第五十八話
三人は食事を終えると、席を立ってレジのほうへ向かった。
店内の雰囲気は、入ってきたときとはずいぶん変わっていた。
昼食時の賑わいは時間の経過とともに少しずつ落ち着き、店のあちこちを埋め尽くしていた客の姿もまばらになっている。すでに空になったテーブルも多く、残っているのはゆったりとした時間を楽しんでいる数組の客だけだった。
レジの前まで来たところで、ケイルはわずかに眉をひそめた。
レジには誰もいない。
カウンターの向こうには人影ひとつなく、近くのオープンキッチンへ視線を向ける。
普段なら、料理人であるあの巨大なイカ――リトの大きな触手が忙しなく動き回り、いくつもの注文を同時にさばいている姿が見えるはずだった。
だが今の厨房は静まり返っている。
調理器具の音も聞こえなければ、注文を呼ぶ声もない。
店いっぱいに漂っていた料理の香りさえ、いつの間にか薄れていた。
聞こえてくるのは、店の外から漏れ聞こえるかすかな話し声と、開け放たれた扉から吹き込む昼の風だけだった。
「……あれ?」
シルヴィアはきょろきょろと辺りを見回した。
「みんなどこに行ったの?」
少し間を置いて、ケイルも口を開く。
「まさか、あの巨大イカが隠れてるわけじゃないよな」
「リトっていう料理人のことですか?」
カエラが尋ねる。
ケイルはうなずいた。
「ああ」
カエラは少し考えてから答えた。
「たぶん、休憩中なんだと思います」
「お昼の忙しい時間はもう終わっていますし、従業員の皆さんも少し休憩を取っているのではないでしょうか」
「それなら納得だ」
ケイルも異論はなかった。
この店はついさっきまで、一日の中でも最も忙しい時間帯を乗り切ったばかりなのだ。
どれほど働き者でも、休息くらいは必要だろう。
「あ、そうだ」
ふと、別のことを思い出す。
「リスはどこだ?」
「注文とか会計を担当してたやつ」
カエラはその問いに少し考え込んだ。
「その子も休憩中……かもしれません」
だが今度の返事には、どこか自信のなさが滲んでいた。
頭の上の虎耳がぴくりと小さく動く。
(……おかしい)
姿は見えない。
それなのに、レジの近くから小さな気配を感じる。
本当にかすかだ。
けれど確かにそこにいる。
まるで、その気配の主が必死に見つからないよう息を潜めているかのようだった。
「リスー?」
不意にシルヴィアの声が静寂を破る。
その瞬間、ケイルは嫌な予感しかしなかった。
「リースー!」
シルヴィアはレジ台の上へ向かってぐっと顔を上げる。
「リスちゃーーん!」
興味津々といった様子で、きょろきょろと頭を動かした。
「おーい!」
「ちっちゃいリスー! どこー!」
「シルヴィア……」
「怒りっぽいレジ係のリスー!」
「おい、シルヴィア。やめろって」
しかし彼女はすでに自分の使命に夢中だった。
背伸びまでしながら、少しでも高いところから覗けばひょっこり現れるのではないかと、本気で期待しているようだ。
「リスちゃーん!」
「はぁぁぁぁぁぁぁ……」
そのとき、ひどく疲れ切ったような長いため息が、どこからともなく聞こえてきた。
三人はぴたりと動きを止める。
ケイルが目を瞬かせる。
シルヴィアは固まり、
カエラの虎耳もぴんと立った。
間違いない。
声はすぐ近くから聞こえた。
本当に、すぐ近くだ。
やがて、レジカウンターの内側に積まれていた大きな木箱の陰で、何かがもぞりと動く。
次の瞬間、その隙間から一匹の茶色いリスがひょこりと顔を出した。
毛並みはぼさぼさ。
目は半分閉じかけ、
尻尾も見るからに乱れている。
そして何より――
その表情は、人生への気力をすべて失ってしまったかのようだった。
「……素晴らしい」
リスはゆっくりと顔をこすった。
「実に素晴らしいよ」
深く息を吸い込む。
「何年もここで働いてきたけど……」
「……昼寝を起こしてくれるほど命知らずなお客さんに出会ったのは、今日が初めてだ」
一瞬、静寂が流れる。
シルヴィアはぱちりと目を瞬かせた。
ケイルは目を瞬かせた。
カエラも同じようにぱちりと瞬きをする。
すると、リスは小さな前足をびしっと持ち上げ、まっすぐシルヴィアを指差した。
「お前だ。うるさい人間!」
シルヴィアは自分を指差す。
「私?」
「他に誰がいる」
リスの声は一気に大きくなる。
「最低限の礼儀ってものを教わらなかったのか?」
