第五十九話
シルヴィアがすでにかなり前を歩いていたため、ケイルは片手を軽く上げて、すぐに追いつくという合図を送った。
「行こう、カエラ」
そう声をかけると、小さく息を吐き、横目で彼女を見る。
「あいつ、また何か騒ぎを起こさなきゃいいけど。あれだけ好奇心が強いと、あちこち見て回るのに夢中になって、そのまま迷子になるほうが心配だ」
呆れたような口調ではあったが、本気で不満を漏らしているわけではない。
カエラは小さく頷いた。
「はい、若様」
二人は歩き始める。
だが、元いた場所を離れて数歩進んだところで、カエラの頭上にある虎の耳がぴくりと動いた。
一度。
そして、もう一度。
その足が止まる。
先ほどまで穏やかだった表情がゆっくりと消え、普段は滅多に見せることのない鋭い眼差しへと変わっていく。肩には無意識のうちに力が入り、虎の耳がかすかに動きながら、プロムナードを満たす喧騒の中から一つひとつの音を拾い上げていた。
行き交う人々の足音。
通りすがりの会話。
楽しげな笑い声。
客を呼び込む商人たちの声。
どれも、ごくありふれたものだった。
だが、その雑多な喧騒の奥に紛れているからこそ、彼女の本能は何か――ほんのわずかに噛み合わない違和感を捉えていた。
視線が通りの右側へと流れる。
花屋や、多くの客で賑わう屋台が並ぶ一帯を見渡すが、それらしいものは何も見当たらない。
続いて反対側へ視線を移し、絶え間なく行き交う人波の向こうを見通そうとする。
何人もの通行人が視界を遮る。
カエラは半歩だけ位置をずらし、その隙間を探した。
そして――
視線が止まる。
数十メートルほど先にある商業施設の外壁にもたれかかる、一人のローブ姿の男。
わずかに俯いた頭。
胸の前で気楽に組まれた両腕。
怪しい動きはない。
こちらを窺うような視線も感じられない。
遠目には、街を歩き回って少し休憩しているだけの旅人にしか見えなかった。
その姿はプロムナードの人混みに溶け込み、誰の注意も引かないほど自然だった。
――だからこそ。
カエラの本能は、なおも静かに警鐘を鳴らし続けていた。
考えるよりも先に体が動く。
反射的に腰へ手を伸ばし、《アストラ・ヴォレア》の柄を握ろうとする。
指先が閉じる。
だが、そこにあったのは空気だけだった。
「……」
一瞬だけ視線を落とし、ようやく武器を持ってきていなかったことを思い出す。
その頃には、先を歩いていたケイルも背後の足音が途絶えたことに気づいていた。
足を止め、振り返る。
二人の間には十数歩ほどの距離ができている。
「カエラ? どうした?」
首を少しかしげる。
「なんでまだそこに立ってるんだ?」
その視線は、半ば身構えたままの彼女の姿へと落ちた。
「今にも武器を抜こうとしてるように見えたけど……何かあったのか?」
その呼びかけに、カエラは小さく肩を震わせた。
虎の耳もぴんと緊張する。
慌てて腰から手を下ろし、深く頭を下げた。
「申し訳ありません、若様」
「お待たせするつもりはありませんでした」
ケイルは数歩近づいてくる。
その表情に浮かんでいたのは焦りではなく、純粋な戸惑いだった。
「何があった?」
カエラはしばらく黙り込む。
(……確かに感じた。)
(あのローブの男……ここにいるべき人間ではない気がする。)
(それとも……ただ、気配を消すのがあまりにも上手いだけなのか。)
(でも、まだ証拠はない。)
再びローブ姿の男へ視線を向ける。
男はまだそこにいた。
静かに。
動くこともなく。
何一つ行動を起こさずに。
(たとえ本当に私たちを見張っていたとしても……今の段階で若様まで心配させる理由はありません。)
(それに……今日は、ようやく始まったばかりです。)
(戦いや急ぎの用事を忘れて、こんなふうに穏やかに街を歩ける時間なんて、本当に久しぶりなのですから。)
(……まだ確かでもない私の勘だけで、この時間を壊したくはありません。)
(あの男のことは、私が一人で見張ります。)
(もし本当に脅威なのだとしたら……その時は、私が真っ先に立ち向かいます。)
