずつ縮まっていた。
しばらくして――
二人はちらりと顔を見合わせる。
そして一言も交わさないまま、申し合わせたように歩幅をほんの少しだけ速めた。
気づけば、その位置はほとんど二人の真後ろにぴたりと付いていた。
一人はリュックの肩紐を指先が白くなるほど強く握り締め、
もう一人は平静を装って回廊の脇へ視線を向けながらも、数秒おきに少しずつ前へ寄っていく。
まるで目の前で揺れるその長いコートだけが、このダンジョンで唯一安心できる場所であるかのように。
二人は本来、案内役としてここへ来た。
少なくとも最初は、そのはずだった。
だが今の様子を見れば、誰もが案内ではなく、避難場所を探しているようにしか思えないだろう。
その頭上では――
また一匹の魔物が岩壁を静かに這い、
続いてさらに二匹が姿を現した。
幾十もの異質な瞳が、回廊のあらゆる場所から四人の人間を見つめ続けている。
それでも――
先頭を歩く青い髪の女性は、歩調を一切変えなかった。
隣を歩く青年も同じだった。
まるで、あの魔物たちの存在など、足を止める理由にもならないと言わんばかりに。
回廊は静まり返ったまま。
あまりにも静かすぎるその空気は、
まるでダンジョン全体が、どちらが先に動き出すのかを待ち構えているようだった。
そして、その静寂の中で――
彼らの足音だけだった回廊に、ついに別の音が混じり始める。
「うぅっ……」
ヴィナは再び右側の岩壁へ視線を向けた。
暗い裂け目という裂け目を目で追い、またどこかから別の視線が現れるのではないかと怯えている。
「せ、先輩……」
「数が……どんどん増えてます……」
返事はない。
ヴィナは唾を飲み込み、意を決してもう一度口を開いた。
「わ、私たち……」
「……一度立ち止まって、先にあいつらを片づけたほうがいいんじゃないですか?」
ロッキーは何度も大きく頷いた。
「そうですよ! 本当に、もう少し危機感を持ってください!」
「俺たち、完全に監視されてるんですよ」
慌てて影に覆われた岩の裂け目を指差す。
「ほら、あそこ」
「また一匹います」
「それに、あっちにも」
「どんどん増えてるじゃないですか」
「あんなに集まらせて、本当にこのままでいいんですか?」
赤い双眸がゆっくりと闇の奥へ消えていく。
ようやく安堵の息をつこうとした、その直後――
今度は別の場所から、さらに二対の赤い瞳が浮かび上がった。
ロッキーは思わず半歩後ずさる。
「どこにでもいやがる……!」
「このまま放っておいたら……」声が今にも裏返りそうになる。「俺たちのほうが晩飯になっちまうんじゃないですか?」
「だから言ってるんです」
ヴィナも小さく続ける。
それでも周囲から視線を外そうとはしなかった。
「皆さんがルーメン・ハイム魔法学院の人たちだってことは知っています。でも、ここはアゼンティナム・レルムなんです……」
その世界の名を口にした途端、声はさらに小さくなった。
「今いるのは七十三階層です」
「ここの魔物は、他とはまるで違います」
ロッキーが慌てて言葉を引き継ぐ。
「ただ凶暴なだけじゃありません」
「ここの魔物は今も進化を続けてるんです」
「魔物同士で殺し合って、勝ったほうが負けたほうを喰えば、さらに強くなる」
「中には、この階層の強さなんてとっくに超えてるエリート個体だって珍しくないんですよ」
ヴィナも勢いよく頷く。
「しかも、それぞれ縄張りや群れまで持っています」
「群れ同士で争うこともあれば」
「冒険者を襲うことだってあります」
ロッキーは青ざめた顔のまま首筋をさすった。
「……なのに俺たちは、そのど真ん中をのんびり歩いてるんですよ」
再び沈黙が回廊を包み込む。
前を歩く二人の足取りは、少しも変わらなかった。
視線はただ真っ直ぐ前方へ向けられている。
「騒ぎすぎだ」
平坦な声だった。
だが、その一言だけでヴィナとロッキーはぴたりと口を閉ざした。
「影を見るたびに怯える程度なら……」
振り返ることもなく、小さく息をつく。
「最初からここへ来るべきじゃなかったな」
「わ、私たちは、その……」
「君たちは案内役だ」
ヴィナの言葉は途中で遮られた。
「なら、自分の役目だけ果たせ」
「道を案内しろ」
「それ以外は君たちの仕事じゃない」
ロッキーは気まずそうに頬を掻く。
「でも……もし魔物が襲ってきたら――」
「その時は俺たちが対処する」
返ってきた声は、相変わらず淡々としていた。
「だが、君たちがこの調子で騒ぎ続けるなら……」
一拍置いて、
「調査の邪魔になる。黙って指示に従え」
ヴィナはすぐに口をつぐんだ。
ロッキーも同じように押し黙る。
二人は情けない表情で顔を見合わせ、
数秒後には、無意識のうちに半歩後ろへ下がっていた。
「……すみません」
「何をすべきかは分かっています」
「余計な騒ぎは起こすな」
そう言ってから、わずかに後ろを振り返る。
その視線は特別鋭いわけでもない。
それなのに二人は、これ以上機嫌を損ねるべきではないと本能的に悟ってしまった。
「それに……」
「君たちは以前にもここへ来たことがあるんだろう?」
「そこまで怯える理由はないはずだ」