「人が寝てるときに、たった二歩先から大声で叫ぶな!」
「でも、そこにいるなんて知らなかったもん」
「だから隠れてたんだろうが!」
リスは思わず怒鳴った。
「知らなかったくせに、なんで探してたんだよ!?」
シルヴィアは口を開き、
そして閉じた。
少し考え込む。
思った以上に真剣に考え込む。
「……私もわかんない」
「答えになってない」
リスはこめかみを押さえた。
本気で頭痛をこらえているようだった。
「それともう一つ」
視線が三人へ向けられる。
「いい加減、"リス"って呼ぶのはやめろ」
「ちゃんと名前がある」
三人は顔を見合わせた。
「名前あったの?」
シルヴィアが無邪気に尋ねる。
ぴくり、とリスの額に青筋が浮かんだ。
カエラは慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません」
「お休みの邪魔をするつもりは、本当になかったんです」
「私たちは、お会計をお願いしたかっただけで」
「そういうことだ」
ケイルも続ける。
「悪気はない」
「ほぉぉぉ」
リスは腕を組み、わざとらしくうなずいた。
「つまり、お会計がしたかっただけ、と」
「結構」
「だが、私の知る限り、『リスー!』と何度も叫んで店員を昼寝から叩き起こすのは、正式な支払い方法じゃないぞ」
シルヴィアはすっと視線を逸らした。
「あのときは、ちょっと気になっただけで……」
「誰も聞いてない」
ケイルは、どうしてリトがこの小さな生き物の相手に慣れ切っていたのか、ようやく理解した。
リスは小さく舌打ちする。
「お前たち、目が見えないのか?」
「名前ならちゃんと書いてある」
そう言って、自分の緑色のベストを指差した。
「ほら、ここだ」
三人は反射的に視線を落とす。
確かに書いてある。
問題は――
文字がものすごく小さいことだった。
カエラが少し身を乗り出し、
ケイルも目を細める。
シルヴィアに至っては、読み間違いではないか確かめるために半歩前へ出た。
数秒後。
「……ミスター・ウォード?」
シルヴィアが自信なさげに読み上げる。
「それが名前なの?」
リスは満足そうに何度もうなずいた。
「その通り」
「ミスター・ウォード」
「Mr. Ward」
「それが私だ」
だが、ケイルはかえって眉を上げた。
「いや、その大きさじゃ名前なんてわからないだろ」
「普通の距離では、少し読みにくい文字の大きさだと思います」
カエラも遠慮がちに付け加える。
口元を手で隠していたが、必死に抑えようとしているにもかかわらず、唇の端がわずかに震えていた。
Mr. Wardは固まる。
ぴんと立っていた尻尾も動きを止めた。
「それに」
ケイルは続ける。
「俺たちは初めて来た客なんだ」
「それを知ってるなら、先に自分から名乗るほうが普通じゃないか?」
Mr. Wardは口を開き、
閉じ、
また開き、
そしてもう一度閉じた。
奇妙な沈黙が数秒流れる。
考えてみれば――
その通りだった。
ケイルは、リトの名前だけは以前に聞いていたから覚えていた。
だが、このリスの名前は――
まったく知らなかった。
「……」
Mr. Wardの尻尾が、ゆっくりと揺れる。
あまりにも単純な見落としに、今さら気づいたようだった。
ケイルは片手を軽く上げる。
「もういい」
「これ以上長引かせるつもりはない」
「俺たちは会計を済ませたいだけだ」
「全部でいくらだ?」
Mr. Wardは長く息を吐いた。
どうやらこれ以上言い争う気は、向こうにもないらしい。
レジの上に置かれていた小さなメモ帳を手に取り、鉛筆を走らせる。
「ハニー・バター・ポテトチップス」
鉛筆の先がさらさらと動く。
「ゴールデン・チーズ・コロッケ」
「クリスピー・カラマリ・バスケット」
「チキンステーキ・マッシュルームソース」
「ブルーベリー・アイスフロート」
「レモンジュース」
「アイスベリーティー」
しばらく計算したあと、メモ帳を鉛筆で軽く叩いた。
「合計で三百八十オーレルだ」
「三百八十オーレルか」
ケイルは小さくうなずく。
とはいえ、その金額が高いのか安いのかは見当もつかなかった。
オーレルという通貨の名前は耳にしたことがある。
だが、その価値まではまだ把握していない。
深く考えることもなく、コートの内側にしまっていた革財布を取り出す。