静かに息を整えると、顔を上げた。
「申し訳ありません」
「先ほど……人混みの中を黒猫が横切るのが見えただけです」
「黒猫?」
カエラは静かに瞬きをした。
「はい」
「ただ、黒猫が一匹、横切るのが見えただけです」
ケイルはすぐには返事をしなかった。
その視線は数秒のあいだ、じっとカエラの顔に向けられたままだ。
(……嘘だ。)
(黒猫を見かけただけで、カエラがあんな反応をするはずがない。)
さっきは剣を抜こうとするように、手まで動いていた。
(何かを見たんだ。)
(あるいは……誰かを。)
だが、普段は落ち着き払っているカエラの瞳は、今は何かを隠そうとしているようにも見えた。
(話さないと決めたなら……きっと理由がある。)
(まだ確信が持てないのか。)
(それとも……俺まで心配させたくないのか。)
ケイルは一度だけ目を閉じ、小さく頷く。
「そうか」
「何か気になるものでも見つけたのかと思ったよ」
薄く笑みを浮かべると、冗談めかして続けた。
「それとも、欲しいものでも見つけたのか?」
カエラはすぐに首を横へ振る。
「いいえ、若様」
「以前お話ししたもの以外に、今必要なものはございません」
その視線は、さらに前へ進んでいたシルヴィアへと向けられた。
少女は相変わらず何度もこちらを振り返りながら、二人が追いつくのを待っている。駆け出していった時と変わらない好奇心が、その様子からも伝わってきた。
カエラは再びケイルを見る。
「これ以上シルヴィア様をお待たせするより、早く追いついたほうがよろしいかと」
「あまり長く一人にしていると、また何か興味を引くものを見つけてしまいそうです」
その声は、もういつもの落ち着きを取り戻していた。
まるで、先ほどの出来事など最初からなかったかのように。
ケイルは小さく笑う。
「それは確かにありそうだな」
「じゃあ、行こう」
「はい、若様」
二人は再び肩を並べ、賑わうプロムナードを歩きながらシルヴィアの後を追った。
喧騒の向こうでは、建物の壁にもたれかかったローブ姿の男が、なおも微動だにしていない。
あまりにも自然に人の流れへ溶け込み、その場にいる誰の目にも留まらないほどだった。
――あるいは。
それこそが、男の望みだったのかもしれない。
二、三歩ほど進んだところで、カエラはどうしても気になり、もう一度だけ男のいた建物へと視線を向けた。
絶えず行き交う人混みの隙間を縫うように、その姿を探す。
一組の通行人が前を横切る。
続いて、荷車を押す商人が通り過ぎた。
やがて人波が途切れ、視界が開ける。
「……」
そこには、誰もいなかった。
先ほどまで壁にもたれていたローブ姿の男は、跡形もなく姿を消していた。
カエラは建物の周囲をしばらく見渡し、本当に見間違いではなかったのかを確かめる。
だが、どれだけ目を凝らしても、その姿はどこにも見当たらなかった。
(……気のせいだったのでしょうか。)
小さく息を吐き、無理にでも心を落ち着かせる。
見知らぬ土地で、これほど多くの人々に囲まれているせいで、本能が少し過敏になっているだけなのかもしれない。
だから今は、軽々しく結論を出さず、警戒だけは続けておくことにした。
そうして前へ向き直ると、歩調を少し速め、再びケイルの隣へ並ぶ。
賑わうプロムナードの喧騒は、かつて確かにそこにいたはずの、あるいは最初から存在していなかったのかもしれないその人影の痕跡を、静かに飲み込んでいった。
やがて二人の姿もまた、アストラヴェルの雑踏の中へと消えていく。
誰一人として気づいてはいなかった。
この壮麗な都市の穏やかな日常の裏で、すでに何かが静かに動き始めていたことに。
◇ ◇ ◇
ダンジョンの遥か深部。
幾重にも重なり合う世界の層を越え。
冒険者たちの地図にすら記されたことのない空間のさらに奥。
そこには、静寂だけが支配する世界が広がっていた。
空は太陽もないまま、鈍く濁った黄色に染まっている。
雲は一つとして流れていない。
生命の気配すら感じられなかった。
あるのは、黒い山脈の麓まで果てしなく続く、起伏に富んだ荒れ果てた大地だけ。