「そ、それは違います!」
ヴィナは反射的に言い返した。
「あの時は私たちだけじゃありませんでした!」
「二人だけじゃなかった?」
歩みを止めることなく、軽く後ろへ視線を向ける。
「高ランクの冒険者が二人、護衛についてくれてたんです」
ロッキーがすぐに答えた。
「その人たちがいなかったら、俺たちだってこんな深い階層まで来る度胸なんてありません」
「つまり、俺たち二人では頼りないと?」
「ち、違います!」
ヴィナは慌てて首を振る。
ロッキーも続けた。
「そうじゃなくて……俺たちは本当に、お二人が何者なのか知らないんです」
「急に案内役を頼まれて、ルーメン・ハイム魔法学院の関係者だって聞かされただけで」
「どこの部門なのかも分からないし……もしかしたら特別部隊の人なのかもしれないし……」
「なるほど」
短く呟くと、再び前へ視線を戻した。
「名前や実績というものは、確かに信頼を得やすいからな」
あまりにも簡潔な返答だった。
ヴィナとロッキーは互いに顔を見合わせることしかできない。
なぜだろう。
その何気ない一言が、二人から言葉を奪ってしまった。
その頃、先頭を歩く青年は片手で前髪をかき上げる。
「はぁ……」
短く息を吐き、ようやく口を開いた。
「まあまあ」
「君たちが怖がる理由は理解している」
「だが、そこまで取り乱す必要はない。まだ安全だ」
「連中がいることは、最初から分かっている」
ロッキーは眉をひそめた。
「……連中?」
「ああ」
「俺たちを監視しているカニバルのことだ」
青年は一度も振り返ることなく歩き続ける。
「まだ本格的な攻撃態勢には入っていない」
「優先して対処すべき相手でもない以上、足を止める理由はない」
ヴィナは反射的に辺りを見回した。
「そこまで分かってるなら、どうして放っておくんですか?」
青年は穏やかな眼差しで二人を見た。
「アゼンティナム・レルムは、俺たちにとって未知の場所じゃない」
「七十三階層も、これまで探索した中で最深部というわけではない」
その言葉に、ヴィナとロッキーは同時に足を緩めた。
二人は思わず顔を見合わせる。
少ししてから、青年は再び口を開いた。
「ところで――」
ヴィナとロッキーへ軽く視線を向ける。
そのまま二人の装備へ目を走らせた。
ほとんど使い込まれた形跡のないブーツ。
まだ傷一つ目立たない武器の鞘。
鎧のあちこちにも、新品同然の輝きが残っている。
とても高階層を日常的に探索している者の装備には見えなかった。
「正直に言うと――」
青年はかすかに笑みを浮かべる。
「むしろ、君たちがどうやって七十三階層まで来られたのか、そのほうが不思議だった」
「えぇっ!?」
ロッキーは目をぱちくりさせた。
「どういう意味ですか?」
「君たちの反応だ」
肩を軽くすくめる。
「それだけで、気になっていたことの答えは十分見えた」
「この深さに慣れている冒険者なら、暗闇に目が光るたびに取り乱したりはしない」
ヴィナは反論しようと口を開く。
しかし、言葉は出てこなかった。
二人が何か言うより先に、青年は続ける。
「装備もまだ新しすぎる」
「歩き方も、初心者の冒険者に近い」
「それに、さっきから――」
ロッキーが背負う大きな荷物へ視線を向ける。
「ずっと俺たちの後ろへ隠れようとしている」
ロッキーは慌てて顔を逸らした。
「そ、それは……」
「慎重にしてるだけです」
「もちろん」
青年は気楽に頷く。
その薄い笑みが、かえってヴィナを落ち着かなくさせた。
「だから、一つしか考えられなかった」
歩みは止まらない。
「君たちは確かにこの階層へ来たことはある」
「……だが、自分たちの力で辿り着いたわけじゃない」
沈黙が落ちた。
ヴィナは固まり、
ロッキーも危うく足をもつれさせる。
「……え?」
「えぇ!?」
二人は同時に振り向いた。
「な、なんで分かったんですか!?」
青年は小さく笑う。
「やっぱりそうか」
「あっ」
「あぁっ」
ヴィナは慌てて自分の口を押さえた。
もう遅い。
ロッキーは額に手を当て、小さくため息をつく。
「……俺たち、自分で認めちゃいましたね」
「君たちは本当に分かりやすい」
その言葉に嘲るような響きはなかった。
むしろ、あまりにも自然に言われたせいで、二人は余計に恥ずかしくなってしまう。
「えっと……」
ヴィナは気まずそうに頬を掻いた。
「その……」
「だって、あの人たちには実績がありましたから」
ロッキーが静かに続ける。
「所属していたギルドも有名でしたし」
「ライセンスもちゃんとしていました」
「名前だって何度も聞いたことがあります」
「だから、実力も信頼できたんです」
二人は前を歩く二人の背中へ交互に目を向けた。
「でも、お二人は……」
ロッキーは照れくさそうに苦笑する。
「すみません」
「ルーメン・ハイム魔法学院の関係者だということは知っています」
「でも学院にはいろいろな部門がありますし」
「お二人のお名前も、これまで聞いたことがありませんでした」
ヴィナも何度も頷く。
「だから、あの時は……実績のある冒険者を信用したほうが安心できるって思ってしまったんです」