中には金貨が何枚も入っていた。
そのうち十枚を取り出し、レジの上へ置く。
「これで足りるか?」
さっきまで眠たげだったMr. Wardは、積まれた金貨へ視線を落とした。
そして黙る。
もう一度見つめ、
また黙る。
「……受け取ろうと思えば受け取れる」
「だが、私には必要ない」
ケイルは眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「私が必要なのはオーレルだ」
「さっきオーレルって言ってただろ?」
「オーレルはアストラヴェルの正式な通貨だからだ」
Mr. Wardは静かに息をつくと、レジの上の金貨を前足で示した。
「街の外では、こういう金貨もまだ使われている」
「だが、アストラヴェルの取引の大半は紙幣のオーレルで行われているんだ」
「まずは財務局で金を両替して、それからオーレルで買い物をする」
ケイルは目を瞬かせる。
数秒の沈黙。
「……両替?」
「ああ」
「……財務局で?」
「そうだ」
Mr. Wardはうなずいた。
「金を両替したり、資金を預けたり、請求書を支払ったり、いろいろな金融手続きをする場所だ」
「まあ、銀行みたいなものだな」
「……ここへ来る前に?」
「そうだ」
静寂が流れる。
Mr. Wardがケイルを見る。
ケイルもMr. Wardを見る。
そして二人は、ゆっくりと同時にカエラへ視線を向けた。
その瞬間、カエラの虎耳がぴんと強張る。
まるで、とても大事なことを思い出したかのように。
「……あ」
小さく声を漏らす。
その目がわずかに見開かれた。
「……そうでした」
その表情を見た瞬間、ケイルにはわかった。
(完全に忘れてた顔だ)
カエラは申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ありません、ケイル様」
「今になって思い出しました」
「街を回る前に、先に両替を済ませるべきでした」
背後で尻尾がしょんぼりと揺れる。
「今日は案内に夢中になってしまって、そのことを失念しておりました」
ケイルは小さく息を吐いた。
責める気にはなれない。
朝からずっと、休む間もなく街中を歩き回っていたのだ。
そもそも、自分も両替のことなど一度も思いつかなかった。
「……どうしてお父様は教えてくれなかったんだ」
ケイルは小さくつぶやく。
少し考えたあと、首を横に振った。
おそらくラインマー様も忘れていたのだろう。
あるいは、カエラなら当然知っていると思っていたのかもしれない。
いずれにせよ、今さら言っても仕方がない。
もう彼らはここまで来てしまっているのだから。
一方、シルヴィアはその横でじっと話を聞いていた。
真剣な表情で。
とても真剣な表情で。
そしてしばらくしてから、おずおずと片手を挙げる。
「何の話をしてるのか、私にはさっぱりわからない」
「まあ」
ケイルの返事は驚くほど早かった。
「それは俺たちも予想してた」
「ちょっとぉ!」
「えーっ!?」
シルヴィアはすぐに抗議の声を上げた。
Mr. Wardはもう一度、疲れたように顔をこする。
「どう見ても、お前たちはこの街に来たばかりだ」
「だったら、もっと簡単な方法がある」
そう言うと、レジカウンターの下へ身をかがめた。
紙が何枚も擦れ合う音が聞こえる。
やがて、淡いクリーム色をした細長い書類を一枚取り出した。
形はチケットに似ているが、一回り幅が広く、細かな記入欄がびっしり並んでいる。
慣れた手つきで小さなペンを取り上げる。
だが書き始める前に、ケイルへ視線を向けた。
「名前は?」
「俺のか?」
「購入者の名前が必要だ」
「ケイル・ラインマー」
Mr. Wardのペン先が、すぐさま紙の上を走り始めた。
「よし」
購入者名。
店名。
注文内容。
支払金額。
取引番号。
最後に、下部へ小さな公印がいくつか押される。
ケイルは興味深そうに、その作業を眺めていた。
「それは?」
「マーチャント・インボイスだ」
Mr. Wardは書き終えたばかりのインクに軽く息を吹きかける。
「この街へ来たばかりの連中は、よくこれを使う」
「まだオーレルを持っていないなら、このインボイスを財務局へ持っていけばいい」
「あとは向こうで支払いを済ませるだけだ」
「取引内容が確認されれば、代金はこちらへ送金される」