その地を包む静けさはどこか異質で、どんな音も響くより先に、その形を失ってしまうかのようだった。
世界のあちこちには、支えもなく宙に浮かぶ巨大なコンクリートの柱が幾十本も浮遊している。
先端が砕け落ちたもの。
何か見えない刃で断ち切られたかのように、途中から消え失せているもの。
古びた亀裂がその表面を覆い尽くし、柱全体に刻まれた古代文字は、淡い黄褐色の光を放ちながら、生き物の呼吸のようにゆっくりと脈打っていた。
その柱は一本たりとも動いていない。
それなのに、そこに存在しているというだけで、周囲の空間そのものが息苦しく押し潰されそうな圧迫感に満たされていた。
その世界の中心には――
さらに悍ましいものが存在していた。
根。
城塞すら凌ぐほど巨大な、深い紫色の根。
それはあらゆる方向へと伸び、大地を貫き、宙に浮かぶ柱へ絡みつき、そのまま天へ向かって果てしなく延びている。
根が頭上の黄色い天蓋へ触れるたび、その空には無数の巨大な亀裂が走り、その向こうから見知らぬ光が漏れ出していた。
その無数の根の下には、一つの巨大な巣が築かれている。
それは、とても形と呼べるものではなかった。
幾重にも重なった根が互いに絡み合い、呑み込み合いながら巨大な空洞を形作り、その内部には淡い黄色を帯びた卵が無数に収められていた。
どれも一軒の家ほどの高さを誇る。
厚い殻の内側で新たな命が育まれているかのように、その表面はゆっくりと脈打っていた。
時折、そのうちの一つの中でぼんやりとした影が揺らぐ。
そして再び、静寂が訪れる。
巣を囲むように、四つの現実の裂け目が、それぞれ異なる方角に存在していた。
その裂け目が閉じることは決してない。
ゆっくりと渦巻く紫色の亀裂からは、数え切れないほどの光の粒子が絶え間なく流れ出していた。
強く輝くもの。
淡く揺らめくもの。
幾千もの光はしばらく宙を漂い――
やがて、何かに導かれるように巣へと引き寄せられていく。
一つひとつの光が紫色の根へ触れるたび、巣の鼓動はわずかに強まり、
わずかに、生気を帯びていく。
世界全体には、言葉では形容し難い響きが満ちていた。
ある時は金属が低く唸るような音。
次の瞬間には、意味を持たない囁きへと変わり、
やがて空間そのものを波打たせる異様な振動へと姿を変える。
まるで、この場所の現実そのものが、本来あってはならない何かによって無理やり歪められ続けているかのようだった。
この世界の存在を知る冒険者はいない。
その存在を記した地図も、これまで一枚として存在したことはない。
そして、そのすべての奥底で――
ある存在が、産声を上げる時を静かに待ち続けていた。
だが、この世界に隠されている秘密は、その巣だけではない。
紫色の根が広がる中心部から遠く離れ、生命の気配すら乏しい荒野を越えていくと、景色は少しずつ姿を変えていく。
宙に浮かぶコンクリートの柱は次第に数を減らし、その代わりに古代の建造物の廃墟が各所に姿を現し始める。
その大半はすでに崩れ落ち、長い歳月の中へ埋もれていた。
巨大な石材が無秩序に散乱し、
砕けた壁の残骸が小高い丘へ傾くように立っている。
ところどころに残された古代文字だけが、かすかな黄褐色の光を放ったかと思えば、力尽きたように再び闇へ沈んでいった。
そして――
その廃墟の中心には、他の遺構とは比べものにならないほど巨大な構造物がそびえ立っていた。
それは建物というよりも、巨大な枠組みと呼ぶべき存在だった。
その身の一部はすでに崩壊している。
砕け散った巨大な石片は周囲に静かに浮かび、まるでその構造物が崩れ落ちた瞬間だけ、時が止まってしまったかのようだった。
中央には何もない。
扉も。
壁も。
ただ、古代の彫刻が刻まれた巨大な枠だけが空虚を囲み、その文様は黄褐色の光とともに静かに脈動を続けている。
その場所から少し離れたところに――
いくつもの影が微動だにせず立っていた。
待ち続けるように。
守り続けるように。
まるで、その遺跡そのものが、決して外の世界に知られてはならない秘密であるかのように。