そう言って、その書類を差し出した。
「購入者名はケイル・ラインマー」
「支払額は三百八十オーレル」
ケイルは書類を受け取る。
紙面の大半は細かな文字で埋め尽くされており、一角にはアストラヴェルの紋章が入った小さな公印まで押されていた。
「ふむ」
ざっと目を通しながら口を開く。
「つまり、このあと財務局へ行けばいいんだな?」
「そんなところだ」
Mr. Wardはうなずいた。
「正確には、一番近い財務局の支局だな」
ケイルはインボイスを丁寧に折り畳む。
「問題は、その場所がわからないことだけど」
そしてカエラへ視線を向けた。
「カエラ、場所はわかるか?」
カエラは少し考え込む。
「正確な場所までは存じません」
「ですが、財務局はたいてい行政区画や官庁街の近くに建てられています」
「覚えているのは、それくらいです」
「その通りだ」
Mr. Wardは店の外のプロムナードを前足で示した。
「お前たち、この先もあっちへ向かうつもりなんだろう?」
ケイルはうなずく。
「ああ、その予定だ」
「なら、プロムナードをそのまま真っすぐ進め」
「いずれ行政区画に着く」
「財務局の支局も、その近くだ」
「ついでに寄ればいい」
「助かる」
ケイルはインボイスを財布へしまった。
もともと目的地が変わるわけではない。
贈り物も探さなければならないし、
あの謎の手紙の件で、行政庁舎にも向かう予定だった。
財務局がその途中にあるなら、かえって都合がいい。
「助かった。ありがとう」
「ふん」
Mr. Wardは腕を組む。
「今度は誰かの昼寝を邪魔するなよ」
「それは約束できないかな」
シルヴィアは実に正直に答えた。
「……ようやく問題の根っこがわかった気がする」
Mr. Wardはぼそりとつぶやいた。
数分後、三人は店をあとにした。
再びアストラヴェルのプロムナードが目の前へ広がる。
真昼の太陽が高く昇っているにもかかわらず、広々とした大通りは今なお多くの人々で賑わっていた。
さまざまな店。
露店。
荷馬車。
そして先まで続く商業施設の街並み。
街は変わらず活気に満ちている。
ケイルが財布をしまい終えた、そのときだった。
ひとつの影が、彼の横を軽やかに駆け抜ける。
「じゃあ、お先にー!」
シルヴィアは手を振ると、そのまま一足先に歩き出した。
ほんの数歩先を歩く、という程度ではない。
少し歩く速度が速い、という話でもない。
シルヴィアはまるで次の目的地を最初から知っているかのように、ケイルとカエラを置き去りにして、どんどん先へ進んでいった。
「おい」
ケイルはため息をつく。
「せめて少しは待ってくれ」
「無駄だと思います、ケイル様」
カエラは軽やかな足取りで歩き続けるシルヴィアを見つめながら言った。
「シルヴィア様は今、とてもご機嫌ですから」
「まあ、それは見ればわかる」
二人は再びプロムナードを歩き始める。
しばらくして、カエラがふと口を開いた。
「ですが……」
「ん?」
「少し気になることがあります」
「何がだ?」
カエラは小さく首を傾げる。
「もしシルヴィア様とアステリア様が、長い時間ずっと一緒にいたら……どうなるのでしょう?」
その瞬間、ケイルの足がぴたりと止まった。
ゆっくりと片手を額へ当てる。
「やめてくれ……」
想像しただけで頭が重くなる。
片やシルヴィア。
純粋な好奇心だけで、平穏な状況を大騒ぎへ変えてしまう少女。
そしてもう片方はアステリア。
忠誠心に疑いの余地はない。
だが、ケイルのことになると、その底なしの行動力が際限なく発揮されるメイドでもある。
カエラはその反応を見て、小さく微笑んだ。
「もう答えは出ているようですね」
「当たり前だ」
ケイルは顔を軽くこすると、カエラへ視線を向ける。
「あの二人を同じ場所に置いたら――」
「間違いなく大惨事になる!!」
カエラは思わず口元を押さえた。
今度ばかりは笑いをこらえきれず、小さな笑い声が漏れる。
「とても納得できる答えです」
「いいか? 想像するだけでも勘弁してほしい。それが現実になったら……」
二人がそんな話をしていると、はるか前を歩いていたシルヴィアが、突然こちらへ向かって大きく手を振り始めた。
どうしてそんなに遅いの、とでも言いたげに。
ケイルはまたひとつ、深いため息をつく。
本当に、あの少女の元気は底なしだった。




